彼の策略
制服が冬用に替わってまもないころだった。
テキストを読み上げる、教師の抑揚のない口調を聞き流しながら、ささやかな談笑を楽しむ最中、
ははじめて問いかけられた。
友人は別段悪意を感じさせない目で、じっとのぞきこんでくる。
「ねえ、ひょっとして
と夜神くんって付き合ってるの?」
数十秒後「ちがう、ちがう」と否定する
の声が教室いっぱいに響き渡り、彼女は教師ににらまれることになる。
うろたえる
に代わって「すみませーん」と友人が頭を下げた。
教師と、そして友人の注目が逸れたことに、
は心底安堵する。
夜神月と交際している事実は、少なくとも彼女にとってはトップシークレットだった。
昼休みになると、席の離れている月がそばへ寄ってきた。
友人と食堂へ向かおうとしている
を引き止める。
「
。さっきはどうしたの? すごい声だったよ」
「ああ……うん、あれ、ね。なんでもないの」
「うん、そうそう。なんでもないよ、月くん」
友人もさすがに当の月に同じ質問をぶつける気にはなれないらしい。
にならって、話題を押し流そうとする。
しかし月はごまかされたと瞬時に察し、話の焦点を見失うまいと抗う。
「でも、すごい声だったよ。ちがう、ちがうって、何をそんなに否定してたの?」
「あー、それはね、うーんと、うーんと」
必死でもっともらしい言い訳を口に出そうとするが、こういうときに限って血の巡りが働かない。
は悩みに悩んだ末、かたわらの友人に視線を送り、助けを求めた。
目配せの意味するところを察して、友人はにこやかに答える。
「それは女の子同士の秘密。いろいろあるのよ、女には。男の子だってそうでしょ?」
こう言われてしまうと、異性の月としては引き下がらざるをえない。デリケートな話をしていたのかもしれないし、場合によってはセクシュアルな会話だったかもしれない。
これ以上追及を重ねれば、変なふうに思われるのは目に見えていた。
「そっか。まあ、確かに女子には女子の都合があるよね。引き止めてごめん、
」
「ううん。それじゃあね、夜神くん」
月は一瞬眉間に皺を寄せた。
は自分の失言に気づいて口をつぐむが、もう遅い。
何が起こったのかわからないまでも、二人のあいだに流れる微妙な空気を察して、友人が割って入ってきた。
「
、早く行こう。券売機込んだら最悪」
「あ、うん」
は友人に連れ立って、足早に教室をあとにした。
残された月は面白くなさそうに口を引き結ぶ。直後、クラスメートから声をかけられて、得意のつくり笑いで振り返った。
「
、一緒に帰ろう」
月は校門からやや離れた地点で待ち伏せしていた。
がいつも行動を共にしている友人は、ちょうど反対側の方角から帰っていく。
そのため、ここを通るとき
はいつもひとりだった。月としては絶好のチャンスというわけだ。
は注意深くあたりを見回し、往来する学生の中に見知った顔がないのを確かめてから、ようやくうなずいた。
「別に、いいけど」
「よし、それじゃあ行こう」
二人で肩を並べて下校する。
月が話を切り出すより早く、別の話題を持ち出せば、なんとか急場をしのげるかもしれない。
はそんな希望を胸に、早速口を開こうとした。けれどあえなく失敗する。
月はすでに険しい表情で
を横目に見ていた。
「……昼前の授業中の話だけど」
「え? なあに? わかんない」
「思い出させてあげようか?」
含むところのある物言いで威嚇され、
はあっさり全面降伏する。
「ウソです。覚えてます。……友達に、月と付き合ってるのかって聞かれたの。それで」
「じゃあ、質問に対して答えが間違ってるじゃないか。僕と
は付き合ってる。そうだろ?」
「そ……そうだけど、夜神く……」
またしても同じ失敗を繰り返しそうになる。
はあわてて口もとを手で覆った。けれどこんども、やっぱり遅かった。
月はすでに不機嫌そうにそっぽを向いている。形のよい唇から漏れたつぶやきは、彼の心中を反映して低い声だった。
