ロング・グッドバイ
つまりあなたは こう訊きたいのですね
駅はどこだ、と
――「ロンググッドバイ」 寺山修司
一列に並んだ吊り革が、床の振動にあわせて小刻みに震えた。まるで、だれかに触れられるのを待っているようだ。
そう思った直後、月は自分らしくない、極めて感傷的な考えだと苦笑した。列車の旅をずいぶん長く続けているせいで、若干感性が湿っぽくなったのかもしれない。
月はいつのまにか寝息がやんでいるのに気づいて、隣りを見た。
思ったとおり、連れはすでに起きていた。背筋を伸ばし、首を起こして、向かいの窓ガラスをながめている。あるいは、郷愁の念に駆られて、列車を降りることまでは望まずとも、せめて窓外の景色を認めたくなったのかもしれない。
けれど天井の電灯のせいで、ガラスが真っ白に発光し、その先の景色はまぶしさの中に掻き消えてしまっている。
「
」
呼ばれて、
はほんの少し顔を動かし、あとは眼球だけを横にずらして、視界の端に月を収めた。ゆっくりと数回、瞬きをする。上下の目縁が触れ合うたび、睫毛がひそやかにざわめいた。あたかもスローモーションで再生された、ビデオ映像のような動きだった。
「……月くん」
は姿勢をくずし、濃紺の布の張られた座席に浅く腰かけた。手を腰より後方へ据え、肘を伸ばして、天を仰ぐ。
瞳がとらえたのは殺風景な天井だったが、それでも、
の真に見たかったのは、遥か彼方に横たわる、空のあの鮮烈な青さであるはずだ。少なくとも、そう月は思った。
「この列車はどこへ行くの?」
月の答えは返らない。かといって無視するつもりはなく、
のほうを見向いた。正確には、
の反り返ったうなじを見ている。
そう大きくない顎を手で包み、そのまま力をくわえれば、簡単にへし折れ、くちびるの端から泡が噴きだすだろう。呪われた空想が、月の脳裏を幾度も行き交う。
彼が
を手にかけることを夢想したのは、今回がはじめてではなかった。ずっと昔、まだ彼らが子どもの時分、それこそ知り合ったときから、繰りかえし思い描いてきた。
別に、
が憎いのではないし、邪魔で消し去りたいわけでもない。ただ、
が自分のもとを去るくらいなら、いっそ殺してしまったほうがいい。それだけだった。
いつでも気後れせず、ひと息に最愛の恋人を殺してしまえるように、暗い衝動を胸の奥底に潜ませ続ける。
「……月くん?」
返事のないのを訝しんだ
が、眉をひそめて声をかけてきた。
月は悠然と
から目を逸らし、正面を向く。分厚いガラスが、まるで壁のように立ちはだかり、視線を厳しく遮断した。
彼は無関心そうに目を伏せる。列車の外の景色など、どうでもよいことだった。
「どこなんだろうな。僕にもわからない」
「そう」
はあっさり引き下がった。それが月にはひどく意外に思えてならない。
いまの問答は、この列車に乗り込んでから、幾度となく繰りかえされてきた。
月にはどうとも答えようがない。話題にするほどの関心も感じなかった。だからいつもわからないと返事をした。
けれど
はここがどこなのか、そしてなぜここにいるのかを執拗に知りたがり、しまいにはあれこれ空想をめぐらせ、答えを適当につくりあげた。そうして自分をごまかしてきた。
だが今回に限って、
は特別なんの反応も示さず、膝を揃えておとなしく座っている。
列車にいつ乗ったか、そしてこれから先どこへ向かうのか、そういった疑問は一抹も覚えない月だったが、恋人のいつもとちがう様子には注意を払わないわけにはいかず、身体ごと
のほうを向いた。
「どうしたんだ?」
「何?」
突然心配されて、
は少なからず面食らった様子だった。ふしぎそうに月を見返す。
「いつものきみなら、さも不安そうに、ああなのかもしれない、こうなのかもしれない、なんて話を続けて、家に帰りたそうにするじゃないか。それが、どうしていまに限ってそんな平然と……」
月はそこで言葉を止めた。自分を見つめる
の目端に、笑みがふくまれているのに気づいたからだ。そんな表情は、いまの場面にとてもそぐわない。
真剣さを挫かれて、月はいささか不愉快になった。息を吐き出しながら、
とは反対のほうを向く。
「月くん」
優しい声で呼びかけてくる。つまらない怒りや意地を見る間に溶かしてしまう、そんな声色だった。
けれど、月もいったん怒って見せた手前、すぐに振り向くわけにはいかない。だからしばらく不機嫌なふりを続けた。
何度か月を呼んだ
だったが、そのうち返事を諦め、勝手にひとりで話しだした。
「思い出したんだ」
「……何を?」
思い出した、という言葉に気を引かれ、月は反射的に返事をしてしまう。
彼にはずっと、甦らせたい記憶があった。この列車へ乗ったときのことではない。ましてや、この列車の行く末を定める線路が、どこへ伸びているのかということでもなかった。取り戻したいのは、もっと別な記憶だ。
「この列車に乗るまでは、ずっと幸せじゃなかった。そのうち、月くんがどこか行っちゃうんじゃないかって、そればかり不安で、なかなか寝つけない夜もあった。本当に怖かった。……月くんは、いつだってひとりちがうものを見ていた。月くんは特別なひとだから仕方ないって、そう思おうともした。いつか手の届かないところへ行ってしまっても、それは、どうしようもないことなんだって、思おうとした。……でも、やっぱり、月くんが好きだから、もし別々の場所で過ごさなくちゃなるんなら、いっそ」
