僕らの生活-温泉旅行-

 出社したがデスクへつき、メールチェックをしていたところ、隣席の同僚が回転椅子ごとそばへ寄ってきた。何やら両手をつき合わせ、額を伏せている。
「ごめん、
「何? どうしたの?」
 開口一番に謝られ、どうしたことかと聞き返す。
 同僚は一瞬だけ口もとを引き締め、言い辛そうにしたが、やがて意を決した様子で切り出した。
「今週末の連休に温泉行こうって言ってたじゃない、泊まりで。あれだめになっちゃった」
「ええ? もう申し込みも、入金も終わってるよ? 人気のプラン、せっかく押さえたのに」
「うん……。実は、別れた彼とより戻すことになってさ。それで彼が、仲直りの記念に一緒に旅行行かないかって誘ってきて。彼と私の休みが合うの、と約束してたときくらいしかなくて……」
 はうなずきともうなだれとも取れる動作で首を屈めた。下ろした瞼に諦めが滲む。長いため息を吐き出したくちびるには、しかし笑みが浮かんでいた。二、三回軽くうなずいてみせる。
「オッケー。そういうことなら仕方ない」
 もともと、長年付き合ってきた恋人と喧嘩別れした同僚を慰め、少しでも気晴らしになればと企画した旅行だ。復縁した恋人たちがやり直しの第一歩を踏み出そうとしているところに、先約だのなんだのと不満を並べ立て、水を差すつもりは毛頭なかった。
 同僚は再び手を合わせ、重ねて頭を下げた。
「ごめんね、本当にごめん。それでさ、埋め合わせといってはなんだけど、別のだれかと温泉行っておいでよ。もう今からじゃキャンセルきかないでしょ? 先に払い込んだ私の分、そのまま使ってくれていいから。彼と行く旅行代金は彼が持ってくれるし、私、そっちでお金使ったと思えばいいもん」
「……でもいくら安いプランとはいえ、金額的には少なくないよ?」
「いいっていいって。気が咎めるようなら、ほかの連中に渡すお土産よりちょっと豪華なやつ買ってきてくれたらそれでいいから」
 は思わず苦笑を漏らしつつ、同僚の話をありがたく受けることにした。
 そこへ外していた上司が戻ってきたため、同僚もあわただしく自分の席に戻ってゆく。
 は不要なメールを削除する作業をおこないつつ、だれを旅行の連れにしようかと考えをめぐらせた。最近とんと顔を見ない大学時代の友人や、遠方に住んでいる幼馴染といった面々を思い起こす。しかし、いずれも色よい返事がもらえそうにはない。何しろ日程が迫っている。彼らには彼らの予定が控えているはずだ。
 ちょうどメールボックスの掃除を終えたとき、月の顔がふっと思い浮かんだ。
 しかし、と彼女はさらに思案を深める。マウスから手を離し、頬杖をついた。
 確かに土日は授業がない。ほかに友人との約束等がなければ、予定も空いているはずだ。だが彼はいま受験生で、のんびり温泉に浸かっている暇などないにちがいない。かといって同僚のせっかくの厚意を無駄にしたくもなかった。
、体調でも悪いのか?」
 突然、上司のデスクのほうから、厳しい声色の問いかけが飛んできた。
「い、いいえ、なんでも。申し訳ありません」
 あわてて首を振る。物思いに耽るあまり、一見しただけで怠けていると知れる気の抜けた体勢になっていた。同僚が隣りのデスクから呆れ半分、同情半分の視線を送ってくる。
 はすぐさま姿勢を正して、ノートパソコンを食い入るように見つめはじめた。

 その夜、はいつも通り惣菜の盛り合わせで夕食を済ませたあと、斜め前のソファに腰掛けている月を振り返った。
 彼はすでに自宅で食事を終えてきたため、湯飲みをひとつ手元に置いているだけだ。テレビの画面が鈍く発光するたび、それが切れ長の瞳の中に細く差し込んで、さまざまな色合いのきらめきをちらつかせている。
「あのさ、月」
「何? あ、食べ終わったのか」
 仕事の疲れを言い訳に動きたがらないに代わって、月が食器を片しに行こうと腰を浮かせた。
 は食器類を重ねあわせ、運びやすいようにまとめながら、どこかぎこちない笑みを浮かべた。本来なら一分一秒が惜しいはずの受験生に、いくら駄目元とはいえこんな話を持ちかけることに、一握の申し訳なさを感じたせいだ。
「えーっと、実は、その。今度の土日、暇?」
「どこか行きたいのか?」
 月が意気揚々と立ち上がり、食器やタッパーを引き受けながらたずねた。彼らがデートに出かける際は、月のほうから声をかけ、予定をたてるのが常だった。そして気の進まない様子のを無理に部屋から連れ出し、あちこちひきずりまわして帰宅の時刻を迎える。それが、彼らの休日の過ごしかただ。
「あー……うん、実はね、えっと、今週末、会社の友達と旅行に行くって話になってたんだけど」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたな。それダメになって、暇になったのか?」
