誰かの願いが叶うころ

 一歩戸外へ踏み出した途端、待ち構えていた朝の冷気が皮膚に沁みこんだ。
 月はコートの下の痩身を震わせた。冷えきったアスファルトの上を進む。
 まもなく、友人のひとりと合流した。別段一緒に通学する約束をしているわけではない。偶然会ったときだけ、取り留めのない話をしながら、連れ立って校門を目指す。
 やや歩いたところで、わき道の一筋から見知った顔の女子生徒が姿を現した。彼女のほうでもふたりがいるのに気づいて笑みを浮かべた。
「おはよう」
 彼女はという名で、月とは小学校以来の付き合いだった。
 友人が挨拶を返したあとに、月も続けてひとこと挨拶した。
 再び歩きはじめる。
 はふたりに歩調を合わせた。彼女ともまた、行きしなに出会えば、一緒に通学する仲だった。
「ねえ、昨日発売した本、読んだ?」
 が明るく笑って、新しい話題を持ち出した。ちょうど友人が新刊の出るたび、買い集めている作家の作品だ。自然とふたりのあいだで会話が弾んだ。
 彼らは別に月をのけものにしているわけではなかった。事実、月もときおり話に加わったし、どこからどうみても、学生三人が集って、なごやかに雑談しているだけだ。
 それでも月が疎外感を覚えずにいられないのは、の気持ちがだれにあるかを知っているせいだ。
 彼女が友人の好きな作家の本を購入したのは偶然ではなかった。月から提供された情報をもとに、友人と共通の話題を作ろうと行動した結果だ。
 新作のどの場面が面白かったか、互いの考えを述べ合うふたりを、月は終始にこやかに見守り続けた。けれどやはり、ときおり抑えようもなく、視線に棘が混じりこむ。
 そうした目つきはもっぱら友人のほうに向けられた。の好意を独占できる彼が、妬ましくてならなかった。
「ねえ、月も読んでみたくない? よかったら明日貸すよ」
 の申し出を聞いて、反応するまでに一拍ほどの時間を要した。さりげないふうを装って、彼らとは別の方向を眺めていたが、その顔は嫉妬で大きく歪んでいたからだ。鼻の根元には皺が重なり、眉間はこわばって、両の口角は強く引き下げられていた。
 それでもなお、月の容貌は端正なままだった。表情の動きでは到底左右されないほど、彼の顔の造作は整っていた。すでに完成された美しさは、何物にも覆されることはない。
 月はいったん目を閉じた。短く息を吸い込み、そして吐き出す。たったそれだけの動作が、彼の精神を穏やかにした。
 一転して笑顔になると、を振り返って、快活な声で返事をした。
「僕も一度読んでみたい。頼んでおくよ」
 艶のある前髪が揺れ、そのうちの毛先のいくらかが、睫毛に引っかかった。反射的に瞬きをする。瞼の下に見え隠れする瞳が、冷徹な光を湛えはじめる。表情のない顔をして、おもむろに友人を見た。
 すでに話題は次へ移っており、しきりにと笑い声を重ねている。名前を書くだけで、人を殺せるノートがあればいいのに。そんなことをぼんやり考えながら、月は振られた話に相槌を打った。

 本を扱うテナントに入ると、月はまっすぐ専門書の並ぶ棚へ向かった。
 昨今、青少年向けの軽い読み物や、刺激の強い漫画に押され、専門書や新書のたぐいは、スペースを縮小される傾向にあった。本を専門に扱う店舗でなく、ここと同じ、ショッピングモールの一角を間借りしたテナントならば、なおさらだった。
 資金も、商品を陳列するスペースも、当然のことながら有限だ。売れ筋の商品に力を注がざるをえなかった。
 文芸書はかろうじて目立つ位置に陣取っているものの、その地位も安泰ではない。いわゆる携帯小説が驚異的な売り上げを見せつつあるなど、やはりかつての栄華が復活する兆しは起こりそうになかった。
 専門書はコーナー自体が撤去される日がくるかもしれない。そんなことを考えつつ、今日のところは無事目当ての本を購入できたのに満足して、月は会計を済ませにレジへ向かった。紙幣を渡し、店員が釣り銭を用意する短いあいだ、ふとよそへ視線をずらした。すると視界の端に、何やらいやに明るい、華やかな色彩が映りこんだ。
