血のバスタブ

 が口を酸っぱくして、あらかじめ言いつけておいた成果は、まるで表れていないらしかった。
 曇りガラスを嵌めたドアを開けたマットは、無断でバスタブに飛び込んで来た。水面に積もった泡が飛び散り、浴室の湿った空気に舞いあがる。
「……入ってこないでって言ったじゃない」
 彼は片方の口端をあげて、ニッと微笑んだ。
「やっぱ一緒のほうが断然いいだろ? なんならこのまま……」
 腰を寄せてくるマットの言葉は、途中で遮られた。
「エルゼベート・バートリを知ってる?」
「はっ、バカにすんなよ? ハンガリーのイカれた女だろ? 農家の娘をさらってきては、生き血を抜き出して、全身に浴びて喜んでた」
「そうすることで永遠の若さに……あるいは真の美に到達できると思ったんでしょうね」
「お前にはさ、生き血よりもっといいもん浴びさせてやるよ」
 軽い調子で、なおも距離を詰めようと試みる彼の首筋に、銀色に光る剃刀の刃があてられた。
「動かないで」
「お前に殺されるなら、悪くねーかもな。最高のオーガズムってヤツ、味わわせてくれ……」
 マットはそこで言葉を切った。切らざるを得なかった。瞼を目一杯持ち上げ、眼球の上下をさらけだす。わななくくちびるから、かすれた吐息がこぼれ落ちた。
 漂い、膨れ上がる泡が、見る間に赤く染まっていった。
「……さすがに、悪趣味じゃねえ?」
 たずねながら、視線を横にずらし、赤い入浴剤を散布する手をながめた。
「そう?」
 が聞き返すのと同時に、粉末がすべて浴槽に溶け込んだ。
「なあ、俺、ベッドまでもちそうにないんだけど……」
 めけずに誘いをかけたマットだったが、剃刀を握った手が水面の下に移動したので、さすがに押し黙るよりほかなかった。
 愉悦をふくんだの声が、喉の奥に引っかかった笑いをはらんで、浴室に反響した。

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