ウィンチェスターの空

 小さな電子音をたてながら、携帯電話の液晶画面は一秒ずつ時を刻む。歯車はおもむろに、しかし着実に絶望へと進む。そしてついに、カウントが止まった。ゼロの数字が並ぶ。一瞬遅れて、画面が切り替わった。
“L is dead.”
 ロジャーは苦しげにうめき、デスクに手をついた。目をつむって天井を仰ぐ。
 年老いた双肩に、途方もない大きさの重責がのしかかる。力なく背もたれに倒れこんだ。
 虚脱状態から意識を持ち直すや否や、彼の脳裏をかすめたのは、天才と謳われた探偵への弔いでも、養護院の創設者への哀悼の念でもなかった。
 ロジャーにはやらなければならないことがある。それは彼にしかできないことだ。Lの名を、そしてその存在を永遠に途切れさせないための一手を打たなければならない。
 ロジャーは長いあいだ身動きを取れずにいたが、やがて頼りない動作で立ち上がった。ふらつき、壁に手を添えながら、一歩ずつ戸口へ向かってゆく。
 部屋にはもう電子音もない。沈黙が満ちみちた重い空気だった。踏み出すことをためらわせるほど、重々しい静寂だった。それはまるで、あらゆる可能性を抱く少年を戦地に追い立てることを、神が罰しているかのような沈黙だった。
 ロジャーは罪の苦みを嚥下し、神の怒りを踏みにじりながら扉を目指す。あの猫背の青年は、ためらうことなく歩き続け、その果てに倒れた。けれど彼は自分の死に方に誇りを感じていたはずだ。ならばなおさら、遺志を継ぐ者をたてなければならない。
 ロジャーの皺の目立つ手がノブをつかむ。許されたいとは思わなかった。ただ、自分たちの罪が新世代を担う少年たちに背負わされないよう望んだ。扉が開く。その先の廊下にがいた。
 偶然通りかかっただけの彼女は、顔面蒼白のロジャーを見て、愕然としながらたずねてきた。
「どうしたんですか、ロジャーさん」
。いや、なんでもないんだよ。ああ、それよりね」
 に不安を感じさせないよう、努めて明るく振る舞う。けれども声は小刻みに波立っていた。涙をこらえているせいで、喉の奥にはひどい痛みが走っている。
「ニアとメロを呼んできてくれないか。私の部屋へくるようにと」
「……はい」
 ロジャーはいびつな表情を浮かべた。彼としては、笑ったつもりだった。
 肩を落として部屋へ戻ってゆく彼の様子から、ただごとでないと察したは、言いつけを果たすべく駆けだした。

 三十分後。憤然とロジャーの部屋を飛び出したメロは、その足で自室へ駆け込み、荷づくりをはじめた。眉間を強ばらせながら、荒い手つきで作業を進める。
「ねえ、メロ、どうしたの?」
 廊下でメロを見かけ、彼の様子を案じてついてきたが問いかける。
 メロは癇癪を起こしたように眉を逆立て、何事か怒鳴り散らそうとしたが、それだけの気勢がいまはなかった。悔しげにうなだれ、まとめた荷物を掴みあげる。
 そのまま、部屋をあとにした。別れの挨拶も、それに代わる言葉も、何もなかった。
「……バカじゃねえ?」
 ふと聞こえたつぶやきにが顔を上げると、戸口にマットが所在無さげにたたずんでいた。まなじりに憂いをたたえ、天井を仰ぐ。まぶしそうに目を細めて光を見つめるのは、泣くのをこらえているせいだと、はほぼ直感的に悟った。
「俺にも何も言わずに出て行きやがってさ……。勝手にしろってんだよ」
「……ねえ、何があったの?」
「それ、マジで聞いてんの?」
 マットが険をふくんだくちぶりでたずねる。
 そのひとことで、は自分の予想が正しいことを確認せざるをえない。主のいなくなった部屋の床に、膝をつく。
 Lの後継候補に名を連ねていたニアとメロ。彼らが内々に呼び出される事態といえば、もはや疑いようがなかった。
「Lが死んだ」
 口にしたことで、それが揺るぎない事実へと変遷してゆき、は頭を抱え込んだ。Lが死ぬなど、少なくともこの養護院に身を置く者たちにとっては、けしてあってはならない事態だった。