 店員が釣り銭を手渡してきたので、月はてのひらを差し出して応えた。目は変わらず肩越しの光景を見つめている。
 テナントの中央に、専用のコーナーがもうけられ、そこにお菓子のつくり方を解説した本が、大量に平積みにされていた。広告にはバレンタインとポップな字体が踊っている。
 紙袋に入った本を片手で抱えた月は、面白くなさそうな顔つきで、華やいだ光景を見つめた。
 毎年、バレンタインの時期は憂鬱だった。そのせいで頭からすっかり抜け落ちていた。受け取ったチョコレートの数だけ、翌月に返礼の品を用意しなければならない。しかし、彼の気分を沈ませる本当の理由は、もっと別なことだった。
 用事を済ませたことだし、もう帰ろうかどうか、本屋の店先で逡巡した末、ついでにミネラルウォーターを買って帰ろうと思いついた月は、食料品売り場に方向を変え、歩き出した。
 ちょうど食料品売り場に差しかかったところで、レジを抜けてきたところのを見かけた。
 彼女はすぐに月の姿を見つけて、頬を和らげ、笑みを浮かべた。買ったばかりの商品を、備えつけのテーブルの上で、ひとつずつビニール袋へおさめてゆく。
 月は彼女のいるテーブルに近づき、声をかけた。

「月も買い物?」
「ああ。本屋に行ってきたところ」
 はふうんと相槌を打ち、月の持ち上げた紙袋に目をやった。
「なんの本を買ったの?」
 答えはなかなか返らなかった。不思議に思った彼女が、ビニール袋から視線を上げ、月に顔を向けると、理由は容易に知れた。彼には別の関心ごとがあったのだ。視線をの手元で静止させている。
 彼女は気恥ずかしそうに睫毛を伏せたが、すぐに顔を上げなおした。明るく微笑んでみせる。だがそれは表層的な気楽さでしかない。一皮向けば、不安や緊張が溢れ、激しく渦を巻いていた。
 心に巣くう陰を追い立てようとして、彼女は強いて笑みを大きくした。
「月にも作ってあげるね」
 今度も返答はない。が購入し、たったいま袋につめていたのは、製菓用のチョコレートや、型を取るための容器などだった。
 月はおもむろにを見返す。「月にも作ってあげる」と言ったことの真意を悟れないほど、彼は愚鈍ではなかった。そして、傷ついたからといって、その痛みに任せて、思いの丈をぶちまけるほど、子どもでもなかった。
 額に手をやり、いかにも髪を整えなおすのだといったしぐさをする。しかし、目元が手で隠れ、またあらわになるまでのほんの一瞬、彼は心底つらそうに、ともすれば泣き出すのではないかと疑われるほど、悲哀の差した目つきをした。
 しかし、再びを見つめたときにはもう、軽い笑みを含んでいる。友人としての気軽さをこめ、遅ればせながら、不自然でない返事をひねり出した。
「それは光栄だな。楽しみにしてるよ」
 に月のほどの洞察力があれば、いま目の前で友人が悲嘆に打ちひしがれたことに気付けたにちがいない。そして、おのずと理由も察知できただろう。
 けれど彼女は凡庸な少女だった。どこにでもいる普通の高校生だ。だからこそ月も、彼女を愛したのだった。
 彼女はいっそ残酷なほどの鈍感さを発揮して、優しげに笑った。好きなひとの笑顔が、何よりも月を傷つける。彼にしてみれば、こんな皮肉な話はなかった。
「でも、月はたくさんもらってるし、いらないかな」
 冗談めかして言うのに、月もおどけた調子で応じた。
「いや。きみが思うほどもらってないよ。ほんの十個くらいかな」
「いまさ、うちのクラスの男子生徒ほとんどを敵にまわしたよ」
「敵で結構。味方は信頼できる人がたったひとりいればいいんだよ」
「それは言えてるかも。百人の友達より、ひとりの親友。そんなものだよね」
