作りかけのマフラー

「プレゼントには、の編んだマフラーが欲しいな」
 クリスマスを一ヵ月後に控えた、十一月下旬。
 月がふとこぼした言葉に、は表情を凍らせた。弱りきって眉を垂らす。
 あらゆる分野に秀でた、まさに万能の青年である夜神月は、が編物を苦手とするのを知ってか知らずか、いとも無邪気にねだる。
 はさんざん返事をためらった末、月の目がちっとも笑っていないのに気づいた。彼から放たれる無言の圧力に膝を屈する。ストローにくちびるに挟み、飲み差しのアイスティーを吸い込んで、どことはなしに空を見つめる。
「……わかった」
 うなずきはしたものの、首の動作に力がまるでこもらない。うな垂れともとれるしぐさだった。
「期待してるよ」
 要求が通ったのに満足して、月はようやく含むところのない笑みを浮かべた。ややぬるくなった紅茶のカップを傾ける。
 はテーブルに視線を落として、クリスマスまでの残り一ヶ月のあいだに、手編みのマフラーを用意しなければと気負った。
 その日のうちから、彼女の悪戦苦闘がはじまった。月と別れてから、書店へ向かい、編物に関する本を購入した。次に手芸用品店へ寄り、できあがりのビジョンがさっぱり浮かばないため、毛糸を適当に何色か買い込む。
 その後帰宅し、買ってきたものをデスクに広げ、教本に首っ引きになりながら、少しずつ編みはじめた。思い通りに指が動かないのに舌打ちし、投げ打ってしまいたい衝動をこらえて、幾度となくやり直す。作業は遅々として進まない。努力は重ねるものの、換言すればそれだけだった。成果がまったく見えない。編んでは解きを繰りかえすせいで、毛糸に変な癖がついてしまった。
 彼女の焦りをよそに、時間は刻一刻と過ぎてゆく。寝る間を惜しんで編み続けたが、ふと暦に目を向ければ、クリスマスはもう目前だった。
 は愕然として、机の上に転がるつくりかけのマフラーをながめる。まだ半分足らずしかできていない。ここに至るまでに費やした日にちを踏まえれば、どう考えても残りの時間で完成品を見るのは無理そうだった。
 彼女はデスクに顔を突っ伏した。自分の不器用さを心底疎ましい。しかしこうしていても始まらない。さんざん悩みぬいた末、ひとつの結論にたどり着く。
 事が露見した場合のことを不安に感じないわけではなかったが、かといってほかに手立てがあるわけでもない。布団にくるまって、ひたすらまどろみがおとずれるのを待った。

 翌日、ニット帽を目深にかぶった彼女は、手芸用品店を再びおとずれた。手編みふうのマフラーを一本つかみ、レジへ駆け込むと、手早く会計を済ませる。店員から受け取った紙袋を、トートバッグの奥底に押し込んだ。
 店を出てからも落ち着かず、彼女自身気づかないうちに、周囲をちらちらと見渡してしまう。どこからか月に見張られている気がしてならず、自然と早くなる歩調を抑えることもしないまま、急いで家路を引き返した。
 ただ彼女に取って不幸だったのは、確かに月の姿はなかったものの、彼の妹である粧裕が偶然通りかかったことだ。直接の面識はないが、粧裕のほうは兄から写真を見せられ、恋人であるの顔を知っていた。
 粧裕としては別段何の悪意もなく、単なる雑談のつもりで、の姿を見かけたことを月に伝えた。
を? どこで?」
 机に向かっていた月は、椅子に座ったまま、身体をねじって粧裕を振り返った。
 彼女はドアにもたれかかった姿勢で返事をする。
「えーっと、駅の手芸用品店から出てきたみたいだけど」
「……手芸用品店?」
 毛糸を買いに行ったのか、と考える。
 しかしクリスマスはもう目と鼻の先だ。いまからでは間に合わないだろう。では足りなくなって出かけたのかとも思ったが、何か引っかかるものを感じた。考え過ぎだ、気のせいだろうと思い直した直後、粧裕の放つ一言が疑念をさらに強めた。
「なんかニット帽しっかりかぶってて、きょろきょろしながら歩いてたよ。ちょっと挙動不審だった。お兄ちゃんひょっとして浮気されてるんじゃないの?」
