人でなしの恋

 黒い記帳を手にしたとき、はじめに浮かんだのはきみの名前だった。
 三年目のクラス替えで一緒になったとき、きみの姿を見て、運命だと思った。妄想だと一蹴されればそれまでかもしれない。けれども僕は確かに必然性を感じた。幸い、きみの席と近い席に恵まれた。あらゆる機会を逃さず、僕はきみに言葉をかけ、気にしているのだというそぶりを見せた。けれどきみはいつもわずかに目を逸らし、そう、ちょうど僕の鎖骨の狭間あたりをぼんやりとながめながら、いかにもしかたなしといった態度で相槌を打つだけだった。そんな反応を見るたび、僕は胸の底から濁った熱が湧きあがるのを感じた。それはそっけない対応への憤り、そしてすげなく扱われた事実から起こる羞恥。けれどこれらの感情は、いまになって思い返せば、それなりに女子から高い評価を受けていた、僕自身の驕りが影を落としているにちがいなかった。この僕が好意をのぞかせているのに、頬のひとつも染めないのは何様だという考え方だ。これが極端な男女平等論者――言うまでもないが僕はこの種の学者、提唱者を軽蔑している――の耳に入れば、正座を強いられて、二、三時間は説教を拝聴させられるだろう。そうしたら僕はきっと言い返してやるのに。先生、自分を過大評価するあまり、自分に惹かれない男なんていないと鼻を高くしている女は、この世にいないんですか、と。彼女はそういうたぐいの女ではなかった。それどころか、自信の欠片すら持たない人間だった。反対に怯えるあまり何も主張できず、相手を配慮するあまり自分の形を見失う、そんな人間。ともあれ、僕の気持ちはことごとく跳ねつけられ、袖にされ続けた。当人にとっては悲劇以外の何物でもないこの演目も、傍からみればどこにでもあふれている、陳腐な戯曲でしかない。だってそうだろう? 僕にとって彼女は運命だったけれど、彼女にとって僕は運命ではなかった。ただそれだけの話だ。ありきたりだけれど少なくとも僕にとっては悲劇で、そして僕は悲劇の結末をあっさり受け入れるほど、殊勝な人間ではなかった。僕は徐々に彼女への接触を増やし、かつ露骨にしていく。まもなく僕に一方的な恋情を抱く連中が動きはじめた。僕の目の届かないところで――もっともこれは浅薄な女どもが思い込んでいるだけで、実際には連中の彼女への干渉はすべて監視していた――さまざまな嫌がらせ、当てこすりをはじめる。彼女は凡庸ではあったが愚鈍ではなかったので、すぐに自分への敵意とその原因を悟って、僕と距離を置こうとした。けれども僕は彼女が僕を無視できないのをいいことに、いっそう優しい言葉をかけ、とびきりの笑顔を向けた。とばっちりを恐れた友人が彼女から離れはじめたころ、彼女はようやく、強い決意の滲む目をして僕の前に現れた。僕らは人のこない、最上階の踊り場へ移った。
「夜神くん、あのね」
 気まずそうに切り出すきみ。
「私によくしてくれるのは嬉しいんだ。だけどね、夜神くんは人気者だから、皆が傷つくんだよ。だから、もう、あんまり私に関わらないで欲しいの。嫌なこと言ってごめん」
 瞬間、僕は絶望の滝の真下に立たされた顔で、目を見開いた。かすかに口をわななかせて、彼女の肩をつかんだ。指先に触れたそこはとても細く、その気になれば骨すら砕けそうだった。
「そんな。僕は、きみが好きなんだよ。気づいてるんだろ? 僕がきみを好きなのは、僕の問題で、僕の権利だ。周りが傷つくなんて理由じゃ納得できない」
「そうかもしれないけど」
 まなじりに涙を溜めて、それでもきみは精一杯僕を見上げた。
「そうだけど、でも、私、夜神くんを好きな子に、いろいろね、言われるんだ。それは夜神くんを好きなあの子たちの気持ちが暴走しちゃうからだよ。だから、夜神くんは……」
「言われるって……、何を言われるんだ!? だれに!?」
 激昂して――言うまでもなく演技だ――荒々しい語気で聞き返す。きみは散々迷った末、結局僕の圧力に負けて、口を割った。
「だれかは言いたくない。夜神くんに話し掛けるなんて、図々しいとか、調子に乗るなとか。でも、絶対、根から悪い子たちじゃないんだよ。夜神くんが私に近づいてこなければそれで」
「僕はその子らのアイドルか何かか! 彼女たちの気持ちばかり尊重して、僕の気持ちはどうなるんだ」
「それじゃあ、私の気持ちはどうなるの? もうボロボロだよ。だからお願い、私を好きなら、私のために、もう……」
 ついに飽和した涙が溢れ出し、頬を濡らした。言葉にならない嗚咽をこぼしながら、顔を伏せて震えるきみを、僕は力任せに抱き寄せた。離れようとするのを、強引に繋ぎとめる。
「ごめん。諦められない。でも約束する。絶対もう、きみに嫌な思いをさせない」
「何もしないで! お願い。絶対にやめて!」
 僕が何を言わんとしているのか察したきみは、頭を振り上げるなり、そう叫んだ。けれど僕はそれに何も答えず、きみの身体を離して、きびすを返した。背中にきみの声があたったけれど、無視して歩き去った。このあと取る行動はすでに決まっている。翌日、僕は連中が彼女に詰め寄っている現場に駆けつけ、割って入った。必死に言い繕う――唾棄したくなるくらい見苦しいさまだ――ごみどもを睥睨し、彼女を自分のほうへ引き寄せる。
