僕らの生活-義弟じゃない!-

 冬の宵闇はずいぶん急ぎ足だ。夕焼けはほんの束の間で景色で、空を仰げば、もう薄暗く塗りつぶされている。そして一刻も経たないうちに、完全な暗闇へと移り変わる。夜空の奥底では、いまにも消え入りそうないくつかの星々が、申し分程度にきらめいた。
 は仕事の帰りしな、疲労感の募った身体を押して、駅前の洋菓子店に寄り道していた。当店おすすめのステッカーがついたホワイトチョコレートケーキをふたつ選び、紙箱へ入れてもらう。
 はマフラーを巻きなおし、外套の前を掴みつつ、再び冷気の渦巻く市街へ飛び出た。数歩進んだところで、駅の改札から見知った顔が出てきたことに気づいて、思わず足を止めた。
 恋人である夜神月だ。向こうもに気づき、一瞬嬉しそうにはにかんだが、すぐにくちびるを引き締めた。それは両隣に級友がいるからという理由だけではない。
 は気まずそうに眉根を寄せ、一瞬ためらったが、意を決して自分のほうから近づいていった。ちょうど駅前で別れる予定になっているらしく、級友ふたりと別れた月になるたけ平静を装い声をかけ――ようとしたが、寸前に邪魔が入った。いやに大仰で、陽気な声がを呼び止めてきた。
!」
 はその場に凍りつく。振り向くべきかどうか迷った末、無視するわけにはいかず、困り果てながらおもむろにそちらを見返した。月のさらに後方、いま改札から出てきたスーツの男が駆け寄ってくる。
 月も男の存在には気づいており、自分のそばを横切ってゆく瞬間、厳しい目つきで一瞥した。
「奇遇だなあ、今日もまた会うなんて」
「そうですね、先輩」
 会話を重ねるたびに、月の機嫌もどんどん傾いてゆく。
 彼は憤然と息を吐き出し、ふたりを無視してきびすを返そうとしたが、やはり気になって仕方ないらしく、重い足取りで近づいてくる。
「お姉さん」
 そう呼びかける月の口調に刺を感じるのは、けしての錯覚ではないはずだった。彼女はどうこの場を切り抜けたものかと途方に暮れる。

 そもそも事の発端は、先の日曜に遡る。出かけたくないと渋るを、せっかくの休みだからと月が強引に連れ出し、なんだかんだいいながらも食事やショッピングといったお決まりのデートコースを楽しんだ帰り際だった。
 彼は何度も手を繋ごうとしたが、そのたびにはねのけられるので、彼女の外套の袖口をそっとつかんでいた。それもは最初嫌がったが、一日ふたりで過ごした余韻が緊張感を緩めたため、ついには月の好きにさせた。
 そうして歩いていた彼らは、改札を抜けたところで、例のスーツの男に出くわしたのだ。
「よお、!」
 彼はの大学の先輩だった。彼女の友人がかなり世話を焼いてもらったため、何度も顔を合わせている。彼女自身が男に恩があるわけではなかったが、やはりむげにはしづらい関係だった。
 仕方なく、立ち止まって挨拶を返した。このときは月も若干退屈そうにはしていたものの、おとなしく横で話を聞いていた。
 しかし、話が途切れたしおに、男が月を見やり、おどけた感じでこうたずねたのだ。
「お? 若い子連れてるなぁ。まさか彼氏か? 大学生……いや、高校生か? さすがに犯罪だろ」
 冗談のつもりだったにちがいない。まさか――事実としてはそのまさかなのだが――が月と交際中の関係にあるとは夢にも思わず、単なる話題の延長で口にしただけだ。
 にも関らず、はついむきになって否定してしまった。
「ちがいます! ……義理の弟です」
 力いっぱい否定したのが気に障ったのか、あるいは口からでまかせをこぼしたのがこらえがたかったのか、月ははっきりと不快感を示した。