 月は台所のシンクに食器を置き、水道水で簡単に洗い流す一方、使い捨ての容器を屑篭へ投げ込んだ。流し台のそばへ置いたままにしたりすると、次にきたときも確実にそのままになっている。
「そうなんだけど。それで、いまからだと旅行、キャンセルできないんだ。お金ももう払い込んじゃってるしね、もったいないでしょ。……だからさ、一緒に、行かない?」
 沈黙が、二人のあいだをよぎった。
 月が次に声をあげたとき、彼は目を丸くして、くちびるを緩く開いた、なんとも気の抜けた表情をしていた。かろうじて短く聞き返す。
「……え?」
「無理ならいいんだよ、無理なら。もちろん、遠慮なく断ってくれて……」
「行く!」
 やけにきっぱりした口調で返事をする。そのあと駆け足で台所を抜け、リビングに戻った。テーブルに両手を突き、身を乗り出して、をまっすぐに見つめる。眼差しには若さを感じさせる、活き活きとした輝きがふくまれていた。
「絶対、行く。今週の土日だな。うん、わかった。じゃあ、当日の朝こっちにくるから、二人で駅に行こう」
「でも月、もうすぐ受験でしょ? 勉強しなくて……」
 しまいまで聞かずに、月は途中で言葉を遮った。眉を上げ、自信家特有の気取った目つきをする。両手に腰をあてがい、不敵な笑みをのぞかせた。いささかの気の迷いもない、断固たるくちぶりで言い切る。
「この時分に必死で勉強してるようじゃ、結果が知れてるよ。持って生まれた知性と常日頃の努力が物をいうんだからな。……大丈夫、が気にかけることじゃないさ」
「……ああ、うん。そっか。月だもんね、大丈夫か」
 の脳裏に、大学受験を控えて一心不乱に勉強机に向かい、テキストに首っ引きになった過日の自分の姿が想起された。やはり天才は一味ちがうようだ。月の恵まれた頭脳を心底羨みつつ、晴れやかに笑って礼を伝えた。
「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて付き合ってもらおうかな」
「あ、ああ」
 めずらしく月が歯切れの悪い物言いをしているのに気づく様子もなく、はソファの背もたれへ体重を任せて、テレビをながめはじめた。バラエティー番組を楽しんでいるらしく、ときおり笑い声を漏らしている。
 それを耳にしながら、月はシンクの前に立ち、そう数の多くない洗い物を片づけにかかった。水をふくんだスポンジに洗剤を染み込ませ、てのひらの中で数回揉むと、そのたび泡が生まれてはこぼれ落ち、排水口に渦を巻いて沈んでいった。

 その夜、月は十時ごろ帰宅し、そのまま浴室へ向かった。
 手早く服を脱ぎ捨て、擦りガラスのはめられたドアを開き、たちこめる湯気の中に入った。頭から温水をかぶる。繊細な髪が濡れて重くなり、いっそうのツヤを帯びて垂れ下がった。額や頬に張りつくのを適当に剥がしつつ、浴槽に脚を差し込み、順々に身体を沈めていった。
 皮膚を通じて、骨の髄まで染み渡る湯の熱さと、心地いい水圧にひと息ついたあとで、つい先刻から持ちかけられた温泉旅行の件を思い出した。浴槽の縁に左右の手をつき、そのあいだに細いあごを乗っけて、あれこれ思案をめぐらせはじめる。
 ときおり、知らずしらずのうちにといった様子で、頭の中を泳ぐ考えのいくつかが口端から漏れでた。いまは浴室にひとりきりだ。だれの目を気にする必要もない。
「そういえば、あのとき……」
 話を切り出す際、彼女はどことなく言いづらそうにしていた。視線をほかへずらし、言葉を探すそぶりも見せていたことも思い出す。
 途端、月の頬に赤味が差した。身体が温められたことから起こる新陳代謝のせいもあるだろうが、それだけではないはずだった。
 うなじを垂らし、抱えた膝頭のあいだにくちもとを埋めた。鼻の頭やくちびる、頬の半分ほどが水面を破り、泡沫の浮かんでは消える湯の中へ沈みこむ。
 彼は息ができないのを気にかけるそぶりも見せず、思考をさまざまな形に広げる作業に没頭する。
「……ってことはやっぱり、そうなのか?」
 つぶやいたのが水中だったため、くぐもった、極めて不明瞭な発音になっている。
 常に怯まず、必要となればどんなことでも億面なく実行できる。そんな彼にも、二の足を踏まざるをえない一事があった。
 自分に絶対の自信を誇ってはいるものの、誘いを持ちかけて、万一拒まれたらと考えると、そのとき味わう惨めさを想像せざるをえない。そして、いつもそこで止まってしまう。前へ進みでる勇気など、到底持ちえなかった。
 そうこうしているうちに、一向に進展がないのを歯がゆく思ったのほうから、いわばお膳立てしてくれたのではないか。
 そこまで考えて、月は確固たる決意を胸のうちに灯した。頭を振り上げ、乳白色のタイルの敷きつめられた正面を見据える。
「……僕も男だ。に恥をかかせるわけにはいかない」
 恋人の体面を気遣い、意気込む姿は健気でいじらしかったが、惜しむらくは一から十まで彼の勘違いにすぎないという点だった。