 彼女はビニール袋を両手で持ち上げた。予想したより軽かったのか、片手で提げなおす。歩き出す間際に、月を振り返って言った。
「私もがんばって作るから、十個もらっても、百個もらっても、ちゃんと食べてね」
「もちろん」
 一緒に帰ろうと誘われたが、月はまだ用事があるからと断った。事実、ミネラルウォーターをまだ購入していない。
 は了解して、ひとりで帰途についた。遠のく背中に目を凝らしながら、月はいましがたの彼女の言葉を思い返した。
「十個もらっても、百個もらっても、食べるさ。……きみのくれたチョコレートだけは絶対」
 毒入りでも構わないくらいだ、と胸中で続ける。両手で抱えきれない量の贈り物をもらったところで、その中に自分を幸せにしてくれる、たったひとつのものが入っていないのであれば、なんの意味もない。
 世界中の不幸が、自分の上に降り注いでいる気分がした。

 黒板とチョークの接する硬質な音が、教壇のほうから流れてくる。
 月はほのかな好ましさを持って、耳を傾けていた。少なくとも、予備校で耳にする、水性ペンの音よりはずっと心地いい。
 まもなくチョークを動かす音がやみ、教師の胴間声があとに続いた。
 月は教壇から意識を逸らす。いまさら学校の教師に教わることなど何ひとつない。提出のときのために、黒板の記述をノートに写しておけば、それで十分だった。
 ふと斜め前の席の友人が視界に入った。成績に不安があると語っていたのは真実らしく、教師の言ったことを何ひとつ聞き漏らすまいとする、凄まじい気概を滲ませている。
 黒板に新しい文字が刻まれるたび、逐一ノートに書きつけ、そのたび教科書を確認している。
 月はしばらく見下す眼差しをしていたが、ふいに別のことに考えをめぐらせた。窓際に腰かけるのうしろ姿を見つめる。
 そうして、しばらく観察してから、再び友人を注視した。容姿は人並みで、お世辞にも頭がよいとはいえず、スポーツに秀でているわけでもない、あんな平凡でうだつのあがらない男を、なぜ彼女が気にかけるのか、月にはまるでわからなかった。
「恋は盲目、あばたもえくぼ……」
 使い古された言葉をぽつり、ぽつりと漏らす。
 しかし、いくら好きになった相手の欠点を度外視しているとはいえ、それは恋をした理由にはならない。月が知りたいのは、自分になくて、友人にはある、の気持ちを引きつける要素は、いったいなんなのかということだった。
 思いつく限り友人と自分の長所と短所を考え出し、細かく分析した上で、比較してみたが、一向につかめなかった。理由はないのかもしれないとも思ったが、月にしてみれば、そんな理不尽な話はなかった。
 自分に足りない何かがあるなら、まだ努力のしようがある。補えば済む話だ。の求める条件を自分もクリアすればいい。もともと友人と比較すれば、自分のほうが優れた男なのだから、彼女も自然と心変わりを起こすはずだ。
 しかし、理由がないとなれば、対処のしようがない。挽回する余地がないのだ。
 月のシャープペンシルを握る手に、自然と力がこもった。自分に比べれば、生まれてこの方努力などしたことのないような男が、当然のごとくの愛情を勝ち得ている。何もかも、あらゆる面において自分より劣った男に、完敗しているのだ。
 それはたいへんな屈辱だったが、一等腹立たしく、同時に情けないのは、いかにもつまらない男を羨み、執着し続ける自分自身だった。また、そうせざるをえない境遇も苛立たしかった。
 かといって、事態を打開する妙案があるわけではなく、をすっぱり諦めることもできない。
 月は目の前を塞がれた思いで項垂れた。机上のノートに目が留まる。何も記されていないページの真っ白さが、わけもなく疎ましかった。
 彼の生まれ持った才が、たゆみない努力の果てに、ほかに大きく水を空ける、豊かな知性へ育った。優秀さは優越感を生み、けして折れることのないプライドへ変化した。
