プライド

 ほかにだれもいない講義室で、二人の男女が向き合っている。
 女――の頬が赤いのは、窓から差し込む夕日のせいではなかった。
 正面に立つ男の顔を見上げようとして失敗し、胸元から顎にかけてのラインを視線でなぞる。
「あ……あの、ね、夜神くん」
「ん?」
 呼び出されてからしばらく近く経つのに、話を切り出そうとしないに苛立つ様子も見せず、夜神月は淡く微笑んだ。
 夕日を受けた彼の髪が橙に輝く。
 その光を視界から消そうとして、はうつむいた。彼の姿はまぶしすぎる。
「私、夜神くんのこと好きなの」
 口早に言い切ってから、小さく息をつく。安堵と放心のあいだをさまよいながら、おそるおそる月を見上げた。
 彼は表情を少しも変えなかった。笑顔のままだ。しばしの沈黙を挟んで、口を切る。
「うん、ありがとう。さんみたいな子からそう言われると、嬉しいよ」
 の胸の底から湧きあがった熱が、たちまち目頭まで駆けあがった。泣きそうになるのをなんとかこらえて、強ばった笑みを月に向けた。
「ありがとう。私も、夜神くんからそう言ってもらえて、嬉しい」
 これで十分だった。交際は望まない。好意を伝えることができて満足だった。
 は「それじゃあ」ときびすを返し、すぐさま歩き出そうとする。戸口に差し掛かったところで、呼び止められた。
さん」
「え、あ、何?」
 月はその場から笑いかけた。優しい表情だ。
 赤い夕日が彼の姿を縁取り、シルエットの美しさを際立たせる。思わず目を引かれる光景だった。
「明日から、一緒に講義を受けよう」
「え?」
 月が何を言っているのかわからない。
 聞き返すに、彼は眉を垂らして、若干幼い感じのする笑みを浮かべた。
「ひどいなあ。告白されたと思ったのは、僕の勘違いだった?」
「……え? あれ? 私、ふられたんじゃ」
「そんなこと一言も……。ちゃんと嬉しいって言ったじゃないか」
 の脳裏に、さまざまな疑問が一瞬のうちに生まれ、また消えてゆく。彼女は混乱を落ち着けようとして、胸に手を押し当てた。大きな鼓動が響く。深呼吸を繰り返すうちに、現状が呑み込めてきた。喜びより恥ずかしさが先行し、何を言えばいいのかわからない。
「あ……えっと、夜神くん」
 とりあえず名を呼ぶと、月は一歩進み出た。そのまま、のほうへ近づく。
 彼女は思わず目を瞑った。期待と不安が交錯する。
 しかし、月はあっさり彼女を横切り、一人廊下へ出た。
 すれ違いざま言い残された、「また明日」という言葉を噛み締めながら、は広い講堂でひとりたたずんだ。

 思いがけずして始まった交際は、本人だけでなく周囲も驚かせた。
 目立つ月に憧れや恋心を寄せていたり、彼にふさわしいのは自分だけだと奇妙な自負心を持つ者もおり、彼女らは皆少なからず衝撃を受けた。
 中には中学生さながらの嫌がらせをはじめる者もあったが、はまったく気にしなかった。ひとの妬みは消えない。
 二人は一緒に学食を利用し、並んで講義を受けた。
「ねえ、夜神くん」
 講義のはじまる前、はほかの学生の迷惑にならないよう、ひそめた声で話しかけた。返事はない。
 月はこれから使う教科書をぼんやりとながめている。もう一度名前を呼ばれて、ようやく反応を示した。
「ん? 何、さん」
「今度の日曜って空いてるかな?」
 付き合って三週間になるが、一度も校外で会っていない。
 月は「ああ……」とつぶやきながら、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ごめん。その日はちょっと」
「そっか。じゃあ、土曜は?」
「うーん、土曜もちょっと難しいかな。また、こっちから連絡するから、待っててよ」
 笑顔で断られ、はついうなずいてしまう。これまでに何度か誘ってみたが、すべて断られ、月から電話がかかってきた試しはない。彼女が連絡すると、いかにもたてこんでいるのだという空気を匂わせ、用件を急かしてくる。よそよそしいのはまだ慣れていないためだと。そう自分に言い聞かせるのも、そろそろ難しくなってきた。
 は講義を聞き流しながら、上の空で思案をめぐらせた。
 なぜ月は、自分と付き合っているのだろう。本人に聞くよりほかに答えを知る由もない問いを、講義のあいだ中ひたすら考え続けた。

 適当に理由をつけ、と離れた月は、周囲に見知った人間がいないのを確認してから、携帯電話を取り出した。やはり、弥から着信がある。