 月のボールペンをつかむ指先に、力が加わった。面白くなさそうに細められた瞳の奥底から、険しい光が浮かび上がり、危ういきらめきをちらつかせた。
 兄が機嫌を損ねたのを察知した粧裕は、何か気に障ることでも言ったかと懸念したが、焦って話を逸らすよりも、避難するほうがずっと賢明な判断だ。強ばった微笑をひとつ残して、早々に立ち去る。
 一人になった月は、ちょっと考えたあとで、椅子から立ち上がった。クローゼットを開き、中からコートを取り出した。

 そして十二月二十四日。クリスマスイブ当日だ。
 は自分が編んだわけでもないマフラーをもっともらしく包装し、バッグにつめて家を出た。待ち合わせ場所へ向かうと、すでに月が待っていた。
「ごめんね、待った?」
「いや、別に……。行こうか」
「うん」
 デートのコースは月に任せている。
 は今日一日、月がどんなクリスマスイブを過ごさせてくれるのか、期待に胸が膨らむ一方で、恋人を騙すことになるのを悔いた。罪悪感がせり上がり、彼女の決断を鈍らせる。
「どうかした?」
「……ううん、何も」
 歩き出しながら、はバッグを持つ手を替えた。もはや賽は投げられた。
 彼女はすでに道を選んでしまった。間に合わなかったから、もう少し待って欲しいと正直に謝ることもできたのに、そうしなかった。月を悲しませたくない、失望させたくないという思いが、却って彼を手ひどく裏切る結果を招いた。
 すべては自分の不徳が招いたことだ。諦めて嘘をつき続ける以外、彼女にはどうしようもなかった。
 二人はまずショッピングモールへ向かい、恋人や親子連れでにぎわう店内を見てまわった。途中、香水売り場の前を通りかかる。
「月、ちょっと見ていっていい?」
「もちろん」
 充満する芳香をまとった、色とりどりの瓶をひとつずつ手に取り、ながめてゆく。が目を止めたのは、それなりに名の知れたメーカーの製造する、濃紺の瓶に入った香水だった。
 月は横で別の香水を観察したり、匂いを確かめたりして、を待つ。
 彼女はどんな香りなのかサンプルで確認したあと、しばらく迷い、ほかのものにもあれこれと手を伸ばしたが、結局もとの香水に戻った。満足げにうなずく。
「これ買おうかな。月、ちょっとここで待って……」
 レジへ向かおうとするの手から、月が香水の入ったケースをひょいと取り上げた。
 興味深そうにまじまじと見つめてから、そのまま彼女に視線を移す。
「これにするのか?」
「あ、うん」
「じゃ、買ってあげるよ」
「え、いいよ、そんな」
「気にするなよ。それに、僕はまだへのプレゼント買ってなかったからな。これならちょうどいいだろ」
「いや、でも高いし……」
「値段の話なんかするなって。色気ないな」
 は急に気落ちした様子で頭を垂れ、いまにも消え入りそうな声で謝った。
「……ごめん」
 バッグを持つ手から、だんだんと力が抜けてゆく。
 月は恋人の急な変化にいささか驚いたが、気を取り直して、レジへ向かった。彼の後ろ姿を見送りながら、は持ってきたマフラーをいっそ投げ出したい衝動に駆られた。
「待たせたな。はい、これ」
 差し出された香水を、おずおずと受け取る。ケースにはプレゼント用のラッピングが施されていた。
 は眉間をしかめ、くちびるを噛んで、泣きそうになるのを必死でこらえる。
「……どうかしたのか? 今日、ちょっと変だぞ」
「なんでもないよ。感激しただけ」
 あわてて目を伏せ、軽く首を振ってごまかす。
 月はなおも不審そうにしていたが、追及する気は起こらないらしく「ふうん」と相槌を打った。
 は月からもらった香水を、大切にバッグへしまいこむ。自分には彼と付き合う資格はないと思った。

 六時をやや過ぎたころになり、駅からほど近いレストランに入る。雑誌でも紹介される人気店だ。洗練された内装だが、けして入りづらさを感じさせず、そう値も張らない。若者に人気で、月たちのような学生も多く利用していた。