 そしてそのプライドこそが、結局は自分を苦しめ、傷つけているのを、月は半ば悟りながらも、もはやどうにもできなかった。
 突然耳に飛び込んできたチャイムの音が、月を苦悩の連鎖からとりあえず引きずり出してくれた。
 とても気が乗らなかったが、次の授業がはじまるまでに、黒板の内容をノートに書き止めておかなければならない。疲労のあらわな表情を浮かべながらも、ペンを持ち直した。

 夕食を摂った直後は、胃の満たされた感覚が、却って勉強への集中を妨げる。
 それに月のほどの秀才であれば、必死になって机にかじりつく必要性も、あまり感じられなかった。
 こうした理由から、彼は居間でソファに腰かけ、家族とともにテレビをながめていた。テレビの画面には、粧裕の趣味で、音楽番組が映し出されている。
 煮詰まっていた事件の捜査に展望が開けたのか、今日は総一郎も早めに帰宅し、一家団欒のひとときを過ごしていた。
 彼は興味深そうにテレビを眺め、楽曲を熱唱するアーティストについて、粧裕から厳しい授業を受けていた。
「お、これは父さんも知ってるぞ。米津……米津……なんだったかな」
「米津玄師! 紅白も出てたじゃない」
 すかさず粧裕が補足する。
「そうか。……ううむ。サザンオールスターズくらいまでなら、父さんにもわかるんだがな」
「あなた、最近の曲は知らないでしょ?」
 横から幸子が口を挟んだ。
 総一郎は驚いた顔をして振り返った。
「お前は知ってるのか?」
「あなたよりはね」
「そ……そうか」
 完全にひとり取り残されてしまった。
 総一郎はなにやら考え込む様子を見せ、神妙そうにうなずいた。
「やはり仕事一筋というのもよくないな。もう少し、ほかのことにも関心を持たないと、粧裕たちとの共通の話題がなくなってしまう」
「そうだよ、お父さん。じゃあ、次、このアーティストは?」
「う……いや、ちょ、ちょっと待ってくれ。これは確かに知っている。ラジオで聞いたことがあるんだ。名前……名前は……」
 真剣な面持ちで、乏しい記憶を探りはじめる。
 そんな父の姿を、目の端に笑みをふくんで、暖かく見守っていた月だったが、ふいにチャイムの音が聞こえて、玄関のほうを振り返った。幸子が腰をあげかけたのを遮り、来客の応対に向かう。
 居間を抜ける際、またしても総一郎が苦しげに唸るのが耳に入って、思わず笑いを噛み殺した。
「こんばんは。月」
 片手をあげて挨拶したのは、だった。
 彼女の家はごく近所にある。上着を羽織っていないことから、どこかのついでではなく、直接たずねてきたらしかった。
 月が用件をたずねつつ、ひとまず中へ招きいれようとするのを、彼女のほうで断った。
「別にここでいいよ。すぐに終わるから」
 そう言い終えるのと同時に、後ろ手で持っていた紙袋を差し出した。
 薄い桜色の紙を用いた、悪趣味でない程度に少女らしい袋だった。
「バレンタインチョコレート。一日早いけど、渡しておく」
「……ありがとう」
 月は自分がさりげない口調で話せているか、いまいち自信がなかった。うろたえる真似だけはしたくない。少しの醜態も見せまいと、全身全霊をかけて、一挙一動を制御し、平静を装った。
 は歯を見せずに笑い、軽くうなずいて、それを返事とした。
「来月のお返しは……」
「明日ね……」
 口を開いたのはほぼ同時だった。ふたりともいったん言葉を呑みこんだが、沈黙は長続きしなかった。
 月に視線で促されて、が先に言い直した。ぎこちなく頬を緩める。
「明日ね、告白するつもり。彼に」
 月の顔から表情が失せた。笑えばいいのか、困惑すればいいのか、一体全体どんな面持ちをすれば、自然にこの場を切り抜けられるのか、いまの彼にはわからなかった。
 目の前の友人の異変には気付くことなく、はさらに話を進めた。
「うまく行くように祈ってて」
「……ああ。もちろん」