「なんだよ、夜神くんって。そういえば教室でもそう呼ばれたよな。二人きりのときは月、人前では月くんって呼ぶよう言ったじゃないか」
「あー、いや、でもさ、女子が男子を名前で呼ぶのってちょっとした勇気が」
「呼び捨てにするのはいやだ、せめて月くんにしてくれって言ったのは
のほうだろ」
「うん、まあ、そうなんだけどね……」
月の言い分が完全に正しい。
は何一つ反論するポイントを見出せず、力なくうな垂れた。
交際を始めたからには名前で呼び合いたい。月の要望に難色を示し、代わりに敬称をつけて呼び合うことで同意したのは、
自身だ。
「……だいたい、どうしてそんなに付き合ってること隠したがるんだ。僕はそんなに彼氏として恥ずかしい男か?」
「ち、ちがうよ」
はあわてて否定する。
そして、もう何度も説明したはずの理由を、いま一度述べはじめる。
「月は人気あるんだよ、女子に。もし私が付き合ってるってみんなに知れたら……恐ろしすぎる。村八分だよ、村八分。トイレに呼び出されてバケツの水バシャーかも」
わざとらしく自分の肩を抱いて、ぶるぶると震え出す
。
そんな彼女を月はつまらなさそうに一瞥した。冷ややかな横顔をして言う。
「そんな女いまどきいるわけないだろ。それにもしそんなこと
にしてみろ。この僕が社会的に抹殺してやる」
「……冗談でしょ?」
言いながら、月は真剣だと内心悟っている。そんなのは問いかけるまでもなくわかりきったことだった。
月は否定も肯定もしない。ただ曖昧に微笑むだけだ。
「とにかく」
は深いため息を吐きだした。
「これから名前で呼ぶようにするから、もう今日は勘弁して」
「嫌だね」
間髪入れず答えが返った。
表情の凍りついた
をよそに、月は数歩先を行き、そこから彼女を振り返った。眼窩の奥から、底意地の悪い光が滲み出ている。
「今日の一件ではっきりした。
は僕との約束を守るつもりなんてこれっぽっちもないってことだ。それなら僕のほうにも考えがある」
「……あ、あの、ちなみにどんな仕返しをお考えで?」
「それは」
そこで一端言葉を止め、口端をにっとつりあげた。
「お楽しみというヤツだよ」
「……さ、最悪」
絶望感のこもった
のつぶやきすら心地よさそうに聞き流し、月は弾む足取りで帰路を急いだ。
あとから、足の運びの重い
がゆっくりと追いかけてゆく。
翌日、月の謀略は実現に移された。
休憩時間がくるたび
の席をおとずれ、
「やあ
」
「
、わからないところはない? さっきの教科、苦手だろ?」
「遠慮せずにノートならいつでも借りにこいよ。もちろんお礼はしてもらうけど」
が懸命に視線で訴えかけても、お構い無しだ。
それどころかさらに距離を縮めてくる。嫌がらせ以外の何者でもない。
これは罰ゲームか何かだろうかと
が錯覚しだしたころ、チャイムが鳴って昼休みに入った。
予想されたことではあったが、月は嬉しそうに昼食の誘いにやってきた。
「
。いっしょに昼食べようよ」
「あ……いや、友達と食べるんだよ、月くん」
疲れ果てながらも、名前で呼びかけるのを忘れない。今度失態を犯せば、月がさらなるエスカレートを遂げるのは疑いようがなかった。
けれど約束どおりの呼び方をしたところで、月が追撃を和らげてくれるはずもない。
次はどんな手を打ってくるのか怯える
に、しかし月はたった一言「ふうん」と無関心そうにつぶやいただけだった。
一転して人好きのする笑み、すなわち社交用の表情を浮かべる。
「そうか。じゃあ仕方ないな。またいつか」
「え? あ、う、うん!」
立ち去る月を、朗らかに送りだす。
呼び捨てにしたのが効いたのか、月はすんなり引き下がってくれた。
は心底安堵し、胸をなでおろす。怪訝そうに見つめてくる友人を元気よく振り返った。
「さ、ご飯行こう!」
「あ、いや、あのさあ、
ってやっぱり夜神くんと」
「何? 何も聞こえない。なーんにも聞こえない」
強引に話を遮り、これ以上聞いてくれるなと無言で哀願する