 クリスマスイヴということもあり、混雑を極めていたが、月は前もって予約してあったらしく、名前を告げるなりテーブルへ通された。
 希望のメニューを伝え、料理が運ばれてくるのを待つ。
 月はふいに期待のこもった眼差しをした。の顔と、彼女が脇に置いてあるバッグを交互に見やった。

「……何?」
「何か僕に渡すものは?」
 わざとらしく手を出す。てのひらを上に向けている。
 はしばらく押し黙っていたが、月が手を突き出し、重ねて催促してきたため、これ以上先延ばしにできなくなった。渋々鞄を引き寄せ、中から包みを取り出す。
「……はい、これ。メリークリスマス」
「ありがとう」
 月は礼を言いつつ受け取った。の様子がおかしいのを不思議に思うそぶりも見せない。マフラーの出来栄えに不安があり、それを彼女が気にしていると解釈したのだろう。
 彼は早速包装を剥ぎ取り、出てきたマフラーをじっくり注視しはじめた。ややあって膝に下ろし、畳んで包装しなおす。
 そうする一方で、どこか嘘っぽい、優等生然とした笑みを浮かべた。
「それにしてもはすごいな」
「……え?」
「編物苦手って以前言ってただろ? それなのにあっさり克服して、こんな立派なマフラー作れるんだから」
「……がんばったから」
「上手にできてたよ。これなら普通に店で売れるんじゃないかな」
 は月の言い回しに違和感を覚えはじめる。
 彼は事の次第を把握していて、婉曲に自分をなじっている気がしてならなかった。かといって、まさか彼女のほうから真相をたずねるわけにはいかない。そんな墓穴を掘る真似はできなかった。
「本当にすごいよ。プロ顔負けだな。玄人裸足ってのはこういうのを言うんだろうな」
 ひとしきりの手腕を褒めちぎったのち、冷水の入ったグラスに口をつける。マフラーをテーブルへ置き、隅へ押しやってから、打って変わって厳しい声を出した。
「それで? きみは僕に、既製品を恋人が手縫いしたマフラーだと思い込んで首にぶら下げる、間抜けな男を演じろって言うのか」
 は身を縮めた。目を固く閉じる。さほど驚きはしなかった。月に見抜かれているのではと、薄々感づいていたばかりだったからだ。だがどうしてばれたのか、気になるのはその一点くらいだったが、とても問いかけることのできる雰囲気ではない。
 もっとも、その必要はなかった。月が勝手に語りだしてくれたからだ。
「妹が、クリスマスの直前、手芸用品店から出てきたきみを見かけたと教えてくれたんだ。ご丁寧に、そのときのきみがどうも変な様子だったことまで教えてくれてね。まさかとは思いつつ、念のため確認に行ったんだよ。僕はああいう店には行かないから知らなかったけど、いかにも手編みふうのマフラーが売ってるんだな。……きみはただ、何かほかの用事があってここへきたんだと思いたかったよ。でも、いまもらったマフラーを見て、すぐにピンときた。洋品店で見たのとまったく同じものだ」
 は懸命に涙を抑え込む。ここで泣くのは卑怯だと思った。泣くことで場をごまかすような女にはなりたくない。彼女のしたことは恋人に対して誠実でなく、罵られても抗弁のしようのない行為だった。
「……ごめんなさい」
「別に、僕は既製品を贈られたのを怒ってるわけじゃない。のことだから、きっと自分で編もうと努力してくれたはずだ。……でも間に合わないか、どうしても自分の手に負えないと悟ったから、今日の日のために、いかにも手編みに見えるマフラーを買いにいったんだろ」
 の返事はない。相槌さえひとつもなかった。
 彼女はただ黙りこくった。くちびるはきつく結む。何を言ったところで、言い逃れにしかならない。どうせ言い訳に終始するなら、何も語らないほうがまだ潔かった。
「……僕は何度も、きみに本当のことを話すチャンスを与えたはずだ。今日一日、きみの態度がおかしいことにほとんど突っ込まなかったし、マフラーを渡されてからも、暗にこれは既製品じゃないかと指摘し続けた。でもきみは何も言わない。謝って、事情を打ち明けようともしない。……僕が何も知らずに、これをきみからマフラーだと思い込んで身につけているところを見て、きみは何とも思わないのか?」