 ほんの短い、承諾の言葉を吐き出すのに、月はかなりの気力を必要とした。かろうじて笑顔を作るのには成功したものの、瞳が切なげに揺らぐのだけは、どうにも抑えようがなかった。
「それじゃあね。ご飯どきにごめん」
「気にするなよ」
 が門扉を抜けるのを見送り、屋内に戻った月は、ドアを閉めるなりその場にしゃがみこんだ。長い脚を玄関に投げ出し、背中を真後ろのドアに預ける。
 立てた膝の上に肘を置き、うつむけた額に手をあてがった姿勢で、陰鬱そうに吐き捨てた。
「しっかりしろよ、僕……」
 明日にはもっとつらい体験を経なければならない。こんなところで立ち止まり、あまつさえうずくまって、悲嘆に暮れている暇はなかった。
 諦念の色濃く滲んだ顔を上げる。
 ふと、靴箱の上に置いてある、電池式の時計が目に入った。時が凍りついてしまえば、明日も永遠におとずれない。
 そのほうがいいとさえ感じつつ、月は重い身体を懸命に引っ張り上げた。

 太陽はいつも通り東の空に姿を現した。月の心情など一顧だにしない。
 鮮やかな快晴の青さも、いまの彼の物憂い瞳には、くすんだ灰色にしか映らなかった。絶望感を背負い込んだ表情で、自宅をあとにする。さほど鋭くない幸子や粧裕でさえ、心配してあれこれたずねてくるほどの沈みようだった。
 月はいつ決定的な瞬間がおとずれるか、内心怯えながら授業を受けたが、いつまでたってもの様子に変化は起こらなかった。
 彼女が友人に声をかける気配もない。何も起きずに、今日という一日が過ぎるのを期待していたが、そんなに都合よくことが運ぶはずはない。
 放課後になり、掃除当番の月は、彼が担当する場所へ向かった。の動向が気にかかったが、まさか一日中追跡するわけにもいかない。
 彼にしてはめずらしく、うわの空で適当に清掃を済ませ、用具をロッカーに放り込んだ。一緒に掃除した連中と互いをねぎらいつつ、荷物を取りに教室へ向かう。
 途中、背後で足音が聞こえたかと思うと、いきなり二の腕をつかまれた。突然のことに驚いて、勢いよく振り向いた。
 相手がだれなのかを確認し、それがわかった途端、彼は目を見張った。緊迫した面持ちでくちびるを引き締める。
?」
「……ごめ……ん。月、ちょっと……いい?」
 彼女は月とともに行動していた、クラスメートの目を避けたい一心で、さきほどからうつむいてばかりいる。
 理由はたずねずとも明白だった。言葉の節々が震え、声が弱々しく湿っている。
「当たり前だろ。……こっち来いよ」
 この場では何もたずねることはせずに、の腕を月のほうから掴みかえすと、返事を待たずに連行した。もっとも彼女も抗わず、されるがままになっている。
 しばらく廊下を進んだのち、目についた教室に飛び込んだ。だれもいないのを確認して、と向き直る。
 彼らが入ったのは音楽室だった。担当の教諭が鍵を閉め忘れたのか、はたまた席を外しているだけなのか、いずれにせよ、隣接する準備室に人の気配はなかった。
 はすっかり青ざめた顔を上げた。額や頬の皮膚の色に、生気が感じられない。
 月は彼女が泣いているのではないかと思っていた。けれど、瞳にも、目じりにも、水滴は見当たらなかった。
 やがて、彼女は重い口を割り、事情を打ち明けた。発したのは、たったひとことだったが、それ以外になんの説明も必要なかった。
「……だめだった」
 月は長い沈黙を挟んだあと、重々しくうなずいた。抱きしめたい衝動をこらえながら、二、三回うなずいてみせる。
「そうか」
「うん」
 彼女のためにできることはなんだろう、そうぼんやり考えながら、陳腐な慰めの言葉はなんの役にも立たないと、口を開くのは自重していた月だったが、ふと違和感を覚えて、思わず声を出した。
 彼の視線は、の力なく垂れ下がった手先に向けられている。
「……それ、どうしたんだ?」
 は一瞬質問の意味がわからず、怪訝そうに顔を上げた。だがすぐに彼のたずねようとしていることを察して、陰の滲んだ睫毛を伏せた。色味の感じられないくちびるを噛み締める。
