手をつなごう

「そんなのぜんぜん信じられない! だれがどう見たって浮気じゃない」
「だからそれはちがうんだって……」
「もういい。月なんか知らない。月なんて弥海砂と付き合えばいいのよ!」
 感情に突き動かされるまま、心にもないことを言って、は駆け出した。
!」
 呼び止める月の声も、鳴り響いたクラクションも無視して、ひたすら走り続けた。

「月のバカ、バカ、バカ……」
 電車に揺られながら、は口に出して何度も毒づく。幸い、近くに人はいなかった。
「私だけだって言ったくせに」
 と月は幼馴染だ。彼女は幼いころからずっと月を、月だけを見つめてきた。何度も気持ちも伝え、そしてようやくこの春「付き合おう」の一言をもらった。
 その矢先のことだ。月がアイドルの弥海砂と二人で歩いていたのは。嬉しそうに笑いかける彼女は、自分が月の隣りにいるのは当然のことだとでもいいたげだった。
 には、こみあげる悔しさをこらえることしかできなかった。並んで歩く二人が、絵に描いたように似合いのカップルだったからだ。端的にいえば、釣りあいが取れていた。美男美女の組み合わせだ。
 しかし、本当に彼女が腹をたてているのは、弥海砂ではなく、月に対してでもなかった。自分自身だ。いじけてふさぎこむばかりで、月を取り返そうという気力さえ湧かない、そんな自分が情けなくて、惨めで、うとましくてならなかった。
「もう、月となんか別れてやる」
 は電車の吊り広告のひとつを見据えた。市内で開催されている、ホテルのスイ―ツバイキング。やけ食い、というやつだった。

 しかし広告を見たのはひとりではない。
 同じようなことを考える人間は大勢いるらしく、平日だというのに、ホテルのレストランは混雑を極めていた。
「ああ、もう、最悪……」
 だれが悪いというわけでもない。しかしストレスのやり場を探しかねたは、談笑しながらケーキを頬張っている連中を威圧的に見まわした。
 しゃべっていないで、早く食べろ。彼女の心の叫びだ。
「何をそんなに睨んでるんです?」
 いきなり声をかけられた。
 振りかえった先には、細身の男が一人立っていた。
 親指の爪をかじりながら、うかがうようにをじっと見つめている。あきらかに不審者だ。
「別に私は睨んでなんか……」
 なるべく関わり合いにならないほうがいい。彼女の本能がそう告げている。
 目を合わせず、彼の関心が離れるのをひたすら祈った。
「順番、なかなかきそうにありませんよ。この分だと一時間待ちです」
 彼の色素沈着した皮膚にふちどられた黒目は、ではなく混雑したホールに向けられていた。
 は絶句する。とても待っていられなかった。彼女は食欲に引きずられるがまま、衝動的にここにきたのだ。
 そんなにのんびり待つくらいなら、コンビニデザート買い占めて部屋に閉じこもったほうがいくぶんましだ。くるりと店外へ足を向けた彼女を、男が呼び止める。
「なんなら、相席しましょうか? もう席を確保してあるので」
 これが月みたいな好青年や、温厚そうな女の人の申し出なら、も喜んでついて行ったにちがいない。
「いえ、遠慮します」
「そう警戒しなくて大丈夫です。実は私一人じゃありません。もう一人きています」
 三人。しかしいまこの場には姿を見せていないもう一人が、目の前にいる青年と同程度、あるいはより怪しげなたたずまいをしていないとも限らない。
 のそんな考えを、男はすべて見透かすかのような目つきをした。
「それも大丈夫です。もう一人はあなたからすれば立派な老人です」
「な、なんでさっきから私の考えてるコトわかるんですか?」
「簡単な推理ですよ。ま、半分はあてずっぽうですが。正答率はおよそ二分の一。分の悪い賭けじゃありませんね」
 発言の端々からうさんくささが見え隠れしている。
 が本気で怯えていると、ホールのほうから一人の老紳士がやってきた。
 彼は隈の濃い青年を見つけると、声をかけてくる。
「何なさってるんです、竜崎。早くお召し上がりにならないと。制限時間というものがございますよ」
「ああ、わかっている、ワタリ」
 まるで主人が執事に言うような、ある種威厳に似た口調で男――竜崎は応じた。
 そのまま目玉だけをに向け、つまらなさそうにたずねる。
「で、どうしますか。イエスならご一緒にどうぞ。料金は私が持ちます。ノーなら一時間暇を潰してください」
 おごり。少ない小遣いでやりくりするには、魅力的な誘いだ。
 彼女は優しそうな老紳士をながめながら、人を際限なく疑うのもよくないと、無理に自分を納得させた。
「わかりました。ごいっしょします」
「はい、どうぞ。ワタリ、私は一本連絡を入れてくる。先に行っておいてくれ」
「かしこまりました」
 老紳士は丁寧に頭を下げると、を席へ促がした。
「何分こんなサービスを利用するのははじめてなもので、少しとまどってしまいます。いつもは洋菓子店から適当に見繕って配達させるのですが……。竜崎が一度、バイキング形式で食べてみたいと言うものですから」
 洋菓子店に配達。竜崎は見かけによらず資産家なのかもしれない。そう考えると、いま目の前にいる老紳士を従えているのもうなずける。
「では、ケーキを取ってまいります。ご希望はございますか」
「いえ、私が取ってきます。おごっていただくんだし、それくらいさせてください」
「しかし……それではレディファーストに反します。私が竜崎に叱られますので、どうぞお任せください」
 レディファースト。日本では聞かない言葉にが面食らったのを、ワタリは納得したと見て取ったようだった。 しかたなくは自分の希望を伝える。
 ワタリが盆に大量のケーキを載せて帰ってきたころ、竜崎もやってきた。
 ケーキの山を満足げに見下ろす。
「え、えっと、さすがに三人でこの量は……」
「心配しないでください。四分の三は私が食べます」
 竜崎は手早く席につくと、ガトーショコラをくずさないよう器用につかむと、大口を開けて頬張りはじめた。
 圧倒されて言葉を失っているを、不思議そうに見上げてくる。
「食べないんですか?」
「じゃ、いただきます」