 はようやく顔を上げた。目の端に溜まった涙を、指先で軽く拭い取る。泣くのをこらえているせいで、喉が痛かった。まるで荒縄で締めつけられる感覚がした。
 しかし、月の心を締めつけているのは、むしろ彼女のほうだ。
 妙なタイミングでウェイターが現れ、手際よく料理を並べてゆく。重い沈黙をあいだにはさんだカップルのことなどお構いなしに、注文のあったメニューはこれで全部だと言い残し、足早に歩き去った。
 はしばらく食い入るように月を見つめたあと、ぽつりとつぶやいた。くちびるの震えにまぎれて、はっきりと聞こえない。
 月は眉をひそめて、いましがた耳にしたのが聞き違えではないかと疑いながら、彼女が繰り返すのを待った。
「……いいよ、振っても」
 月は背筋を伸ばし、うんざりした様子でため息をつく。料理の盛られた皿を自分の食べやすい位置に並べ直しつつ、バスケットからフォークのたぐいを取り出した。
「どうしてそこまで話が飛躍するんだ。僕はきみを手放すつもりなんかこれっぽっちもない。……もういい、僕も少し言い過ぎた。ほら、気分を変えて、食事にしよう。結構おいしそうだよ」
「でもそれじゃ私の気がすまないよ。……月は、私にプレゼントくれたり、今日のためにいろいろ調べたり、用意してくれてたのに、それなのに私は……」
「だからもういいって言ってるだろ。どうせ別れ話に持ってくつもりだろ? それならこの話はもうおしまいだ」
「……でも、やっぱり」
「もういいって言ってるだろ!」
 月は苛立ちに任せて、てのひらをテーブルに叩きつけた。周囲の客が何事かと振り返ってくる。
 しかし完全に冷静さを欠いたいまの月には、体面を取り繕う余裕などない。真っ向からをにらみつける。
「……悪いと思ってるなら、黙って食べろよ」
 きつい物言いで促がされ、食欲が進まないながらも、とりあえずフォークに手をつけた。大皿に盛られたハンバーグを切り分け、口に運ぶ。確かに、料理はおいしかった。しかし味を噛み締めるほどに、今日のために月がどんなに心を砕いてくれたか思い知らされ、胃を重くなった。
 会話のないテーブルに、食器を動かす音だけが響きあう。も一応、食べる所作を真似ていたものの、実際にはほとんど口に運べなかった。ドリンクだけが減ってゆく。
「……お代わりもらおうか?」
 話題がないのを気に病んでいたのは月も同じらしく、声をかけてきた。
 はちょっと迷ったあとで、意地を張っても何にもならないと思い直し、素直にうなずいた。
 月は手の空いているウェイターが通りかかるのを待って、追加のドリンクを頼んだ。
 こんな息の詰まる状況で、話に花が咲くはずもない。はせめてもの誠意を見せようと、次々に料理を口へ押し込め、かろうじて残さず片づけた。

 食べ終えてから、十分弱の休憩を挟んだのち、月が腰を上げた。
「じゃ、帰ろうか」
「……そうだね」
 も同意し、隣りの椅子に置いてあったバッグやコートを引き寄せた。
 帰路を進むあいだもまるで会話がなく、結局口をきいたのは、別れ際の挨拶くらいだった。
 の自宅まで彼女を送り届けた月は、ようやくひと息つけるといった安堵した様子をのぞかせつつも、このまま恋人と離れることには、一抹の不安を感じずにはいられないようだった。
「じゃあ、帰るから」
「うん。……今日はありがとう」
 は月がきびすを返し、彼の後ろ姿が見えなくなるまで見送るつもりで、玄関先にたたずんだ。
 月は途中幾度か足を止めかけ、そのたび思いとどまっていたが、ついに意を決して振り返った。首を捻った拍子に栗色の髪が揺れ、凍てついた外気に柔らかな曲線を描く。

「……何?」
「別れないからな」
 それだけを言い残して、足早に歩き去ってゆく。
