きみの名前を教えて

 消毒液の匂いが充満している。ここが、今日からの職場になる空間だった。
 下ろしたての白衣を羽織り、パソコンの前に腰を下ろす。
 本来の養護教諭が産休を取ることになったため、立海に臨時採用された。彼女はマウスを滑らせ、モニタ上に新しいファイルを作成する。
 保健室を利用する生徒について記録するのも、彼女の仕事だ。これといって複雑な作業ではない。問題なく進めていく。
 ふいに、ドアを開く音が聞こえた。
 は作業を休止し、椅子を回転させて、入り口を振り返った。
 テニスウェアを着た男子生徒がふたり、驚いた顔をしてたたずんでいる。
 は立ち上がって、彼女のほうから声をかけた。
「あれ。いつもの先生は?」
 スキンヘッドの男子生徒が口を開いた。
「はじめまして。今日から赴任しましたです」
 は自己紹介し、事情を説明した。このことは、今日のホームルームで伝達される予定だった
「……めちゃくちゃ若いじゃん。先生、何歳だよ?」
 先ほどとは別の男子生徒がたずねた。赤い髪の男の子だ。
「さあ? いくつに見える?」
 ははぐらかして答えなかった。彼女はまだ若い。生徒からなめられてしまえば、あとあとやりにくくなる。
「それで、ふたりともどうかしたの?」
 今度は彼女のほうから問いかけた。
「それが、こいつが肘をすりむいちまって」
 スキンヘッドの生徒がそう訴えた。
「ジャッカル、先に戻ってろよ」
 スキンヘッドの生徒はジャッカルという名のようだった。
「なんでだ?」
「ふたりして遅くなったら、真田がうるさいだろぃ」
 ジャッカルはうなずいた。
「そうか……確かにそうだな。先に行くよ」
 提案を受け入れ、駆け足で部活に戻ってゆく。
 ドアの閉まる音が響くと、あとはふたりきりになった。
「じゃ、先生。ぱぱっと手当て頼むわ」
 は彼を連れて、消毒液を置いているサイドテーブルへ移動した。
「もちろん。肘を出して」
 椅子に座らせ、肘をこちらに見せるよう指示する。
「……なあ、先生。一個聞きたいんだけど」
 手当ての途中、彼がふと口を開いた。
「先生って、彼氏いんの?」
 は曖昧に微笑み、答えをはぐらかした。
 若い女性教師に答えづらい質問をぶつけて、うろたえる様を見て喜ぶのは、思春期の男子にありがちないたずらだ。
「いるの? いないの?」
「静かにして、手当てしにくいから」
 彼はしつこくたずねるが、まともな答えは返らない。ガーゼの上からサージカルテープを貼る段階になって、強硬手段に出る。肘をさっと背中にまわしてしまった。
「教えてくれるまで、それ貼らせないから」
 軽い口調ではなかった。真剣そのものだ。
 は放っておこうかと考えたが、採用早々、親からクレームでもあったら面倒だ。ため息をついて、質問に答えた。
「いないよ。これでいいでしょ、肘出して」
「マジで?」
 彼はその問いかけを、疑わしそうにではなく、心底うれしそうに口にした。
「嘘じゃないよ。ほら、早く」
 彼女が言い切るのを待って、おとなしく肘を差し出す。しかし貼り終えた途端、彼女の腕を捕らえ、ぐいと自分のほうへ引き寄せた。
 あまりに突然だったので、抵抗するための身構えも取れなかった。密着したふたりのあいだで、白衣が衣擦れの音をかすかにたてる。一瞬のできごとだった。
 けれどそのあいだ、確かに両者のくちびるは重なっていた。
「じゃ、俺が立候補しよっかな。彼氏いないなら問題ねえよな」
 問いかけは形だけで、許可など求めていないのはあきらかだった。
「なっ。い、いま、キス……どういうつもりよ!」
 動揺しながら、抗議するに、彼は平然と言い返した。
「仕方ねえだろぃ、好きになっちまったんだからさ」
 自分に非はないと、確信しているくちぶりだ。
「そうそう。自分の彼女の名前くらい知っとかないとな。先生、名前は?」
 いまだ混乱の真っ只中にいるは、それどころではない。白衣の袖でしきりにくちびるを拭っている。
「そんな反応されると、さすがに傷つくんだけど」
 彼はわざとらしく眉を下げ、落胆したふうを装ってみせた。
 彼女はその言葉に耳を貸さないことに決めた。しかし、またしても回答せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
「教えてくんねえんなら、別にいいよ。俺も教えてやんね。確か、保健室にきた生徒って、パソコンに記録残さねえといけねえよな? ま、がんばって生徒名簿から見つけな」
 いまにも立ち上がろうとした彼を、あわてて引き止める。
 譲歩に次ぐ譲歩で面白くなかったが、しかたない。は名前を教えた。
「ふうん、ね。ちゃんって呼んでいい?」
「だめ」
 新米とはいえ、も教員の一人だ。生徒になれなれしく下の名前で呼ばれるのを、黙認するわけにはいかない。間髪いれず却下した。
「いいじゃん別に、名前くらい」
 くちびるの両端に力を込め、不満の意を表したが、この件に関してはすぐに気を取り直した。
「ま、それもおいおいでいいか。そろそろ練習に戻るわ、センセ」
 そう言って、今度こそ立ち上がる。
「……ねえ、きみの名前は?」
 彼はすばやく振り返ると、整ったくちびるに力強い笑みを浮かべてみせた。
 よく通る声で答える。
「ブン太」
 はなにげなく彼の名を口の中で反芻した。
 下の名前だけではデータ入力できないと気づいたのは、ブン太がすでに部屋を去ったときのことだった。
 あわてたががあとを追う。廊下に飛び出した瞬間、何か強い力に引っ張られ、危うくバランスをくずしそうになる。
 彼女がもたれかかったのは、ブン太の胸だった。
 彼は心底楽しそうに笑みをこぼしながら、にもう一度キスをした。あわててブン太を突き飛ばし、あたりが無人であることを確認する。
 彼女はほっと安堵の息をついた。着任早々スキャンダルで懲戒免職は、いくらなんでも悲しすぎる。
「だれもいねえって。それくらい確認してるし」
 あっけらかんと主張する。
 そんなブン太を軽くにらんでみせるものの、は彼を嫌いになれそうになかった。
 普通の恋愛の悩みとも、大学の講義で学んだ内容ともかけはなれたところにあるこの難題を、どうやって解決すればいいのか。まるで解けない数式を前にした気分だった。

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