 旅行まで残り五日。二人の関係に変化がおとずれるかどうかは、月の勇気と、の出方、そしていくらかの時の運にかかっていた。
 ベッドへもぐったのちも、ひとりでに膨らむ想像に気おされ、悶々とする若者をよそに、夜は静かに更けていった。

「……やっと着いた」
 改札を抜けるなり、ボストンバッグを地面に落とした。どん、と乱暴な音が起こる。
 月はかすかに眉をひそめ、横目遣いにを見たが、文句はつけなかった。
 彼女はがくりと肩を落とし、背筋と胸を楽にした姿勢で、思いきり深く呼吸した。腰と尻がだるく、早くどこかに座りたかった。月を振り返り、こともなげに荷物を指した。
「ごめん。それ持って?」
「……え? ぼ、僕が?」
「きみ以外だれがいるの。旅館までお願いね。マップによると、駅から近いから!」
「無理だよ、僕も自分の荷物あるんだから……。持ってあげたいのはやまやまだけどさ」
 月が断ろうとするのを無視して、歩き出す。荷物は地面に放り投げたままだ。そのまま置いておくわけにもいかない。
 月は恨みがましい目をして、軽やかに歩き進む恋人をにらんだ。自らの若さに期待を寄せることにする。
 ふたり分の荷物の重さが、双肩にそれぞれのしかかった。骨がきしみ、筋肉が引きつる気がしたが、錯覚だと自身に言い聞かせて、のあとを一歩ずつ追いかけた。

 W県、N町。数年前にユネスコの世界遺産に登録されて以来、ますます観光の名所として注目を浴びる地である。伸びやかな木々の恵む自然と、それによって支えられた静寂が心地いい。
「でも、さすがよね」
 は座椅子に腰掛け、おっとりしたしぐさで茶をすすった。熱さに驚き、あわてて舌を引っ込める。冷めるのを待つことにして、湯飲みを卓上に戻した。
「専用の駅があるなんて。世界遺産は優遇されるんだね」
 言いながら、ちらと月を見やる。彼は部屋に入ってすぐの上がりかまちにとどまり、うずくまるのに似た姿勢で、大げさとも思える呼吸を繰り返していた。額に浮かぶ汗の粒を、シャツの袖でぬぐってから、苦しげに返事をする。
「別に……世界遺産に登録されたから、駅が新設されたわけじゃない。旧国鉄だったときから、ちゃんとあそこにあったよ」
「そうなの? でも、特急が止まるじゃない。あれももとから?」
「さあ。そこまでは知らないな。でも、このN町の中心部にある駅だし、多分元からなんじゃないかな」
「中心部なの? ずいぶんのどかね……」
「東京と一緒にするな。マップ見てみろよ、役場があるだろ、近くに」
「別に興味ないからいい」
 そっけなく答えて、温度の下がった茶を口にふくむ。ようやくひと息つけたという思いが起こり、脚をくずして、のんびりできる体勢を取った。
 しかしすぐ立ち上がる。月のそばまで近寄る。
「いや、別に平気だよ。もう体力も戻ったし」
 月は無駄に心配をかけまいと、まだ息が乱れたままなのを隠して、立ち上がった。
 しかし、彼の気配りはなんの意味もなさなかった。
 は月のそばを素通りして、手洗いへ続くドアを開け、入っていった。彼女は手洗いへ行きたかっただけだ。
 そう悟った月は、ひとまず座椅子に移動してから、力なくうなだれた。自分以外部屋にだれもいないことが、彼をふだんよりずっと無防備にさせた。
 額に両のこぶしをあて、頭の重みを支えた姿勢で、暗い声のつぶやきを絞り出した。
「……愛されてる自信が欲しいな」
 年齢に不似合いな奔放さと軽率さ、ときおり見せる思い切りのよさに惹かれて、月は彼女を愛した。だが、肝心の彼女の気持ちが見えないことが多い。
 好きな男の前で身勝手にふるまいたがるのは、世の女性に散見できる傾向なのかもしれなかったが、月の本音としては、彼のためにが心を砕くさまが見たかった。
「何が欲しいって?」
 驚いて首を反らし、頭髪が強く震えるほどすばやく、声のしたほうを振り返った。そこにはがたたずんでおり、彼女はけだるげなしぐさで、しきりに髪の毛先を触っていた。
「……聞いてた?」
 月はおそるおそるたずねた。
 それに対する答えを返さずに、は別のことを口にした。
「除菌シート忘れたから取りにきたの」
 言いながら、上がりかまちの脇に仲居が置いた荷物へ近づいた。バッグのジッパーをずらし、開けた中から除菌シートを取り出す。
 月は怪訝に思って手洗いへ続くドアを見た。
「心配しなくても、俺たちが部屋に入る前に、仲居さんが掃除してくれてるよ」
「それはわかってるけど」
「こんなで出しから神経すり減らしてたら、古道を歩くどころじゃないな」
 ひとりごとを聞かれたのではないかという不安から、つい口調がきつくなった。
 月はあわてて口をつぐんだ。気まずい沈黙を破るべく、何事か話さなければと思ったが、思案を巡らすうちに、のほうから口を開いた。頬を緩め、くちびるの端をにっとあげて、なごやかに笑った。
「そうだよね。こんなことじゃ、愛されてる自信は到底得られないよね」
 ふたりのあいだを、いびつな静けさが流れていった。