そこで言葉は一度切れた。続けて口を動かしていれば、いったい何を語ることになったのか、月にはわからない。
けれど、
が
を悲しませる何かを恐れていることだけは、理由もなしにはっきりと伝わってきた。
「いまは……」
は幸せそうに頬を柔らかくした。夢を見る表情で、月を振り返った。
「ふたりでひとつの列車に乗っている。行き先はわからないけど、でも、月くんと一緒なんだから、それで平気。この列車がどこへ行くかなんてどうだっていい。そんなつまらない疑問は、丸めてクズかごに放り込んでしまえる程度のものだった。それに気付けたから。……だからもう、質問に答えはいらない。いらないんだよ」
月だけでいい。言外にこめられた思いが、思考の壁や空気を隔てて、月にあまさず伝わった。奇妙な感覚に眩暈を起こしそうになるあまり、彼はふと浮かんだ疑問を、よく意味も確かめないまま口走った。
「……帰りたくは、ないのか?」
は吐息を交えた笑い声を漏らした。
それを耳にした月が振り向くと、鮮やかに色づいた表情をしていた。瞬く間にあたりのくすんだ空気が打ち払われる。
は月の眼底をのぞきこんだ。見透かした物言いをする。
「帰りたいのは月くんのほうだよ」
とっさに何か答えようとして、月はくちびるを動かしたが、一節の言葉も出なかった。
「……僕は」
月はもといた場所、つまり列車に乗る以前に、何かを遣り残してきた。自ら判断して道半ばで切り上げたのか、事情があって中断せざるをえなかったのかは、定かでない。
けれど、ほかの何物をも犠牲にしてでも、やり遂げなければならない何かであるはずだった。
だから、月は帰りたかった。そして、遺恨を無事果たしたら、そのときまた列車に乗ればいい。時間も、距離も、空間も、あらゆる概念が薄らぎ、意味を喪失するこの旅も、
がいるなら、それなりに悪くはなかった。
狭い車内の中、思い出したように短い会話を繰り返す、この色褪せたひとときの連続は、あるいは幸せと換言してもいいのかもしれなかった。
月がずっと背丈が低かったころ、声を弾ませ、何度も名を呼んだ片恋の相手は、いま隣に座っている。あんなにも一途に欲しがり、熱心に望み続けたものが、手を伸ばせば届く場所にいる。
「それでも僕は……新世界を」
唐突に口を突いて出た言葉の意味を、月自身理解することは不可能だった。けれどその一方で、何度も口にした覚えのある、奇妙な懐かしさをはらんだ言葉であるのも事実だった。
「新世界って何? SFみたいなこと言い出さないで」
月がつぶやいたのはほんの一瞬で、その上極めて不明瞭な、くぐもったうわ言でしかなかったにも関らず、
は耳ざとく聞き分けたらしかった。呆れた様子の表情を浮かべている。
「あ、いや……なんでも、ないんだ。多分、本か何かで見た言葉を、偶然思い出したんだと思う。……それだけだ」
月の言い訳を、
はほとんど全部聞き流した。けれども一応、月が言い終えるのを待って、それから口を開く。眉根を寄せ、悲痛そうにくちびるをわななかせているのは、月の目の錯覚が生み出す光景であるはずだった。
「新世界なんてどこにもない。探しても無駄だよ」
「……じゃあ、創り出すとしたら? 自分の手でさ」
はすばやく頭を振り上げ、厳しい目つきで月を見据えた。心底忌々しそうに言い返す。
「そんなバカげたこと考えないで」
なんの前触れもなく、凄まじい剣幕で声をあげる理由が、月には皆目わからない。
はなぜか傷ついた眼差しをして、どことはなしに自身の膝先を見下ろした。
「……だってそうでなきゃ、一体なんのために、月くんの名前を記したのかわからない」
「僕の名前を記す?」
の言う意味が呑みこめず、月は問い返したが、答えは返らなかった。
は顔の下半分をてのひらで多い、鼻をすする。瞳が幾分潤み、切なげに揺れていたが、目じりは濡れていなかった。
だから月はほっと胸を撫で下ろし、なりゆきの掴めないまま、ともあれ恋人をなだめようとして、腕を伸ばした。
の肩を掬い、そのまま引き寄せる。
「泣くなよ」
「泣いてない」
予想通りの反応に、月は思わず表情をくずした。こらえきれずに、笑い声をたてる。
は面白くなさそうに月を一瞥したが、まもなく自分でもおかしくなったらしく、口元の緊張がやわらぐのを抑えられない。やがて月の笑い声に、
のそれが重なった。
ふたりでひとしきり笑いあったあと、一転して
は思いつめた表情を浮かべた。食い入るように月を注視する。
「駅なんて、いらない」
それは未来の否定であり、明日への決別でもある言葉だった。
「……
」
長々と見つめられる決まり悪さに、思わず目を伏せかけた月だったが、すぐに思い直して、
の視線を真っ向から受け止めた。胸のうちに抱えていた思いを、なるたけさりげない口調で伝える。本音をさらけだすのは、いつだって恥ずかしいことだ。
「終わらない旅も、そんなに悪くない。きみとずっと一緒ならね」
は嬉しそうにはにかんで、月に向かって身体を傾けた。目の前の胸板に倒れこむや否や、思い切り抱きつく。
人目をはばからない抱擁に、月はあわてて周囲を見渡したが、すぐに無用の心配だったと知れた。
「だれもいないよ」
の言う通り、彼らのほかにはひとりも乗客がいなかった。端からふたりきりだったのを、月がうっかり忘れていただけだ。
心置きなく、腕の中の一等大切な感触を抱きしめる。彼のたったひとつ望んだものだ。
列車の揺れる音が、穏やかに耳朶をかすめていった。
かがやける世界の滅亡にむかって。