僕らの生活-初詣-

 エアコンから流れ出る暖気に満ちた居間で、は一人ソファに寝そべっていた。
 目の前のテーブルにはずいぶん前に空になった皿や、飲み差しの湯飲みが放置されている。加えて掃除が行き届かないために、部屋の隅には埃が重なっていた。
 何しろ貴重な連休だ。できるだけ身体を動かさず、のんびりして過ごしたい。
 しかしそんな彼女のささやかな願いは、来客を告げる電子音によって裏切られる。
 元日からたずねてくる人物といえば、彼女の知る限り一人しかいない。
 そして彼女が考える通りだとすれば、わざわざ玄関まで出迎えに赴かずとも、勝手に入ってくるはずだ。
 予想はやはり外れなかった。端正な顔をした、ちょうど青年へ移り変わる年頃の少年が、にこやかな表情をして姿を現す。

 そう呼びかけ、ソファに転がる彼女を認めた途端、眉間に皺を寄せて、渋面をつくった。
「……何してるんだ、正月から」
「できるだけぼうっとしてたくてさ。言ってる間に仕事始まるし」
「そうやってぐうたらしてるから、身体がなまって、却ってだるくなるんじゃないか」
 至極もっともな指摘をしつつ、ソファの前まで歩みを進めると、の手首をぐいとつかみ、強引に引っ張り上げようとする。
 しかし彼女のほうもなんとか起こされまいとして、ソファにすがりつく。数分に渡る攻防の末、勝利したのはやはり若さだった。
 は床に足をつけ、きちんとした姿勢で腰かける。ひとしきり揉めたせいで、くたびれた様子の表情を浮かべていた。
「月のせいで疲れた」
がさっさと起きないからじゃないか」
「若者は元気ね」
「そんなに年違わないだろ」
「いや、二十歳がピークなんだよ、人間。それを過ぎればあとは衰えていくだけ」
 はテーブルの湯飲みに手を伸ばし、すっかり冷めた茶を飲み干した。ひと息ついてから、改めて来客に顔を向けなおす。
「今日はどうしたの? 遊びにきただけ?」
「いや、違う」
 彼は軽く首を振ったあと、居間へ入ってきたときの笑みを取り戻した。爽やかで、十七歳という年齢より幼く見える笑いかただ。くちびるから、並びのよい白い歯がのぞいている。
「初詣に行こう」
「……嫌。別に私、神道の信者じゃないし、神社に義理もないし」
 間髪入れず拒絶する。
「じゃあ初詣に行く人は皆、神道の信者なのか? そんなの関係ないだろ。ほら、さっさと支度して、出かけよう」
「嫌だよ、外寒いもん。それよりさ、私とここでのんびりしてようよ。せっかくきたんだし、お菓子でも食べながらさ……」
「恋人が迎えにわざわざ迎えにきてるのに、それでも行かないって言い張るのか?」
 恋人。
 そう、はこの現在高校生の訪問者と交際中の間柄だった。名前を、夜神月という。
 全国模試で一位を獲得する明晰な頭脳に、数年前の話とはいえ、テニスのジュニアチャンピオンに輝いた経歴を持つ、よくいえば万能、悪くいえば嫌味な青年だ。加えて人目を引く優れた容貌を備えており、非の打ちどころがない人物といえる。
「いや、恋人とかそういうのなしでさ、寒いし、込んでるし、面倒だし、だから行きたくないなあ……」
「とにかく行くったら行くんだ。ほら、早く支度しろよ!」
 有無を言わさぬ強い調子で迫られ、は気の進まぬそぶりを見せながらも、おもむろに立ち上がった。
 何しろ月の怒りは尾を引く。が謝り、彼の希望を聞き入れるまで口をきこうとしない上、豊かな知性をフルに活用した報復をおこなってくる。
 以前、同僚と歩いているところへどこからともなく現れ、二人の関係がばれるぎりぎりの会話を持ちかけられたときは、その場で膝をついて深々と低頭したくなった。
 それからというもの、は月の機嫌を損ねるのを恐れている。
「化粧が面倒」
「別にしなくていいじゃないか」
「そういうわけにもいかないよ。どこで知った顔見つけるかわからないんだから」
「大丈夫。は素顔もきれいだから」
 鏡台やクローゼットのある寝室へ向かいかけていたは、突然の褒め言葉に足を止めた。気恥ずかしくなり、かすかに頬を赤らめる。
 そんな彼女を見て、月はふっと口もとに笑みをふくんだ。
「何しろ僕の彼女なんだから、きれいに決まってるだろ」
「私を褒めてるんじゃないんだね」
「いや、褒めてるよ」
「あんまりそう聞こえなかったけどなあ。もう一回言ってみて?」
 月は同じ言葉を繰り返そうとして、がじっと自分を見つめているのに気づくと、決まり悪そうに目を伏せた。長い睫毛をしばたたかせる。
「なんか、言えって言われると、言いづらいな」
「月っていつもそうだよね」
 言葉の意味がいまひとつ呑みこめず、月は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「甘い台詞をささやくのはいかにも得意ですって感じなのに、面と向かうと何も言えなくなるってこと。そこがかわいいんだけど」
「……かわいいなんて言うな」
 刺のある口調で抗議する。
 はあわてて口をつぐみ、そのあと乾いた笑い声をたててごまかした。
 年下扱いする言動をが取るたび、月はへそを曲げてしまう。おそらく彼なりに年の差という隔たりに壁を感じているのだろう。
「じゃあ、支度してくる」
 は月を居間に残して寝室へ移った。着替えを済ませ、ファンデーションを塗り、手早く眉を描き、最後に発色の強くないリップを引く。次に櫛を髪に通した。
 鏡台の前を離れ、クローゼットをがらりと開け放つ。コートがなかなか決まらない。
 そうこうしているうちに、痺れを切らした月がドアをノックしてきた。無断で入ってこないあたりが彼らしい。