 月は眉間を硬くして、不機嫌そうにをにらんだ。けれど、不満を述べるより早く、彼女が口をきいた。
「ちゃんと聞こえなかったふりしてあげたじゃない。月が嫌味なこと言うからいけないんだよ」
 しまいまで言い終わる前に、淡然とした態度できびすを返し、再び手洗いへ向かった。
 残された月は、大きくため息を吐き出した。胸の底にこびりついた敗北感が気持ち悪い。
 彼のプライドの高さは、たとえつまらないいさかいであっても、言い負かされたときの遺恨を大きくした。座椅子とつながったつくりの肘掛にもたれ、手の甲に頬を押しつけた。身体を傾いだ拍子に、シャツの襟が揺れ、若木の枝を思わせる鎖骨がのぞいた。
 喧騒を遠く離れた、澄んだ静寂の中にあって、物思いに耽る少年の姿は、その内にあふれる聡明さもあいまって、絵画に似た、どこか計算された感のある、隙の見えない美しい光景となって、青春のまばゆさを帯びはじめた。
――ちゃんと愛されてるよな、僕……。
 そのつぶやきは胸中にとどめた。いつが戻ってくるともしれない。同じ失態は重ねたくなかった。好きでなければ、旅行の連れに選ぶはずなどない。
 それが月の挫かれかけた自信を立て直した。
 満足げに深々とうなずいて、今回の旅行の目的ないし目標をあらためて認識する。恋人同士のはじめての旅行だ。のほうでも意識していないはずがない。
 しかも彼女は月より年長なのだ。関係を次の段階へ進めるために、旅行を計画した可能性もある。
 月は切れ長の瞳に情熱を秘めて、どことはなしに宙を見据えた。
 ことがことだけに、みっともなく不首尾に終わる事態だけは避けなければならない。最悪、にも恥をかかせる場合があった。
 月はこぶしを握り締め、気合を入れなおす。夜がくるのが待ち遠しいようで、やはり一抹の不安も感じずにはいられなかった。
 一方、は用を足し終え、手洗いを出た。先ほど月と揉めたことなど、すでに忘れ去った様子だ。
 古道の歴史を感じさせる風景や、古めかしくも、厳かであり、同時に清冽なたたずまいをしているであろう神社、それになんといっても、旅館で出されるはずの夕食の味への期待が大きすぎて、つまらないことは思考の外に追い出されてしまった。

 M県からW県にまたがる古道は、古くから鎮座し続ける、格式高い三つの神社へ通じた参詣道として、ひとびとの往来を助けてきた。木々は歩道を挟み、乱立しながらも、雑多な印象を与えない。
 幹や葉の合間からは、日の光が漏れ、差し込んで、石畳を優しく照らした。
「……きれいだな」
 月はぽつりとつぶやいた。歴史や伝統、風情の香り立つ光景を前にすると、素直な気持ちがこみあげ、洗われた心情を覚えるのは、日本で生まれ育ったものに染みついた、性のひとつにちがいない。
 彼は苦笑を漏らしたが、悪い気はせず、もっと別の風景にも出会いたいと感じて、足を踏み出した。
 しかし、後方のが続いてこない。
 彼女は手近なところにあった木に手をつき、その乾いた肌の感触を確かめながら、嫌そうに首を振った。
「もう帰ろうよ」
「まだ少しも歩いてないじゃないか」
「もう十分。次に行こう。いちばん見たかった坂はもう見れたし」
 月は絶句して黙り込んだ。
「……いや、でも、せっかくきたんだから」
 機会を逃してはもったいない。そういった論旨の説得を試みる月だったが、途中で口をつぐまざるをえなかった。
 が手を突き出し、いかにも面倒くさそうに、かぶりを振ってみせたからだ。
「私は別に歴史の勉強をするために旅行にきたんじゃないからいいの。必要ない。日々の疲れを癒しにきたんだから。見学はまた今度、長期休暇のときにでもしましょう」
「……わかったよ」
 月は内心面白くなかったが、ここを訪れたのは、確かにの言うとおり、歴史と触れ合ったり、先人の愛でた風景を観覧したりするためではなかった。
 恋人であるふたりが楽しい時間を過ごし、いい思い出を共有するためだと思いなおして、渋々引き下がる。
「次はどこに行くんだ?」
「滝。滝が見たい」
 歩くのは嫌でも、観光名所には一握の興味を感じるらしかった。
「……さっきバス出たばっかりだから、多分、相当待たされるよ」
 月はスマートフォンの液晶画面をのぞきこみ、あらかじめ調べておいたバスの時刻表を確認しながら言った。
「げ」
 は心底嫌そうに頬をゆがめた。ぞんざいな手つきで頭を掻く。短く息をついたのち、腕を組み、片足に身体の重心を預けて、楽な姿勢を取った。
 そうしながら、バス停で足止めを食うのと、財布が少しばかり軽くなるのと、どちらがいいかを検討する。やがて顔をあげて提案した。
「タクシー呼ぼうか」
 月はタクシー会社の番号を調べ、通話ボタンを押した。

 あれから、が見たいという観光スポットをタクシーでまわった。あたりを散策するあいだは、運転手を車内に待たせておいた。