「受け取ってもらえなかった。……ほかに、好きな人がいるんじゃないかな、多分」
 後半のほうはてんで聞いていなかった。月はすぐさま駆け出すと、音楽室をあとにした。すれちがう生徒を寸でのところで交わし、どうにか衝突を免れながら、なおも疾走した。
 大きく腕を振るい、息を切らして、切れ上がったまなじりに厳しさを滲ませる。ときおり首をまわして、あたりを見まわした。
 出し抜けに走り出した彼を、あとからが追ってきていることは、まるで気づいていなかった。後ろを振り返るだけの冷静さも、余裕も存在しなかった。
 やがて、月は階段を下りたところで立ち止まった。鋭く尖った視線を走らせ、ひとりの人間の姿をとらえると、強い意志のこもった眼差しで射抜く。
 相手はただならぬ空気を察して、怯えた表情を浮かべた。
「……月。いったいどうしたんだよ」
 そうたずねたのは、の思いびとであり、月の友人でもある男子生徒だった。
 月は答える必要はないとでもいいたげに、有無を言わさず拳を振り上げた。体重を前傾させ、全力で殴りつける。
 友人と同行していた別の男子生徒が、突如として起こった暴力沙汰に、驚いて声をあげた。
 仲裁が入るまもなく、月は倒れこんだ男子生徒の胸倉をつかみあげると、空いているほうの手で、再び一撃をくらわせた。
 両の頬に拳固を見舞われ、赤紫に変色させた友人は、いてもたってもいられず、錯乱した口調で叫んだ。
「な……なんだよ!? いったいなんだってんだよ!?」
 月ははじめて口を開いた。
 それと同時に、ようやく追いついたが、階段を駆け下りてきた。
 月のよく通る声が、廊下に力いっぱい響き渡った。
「お前、それでも男か? 女に恥かかせるな。バレンタインのチョコレートくらい受け取ってやれよ!」
 友人の視線がぶれた。左に右に揺れ、そうした果てに、再び月を見つめ返す。ようやく合点のいった様子で、黙り込んだ。
 なおも殴りかかろうとする月の肩に、脇からがしがみついてきた。髪を振り乱して、声をあげる。
「月! 何やってるの!?」
「……
「こんなことしてもらっても何にもならない」
 力強く言い切った。月の瞳をのぞきこみ、そこから戦意が喪失するのを待って、は気まずい様子ながらも、友人のほうへ近づいた。しゃがみこんでいる彼に、背中を屈めて、声をかける。
「平気?」
「……大丈夫」
「保健室行ったほうがいいよ」
 そう勧めたが、同行しようとはしない。未練を残していると相手に思わせないための、彼女なりの気遣いだった。
 友人は同意し、連れにともなわれ、保健室へ向かった。
 はうんざりした様子で月を一瞥した。
「ちょっと来て」
「……ああ、うん」
 好奇心をもって騒動をながめていた、周囲の連中の視線を痛いほど感じながら、ふたりは階段の前から姿を消した。音楽室へ引き返す。
 幸い、まだ教諭が戻ってきた形跡はなかった。
 はこめかみにてのひらを添え、頭痛をこらえるしぐさをした。
「振られたのが噂になったらどうしてくれるの?」
「……ごめん」
「あんなことして、私が喜ぶとでも思った?」
「……ごめん」
 同じ言葉しか繰り返さない月を見て、は不満げに眉間を硬くした。視線を険しくする。
 けれど、それは長続きしなかった。すぐに表情を和らげ、短い息を吐き出す。怒りを長引かせるつもりはなさそうだった。
「もういいよ。いまさら言っても仕方ないし」
 は両手を前に突き出し、肩甲骨を覆う筋肉をぐっと引き伸ばした。すとんと腕を落として、晴れやかな表情を浮かべてみせる。軽快な動作で月の肩先を叩いた。
「帰ろっか」
「……待てよ」
 肩に触れた手を、そのまま月は握り締めた。とっさにが腕を引っ込めようとするのを、許さない。
 きつく掴んだまま、彼は真剣みを帯びた視線を伸ばし、臆することなくを直視した。