「ち、ちがうの。夜神くん、誤解してるよ」
「何が誤解なんだ。僕はこの耳で聞いたんだ。夜神くんにこれ以上近づくな? 死ね? 近づいて欲しくないのはきみたちだ。いっそ死んでほしいのはきみたちだ」
 冷たく辛辣な台詞に、きみはあわてて僕の口を閉じさせようと声をあげた。けれど僕は連中を見据えたまま、罵倒の限りを尽くした。これだけ言えば十分だろうというところで、彼女を連れてその場を離れる。きみは泣きじゃくりながら僕の手を振り払った。
「なんで……あんなひどいこと」
「でもきみのほうが傷ついてる」
「私は……夜神くんさえ私を放っておいてくれたら」
「ごめん、それはできない。だから僕は全力できみを守る。たとえ孤立したって、きみを守るよ」
 もともと断り続けるのが苦手で、その種の勇気を著しく欠いている彼女だ。交際の約束を取り付けるのはそう難しくなかった。僕と一度でいいから僕とくちびるを重ねたい、一度でいいから僕の血流を下肢で感じたいと熱望している女たちも、いくらかの利用価値はあったということ――僕を慕っているなら役にたてたのを光栄に思うべきだろう――だ。僕は彼女との関係を積極的に公表し、連中にこれ以上続けたところで不毛でしかないと思い知らせてやった。僕はようやく運命をつかんだことに舞い上がり、そのまぶしさで目がくらんでいた。教室では彼女と会話を楽しみ、休みごとに出かけたり、ひと気のないところで睦みあったりした。けれど興奮がしずまってくると、肝心なことに気づく。僕にとっての運命は、彼女にとっての運命でない。無論、彼女にとって運命でないからといって、僕にとって運命でないとも言えない。だからこそ僕は彼女を諦めず、策を弄して獲得した。けれど眩惑が晴れるたび、僕は悟らずにはいられないのだ。夜神くんの話って硬すぎてつまらないな。夜神くんが私と付き合ってるのは、どうせ気まぐれなんだろうな。いつか別れるだろうし、それまではいいかな。ここまで束縛されるなんてちょっと鬱陶しいな。きみがふとしたときに見せる冷淡さが、彼女にとって僕は必要でないことを意識させた。必要でないとなれば、それはいつ不要になってもおかしくないということだ。彼女は僕がいなくても、僕が欠けても普通に朝を迎え、学校へ通い、いつしか新しい恋を見つける。いいや、そのうち、彼女にとっての運命があらわれるかもしれない。理性派の僕をここまで突き動かした衝動が、今度は彼女を行動に駆り立てることがないなんて、だれがいえよう、どうしていえよう。僕は喪失の恐怖におののき、離別の絶望に怯えて暮らした。それはさながら死神のように僕に取り憑き、僕の心を常に掻き乱した。いつか彼女は僕を振り切り、ほかの男と見交わしあう。そんな日が必ずくるのだ。そんな錯乱した考えに捕われた結果、僕はひとつの願望を抱くに至った。いっそ死んでしまえばいいのに。彼女が生きていても、僕を愛さず、その上ほかの男に寄り添うだなんて、僕にとっては悪夢でしかない。それなら死んでしまえばいい。死別も離別の一種で、究極的には同じ結果だ。声を聞くこともできない。瞳の中に映る僕を見つけ、安堵することもできない。けれど、彼女が死んでしまいさえすれば、僕を愛した思考のまま、彼女の恋は永遠に凍結される。僕以外を見つめる日は来ない。絶対に、来ないのだ。そんな妄想にすっかり脳を蝕まれたある日のことだった。黒い、一冊の記帳を見つけたのは。この記帳に名前を書かれた人間は死に至る――なんてファンタスティックでバカバカしい話だろう!――という。事実なら核より、水爆より、何よりも恐ろしい兵器だ。一瞬のうちに殺傷できる人数は両者に叶うべくもないが――何しろ名前を書き続けるという作業は煩雑だ――証拠が残らない。法で裁かれることがないのだ。万が一逮捕されても、だれがこんな夢物語を信じるだろう。自他ともに認める優等生、最高学府の門をくぐることさえたやすい秀才のこの僕も当然、例外ではない。ふだんなら、平常の僕ならとても信じないし、記帳を持ち帰る気にもなれないだろう。けれど、いまの僕はちがった。狂人さながらの目つきで記帳を凝視する。もしこれで彼女が絶命するなら。彼女がここで人生を終え、これから先僕以外のだれをも愛さなくなるのなら。筆記具を手にした。一字ずつ記してゆく。もはや筆記具を握る手が震えているのが、恐怖のせいかはたまた期待のせいか、自分自身でもつかめない。僕が僕でなくなる。けれど彼女の死を切望し、こうして名前を書き、抹殺しようとしているのもまた、僕なのだ。四十秒、経過した。これは記帳に書かれていた規則のひとつだ。死因や日時を指定しなければ、名前を書いたのち四十秒後に死没する。携帯電話を取り、彼女の番号へ繋いだ。けれど呼び出し音が繰り返し流れるだけで、ちっとも通話ははじまらない。僕は携帯を耳から離した。明日になればわかることだ。
 翌日、彼女が死亡したと、朝のホームルームでしらされる。死因は心臓麻痺。

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