 かけ直さないとあとあと面倒だ。家に押しかけられると厄介だった。
 一回目のコールが終わらないうちに、弥の嬉しそうな声が響いてきた。
「月! 電話くれてありがとう、嬉しい」
「海砂、大学にいるときは電話してこないように言ってるだろ。何かあったのか?」
「うん、ちょっとね……。実は大学にいる知り合いから、月が浮気してるって聞いて」
 月は一瞬息を止めた。なんとかごまかすか、切り抜けるかしなければならない。
「いや……それは」
「やっぱり浮気してるんだ! 絶対やめてっていったのに」
 弥は一気に勢いづいて、言い立ててくる。どうやら鎌をかけられ、まんまと口を割ってしまったらしい。
 内心悔やみながら、月は海砂をなだめにかかる。
「海砂。言っただろ? ほかの子とも会うようにしないと、きみへの疑いが濃くなるんだ。大丈夫。彼女とは何もしていないし、するつもりもないよ。あくまでポーズだ」
「うん、わかった」
 存外、あっさり納得した。意外に感じて、月のほうから「ずいぶん物分りがいいな」などと言ってしまう。
 海砂は面白くなさそうに答えた。
「そりゃ、悔しいし、嫉妬しちゃうけど……。海砂は月を信じてるから、大丈夫! ちゃんと話してくれたのが、海砂一筋っていう何よりの証拠だもんね!」
「ああ、そうだよ。海砂、愛してる」
「えへっ、海砂も!」
「じゃあ、もう切るから」
「お勉強がんばってね!」
 弾む口調で別れを告げ、電話を切る海砂。
 機嫌を損ねずに済んでよかったと息をつき、月はもうひとりの女を騙すべく、待ち合わせ先へ向かった。

 月の態度は、交際から一ヶ月経過しても、相変わらずだった。
 ふたりで出かけたことは一度もない。彼女より、女ともだちといったふうに接してくる。
 の悩みは深くなるばかりで、最近月と過ごしていても、むしろ彼女のほうが退屈そうだった。
 学食で向かい合って腰かけながら、めずらしく月が心配そうにのぞきこんできた。
「どうしたの?」
「……ううん、別に」
「ぜんぜん食べてないじゃないか」
 食が進まないのを不思議に思ったらしい。
 気にかけてくれるのは、自分を好きだからだ。そう無理に納得しようと努めながら、はぎこちなく笑った。
「大丈夫。あんまりお腹空いてないだけ。……心配してくれてありがとう」
「え?」
「……心配してくれてありがとうって。なんか変なこと言った?」
「いや……別に」
 月は決まり悪げに睫毛を伏せ、残りの食事を片づけにかかった。
 も少しは口に運ぼうとするが、噛んで飲み込むまでの一連の行動が億劫に思えて、なかなか食べる気になれない。
 結局、ほとんど残すことにした。水を入れに席を立ちかけた月を、がとどめた。代わりに自分が腰を上げる。
「私が入れてくる。待ってて」
 自分のコップも手に、ふたりぶんの水を用意して戻ってくると、テーブルには見覚えのある男がいた。
 梳かした形跡のない黒髪に、不健康に青白い肌。目の周りを縁取る黒ずんだ皮膚が不気味だった。
 しかし月の知り合いらしく、何やらふたりで話している。
 ときおり月が笑い声をたてていることから、友人らしい。
 は男の顔をどこで見たか思い出そうとしているうちに、彼のほうでこちらに気づいた。ただでさえ大きな目をいっそう見開き、じっとをながめてくる。
「すみません。邪魔をしてしまいました」
「……え? あ……いや、その……ああ!」
 は脳裏にひとつの顔を見つけて、思わず声を上げた。
「流河くん、だったよね。同じ学年の」
「はい。あなたはさん。月くんのガールフレンドですね。はじめまして」
「……どうして、私の名前を?」
 月が話したのだろうかと思い、そちらを見やると、彼が口を開くより先に、流河が答えた。
「記憶力には自信があります。特にかわいい女性の顔と名前を覚えるのは得意です」
「え……や、やだ、かわいいだなんて。もう、流河くんったら」
「どうぞ、立ち話もなんですから座ってください」
 流河に促がされて、さっきまで座っていた席におさまる。
「……おい」
 月は不機嫌そうに片眉を上げ、流河を斜視した。
「はい、なんですか?」
「どうして流河がさんの隣りに座るんだ?」
 流河は確かにの横に腰かけていた。
 彼は「ケーキでも食べましょうかね」とひとりごちたあと、月を見返した。
「月くんは男と並んで座る趣味があるんですか」