 しかし外面はいい彼のことだ。くわえて子どもじみた言動を何より嫌う彼は、突如柔和な、相手に好感を与える笑顔を浮かべ、愛想よくふるまいだした。
「はじめまして。いつも義姉がお世話になっています」
「いや、別に俺はお世話してないんだけどさー。何せ大学出たっきり会ってなかったし」
 そう言ったあと、何がおかしいのかひとしきり笑い声をたてる。
 男と別れてから月に何を言われるか考え、面持ちに陰鬱さを滲ませるとは対照的に、月は終始感じのよい態度を装った。
「弟くん、めちゃくちゃイケメンだな!」
「そ、そうですか?」
「間違っても手ぇ出すなよ」
 目下交際中ですと宣言できればどんなに楽だろうと考えをめぐらせつつ、はとりあえず笑顔を浮かべた。頬が引きつっているので、うまく笑えたか自信はない。
「そういえば。今度飲み行こうぜ。大学のころの奴ら何人か誘ってさ」
「いいですね」
 彼女の胸中にあるのはだれが行くか、早く帰らせろ、寒い、月をこれ以上刺激するな、などの言葉だったが、そのうちひとつとして拾い上げ、口から出すわけにはいかない。
 延々立ち話をした末、三人で近くのカフェへ入ろうと促がす男をやんわり諦めさせ、ようやくふたりで歩きだした。
 マンションまでの道のりは十分ほどだったが、月とのあいだにひとつの会話も起こらなかった。沈黙が厚い壁となり、二人の距離を隔てている。
 エントランスで中へ入るための認証キーを入力しているを放って、月は颯爽ときびすを返した。おそらく自分の家へ戻るのだろう。
「ちょっと待って、月」
 当然、月は家に上がるものだとばかり思いこんでいたため、あわてて引き止める。
 なんとか弁解の言葉を引っ張り出そうと頭を悩ませるを、聡明さを宿した月の瞳が冷ややかに斜視した。
「さようなら、義姉さん」
 の声を無視して、月の外套を着た背中はどんどん進んでいった。結局、振り返りはせず、こうして喧嘩別れになった。
 昨日、月がようやく携帯に出てくれたので、とにかく家へきてほしいと説き伏せ、お詫びのしるしのケーキを用意した矢先のことだった。
 はこめかみを指先で軽く押さえつつ、さりげなく月の隣りに移動した。いったん彼のほうを見向く。
「学校の帰り?」
「はい、そうです」
 月はあくまでの求めた設定、義理の姉弟を守り続ける。意固地になっているのではなく、おそらく、それがの立場を悪くしない最善の策だと知っているからだろう。
 それでも腹を立て、そっぽを向いて癇癪を起こしているのは、彼が感情を持った、生きた人間だからだ。論理や利害関係だけで万事上手く物事が進むなら、この世に諍いなどない。
 は月の気遣いをありがたく感じる一方、彼が義弟としてふるまうことでどんなにかプライドを傷つけられているか、思いを馳せた。傷つかないわけがない。こうなったからには一刻も早くこの場を切り抜け、月を早く楽にさせてやりたかった。
「先輩、それじゃ私たちこれで」
「あー、待って。連絡先教えてくれないか? ほら、この前話しただろ、一緒に飲みに行こうって」
「それなら、私の友達、覚えてますよね、あの子に連絡つけてください。番号まだ知ってますよね?」
 話題にのぼった友人は、男と直接交友がある。いまも連絡先を互いに知っているだろう。
 しかし男は難しそうな顔をして、うーんとうなった。
「できればさ、俺はお前に連絡取りたいんだよ。……なんつーかさあ、あー、その、皆で飲みに行くのもいいけど、二人で飲みに行くのも悪くないかなあって」
 は男の本心を察した。相手に気づかれない程度の苛立たしさを表情にちらつかせる。
 しかし、彼女が真に気にしているのはそんなことではない。すばやく月を横目にする。