「まだかかるのか?」
「コートで悩んでる。入っていいよ」
 ドアを開き、中へ入ってきた月の前で軽く手を広げ、いまの服装を見せる。
「どう? これに合うコート。どれだと思う?」
「別にどれだってそうおかしくはないと思うけど……」
「知り合いがいないとも限らないからなあ。恥かきたくないし」
 月はクローゼットの前に立ち、一着ずつコートを手に取り、少しだけ引っ張り出して、確認してゆく。
 まもなくキャメルのコートを取り出した。スタンドカラーのものだ。もう一度の服装と見比べたあと、軽くうなずく。
「これなんかいいんじゃないか?」
「月が言うならそれでいいか。私より月のほうがセンスいいし」
 手渡されたコートを着込み、バッグに財布とキーケースを放り込む。
 こうしてマンションを出た二人は、最寄の神社へ足を運んだ。
 途中何度となく寒さに怯み、歩みののろくなるをそのたび月が叱咤し、どうにかこうにかたどり着く。
 神社に近づくにつれて人影が多くなっていたが、鳥居の先はさらに混雑を極めており、の気力をそぐ光景になっていた。
 月は踵を返そうとする彼女の肩を押し、無理やり先へ進ませる。
 雑踏をすり抜けて進みながら、が納得いかない様子でぽつりと漏らした。
「これだけ人であふれかえってるんだから、熱気で暖かくなっててもいいのに」
「それはそれで嫌じゃないか?」
「この際寒くなければなんでもいい」
「じゃあ、僕に抱きつけばいいよ」
 言いながら、腕を差し出す。
 しかし当然のことながら、の反応は薄い。ちらとつまらなさそうに視線を送っただけだった。
「人前でそんなこと絶対したくない」
「僕は別にいいよ。クラスメートとか、予備校のやつに見られても、なんとも思わない。むしろ連中、羨ましがるんじゃないかな。もてないやつが多いからね」
「……裏を返せば自分はもてるって言ってるわけで、かなりナルシストな発言だよね」
「冷静な自己評価さ。もてないわけないだろ、この僕が」
 くだらない雑談を交わしつつ、肩を並べて、石畳の上を歩いてゆく。
 まもなく賽銭箱の近くまでくるが、ここから先が長い。何せ同じように小銭を投げ入れ、鐘を鳴らして拝むという、その一連の所作をするために集った人間が行列をなしているのだ。
 は苛立った様子で強く地面を踏みしめた。
「寒い。じっとしてると余計寒い」
「だから、はい」
 月は多くの女子の心を射止めてきたにちがいない、柔らかく、それでいてどこか計算され尽くした感のある、隙のない微笑を浮かべた。
 そうしながら腕をの前へ持ってくる。
 は冬の外気をふくんだ瞳で、白々と月を見やった。
「だから人前でそんなことしたくないってば」
「どうしても嫌なのか?」
「うん、嫌」
 語気を強めてたずねる月に、も負けじと見据え返した。
 これ以上圧力をかけても、は折れそうにない。そう判断した月は、諦めて腕を垂らした。彼は聞き分けのない子どもではない。本当にが嫌がることは強要しない。
 だから二人はいまもこうして付き合い続けている。
「あ、結構進んだ」
「本当だ。この分ならもうじきだな」
「あー、早く帰って、雑煮でも食べて寝たい」
「……雑煮? 作るのか? それ以前に材料買ってあるのか?」
「……コンビニに売ってないかな。カップ式のやつ」
「売ってないだろう、明らかに」
 そうこうしているうちに前にだれもいなくなった。ふたりの番だ。
 財布から小銭を取り出し、賽銭箱へ落とす。がらがらとにぎやかな音をたてる鐘を鳴らしたあと、手をあわせて簡単に拝む。
 用を終えた二人は、早々と列から逸れ、後ろで待つ人々に順番を譲った。
 帰りしな、ふと気になって月がたずねた。
、いったい何を願ったんだ?」
「仕事が順調に行きますように。それから、健康でいられますように」
「……それだけ?」
 暗にほかにもあるだろうと主張する。
 はくすりと笑いを漏らした。
「月と今年もずっと一緒にいられますようにって」
 月はようやく満足げにうなずいた。その後いささか気取った表情を作る。
「僕はもっと有意義な願いことをした」
「ふうん。何?」
「一生が僕の隣りにいますようにって。……しょせん願掛けだから、期待してないけど。本当に大切なことは、自分の手で叶えるべきだから」
「一生か……」
 は歩きながら、まんざらでもなさそうにつぶやく。
「気の長い話だよね。正直、私、月と十年も二十年も一緒にいるところなんてイメージできない」
「イメージする必要なんてないさ。現実になるんだから。そんなの想像したってつまらないだろ、将来自分の身に起こることなんだから」
「まあ、十年、二十年先のことは、秀才月くんに任せておくとして」
 冗談めいた口調で言ったあと、そこで言葉を止め、身体ごと月を見向いた。
 つい月のほうも歩くのをやめ、と向き合う。
 彼女はおどけたしぐさでぺこりとお辞儀をした。
「今年一年よろしくお願いします」
「僕のほうも、よろしく」
 月も一応といった調子で首をかがめ、軽く頭を下げた。
 どちらからともなく再び歩きだす。
 数歩進んだところで、月はふいに思いついて口を開いた。
「ついでに、スーパーに寄っていこうか。雑煮の材料買おう」
「ああ、いいかも。どうせここまできたら寒いのなんていっしょだし」
 一年の始まりは、二人で雑煮をつつきながら過ごすことになりそうだった。

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