「竜崎!」
 三人で食事をはじめて三十分ほど経ったころ、やけに大きな声がホールに響いた。
 月が駆け込んでくる。
 竜崎の名前を知っているところを見る限り、二人は知り合いのようだ。偶然とは考えづらい。
 月は急いで走ってきたらしく、肩を大きく上下させる。
 苛立たしげな顔をしているのは、思い通りにならない呼吸のせいだけではなさそうだった。敵意を帯びた視線を、竜崎に突き立てる。
「どういうつもりだ?」
「ご挨拶ですね。せっかくあなたの恋人を保護して、なおかつわざわざ連絡まで差し上げたというのに」
「それはいいとして。問題はあの電話だよ!」
 竜崎はケーキを食べる手を休めないまま、不思議そうな表情を浮かべた。しかしすぐに思い当たった様子で、月に答えをかえす。
「ああ……。あれは月くんをさっさと迎えにこさせるためですよ。そうでもしないと意地張ってきそうにありませんでしたから」
「……なんで、そう思うんだ?」
 月はばつが悪そうに目を伏せた。その態度だけで竜崎の言い分を認めたようなものだったが、すんなり引き下がる気にはなれない。
 竜崎はさも当然だといいたげな態度を見せた。
「月くんにしては往生際が悪いですね。痴話喧嘩に首を突っ込まれたとあっては、プライドが許さないのも無理はないでしょうけど」
 指摘しながらも、手は忙しなくケーキを運び続ける。
「彼女がひどく不機嫌そうだった。次に電話をかけたときの月くんも、ヘソを曲げている様子だった。ふたりともまったく別の理由で腹を立てている可能性がないわけではないですけど、月くんの平常心を欠く出来事がそう多いとは考えにくいです。よってふたりが喧嘩したという仮説が成り立ちます。さて反論は?」
「……無い」
 月は心底悔しそうに竜崎をにらんでいた。
「説明はここまでで十分でしょう。私はケーキ食べたいんで、さっさと彼女連れて戻ってください」
「まだ話は終わってない! ぼくが言いたいのは、あの電話はなんだってことだ!」
「ああ。急がないと私が彼女に手を出しますよってところですか?」
「そうだよ。お前が女ならだれでもいいってことは知ってる、だから気が気じゃなかったんだ!」
「そんなふうに思われるとは心外ですね。あなたが焦ったのであれば私の作戦は成功です。あれは単にあなたを早くこちらへ向かわせるための戦法で、それ以上のものではありません」
「もっとほかに言いようがあるだろ!」
「他の言い方ですか……。思いつく限りでは、彼女が事故に遭遇していま病院。暴漢に襲われて警察に保護された。浮気しているところを目撃した。……こんなところですが、いま並べた話のほうがよかったですか?」
「……もういい」
 月は疲れきった口調で話を切り上げた。の手ををぐいとつかむと、そのまま引っ張りあげる。
「世話になった。……それじゃ、失礼します」
 後のほうはワタリに向けた言葉だ。二人は店の外へ出る。
 駅への道中、月の怒りは爆発しっぱなしだった。
「なんであんな奴にふらふらついていくんだ! 変質者かもしれない、っていうか普通変質者って思うだろ! 竜崎だったからよかったものの、ホントに事件に巻き込まれてたらいまごろどうなってたか……」
 どう考えても分が悪い。ははじめこそ大人しく聞いていたものの、そのうち我慢ならなくなって、月の手を払いのけた。
「何よ、月が悪いんでしょう!? そもそも月が浮気なんかするから……、それなのに人のこと責められた義理!?」
「だからそれは誤解だって……」
 月が鬱陶しそうに額に手を当てた。