 Lは負けない。たとえ何度敗北しても、必ず立ち上がる。
 なぜならLは、Lこそがこの世界の正義であり、希望だからだ。
「いいえ。Lは死んでいません」
 ふいに、静かで厳かな声色が響いた。声のしたほうを振り返ると、そこにはニアがいた。小首を傾いで、耳のあたりの髪をしきりに触っている。
 彼はマットを横切り、のいる部屋の中へ足を踏み入れた。床にうずくまっていると目線を合わせるため、その場にしゃがみこむ。そしてそこから、戸口のマットを横目で見上げた。
「申し訳ありませんが、席を」
 すべて言い終えるより先に、マットは歩き出した。鬱陶しげにニアを見据え、勢いをつけて正面に向き直り、乱暴な足取りで立ち去る。
「……ニア、Lは死んでないの? 何もなかったの?」
「いいえ」
 ニアはまた否定する。
「死にました」
「さっき、死んでないって」
「そちらも本当です。Lは死にましたが、死んでいません。その名は次の世代へ、そう、私たちへ受け継がれていくからです」
 玻璃の瞳に、決意だけを滲ませ、力強い口調でそう語る。
 そのすぐあと、ニアは寂しげに睫毛を伏せた。彼の白い額を隠している銀髪が、かすかに揺れる。
「メロは、私にLを譲って出て行きました。成績で私に敵いませんでしたら、そんな状態で私を押しのけ、Lの継承を主張するのは彼の美学に合わないんでしょう」
「そっか……」
 相槌を打ちつつ、は頭を垂れた。瞼を閉ざし、このワイミーズハウスで過ごした数々の思い出を反芻し、そしてそれらに決別する。メロになんの言葉もかけてやれなかったことが悔やまれた。おそらく彼に伝わる日はこないと知りながら、無事を願って祈りを捧げる。
、私はLを継ぎます」
「うん。そうだね。わかってるよ。ニアも、行っちゃうんだね」
 はためらいがちに視線を上げ、再びニアと見交わした。次から次へとあふれる涙に視界を遮られながら、瞳の奥にニアの顔つきを焼きつけようとして、懸命に凝視した。
 Lによく似た黒目がちの目に宿る冷たい眼差し。雪と競えるほど白い色合いの頬。低いけれど形の整った鼻。
 覚えてさえいれば、たとえ会えなくなっても、いつでも瞼の裏に呼び起こすことができる。そう信じて、はニアをひたすら見つめ続けた。
「一緒にきませんか?」
 ニアは問いかけたものの、そうするまでもなく答えを悟っている。
 の眼差しには揺らぎも感情もない。ただ瞳の中央に、銀髪の無表情な少年が映り込んでいるだけだった。
「行かない」
 ニアはくちびるを噛み締め、床に目を向ける。覚悟してはいたものの、突きつけられた現実の過酷さは、やはり彼を動揺させた。
 苦しげに顔をしかめて、途切れがちな吐息をもらす。いまにも泣き出しそうになりながら、彼は言った。
「どうしても、私ときてはくれませんか?」
 は微笑を浮かべる。温かみのない笑みだった。そしてその面持ちのまま、あっさりと首を振る。
「行かない。だって私はニアを好きになれない」
 ニアはこらえきれず、床に手をつき、空いているほうのてのひらでの手を握った。絶対に離したくないとでもいいたげに、きつく指を絡ませる。
「あなたは、いつだって私に優しかったじゃありませんか」
 恨みすらひそんでいるように聞こえるつぶやきに、は何度もうなずいた。そうすることで言葉の意味を噛み締める。頬を濡らす涙が疎ましくて、ニアにつかまれていない手で何度も拭った。
「ニアに優しくしたよ。ニアがだれよりも、そう、もしかしたら私がこれから出会う恋人より大切かもしれないから」
「だったら、私を愛してください」
 取りすがって愛を乞うニアの指を、は一本ずつ外してゆく。そして今度は、彼女のほうから両手で握りしめた。
 ニアの指先にの涙が触れる。熱い感触がした。
「それはできない。ニアは友達だから」