 彼は長い睫毛を伏せ、そうすることで顔を隠していたが、にははっきりとわかった。鼻の根元に薄い皺を浮かべ、悔しそうな、同時に悲しそうな面差しをしている。
 はきっぱり断るつもりで口を開きかけたが、それより早く男が声をあげた。月のほうを見やり、こう持ちかける。
「あー、義弟くん、きみからも口添えしてくれないかな? 頼む、なんか奢るからさ」
 月は屈めていたうなじをゆっくりもとへ戻した。くちびるが震えたのはほんの一時だけだった。仮面めいた微笑をつくってみせる。
「お義姉さん、番号くらい交換してあげたらどうですか? 別に、気兼ねする人もいないでしょう?」
 この瞬間、の脳裏で怒りが弾けた。皮肉とも取れる言い回しで番号の交換を促がす月にではなく、かといって好意をほのめかしてくる男に対してでもない。月にこんな芝居をさせてしまった彼女自身に対してだ。
 守らなければならない体裁が彼女にはある。しかし、そうして自分を守ることで、彼女が自身よりなお大切にしたい人を傷つけてしまうのであれば。
 は出し抜けに吹きだした。さもおかしそうに笑い声をたてる。月と男が突然のことに驚いて、彼女を注視している。
 そんな奇妙な空気の中、彼女は笑いをおさめ、けれど表情はにこやかなまま言った。
「彼が口添えするわけないじゃないですか。どこの世界に、恋人の電話番号を知りたがる男の協力をする人間がいるんですか。もう、変なこと言わないでくださいよ」
「……え? え? いや、でも、彼、義弟って……」
 すっかり混乱して、と月を交互に見回す男を尻目に、彼女は自分の愛しい恋人を見つめた。小さくうなずいて、彼女のほうから月の手を取る。
 彼の嵌めていた手袋の感触を指先で確かめながら、男に対して深々と低頭した。
「年下と付き合ってること知られたくなくて、つい嘘をついてしまいました。ごめんなさい。それじゃあ、失礼します!」
 いまだ釈然としない様子の男を放って、月の手を引き、歩きだす。五分ほど歩き、駅の見えなくなったころあいを見計らって、は月にケーキの入った紙箱を押しつけた。
 わけもわからないまま、とりあえずといった調子で月は受け取る。
「軽いけど、一応荷物だし、月持ってよ。男でしょ?」
 月は呆気に取られた、ぽかんとした眼差しで、の顔をと手の中の紙箱を見た。ちがうほうの手はにつかまれているため、片側のてのひらで抱えている。
 しばらく黙って歩いたあと、ようやく事の次第を理解し、月はくちもとをほころばせた。彼女なりの謝罪と、信頼の示しかたなのだ。途端に些細なことに拘泥していた自分をちっぽけに思えて、それまで感じていた鬱積をすっきり切り離した。陰りも、つくりものめいた不自然さもない笑みで呼び止める。
、一回手、離してくれよ。これじゃケーキ持ちづらいだろ」
「やだよ。ずっと繋いでるの。……ずっとね。だって」
 はめずらしく聞き分けのないことを言ったあとで、ちらと月を振り返った。瞳が優しさをふくんでいるのは、見つめるその先にだれより愛しい恋人がいるからだ。
「だって、姉弟なんかじゃないから。そうでしょ?」
「……が言い出したんじゃないか」
「あー、うん。ごめんなさい、ごめんなさい」
 ちっとも申し訳なさそうな謝りかたに、月は苦笑いしたあと、仕返しだとつぶやきながら、の腕を引き寄せ、背中に額を軽くぶつけた。恋人同士の無邪気なじゃれあいを、すれちがう人々も特に注目したりしない。
 二人は相変わらず笑い合いながら、帰路を進んでゆく。繋いだ手が、彼らの関係をはっきりと物語った。

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