 最後は旅館まで送らせ、支払いを済ませた。請求された額を聞いて、は表情を静止させたが、気の赴くまま、無計画に長時間走らせたのだから、仕方ないとあきらめる。
「……だからちゃんと計画をたてて、バスと徒歩だけで行こうって言っただろ」
 出立前、月はきちんと行動の予定を組もうと何度も持ちかけたが、はなんとかなると答えて取り合わなかった。
 結果、効率のいいコースや、移動にかかる時間を考慮せず、行きたいところへ、思い立った順でまわったものだから、交通費が膨らんでしまった。
 はしばらく項垂れていたが、部屋へ戻るなり元気を取り戻した。棚からふたり分の寝巻きを取り出してくる。
「温泉入ろう。……温泉でお酒って飲めないのかな」
「悪酔いするぞ」
「ちょっと言ってみただけじゃない」
 そんなふうにやり取りを交わしながら、部屋をあとにする。廊下を数歩進んだところで、月がぴたりと足を止めた。出立前、に見せてもらったパンフレットの情報が、頭を去らない。
 彼はできるだけ平静を装い、なんでもない態度を取りながら、持ちかけた。
「お……お酒飲みたいならさ」
 目は泳ぎ、頬は真っ赤に染まっているので、狼狽しているのは容易に見て取れた。
「家族風呂入らないか?」
「……家族風呂? そんなのあるんだ」
 は興味深そうに月を振り返った。
 彼女が反応を示したのに気分をよくして、月は二、三度軽くうなずいた。しかしまたすぐにうつむき、長い睫毛で、眼底に揺らめく感情を隠した。
「ふたりでゆっくり入れるしさ。もし酔ったら、ちゃんと僕が部屋まで運んであげるよ」
 そう言って、下心など微塵もないのだというふうにふるまう。
 爽やかな笑顔を浮かべ、その下に渦巻く欲求を巧みに隠すことに成功したが、はもはや月のほうを見ていなかった。すたすた歩き出している。
「却下」
 背中を向けたまま、低い声で一蹴した。
「……だろうね。だと思ってたよ」
「じゃ、言わないでよ」
「ごめん」
 なぜ謝らなければいけないのか、いまいちよくわからなかったが、月はついつい頭を下げてしまう。結局、家族風呂につながる廊下へは折れずに、まっすぐ進んで、露天風呂へ別れて入った。
 のれんをくぐるを見送った月は、彼女が薄手の寝巻きを羽織った姿を思い浮かべて、それだけでもう遠路はるばるW県へきた甲斐があったと、しみじみ感じ入った。

 先に風呂を上がった月は、ロビーにある長椅子に座り、が姿を見せるのを待った。
 髪が水をふくんでいるため、いつもより艶が大きく、強くなっている。寝巻きの襟の重なる真上では、胸元がわずかだがあらわになっており、鎖骨や肋骨を覆う皮膚の薄さにくわえ、くすみのない白さがみずみずしく光った。
 髪や肌が女のように繊細で、美しいのに対し、骨格の成長の度合いはすでに少年期の卒業を迎えており、肩の幅や厚みに男らしさが顕著にあらわれていた。
 そのちぐはぐな対比が、一見大人であるようで、まだ子どもであるかもしれない、微妙かつ危うい印象をかもしだし、ロビーを往来するひとの目を引きつけた。
 もうじき夜がおとずれる。そのことに月は思案をめぐらせていた。みっともなく、ちゃんと無事にふたりの時間を過ごせるか、それを考えると不安でならない。もっと経験を積み、場慣れしておくべきだったかと悩むが、あとの祭りだ。
 今夜はすでに目前に迫っている。あれこれ考えに耽っていた月は、が手の甲でのれんを押し上げ、首を傾ぎつつ、姿を見せたのに気づかなかった。
 彼女は幾度か視線をめぐらせた末、ロビーの長椅子の上に見覚えのあるシルエットを見つけ、近寄っていった。
「お待たせ」
 月は突然声をかけられ、少なからず驚いた様子を見せた。肩口がびくりと跳ね、目つきが不安げに曇る。しかしすぐふだん通りの様子に戻って、にこやかにを迎えた。腰を上げつつ、「部屋へ戻ろうか」とつぶやく。
「ねえ、何考えてたの?」
「ちょっとシミュレーションをね……」
「シミュレーション? なんの?」
「い、いや、なんでもない。なんでもない」
 つい本当のことを言ってしまいそうになったので、あわてて目を逸らした。
 幸い、も深くは追及してこない。せいぜいからかいぎみに「怪しいなあ」とこぼすくらいだ。
 危なかった、と月は心身を引き締める。
 醜態を晒す真似だけは、プライドにかけてしたくない。色事に精通していると思われたり、こなれているという印象を持たれるのは嫌忌すべき事態だが、かといってもたつく姿を見られ、幻滅されるのも御免だった。
 いったいどんなムードや会話が彼女の好みにあうか、想像を働かせてみようとしたが、横で肩を並べて歩く当人が、もうじき対面するであろう、夕食の品々に関する話題ばかり持ちかけてくるため、色っぽい気分には到底なれなかった。
 部屋へ戻ったふたりは、座椅子に腰を落ち着けた。そして、湯上りのけだるさに身を任せ、皮膚の下にこもった熱が、ゆっくりと放散するのを待った。