「そういうことを言ってるんじゃない。さんは僕の彼女だぞ。普通、彼女が僕の横、流河が向かいだろ」
「細かいことを言いますね。彼女が月くんの向かいに座ったんですよ。この時点で私の選択肢は三つ。月くんと座る、さんと座る、どちらにも座らない。三つ目は寂しいので除外して、残るふたつ。月くんならどうしますか、男と座りますか?」
「……もういい」
 突然の応酬に呆然とするに、流河がほんの少し穏やかに言った。
「安心してください。私は男より女性が好きですが、紳士ですので妙な真似はしません」
「大丈夫、そんな心配はしてないから」
 が考えたのはそんなことではなかった。自分に無関心なのではと疑いたくなる月が、なぜあれほどむきになるのだろう。単にふざけてみせただけなのか、それとも自分を少しは大切に思ってくれているのか。
 後者であって欲しいと感じながら、ちょうどケーキを注文し終えたところの流河に話しかけた。
「流河くんって、首席入学なんだよね。そんな人と知り合いになれて嬉しい」
「僕も首席だ」
 月が眉間を強ばらせ、割って入ってくる。
 はそんな彼の態度こそ、自分への愛情の証だと感じて、嬉しく思った。自然とくちもとがほころぶ。
「そうだね。夜神くんもそうだった。ずっと一緒にいると、そういうことつい忘れちゃうんだよね」
 月はまだへそを曲げているらしく、視線をよそへずらした。
 流河は月を放って、との会話を続けた。
「私もあなたみたいなかわいらしいかたと知り合えて嬉しいですよ」
 そんな賛辞を、表情ひとつ変えずにあっさり口にする。
 はさすがに気恥ずかしくなり、頬を赤くしながらかぶりを振った。
「もう、そんなことない。おだてても何も出ないよ」
「いえ、おだてではなく、本心です」
さん」
 月は唐突に席を立った。薄っぺらの微笑を浮かべて、と流河を交互に見る。
「僕はもう食べ終わったし、先に行くよ」
 言い捨てて、返事を待たずに歩きはじめる。途中、に名を呼ばれたが、聞こえないふりをした。鼻に皺を寄せる。所有物にちょっかいをかけられるのは面白くない。しかしこのまま流河の注意が彼女に逸れれば、月にとっても悪くない展開だった。

 学食で顔を合わせて以来、流河はよくに声をかけるようになった。しかも、狙い定めたかのように、彼女が一人でいるときにくる。
 も邪険に扱うのは気が引け、別段嫌なわけでもなかったので、愛想よく口をきいた。
 月ははじめのうちこそ、二人が頻繁に話しこむのを快く思わない様子だったものの、最近ではほとんど介意しなくなった。まったくの無関心だ。
 嫉妬されることで、月に愛されているという感覚を得ていたは、彼が自分をどう思っているのかまたわからなくなる。表情の曇った日が続いた。
「どうしたんですか?」
 歩くうちに、また悩みだしてしまったらしい。驚いて、声のしたほうを振り返ると、そこには流河がいた。あいかわらず猫背で、目の下には隈がある。
「え? えーっと、別に。なんでも」
 答えながら、あたりを見まわす。図書室へ行くはずが、まったく別の、校門のほうに向かって進んでいた。
 乾いた笑いをたてて、この場を取り繕う。
「流河くんこそ、どうしたの? いつにも増してすごい隈だよ」
「最近、いろいろと忙しいんですよ。だれか時間を売ってくれませんかね」
「何かバイトでもしてるの?」
「いいえ、していません」
「そうだよねえ……。流河くんって、すごい車でいつもきてるし、お坊ちゃまっぽいもんね。女の子いっぱい寄ってくるでしょ? 上手くすれば玉の輿だもん。高学歴で、おまけに優しいし。彼女になる人が羨ましいな」
 月に愛されている自信のなさから出た言葉だった。表情にも陰が差す。
 流河は長い首を伸ばし、の顔をのぞきこんだ。自然と見交わす形になる。
「本当ですか?」
「え?」
「本当に羨ましいと思いますか?」
「え……ええと」
 流河の瞳は、夜空を映す湖を思わせる。底知れぬ深さを想像させる色合いだ。
 永久に日差しの届かない湖底に、引きずり込まれる感覚に襲われたは、なんとか目を逸らそうとするが、首がいうことをきかない。
 結局、は流河の望むままにうなずいた。
「うん、羨ましいと、思うよ」
「そうですか」
 流河は満足げに口もとを緩めた。それはともすれば見逃しそうな、小さな笑みだった。
「じゃあ、私と付き合ってください」
「……え?」
「私と、付き合ってください」
「い、いや、それは聞こえたけど、私、彼氏いるし」