「何?」
「こらえるなよ」
「……なんのこと?」
 さっぱり意味がわからない。そう言いたそうに、は肩を竦めた。
 彼女が気丈にふるまおうとするのを無視して、月はきつめの口調で問い詰めた。
「泣きたいくせに、どうして我慢するんだ」
 の手を自分の胸元へ引き寄せ、いっそう強く指を絡ませる。たった一度だったが、彼女がびくりと身を震わせたのを、月は敏感に察知した。
 彼女は押し黙ったが、自分に向けられた視線の執拗さを感じ取って、眉を垂らした。困惑のあらわな面持ちになる。
「……だって仕方ないじゃない。泣いたって、彼が慰めにきてくれるわけじゃないし」
 考えた末に、そうつぶらきを漏らした。月の真摯な視線に、強がりを突き崩される。
 はいつかの月と同じに、髪を掻きあげるのに似たしぐさをした。額の位置で手先を止め、目元を覆い隠す。首から肩にかけてのラインが、おもむろに、小刻みに震えだす。鼻をすする音がした。
「……泣かせないでよ」
 限界まで張りつめていた糸が、音をたてて切れてしまった。
 はうなじを垂らし、顔を背けて、次から次へと涙をこぼす。
 彼女は固くくちびるを引き結んだ。そうでもしなければ、嗚咽がこぼれ落ちそうだった。
 が声を押し殺してなくさまを前にして、月は何もできない無力感に苛まれた。涙を止めるすべすら持たない自分が情けなかった。
 ここに至って、彼は自分の中に、を悲しみから救い出したい、すべての苦痛を遠ざけてやりたいという思いが息づいているのに気づいた。
 いままでの自分は、いつも何かに憤り、八つ当たりにも似た激情をぶつけていたのに気づく。振り向く気配すら見せないに、彼女に愛された友人に、そして他人を羨むことしかできない自分に苛立っていた。
 けれどいま、月の内側からあふれ出た、静かで優しい性質の感情が、彼の全身を、それこそ爪先までを満たしてゆく。
 ただ好きな人の姿を胸に刻み込み、その面影を抱くことが、ひとを愛し、慈しむということだ。あれほど強固に彼を覆っていた、プライドや屈折した劣等感は、すでに影も形も見えなくなっていた。
 おそらく、さきほど友人に殴りかかったとき、その衝動的な感情の働きが、つまらない体面を奪い去っていったにちがいない。いまなら心の底から、だれに恥じることも、気兼ねすることもなく、を愛していると断言できそうだった。
 月はゆっくりと顔を上げた。を見つめる瞳には、打算も、恐れも浮かんでいない。彼女を大切に思う気持ちだけが感じられた。
「……来年も、チョコレートもらえるかな」
 は苦笑いを浮かべた。てっきり月なりの気遣いだとばかり思い込み、軽くうなずいて承知した。歩き出した彼女の耳朶を、予想外だにしなかった言葉がかすめてゆく。
「できれば本命がいい」
 これにはもうろたえ、ぴたりと歩くのをやめた。
 けれど、振り返ったときには、すでに月は歩き出していた。彼女のすぐそばを横切り、音楽室の戸口をくぐった。
 去り際に、もうひとことだけ残してゆく。
「返事は、来年まで待つから」
 月が言ったことの真意を、が正しく読み取るまでには、しばらくの時間を要した。
 ようやく一握の冷静さを取り戻し、告白されたのだという事実を受け止めた彼女は、ぎこちない足取りながらも、はじめの一歩を踏み出した。廊下に出て、ガラス戸を抜ける。すると、戸口のすぐ隣で、月が待っていた。
 を見つけると、澄んだ瞳に優しげな光を灯した。壁に背をあずけるのをやめ、その場に立ちなおした。彼女に向かって笑いかける。
「帰ろう」
 は返答をわざと遅らせた。月が不安そうに首を傾ぐのを待って「今日、掃除当番だってこと忘れてたよ」と言った。
 いまさらながら、ふたりは連れ立って、彼女が当番を任されている、一階の廊下へ向かった。

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