 時計の長針がいくらか移動したころ、仲居が姿を見せた。控えめな足取りで敷居をまたぐなり、その場に座し、丁寧にこうべを垂れた。
「お食事の用意がもうすぐ整いますが、食堂へおいでになりますか。こちらへお運びしますか」
 仲居が視線を月へ向けたので、彼は返答しようとして、ひとまずを一瞥した。意向をたずねかけたが、彼女が面倒くさそうに瞼をたるませるのを見て取って、仲居に向き直った。軽く頭を下げ「こちらへお願いします」と回答する。
 仲居はかしこまって頭を下げた。顔を上げたついでに、もう一度しっかり、年若い青年の、活力に満ちた美しさを目におさめるのを忘れず、挨拶を述べて辞去した。
 は頬骨の位置に手の甲をあてがい、まつげを伏せ、月を見ようとせずに、こともなげにつぶやいた。
「仲居さんのいい目の保養になったみたいね」
「どういう意味だよ」
「月くんにプレゼントってことで、一品プラスしてくれないかなあ、夕飯」
「どれだけ食うつもりなんだ」
「きょうは呑むつもりできたから」
 微妙に話が噛みあわない。
「月くんも呑む?」
「要らない」
 そう断りつつ、内心、ひょっとして少し妬いてるのかもしれない、だから様子がおかしいのかと思い、月はまんざらでもない気分になった。
 さほど間を置かず、さきほどの仲居が、もうひとり別の仲居を連れて戻ってきた。廊下に台車を残し、その上に載せた皿を次々と部屋へ運び込む。ものの二、三分で、食卓には数々の料理が広がった。
 は仲居が去るのを待たずに、グラスと日本酒に手を伸ばし、自分の手前に引き寄せた。酒瓶を持ち上げ、グラスに手を添えたところで思い直し、手を止めた。腰を浮かせ、食卓の上に身を乗り出すと、月に酒瓶を押しつけた。
 そうして彼女自身は座りなおし、グラスを両手で抱えている。月はすぐに意図を察して、彼女の期待にこたえた。グラスに注がれた日本酒は、小さな波を立て、その頂に電灯の光が積もるのを受けた。
「さあ、呑むぞ、食べるぞ!」
 意気込むを尻目に、わざとかろうじて聞き取れる声量で、月はぼそりとつぶやいた。
「おっさんじゃないかまるで」
 は月が悪態をつくのを無視して、グラスにくちびるをつけた。ふだんなら「何か言った?」などと突っかかり、聞きとがめるふりをするところだ。
 うなじを軽く反らし、グラスを傾け、喉を大きく鳴らす。三口ほど嚥下したのち、満足げに息をついた。うっとりした眼差しで、グラスに映る自分の姿に目を凝らす。直後、我に返って、箸を取って掴むと、目の前の料理の群れに向き直った。
 手の動き自体はさして速くないが、休みなく箸を運ぶので、見る間に皿が空っぽに近づいていった。
 月は心中、あんまり腹を膨れさせられると、あとで都合が悪くなるんだけどなと苦慮しながらも、忠告はできずじまいだった。
 やがて彼自身もほそぼそと料理をつつきはじめた。

 嫌な予感はした。予想と換言しても間違えではなかった。にもかかわらず、適切な処置をほどこさなかったのは、日ごろ仕事で疲れる恋人に、旅行先でまで小言をぶつけるのを躊躇したからだ。
「……結局、こうなるのか」
 一時でも、のほうにも心づもりがあると考えた自分がバカだった、そう悔いても後の祭りだ。月は頭を抱え込みたくなった。
 が羞恥とは別の事情で顔を赤くし、月ではなく肘掛にしなだれかかって、機嫌よく笑い声をはずませたのが聞こえて、苛立ちはますます膨らむばかりだ。
「ねーえ、月くん。お酒って日本で、いや世界でいちばんおいしいよねえ。あ、もちろんワインはだめよ。だいたいね、日本人の口にワインが合うはずないの。お酒といったら日本酒。その中でも特に焼酎よ。薩摩切子に注いで飲む焼酎がいちばんおいしいの。どう? 月くんもひと口」
 そうすすめておきながら、グラスを向けるわけでもなく、結局自分で飲み干す。酒臭い息を吐き出し、うつろな目で卓上をぼんやりながめる。
 空になった焼酎の瓶を名残惜しそうに見つめた。一瞬、迷うそぶりを見せたが、端から考えは定まっていたらしい。すぐに月を振り返った。
「月くん、仲居さんに内線! 焼酎もう一本追加ー」
「もうダメだ。これ以上呑むと、明後日までに酒が抜けなくなる」
「そんな堅いこと言っちゃってー。月くんはだいたい、いつも優等生としてふるまいたがるけどさ、そんなの意味ないって、どうしてわからないかな? やりたいことやればいいじゃない。それでなきゃ生きてる意味ないもの」
「欲望に忠実に生きたって、それこそなんの意味もない。人生は忍耐だ。それを悟らずに好き勝手生きた結果、身を滅ぼした人物なんて、古くから枚挙に暇がない」
 はわずらわしそうに横を向いた。だがすぐいたずらっぽく首を傾いだ。何かたくらんでるときの顔つきを浮かべる。身を乗り出し、座布団を降りた。食卓をまわり、月のもとまで膝行る。
 ふしぎそうに彼女を見返す月を見上げ、彼のうなじに手をまわした。途端、跳ねあがる月の心音を確かめるべく、おもむろに胸板にてのひらを押し当てた。