 は何度も嗚咽を起こしそうになりながら、荒い呼吸の合間を縫って、ニアへの思いを口にする。この胸を駆け巡る思いを、言葉にすることなどできない。千言万語を費やしても、幾夜も潰して語り尽くしても、きっと言い表せない。
 それほど深く、奇妙な形をした愛情だった。性愛ではない。けれど、それでも愛情だった。
 これが愛でなければいったいなんなのか、彼女にはまるで見当がつかない。
「私は幸せにしてあげられない。けど、だれよりも幸せでいて欲しい。心の底からそう願ってるよ」
 言葉を選びながら、少しでも正確に、語弊のないように、彼女はニアに思いの丈を伝えようとする。
 別れを目前にして、これほど胸が締めつけられ、また一方でかけがえのないものを得たという充実感を覚えさせてくれるのは、ニアとの日々、その一瞬一瞬が、遠い時間の果てに輝き続けるからだ。
「ニア、寂しくなったらいつでも呼んで。孤独になんかさせない。だって私はニアの友達だから。いちばんの友達。親友なんて、そんな安っぽい言葉で飾る気が起こらないほど、だれよりも、ほかの皆をひとまとめにしても敵わないくらい、大好きだよ」
 切なげに震えるくちびるから溢れ出た言葉の群れは、いずれもニアの横を素通りしていった。
 彼はいたたまれず拳を握り締める。いちばん愛しいと感じている人が、自分をいちばんの友人だと信じている。これ以上の皮肉はなかった。
 ニアはなおも食い下がろうとして、やめた。口をつぐみ、肩を落として睫毛を震わせる。
「……もう、行きます」
 それだけ言って立ち上がる。に薄い、あまりにも薄すぎる背を向け、確固たる足取りで歩きだした。目元に痛いほどせりあがる感覚を、どうか彼女の前を去るまでこらえていられるように、彼は祈った。神にではない。おそらくLとしての自分にだ。
。次に会うときは友人として」
「うん」
「ああそれから」
 ニアは戸口に差し掛かったところで立ち止まり、振り返りはしないまま、優しい声で言った。
「私もあなたがだれより好きですよ。だれよりも大切です。だれよりも――」
 その先は喉の奥に押し込め、胸の底に沈ませる。が望まない言葉だと思ったからだ。代わりに別のことを口にした。
「幸せであって欲しいと願っています。たとえ遠く離れた、絶望の波の打ち寄せる最果ての地にあっても、天を仰いで、私は祈ります。あなたの明るい未来を」
 は泣きじゃくりながら何度もうなずいたが、背を向けているニアには見えなかった。ただ彼には彼女の泣き声だけが聞こえていた。
 変わらないものなど何ひとつない。恒久に宇宙を泳ぐはずの惑星でさえ、いつかは肥大し、死に至る。ニアの愛も、の友情も、いつかは薄らぎ、色あせてゆくのかもしれない。
 けれども、彼らはいま永遠に続く予感を痛いほどに感じている。
 その気持ちこそが大切で、価値があるものなのだと、ニアは無理に自分を納得させた。
 身支度を整えた彼は、メロに続いてワイミーズハウスをあとにする。見送る者はいない。ただ自室の窓から、が不安と悲しみに曇った目をして、見つめていた。ニアの姿を少したりとも見逃すまいと、躍起になっていた。
 ニアはのいる窓に向かって、頬をぎこちなく動かし、笑みをつくった。不慣れな笑いかただ。
 それでも、には伝わったようだった。彼女も涙でくずれがちな笑みを返し、大きくうなずいてみせた。
「大丈夫。進めばそこに道はあるから」
 そう、彼女が言ってくれた気がした。
 と築いた記憶や、彼女が教えてくれたあらゆる事柄が、いま血肉となってニアを形づくっている。それだけで十分だと、そう思うべきなのだ。
 きゃしゃなあごを上げ、ただ前だけを見据える。幼少のころから過ごした養護院に、恋心だけを置き去りにして、彼は再び歩きだす。
 晴れ渡った空の青さが目に沁みる。それを言い訳にして、ニアは目を伏せた。雨がたった一滴だけ地面に垂れる。そのまま弾けて、見えなくなった。
 

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