に、友人は納得した様子ではないものの、渋々問いかけるのをあきらめた。
食堂へ場を移す。
食券を購入し、まもなくおのおののメニューができあがった。
あとはたあいない話に花を咲かせつつ、食器を空にしてしまうだけだ。
「それでさあ、うちの父親がさあ」
友人の愚痴に相槌を打つ
の耳に、突然調子の外れた声が押し入ってきた。
クラスの男子の声だ。
「マジで!? 月、お前カノジョいんの!?」
「そんなに騒ぐことか? 僕だって恋人くらいいるさ」
「どんなヤツ? うちのクラス?」
「まあね」
おそるおそる視線を声のしたほうへ走らせると、月と彼の友人数人が、すぐ隣りのテーブルで昼食を摂っていた。
は動揺するあまり箸を取り落とす。友人が同情のこもった目を向けてきた。
「ねえ、もう諦めたら? こう言っちゃなんだけど、状況証拠出揃ってるし」
「イヤ! 絶対にイヤ! 認めたが最後、私はいじめのターゲットになってボロ雑巾のように絞られて校舎裏に打ち捨てられる!」
声を張り上げて拒む。絶対に折れるものかと躍起になった。
しかし彼は
のほうをあからさまに注視しながら、ことごとく彼女の特徴を指すヒントを次々と上げてゆく。
「
、もう諦めなよ……」
「イヤ! 絶対イヤ! 助けてよ友達なら!」
これだけ特定の人物を暗示――ほぼ明示だが――されれば、バカでもだれなのか思い至る。まもなく食卓を囲むクラスメートの一人が声をあげた。
「あ、ひょっとして
か!?」
「ああ、ばれたんなら仕方ないなあ」
は音をたてて椅子から腰を上げた。まっすぐ月たちのいるテーブルへ向かう。
彼女を楽しげにながめながら、月は口の中でくっくっと何度も笑っていた。
「ラ、月くん? ちょっといいかな?」
「お、早速カノジョから呼び出し?」
「いいよなー、やっぱイケメンは女簡単につくれて得だよなー」
口々にはやし立てるクラスメートをさりげなく手で制し、テーブルを離れる月。いきいきと輝く瞳の中に、混乱しきった様子の
をしっかりと閉じ込めた。
「行こうか、
」
「そ、そ、そうね、月くん」
こんな状況下でも、律儀に約束を守ってしまう
。そもそも月に逆らったのが間違いだったのか、もっときちんと膝を突き合わせていれば避けられた事態なのか、彼女には判断がつかなかった。
そんな
にもわかることが一つある。もはや事態は収拾不可能ということだ。
月と二人、食堂の外へ出た。なるべく人目につかない壁に隠れた場所を選んで、そこであらためて向き合う。
「ラ、月? ちょっとひどすぎない? 私の立場とかクラスメート間の雰囲気とか、いろんなものが失われてるんだけど」
の精一杯の抗議を、月はことなげにあっさりと受け流した。
「いいだろ。こんなつまらないことでなくなるなら、最初から大したものじゃなかったってことさ。それに僕がいるじゃないか」
「何かちがう! 論点がずれてる!」
「うるさいな。僕が隣りにいる。それだけじゃ不満なのか?」
は力いっぱいうなずこうとして、けれど果たせなかった。月が半眼でじっとにらんでいるのに気づいたからだ。肯定できるものならしてみろと、据わった目が語っている。
胸にはいろいろと伝えたいことが渦巻いているが、
は結局何一つ口に出せなかった。代わりにまったく別のことを言葉にする。
「もういいや……。私がいじめられないように守ってね……」
「当たり前だろ」
月はいつにも増して強い口調で、きっぱりと言った。万難を排し、必ず目的を達成する、そんな意志の強さのこもった口ぶりだった。
「守ってみせるよ。一度決めたからにはやる。有言実行。それが僕の信念だからね」
手を、引き寄せられる。月の薄いくちびるが、手の甲に落ちた。淡い気息が手にかかり、そのこそばゆい感触が
を惑わせる。
建物の陰とはいえ、だれかが見ていないとは限らないし、食堂にいたクラスメートがのぞきこんでいないとも断言できない。
それを頭ではっきり認識しながら、それでも
の手は、近づいてくる月の顔を押しのける力を持たなかった。