 たじろぎ、恋人の存在を出して、断ろうとするが、流河は納得しなかった。
「しかしその彼氏は、あなたを幸せにはしていません。付き合ってまだそんなに経っていないでしょう。いまがいちばん楽しい時期のはずですよ。なのになぜ、あなたはそんなに意気も阻喪にうつむいているんですか?」
「わ……私は別に、そんなことは」
 図星を突かれて、目を伏せる。流河と顔を合わせられない。それは彼女が嘘をついたからだった。月と交際を続けることが正しいか、決めかねるのは彼女自身だ。
 それを他人である流河から告げられたことで、あらためて自覚せざるを得なくなる。
 果たして自分は、月にとって恋人であるといえるのか。の心は大きく揺さぶられ、そこから迷いが生じた。
「私なら」
 流河はいつもの飄々とした雰囲気ではなく、めずらしく力強い口調で言った。
「あなたを悲しませません。私を選んでください」
 の眼底に、流河の真剣な眼差しが焼きついた。あまりに強く焦げついたために、きっと一生離れないにちがいなかった。頭の中をさまざまな考えが激しく駆けめぐる。眩暈を感じるほどだ。
 それでもが最後に行き着いたのは、恋人への義理立てだった。小さく頭を下げる。
「ごめん。私、夜神くんの恋人だから。夜神くんを裏切れない」
「……そうですか」
 流河は無力そうにつぶやくと、何も言わず、きびすを返した。講義を受ける気分をなくしたのか、校門のほうへ歩いてゆく。
 は流河を呼び止めようとして、思い直した。いまあの薄い背中に声をかけたところで、何にもならない。胸の底から震えにも似た感覚がせりあがり、をおののかせる。自分の決断は正しかったのか、不安でしかたなかった。

 翌日、流河はいつものように月がいないときを見計らって、声をかけてきた。まるで溝など感じさせない態度で、小さく微笑みかけてくる。
「……どうして?」
 思わずたずねると、流河はさすがに傷ついた目をしたあと、また笑った。
「私は諦めがいいんです。だからこれからは友人として仲良くしてください」
 差し出された手を、おずおずと握りしめる。握手を交わしながら、は流河の体温を感じていた。これだと思った。
 心を豊かにしてくれたり、寂しさを紛らわしてくれるような、温かい手ではなかった。皮膚は血の通いを感じさせないほど冷えきり、雪を連想するほど生白かった。それでも、人の手だ。
 思い返せば、月に触れたことなど、一度もない。
 目の縁から滲みだす涙を、こらえることなどできなかった。
「……うぅ」
 声が漏れないよう、口もとを手で覆う。確かに月はいないが、校内だ。
 ほかに行き交う生徒もいるのに、流河は少しも居心地の悪そうな様子を見せずに、少し驚いた顔をしながら、背中に手をまわしてくれた。優しくさすってくれる、そのてのひらの感触をなくしたくないと、強く思った。
 その後、落ち着いたは流河と別れ、月との待ち合わせ場所へ急いだ。すでに彼はきていて、姿を現したを見るなり、目を軽く見開いた。
「……どうしたの? 泣いた……よね?」
 は再びこぼれようとする涙を必死で押しとどめ、月を見上げた。弱々しいくちぶりで、けれど一語一語をはっきりと言葉にしてゆく。
「夜神くん、私のこと、好き?」
 問いかけた瞬間、月は目を逸らした。しばらくそうやって明後日のほうをながめていたが、ふとつくりものめいた笑みを浮かべて、に向き直った。いかにも恥ずかしげに、頬など掻いてみせる。
「僕の気持ちは知ってるだろ」
 あまりにもあからさまで、露骨な逃げ口上だった。
 は悲しげに微笑んだ。しかしそれだけで、何も言わない。月を責めたり、取りすがって泣いたりしたくなかった。好きだからだ。ただ一度、深々とうなずいた。
「うん、わかった」
 二人はいつもと同じく、肩を並べて講義を受けた。
 その日の別れ際、は早々に歩き去ろうとする月を呼び止めた。
 人の往来はあるが、だれも二人の会話などに関心を向けない。
 の鞄を握る手に力が入り、指が震えた。
 それでも彼女は目を逸らさなかった。月を真っ向から見つめ続けた。
「流河くんに告白されたの」
 月は一瞬、表情をくずしたが、それだけだった。すぐにまた笑みを含み、こともなげに先を促がす。
「そう。それで?」
「断った」
「じゃ、問題ないじゃないか」
「そうだね。でも」
