僕らの生活-手料理-

 月と付き合い始めて、まもない時期のことだった。
 ある日、いつも通りのマンションをたずねてきた彼は、テーブルに乗ったコンビニの袋を見て、眉間に皺を寄せた。不愉快そうに口を切る。
「また惣菜買ってきたのか?」
 これまたいつもの通り、ソファに寝転がってアイピローで目を休めているは、恋人の訪問を感じ取ってはいたが、けして体勢を変えようとしない。アイピローに添えた手先に伝わる冷たい感触を心地よく思いながら、疲労のあらわな声を返す。
「月も一回、社会人やってみなよ。五時に退社して、それから買い物、帰宅してちょっと休んで料理開始なんて、超人でもないととてもできない」
 月は半透明のビニール袋の上を引っ張り、中をのぞきこんだ。一応カロリーは気になるらしく、女性をターゲットにした和食弁当を選んでいる。
 今日は月もここで夕食を摂る話になっていたので、彼の分も用意されていた。
「コンビニの弁当ってのは、ある程度長持ちするように保存料や着色料が使われてるから、身体によくないよ」
「だったらコンビニの弁当開発してる人たちは年中病気のし通しってわけだね。大変なお仕事だなあ」
「理屈をこねるな」
「月の言い分が変なんだよ」
 月はため息をつきながら、横を向いた。
 その音に反応したわけではなさそうだったが、ともかくは上体を起こし、アイピローをテーブルに放り投げた。
 テーブルの上にはほかにも、弁当の入ったビニール袋をはじめ、爪の手入れ用品、スキンケアアイテムの入ったケース、二日分の新聞などがひしめき合う。
 ちなみに床には、おそらくテーブルの端からはみ出たであろうテレビのリモコンが転がっている。これは月の記憶が確かなら、前回の訪問時も同じ位置にあった。
「月、お茶持ってきてよ。ご飯にしよう」
「……お茶、沸かしてるのか?」
 月は疑わしそうにダイニングのほうを見やった。
「ううん。冷蔵庫にペットボトルのお茶が入ってると思うけど、正直こんな季節に飲みたくないよね、冷えたお茶なんか」
「僕に沸かせってことだな。……わかったよ、ちょっと待ってろ」
「月、大好き」
「その台詞、もっと別のタイミングで聞きたいよ」
 文句を並べながらも、月は健気に湯を沸かし、急須を茶で満たした。
 は満面の笑みで彼を迎える一方、腕を動かして、テーブルの上からごちゃごちゃした物の群れを払い落とした。そうして、食事を摂るスペースを確保する。
 床の散らかりようを見て、月はまたうんざりした表情でまたため息をもらした。
「……って料理できないのか?」
 箸を動かし、惣菜を挟んで、口へ運ぶ。
 その一連を流れるような、厳しく躾けられた行儀のよい動作で行いながら、月がふと思いついたといった調子でたずねた。
 は不満そうに口をつぐむ。白い湯気をたてる茶をひと口ふくんだあと、月を恨みがましい目つきでにらんだ。
「何回も聞かないでよ。できるってば。仕事で疲れてるからしないだけ」
「でも、休みの日もコンビニか宅配、たまに外食じゃないか。いったい、いつ作ってるんだ?」
「……月の来ないときだよ」
「本当に?」
 は妙なタイミングで睫毛を伏せ、視線を月から外した。明らかに当惑している様子だ。
 図星を突かれて弱っているのだと察した月は、出し抜けに柔和な微笑を浮かべた。
「じゃあ、今度の休み、作ってくれよ。僕のために」
 は突然の頼みに驚くあまり、もう少しで咀嚼している最中の卵焼きを噴き出すところだった。なんとか飲み下してから、焦る気持ちを落ち着けようと、ひとまず湯飲みに口をつける。そのあと、あらためて月に向き直った。
「休みの日くらい寝かせてよ」
「休みじゃない日も、仕事が終われば寝てるじゃないか」
「それは疲れてるんだから当然だよ」
「じゃあ、が料理できるのか、できないのか、僕にはわからないままだな」
 その言葉に、は悔しがって眉を逆立てた。むきになって声を大きくする。
「できるよ!」
「じゃ、作ってくれるんだな。楽しみにしてるよ、の手料理」
 一方的に決めつけられたとはいえ、としてはここで拒んで、本当はできないと月から思われるのも、不本意だった。箸をきつく握りしめ、ご飯を二、三口分まとめてかっ込む。それをろくに噛まずにすっかり飲み終えてから、語気を強めて言い放った。
「いいよ、楽しみにしてて!」