「……そんなこと偉人ぶっちゃってもさ、月くんのここは下心でいっぱいのくせに」
「……そんな、こと、は」
 月がいつもの語気をもって反論できずにいるのを、肯定と見て取り、は満足げに口端を緩めた。首から手を解き、ゆっくりとその場に寝そべる。
 月のあぐらをかいた、その足の交差したところと、股間の合間の空洞にすっぽり頭をおさめた。しかしその体勢ではどうにも落ち着かず、軽く寝返りを打ち、横向きになった。眼球だけをちらと動かし、月を視界の端におさめる。
「本当になんにも思ってない? だとしたら私も……さすがに傷つくんだけど」
 声につやがふくまれはじめた。あからさまに扇情する態度で、月の大腿をゆっくりと撫であげる。
 の急激な変化を、単なる酩酊のせいか、はたまた積もり積もった不満の吐露かを、月は判別できずにいた。持てるすべての理性をかき集め、どうにか押し黙ることには成功する。少しでも気を抜けば、正体不明のの寝巻きを剥ぎ取り、皮膚を重ねてしまいそうだった。
 彼の瞳は情欲と興奮をふくんで、曇りがちにきらめいた。
 平衡を失い、常にぐらつく、極めて危なっかしい状態に追い込まれた月の自制心だったが、さらにが追い討ちをかけてくる。
 彼女は急に真顔になると、不機嫌そうに吐き捨てた。
「ひょっとして怖いの? まさかね、そのルックスだし、私より経験あるんじゃない? ちょっとばかり披露してよ」
「……言ってくれるじゃないか」
 月はついに沈黙を破って、自分の膝からを下ろすと、彼女の真上に顔を伏せた。強引なやり方でくちびるを重ねる。の吐息が震えたのは、喜びのせいなのか、それともためらいのせいなのか、月にはわからなかった。
 だが、ここまできて後退することは、男としての面子にかかわる。意地でも続けたい気持ちが動いた。肩を軽く揺らし、流れる、洗練された動作で、寝巻きを腰の位置まで押しさげる。いかつくもない、かといって貧弱でもない、適度に隆起した胸筋があらわになった。
 いったん膝を立て、に覆いかぶさってから、再びくちづけを再開した。腹筋に力がこもり、臍の形が変わった。
 月は自分の腰巻きを取り去ろうとして、途中でぴたりと手を止めた。鼻腔を酒の強い匂いが通り過ぎたからだ。が正常な記憶力を留めているか、定かでない。いま枕を交わしたところで、明朝が訪れたころには、彼女の中では何もなかったことになっているかもしれない。
 それが月には不満だった。判断力を失った女性の隙を突く行為はアンフェアだ。そこに思いをめぐらせないわけにはいかず、彼はなおも舌を動かし続けたが、やがてくちびるを離した。
 身体を起こす。剥ぎ取るという表現が適切かもしれなかった。そのくらいの思い切りが、月には必要だった。
 は寂しげな目つきをしたが、不平を言い立てることはしなかった。
「……なんてね。嘘、みんな嘘。私、酔っちゃったみたい。先に寝るね」
 返事を待たずに立ち上がり、襖を開けると、その中に駆け込んだ。彼女が蒲団に倒れこむ音がする。しばらくのちに、高いびきが響き渡った。
 いったいなんだったんだと、月は忌々しげに拳を畳に押しつけた。行くあてを失い、膨らんだ欲望を持て余して、彼はしばらく半裸のままうずくまっていた。
 酒瓶の底に少しだけ溜まった焼酎を口にしてみる。苦くて、その上癖がきつく、とても好んで呑む気にはなれない味だ。月は音をたててボトルを置いた。
「僕にはワインのほうが合ってる。……でもは、子どもね、だとかなんとか言うんだろうな」
 返事の代わりか、いびきが寝室から聞こえた。

 これまた予想されたことではあったが、起床がたいへんだった。
 が起きたくないと駄々をこねるのだ。体内で酒の残りが暴れているらしい。しきりに水を飲みたがる。
 月は文句を言いながらも、世話を焼いてやった。生気の感じられない瞳で、仲居に目礼を送り、は荷物を自分で担いでいった。
「持つよ」
 そう月が申し出、手を差し出しても、彼女は物憂げに首を振った。
「いい。きみも疲れてるでしょ?」
 心なしかそっけない。それを二日酔いの苦しみのせいにして、月は恋人を気遣いながら、並んで駅を目指した。
 列車で帰京するあいだ、はひとことも口をきかなかった。月とは別の窓のほうに顔を向け、ひたすら眠る。途中何度か起きても、月が用意しておいたミネラルウォーターを口にふくむと、また寝息を立てることに専念する。
 マンションに帰りつくなり、はソファに沈み込んだ。
 再び睡魔に圧倒されそうになるのを見て、月はあわてて彼女のそばに駆け寄った。
「ほら、寝るんなら着替えて、ベッドの中で」
 起き上がらせようとするのを、は嫌って、抵抗した。頑として動こうとしない。しばらく揉めた末に、がぽつりとつぶやいた。ほとんど思いつきだったにちがいない。
「喉渇いた」
「……じゃ、水持ってくるよ」
「ありがとう」