 はいったんそこで言葉を切った。うな垂れて、最後の迷いを断ち切る。次に顔を上げたとき、その表情は月がいままで見たどのときより、凛としていて、きれいだった。
 彼女はいやに鮮明な口調で告げる。
「さようなら、夜神くん」
 これが単なる別れ際の挨拶でないことくらい、月にもわかる。
 彼は眉間に皺を寄せ、苦しげにくちびるを噛み締めたが、結局異を唱えようとはしなかった。いつものように、上辺だけの微笑を浮かべて、挨拶をかえす。
「さようなら、さん」
 はすばやく身をひるがえし、半ば駆け足で立ち去った。
 残された月はなぜ別れを言い渡されたのか、その理由を知りつつもいまひとつ納得がいかず、憤然と息を吐きだした。どうせ、海砂と会うための隠れ蓑に過ぎない。代わりはいくらでもいる。そのはずだった。

 数日後、学内を流河と歩くの姿を見つけた。
 彼女は月に気づかずに歩き去る。
 ただ流河だけが、去り際に月を一瞥していった。夜の海、それも凍てついた真冬の深海を想像させずにはいられない、冷たい瞳だった。
 月は流河がひとりでいるところを捕まえ、話を聞いた。
さんと最近よくいるみたいだけど、ひょっとして付き合ってるのか?」
「いけませんか?」
「……いや、彼女は竜崎からの告白は断ったと言っていたから」
「気になるんですか?」
「別に」
「それじゃ、聞かなくていいじゃないですか。失礼、待ち合わせがあるので」
 そう辞去する流河の顔が勝ち誇ったように見えるのは、おそらく月の錯覚だった。流河はそういうくだらないことで高飛車な態度に出る人間ではない。
 ではなぜ、彼とのあいだに交際関係があるのか知りたいと思ったのか。その理由はさほど難しくなかったが、月はそこで思考を中断した。わかりたくなかったからだ。
 その日、講義室で隣り合わせに座り、講義を受ける二人を見かけた。彼らは教授の目を盗んで、声を落として何やら会話していた。
 月はなるべく彼らを見ないよう睫毛を伏せたが、どうしても視界の端に入れてしまう。
 が流河の手首をつかんだ。てのひらをまじまじと注視する。戯れに手相でも見ているのだろう。彼の視線は二人の触れ合った部分、の指先と流河の手首に吸い寄せられる。気分が悪い。
 月は椅子が音をたてるのも構わず、急いで腰を上げ、講義室を駆けだした。
 驚いた何人かが彼の姿を目で追う。その中にや流河の視線がふくまれているかと思うと、月は苛立ちをこらえきれない。乱暴な足取りで廊下を突っ切り、キャンパスを飛び出した。
 空の青さは鮮やかで、何物をも受け入れ、許すかのようだった。しかし、そんな寛容さがいまの月には気に入らない。
 単なる独占欲かもしれない。到底、愛などとは呼べない。だがそれでも、月はを失ったことに、確かな痛みを感じた。から別れを突きつけられた日、追いかけて、謝罪の言葉をひとつでも口にすれば、彼女は自分のもとにとどまったかもしれない。
 そこまで考えて月は、ありえないことだと自嘲した。
 彼にとって、恋愛は手段に過ぎなかった。自分自身の本心をさらけ出し、愛を乞うことは、とても不可能だった。プライドを挫かれてまで相手を求めるなど、惨めすぎる。
 だから月はあのとき、を見送るしかなかった。それ以外の可能性も、選択肢も、存在しない。
 月はきっとを忘れない。たとえ竜崎――Lを、捜査本部の長たる父を殺しても、絶対に彼女の名前だけはノートに記すことはない。それはきっと、好きだからだ。
 彼女を無視して、なおざりにして、悲しんでいるのを知りつつ、少しも構わなかった。
 けれど、いまここにいたってようやく、彼女を失いたくなかったと感じている。だからせめて、自分が神となるこの地上で、幸せに生きて欲しいと思った。それはあらゆる行動をプライドに阻まれた月の示せる、たったひとつの愛情だ。
 これから学内で彼女を見かけるたび、月の視線は彼女を追うだろう。
 恥ずかしげもなく、未練のこもった眼差しを向けてしまうにちがいない。
 それでも、呼び止めたり、再び交際を求めたりすることだけはしない。それが月のプライドだ。
 竜崎が地上を去ったのちも、願わくは自分の見知らぬところで、幸せになって欲しいと祈った。もしこれが聞き届けられたなら、神の実在を信じてみてもいいかもしれない。
 月はふと、そんなことを考えたあとで、くだらぬ夢想だとすぐに打ち消した。

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