 こうして、次の土曜日、約束が果たされることになった。
 は昨晩月が帰宅したあと、こっそり購入してきた料理に関する本をじっくりながめ、何をつくるか構想を練っていた。従ってメニューはすでに考案済みだ。
 は月の整った顔を横目で見やりながら、ばかにしていられるのもいまのうちだと内心ひそかに得意になる。
 料理ができるというのはうそではない。ただ実家を出てからというもの、一人分を用意するのが手間に感じて、台所に立たなくなっただけのことだ。
 ダイニングテーブルに、月に頼んで買ってきてもらった食材を並べる。
 和風ハンバーグに、バジルのサラダ、レタス入りのスープの献立にするつもりだった。
 リビングとダイニングキッチンの敷居のあたりから、月が心配げな顔をして見守っている。
 さんざんせっついた割りに、いざ一人に任せるとなると、不安を覚えずにはいられないのだろう。何しろ彼にしてみれば、の料理の腕前は完全な未知数だ。どんなものを食べさせられるかわかったものではない。
「えっと、よかったら手伝おうか? ほら、フライパンとか重いだろ」
「フライパンが重いわけないよ。それ、どんだけ非力なの?」
「あ……そうか。いや、その、あーっと」
 さりげなく、どころか不自然な物言いで協力を申し出る月を適当にあしらい、それでも後方でながめることは譲らなかった彼を放って、はいよいよ料理に取り掛かった。
 まず、バジルのサラダからだ。バジルやサニーレタス、トマトといった具材をまな板に載せ、次々に包丁を入れてゆく。
 調理を開始してまもなく、ごく些細な違和感を覚えた。具体的にはわからない。
 ただ、包丁を下ろすたびに、タイミングのずれのようなものを感じる。
 しかししょせん錯覚に過ぎなかったらしく、サラダは無事完成を見た。あとは食べる直前にドレッシングをかければいいだけだ。
 は勢いに乗ってスープ作りをこなし、残すところ和風ハンバーグだけになる。
 さすがにここまでくれば月も安堵しており、穏やかな表情をして、恋人のがんばる姿を見守っていた。
 彼女はボールに鶏のひき肉、刻んだ玉ねぎとれんこん、卵にパン粉、そして調味料を加え、こね始めた。輪郭を楕円に整え、扁平になるよう押さえる。
 後に控える工程はたったひとつ、焼くだけだ。フライパンに油を引き、熱したころを見計らって、ハンバーグを投げ込んだ。
 肉が焼け、汁の滲み出る音を耳にしつつ、火力を確認する。十分強い。中まで火が通るはずだ。
 は早くも作業をすべて終えた気になって、肩をほぐしてくつろいでいた。ややあって、月が不思議そうに呼びかけてくる。
。おい、ってば」
「ん、何?」
「いつまで火、最大にしてるんだ?」
「やだ、最大じゃないよ。中くらい。これくらいにしておかないと、中まで火通らないんだよ」
 説明しながら、火力を調整するつまみを確認する。確かに中の位置になっている。月は焦慮をはらんだ声をあげた。
「バカ! 火力ははじめだけ最大にして、あとは弱にするんだよ。そうしないと表面焦げるだろ!」
 言い終えるより早く、ガスコンロの前まで歩み寄り、すぐさま火を弱めた。の手からフライ返しをひったくり、ハンバーグの焼け具合を確かめる。
 遅かった。
 裏面、つまりフライパンに接していたほうはすでに真っ黒だ。
 その光景を前にして、ようやくは正しい手順を思い返していた。火力が必要なのは、焼き色をつける一番はじめだけだ。
 それ以降は内部まで火を行き渡らせるため、蓋をかぶせて、じっくり待たなければならなかった。
 料理の経験が少なくないことに自信を感じるあまり、ブランクがあるという事実が視野から逸れていた。
「…………」
 結局、食卓にのぼったのは、片側だけきれいに焼けたものの、裏返した途端黒々とした肉塊に変化する代物だった。見ただけで味のほどが知れる。サラダとスープが問題なく出来上がったのが不幸中の幸いだ。
 はさすがに気落ちし、申し訳ない思いで失敗作のメインディッシュを注視した。
「焦げひどいからさ、これ食べるのやめたほうがよくない?」
 そう、何度目かになる忠告を月に伝える。
 しかし彼は頑として首を左右に振り、聞き入れない。
「いや、食べる。せっかくが作ってくれたんだから。大丈夫、変なものは入ってないんだから、普通に食べられるはずだよ」
「でもさ……これはちょっと。せめて焦げたところ包丁で落とそうか」
 腰を浮かし、ダイニングキッチンへ向かいかけたに、月は平坦な口調で返事をした。
はそうしろよ。僕はこのまま食べる」
「……い、いや。そんな。無理しなくても。別に捨てても薄情者とか思わないから、責任感じる必要も無いし」
 の言葉をしまいまで聞かずに、月はナイフとフォークでハンバーグを切り分け、いつも通り品のある所作で舌の上に乗せた。均整の取れたあごを動かし、咀嚼する。飲み終えてから、ひとこと漏らした。
「うん、おいしいよ」
 は小さくうなずき返した。世辞だとわかっているが、それでもおいしいと褒めてくれる、恋人の優しさがありがたかった。
 彼女もハンバーグを口に入れてみる。思ったよりまずくはなかった。ポン酢や下ろし大根の味である程度カバーされている。けれども、後味の悪さだけは隠しようがない。
 はくちもとを軽く押さえ、一人食を進める月を見た。
「ねえ、本当にもういいから。あとでお腹空いたら、お茶漬けでもつくって食べよう」
「だから、はそうすればいいだろ」
「月が責任感じることないってば」
「責任なんかじゃない」
 月はやや強い口調で否定したあと、とびきり優しい面持ちをした。いつも澄ましている彼がときおり見せるそんな表情に、の心はどうしようもなく惹きつけられる。その胸に響くときめきを抑える術を、彼女は知らない。
は僕のために料理を作ってくれた。……それが嬉しいから、全部食べるんだ。ただそれだけの話だ」
 そう言い切るなり、再びハンバーグやスープ、サラダを口へ持っていく。
 感動して不覚にも涙さえ滲ませ、それを隠そうと別のほうを向いたの耳に、淡い悲しみのこもったつぶやきが聞こえた。
「それに、次に料理してくれるのはいつになるかわかったもんじゃないしな……」
「……心配しなくても、墓に入るまでもうしないよ」
 不満げに吐き捨てた彼女に遅れること数秒、月は苦笑いを浮かべながら、素直に頭を下げた。
 それが食事を再開する、ちょうどいい合図になった。
 まもなくテーブルの皿は、一枚残らずすべて空になる。

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