 は月の背中が夜にまぎれてもなお、その場から動けずにいたが、じきに家人が様子をうかがいに顔をのぞかせたため、おとなしく屋内の暖気に迎え入れられた。

 帰宅後、は手早く入浴を済ませ、パジャマに着替えて、ベッドへもぐりこんだ。
 頭からシーツをかぶり、閉塞した狭苦しい空間に閉じこもり、思うさま自分を罵り続ける。自嘲と自己嫌悪を絶えず繰り返すうち、募った心労が眠けを呼び起こすも、不思議と瞼は落ちなかった。疲れ果て、意識も明瞭とは言いがたい。そのくせ目だけが冴え渡り、彼女がまどろみに沈むのを許さない。
 ベッドへ入って、もうずいぶん経つ。は時間を確認しようとして、いったん床へ足をつけた。デスクの前に立ち、備えつけの電灯を点す。
 ちょうど零時だ。なんとはなしに窓を見やる。カーテンを閉め忘れたため、すぐに窓外の景色を知ることができた。冷気を帯びて縮こまった静寂が夜空にたちこめる。
 再びベッドについても寝つけそうになかったが、ほかにすることもない。
 はデスクの電気を落とし、自身の体温が滲んだベッドへ仰向けになった。眠れないのを承知で目を閉じる。の先に、見慣れた天井がぼんやりと浮かび上がった。だがよくよく見やれば、何か別のものも見える。
 は数回目をしばたたいた。正体不明の影は、はじめのうちこそとらえどころのない、霧のようなたたずまいをしていたものの、徐々にはっきりとした形をなしはじめた。
 月の面差しだ。去り際、別れるつもりはないと宣言したときの表情だ。の目に焼きついていたのが、暗闇の中に甦ったのだろう。
 は触れることなどできないのを承知の上で、おもむろに手を伸ばした。だんだんと部屋を覆い尽くす墨色が濃くなり、月の幻影を塗りつぶす。
 彼女は思わず身震いした。いてもたってもいられず跳ね起きた。月の顔が暗闇に浮かび、そして消えてゆくさまに、彼そのものを喪失する錯覚を起こし、受け止めようのない不安に襲われたのだ。
 パジャマを脱ぎ捨て、適当にタンスを引き出し、いちばんに目についた服を身につける。コートを着こんで、そのポケットに携帯と作りかけのマフラーを突っ込み、部屋を飛び出した。
 月は別れないと言っていた。しかしそれに安心して何ひとつ彼に伝えずにいれば、まもなく愛情は錆びつき、二人の関係は途切れることになるだろう。
 こうして月のもとへひた走ったところで、未来をかすませる暗雲は晴れないかもしれない。だが何もしないわけにはいかなかった。
 月はに、混じりけのない、少しの偽りもない愛情を示してくれた。彼女のほうも同様に、同じやり方で、同じ気持ちを贈り返す。それが誠実であるということのはずだった。
 家族に黙って家を抜け出したは、まっすぐ月の家へ向かった。さほど距離はなく、じきにたどりつく。しかし、玄関先で立ち往生するはめになる。スマートフォンを開き、時間を確認する。零時を過ぎること三十分。
 月はすでに就寝しただろう。明日出直すべきかときびすをめぐらしかけて、その場にとどまった。明日ではだめだ。
 そんな直感に突き動かされるがまま、彼女はスマートフォンを操作し、月の電話番号を呼び出した。コールは三回までと決める。それくらいならば寝ているのを無理に起こすことにもならないだろう。
 通話ボタンを押す瞬間はさすがにためらったが、突っ立っていてもはじまらない。思いきって指先に力を加えた。
 コールがはじまり、の鼓膜を小刻みに震わせる。
 電子音はすぐに途切れた。たった一度のコールのあとに、月の声が続いたからだ。
?」
「ごめん、こんな時間に。あの、私……」
「いや、いいよ。僕も寝られなくて、に電話しようかどうか、ずっと迷ってたから」
 は胸を撫で下ろす。月も自分と話したがっていたのなら、まだ呼び出しやすい。冷えて痺れたくちびるを動かして、か細い声を絞り出す。
「今から会えないかな」
「今から? さすがにそれは……。もう十二時回ってるし」
「でも、私、もう月の家の前にいるの」
「……なんだって!?」
