「ニア」
 呼びかけても、返事はなかった。
 それを承知で声をかけたので、特に気にするふうもなく、はニアの前にしゃがみこんだ。
 ニアはひとり、パズルに没頭している。模様のない、ただ白いばかりのパズル。無感情な瞳でパズルのピースを追い続けるさまは、どこかひたむきな印象を感じさせる。
 はニアとの対話を諦め、近くの椅子に腰かけた。ロジャーが淹れてくれた紅茶に口をつける。
 そう広くない部屋。だれがたずねてくることもない。
 ときおり聞こえる足音だけが、この世に彼らがふたりきりでないことを思い出させた。
「鳥は卵の中から抜け出ようとする。卵は世界だ。生まれようと欲する者は、ひとつの世界を破壊しなければならない」
 ふいに、の口から小説の一編がこぼれ落ちた。この閉塞した空間が思い起こさせたのかもしれない。
 パチリ、とパズルのピースをはめる音がする。
「ヘッセですね」
 ニアが影の差さぬほど生白い顔を上げた。手元のパズルはすっかりできあがっている。
 が相槌を打つより早く、ニアのほうから言葉を重ねた。
「外へ出てみましょうか」
「……ニア」
 彼はのいるテーブルへ近寄り、手を差し出す。
「あなたが手を引いてください。それなら私はきっと、外へ……いいえ、どこへだって行けると思います」
 注意深くニアの表情を観察していたが、やがて彼女は手を伸ばし、目前の小さなてのひらに触れた。

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