「誤解っていうけど、私にはそれが本当だって信じることなんてできないじゃない! 信じようと思っても不安なんだもん!」
「信じられないってことは、の僕を好きな気持ちもその程度ってことだな」
「何その言い方! ぜんぜん月らしくない! 竜崎にムカついてるのか知らないけど、八つ当たりしないでよ!」
「だれが八つ当たりなんか……」
 喧嘩腰になったところで、問題はひとつも解決しない。むしろ悪化していくだけだ。
 月の言うとおり、が月を信じれば、それで済む問題なのかもしれなかった。でも、それはできない。不安をいつまでも抱え続けることなど、凡庸な精神しか持ち得ない彼女には、到底できなかった。
 ふたりが無言で睨みあっていると、ふいに月の携帯が鳴りはじめた。
 から顔を背けられればなんでもいいとばかり、月は携帯に飛びつく。しかし着信表示を見た瞬間、苦虫を噛み潰した顔になった。
 忌々しそうに頬をゆがめながらも、無視はしない。
「竜崎?」
 電話の相手はやはり竜崎らしい。
「余計なお世話だ、放っておいてくれ!」
「……海砂のことだよ」
「……本当に大丈夫なんだな?」
 には月の声しか聞こえない。どんな会話がなされているのか、さっぱりわからなかった。
 まるっきり蚊帳の外で突っ立っていたに、月が携帯を差し出してきた。
 彼女はとりあえず受け取り、電話口に出る。
「はい、変わりました」
『もしもし、月くんの彼女をやってる物好きな女性ですか?』
「切りますよ」
『嘘です。で、仲直りできてないみたいですね』
「……はい、まあ」
『単刀直入に申し上げますけど』
「……はい?」
『弥海砂は月くんに一方的につきまとっているだけです。月くんは何度も彼女がいるからと断ってます。この耳で聞いたので間違いありません』
 月は潔白だった。ということはつまり、どちらに非があるのか、そのいさかいも決着を見たということだ。
「そ、それはわざわざどうも……」
『気にする必要はありません。異性と二人でいるところを見たんですから、勘違いするのは当然です。もっと言えば、あなたの信頼を得ることのできない月くんが悪いんです』
「……その言い方なら、信頼できない私が悪いって結論もありえますよね」
『月くんにそう言われたんですか?』
「はい」
『じゃあ、こう言い返せばいいんですよ』
 その後、礼を言って電話を切る。月に電話を返すふりをして、彼が差し出してきた手をつかんだ。
 そのまま彼の目を見ずに、早口で言いきる。
「月は私が男と歩いてるトコ見たら、ただの友達か知り合いだって納得できる?」
「……相手の男殴るかもしれない」
「じゃあ、弥海砂に飛びかからなかっただけましじゃない? 私を褒めてよ」
「……わかった。僕が悪かったよ。ちゃんと弥には話をつけて、もう来させない」
 勝手にくるのなら、月がどれだけ話してもおそらく無駄だだろう。
 それは別としても、きちんと約束してくれる月の誠実さがには嬉しかった。
「期待しないで待ってる」
「少しは僕を信じろよ」
「信じてるよ。でも、月優しいからな」
「え、そ、そうかな……」
 気恥ずかしそうに頬を掻く月を、は軽く睨んでやった。
「言っとくけど、女ならだれにでも優しいって意味で、褒めてないから」
「……」
「ウソウソ。うん、でもさ、今日みたいに嫉妬しあうのも悪くないかもね」
「僕は嫉妬してない」
「竜崎から電話もらったときも?」
 負けず嫌いの月は、ぷいと顔を背けてしまう。そのまま、の手を引いて歩きだした。
 彼の手が心なしか暖かいのは、の気のせいではないはずだった。

▲Index ▲Noveltop