 電話越しに、月が腰をあげ、駆け出す気配が伝わった。
 直後、彼の部屋の窓が開いた。そこから小さな頭が突き出され、あたりに人影を見出そうとする。彼の切れ長の瞳が光を宿すまで、そう時間はかからなかった。道路の中央に立って、気まずそうに手を上げるをとらえる。
「いま行く。ちょっと待ってろ」
 焦慮の濃いくちぶりで言い捨て、月のほうから電話を切った。
 それからまもなく、彼があわただしく駆け出してきた。肩に羽織っただけのコートの前がだらりと開き、そのあいだから紺色のTシャツがのぞいていた。
 彼はの前までやってくると、すぐに手を取り、玄関の中へ引っ張ってゆこうとする。
「え? ちょっと、月。上がるわけにいかないよ」
「そんなこと言ったって、こんなところでいたら風邪引くだろ」
「平気、すぐ帰るから。それにこんな時間だもん。おじさんたちにも変な風に思われちゃう」
 親と言われて、月も平常心をいくらか取り戻した様子だった。無理にでもを連れて行く気だった手から、力が抜けてゆく。代わりに何か思いついたらしい。引っ込めた手を自分のコートにかけ、の肩に被せようとする。
「だめだよそんなの。月が風邪引いちゃう」
「大丈夫だ。僕は男なんだから」
 しかし、月がいま身に付けている生地の薄いTシャツでは、とても寒さをしのぐことなどできない。
「平気だって。言ったでしょ、すぐ帰るから」
「すぐ帰るなら、このままで大丈夫だ。ちゃんと羽織ってろ」
 巧みに言葉を返され、反論のしようがなくなる。
 は手を垂らし、コートを押し返そうとするのをやめ、月の好きにさせた。早めに話を済ませるべく、早速ポケットから作りかけのマフラーを引っ張り出した。ためらいがちに、月の前へ差し出す。
「あの、これ……」
「え……。あ、これ、マフラー……?」
 両手で端をつまみ、広げる。予定の半分ほどの長さしかないが、確かにマフラーだった。苦手な分、せめてじっくりと時間をかけ、丁寧に織ろうとしていたため、目に粗さもない。質にこだわったのが災いし、今日の災難を引き起こしたのは、皮肉というほかなかった。
「もう要らないかも知れないけど、急いで完成させるから、できれば……できたらでいいから、受け取って欲しいの」
「……嬉しいよ」
 月はまだきちんと止めていない毛糸がほつれないよう気を遣いながら、軽く自分の首にぶら下げてみた。嬉しそうにうなずく。自然と頬がほころび、ふだんの理知的な彼からは想像のつかない、子どもっぽい一面を垣間見せた。
「マフラーには足りないけどさ、うん、十分あったかいよ。の気持ちがこもってるから」
 月の優しい声が耳底へ染み入る。
 は半ば縋りつく形で月に抱きついた。突然のことに驚きつつ、月のほうもしっかりと受け止める。パジャマを隔てて、薄い皮膚が冷えきっているのが、の指先に伝わった。
 その感覚が言いようのない切なさを引き起こし、のうなじを反らさせた。あごを軽く上げ、キスをねだる。
 月は照れ混じりの苦笑をこぼしたあと、まんざらでもない様子で、彼女の期待にこたえた。
 雪の結晶よりも澄明で細かなきらめきが、抱き合うひとつの影を淡く縁取る。
 触れるだけのくちづけを終えたあと、早々に引きあげようとしたの腕を、とっさに月がつかんだ。
「……月?」
 彼は自分でも戸惑った様子で、瞬きをしながら、じっとを見返した。彼の心なしかうるんだまなじりに、熱っぽさがふくまれる。
 彼は掠れた声で口早にささやいた。
「どうしよう」
「どうしたの?」
「抱きたい、いますぐに」
 そうせがみながら、いっそう強くを引き寄せ、身体を密着させる。
 は呆然と目を皿にしたが、月の表情にふざけた感がないのを見て取って、果たしてどうしたものかと、頭を悩ませることになった。
 体温の抜けた彼の身体を暖められるのは、恋人の素肌以外にないのかもしれなかった。

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