 月は台所へ移動した。冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注ぐ。
 彼はシンクの前に立ち、のいるリビングには背を向けていた。彼女を視界に入れずに済むいまが、一等適した機会であると思えた。
 彼はできるだけ気楽そうにたずねる。
「昨夜のこと覚えてるか?」
「覚えてるよ」
 間を置かず答えが返った。しかも苦しげに、面倒そうに返事をするのではない。極めて明瞭に、はきはきした口調で答えてきた。
 月は軽くうなずき、途切れた話題の糸口を探った。
「大変だったんだからな。あんな無茶な呑みかた、もうするなよ」
「ひとりのときにはあんな飲みかたしないよ。月くんに介抱してほしかったの」
 茶化すくちぶりになる。その反応を月は歓迎した。が機嫌を損ねているのは、どうやら自分の杞憂らしいと安堵する。
「なんだよそれ」
 そう不満げに言いながらも、悪い気はせず、笑みとともにの前のテーブルにグラスを置いた。
 彼女はうつむいたまま短く礼を言い、冷水を胃に流し込む。ソファの肘掛にもたれかかって、移ろいやすい視線を、どうにか月の顔に定め、意識を奮い立たせた。疲れた様子の笑みを浮かべる。
「ご送迎ありがとう。着替えて寝ますんで、ご帰宅どうぞ」
「ひとりで大丈夫か? ……鍵は僕が掛けておくから。そのまま寝るなよ」
「はいはい、ご忠告ありがとう。きみ最近主婦っぽくなってきたね。気をつけたほうがいいよ、おばちゃん高校生なんてもてなくなる」
 月は笑ってやり過ごしながら、玄関に向かって歩き出した。リビングから見えなくなる前に一度立ち止まって、ソファの上のを後顧した。ふっと気取った笑いかたをする。
「僕は以外にもてなくたっていい。……それじゃおやすみ」
 月の足音が聞こえなくなる。リビングでひとりになったは、手足を伸ばすどころか、余計に縮こまって、孤独そうに膝のあいだに顔をうずめた。声をあらげて、畜生、とここにはいない人物を罵る。
「あのヘタれ、普通あそこまで行って中断できる? あー、もー、自信なくすよ……」
 やっぱりデパートでセール落ちした下着がだめだったのか、いやいや下着すら見せられなかったとぼやきはじめるが、まもなくわずらわしくなって、考えを断ち切った。
 憤慨して息を吐き出しつつソファを離れる。ベッドで好き放題くつろぐことに決めた。そのうち眠くなるにちがいない。
 途中、放ったままにしていたボストンバッグにつまずいた。
 彼女はふと思いついてその場にうずくまり、バッグの中からデジタルカメラを引っ張り出した。手のひらほどの大きさの機械の中には、月と今回の旅行で築くことのできた思い出が、しっかりと刻まれていた。
 自然と歴史の織り成す景観を背に、少し気恥ずかしそうに、けれど満面の笑みを浮かべる年下の恋人をながめていると、彼女は自分も自然と表情が穏やかになるのに気づいた。
「あー、なんかいま、唐突にケーキ食べたくなった」
 建前をわざわざ口に出すのは、そうでもしなければ、素直にふるまうことが難しかったからだ。
 年を取っていいことなどそう多くない。身体は衰え、計算ずくで万事を判断するようになり、がむしゃらさは掻き消え、慎重という大儀の下に、ただ寝そべって酒を煽るだけの日々を送るようになりがちだ。
 しかし、大人にも、必要とされる役割はあるはずだった。いまこそ無駄に育った、つまらない大人としてのプライドを発揮し、寛容にふるまうことが求められている。
――だって終わらせたくないもの。
 それは建前でなく本心だったので、胸の底にしまった。スマートフォンを手に、月に連絡をつける。
「月? いまどこ? そこ五分ほど行ったところに不三家あるでしょ? そこでケーキ買ってきて。ガトーショコラ二十個。嘘、ふたつ。ひとつはきみの分」
 嬉しそうに声色を弾ませながらも、これまた建前上不満を述べてくる月を叱りつける。
「文句言わない! さっさと戻ってくる!」
 そう言い捨てて電話を切る。ソファに腰を下ろした。ふいに胸焼けを覚えて、喉もとを押さえた。
 正直ケーキは食べたくなかったけど、仕方ないな、そう考えをめぐらせた直後、自らの膝を反射的にたたいた。
「ってゆーかケーキじゃなくたってよかったじゃない! ゼリーとか、もっと食べやすいもの、あるでしょ!」
 手にしたままだったスマートフォンの液晶画面を見据え、再び月に向けて発信する。ほんの一、二回のコールで相手が電話に出た。心は十分重なっている。ならその先を急ぐこともない。つまらない意地にふりまわされるのは賢明とはいえなかった。
 ほかでもない、次の段階へ進むのを、月自身が心待ちにしているのはつゆ知らず、彼女はもうしばらく待つことに決めた。
 もうじき甘さ控えめのゼリーが届くはずだ。それでいまのところは満足してやることにした。

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