セクシャル・ハラスメント

 地下鉄の駅から地上に続く階段を、もう少しでのぼりきるところだった。最後の一段だった。それがの気の緩みを生んだ。足の踏み出しが浅く、次の段に上がり損ねて、バランスをくずしてしまった。両手にそれぞれ持っていた荷物を取り落とす。
「きゃあっ」
 短い悲鳴とともに転倒した――かに思えた。しかし実際は、運良く手近なところにつかまるものがあったおかげで、どうにか態勢を維持することができた。
 ふう、と息をつく。
「……ふう、じゃない」
 厳しさの色濃く滲んだ声がした。
 よくよく考えれば、前方に手すりがあるはずはない。それに、てのひらに触れる感触は柔らかく、明らかに金属のたぐいとは異なっていた。何につかまったのか、それを確認するためにも、は声のしたほう、すなわち前方に顔を向ける。
「……え」
 早くも目を逸らしたくなった。
 彼女が手をついたのは、こともあろうに、見知らぬ男の脚の合間だった。黒のレザーパンツの上からとはいえ、てのひらでしっかりつかんでいる。
 おそるおそる視線を上に移す。
 無造作にカットした金髪を適当に垂らした髪型の、皮膚の白い、勝ち気な面差しをした青年だった。まなざしには精悍な光を宿している。外見からすれば、まだ二十歳に差しかかったばかりといった年頃だろう。けれどそれらは青年の人物像を記録する上で、取るに足らない点だった。
 なぜなら、顔面に何かの事故、あるいは揉めごとで負ったらしい、大きな傷跡が亀裂に似た線を描いていたからだ。
「あっ、あの、すみません! 本当にすみません!」
 傷跡の異様な存在感に動揺を大きく煽られ、いてもたってもいられない様子で、はひたすらに謝罪を重ねる。マフィアの関係者だったりしたらどうしよう。それが彼女の懸念のほとんど全部だった。
 青年は恥ずかしげに横を向いた。声を荒げる。
「とにかく手を離せよ!」
「えっ、あっ……」
 顔面蒼白になる。狼狽の余り、手をどかすのを忘れていた。ただちに言われた通りにする。
 青年は気のめいった様子で溜め息をついた。
「あ、あの、本当に、すみませんでした……」
 なんとなく背後に隠した手に、まだレザーパンツの生地の感触や、その下にあった膨らみや生暖かさなど、もろもろの記憶が焼きついているのを自覚して、顔から火が出そうだった。
 青年はファーのついたジャケットのポケットから手を引きぬいた。
「……とりあえず、どこかカフェに入るぞ。温かいショコラでも飲ませてもらわないと割にあわない」
 それくらいでこの醜態の片がつくなら御の字だ。勢いよく返事をする。
 青年は見掛けとは無関係に親切なのか、階段に散らばった紙袋を拾い集め、そのまま提げてくれた。
「行くぞ」
 再び勢いよく返事をして、立ち上がった――と思いきや、同じところで足を踏み外した。今度もどうにか転倒を免れたものの、青年の尻を鷲掴みにしてしまった。
「お前……わざとやってないか?」
 肩越しににらまれると、返す言葉が見つからず、いびつな笑い声をたてるしかなかった。

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