ラプンツェルの塔

 私は仁王くんが好きだった。とてもかっこよくて、強靭な身体つきをしていた。コートの上を駆ける姿は、いつだって私を魅了する。あの鋭い視線で見つめられると、それだけで幸せな気分になれた。
 恋人になりたい、特別なひとになりたい、そういった願いはもちろんある。
 でも、叶わない夢だ。彼はミステリアスで、つかみどころのない人物だ。何をどうすれば、テニスラケットの代わりに、私の手を握るなんて奇跡が起こせるか、見当もつかない。私は自分の恋心の中に閉じ込められてしまった。
 少なくとも、学校を卒業するまでこんな状態が続くだろう。そのころ、私は彼と同じ場所に立っていない。
 彼と私の人生は、この学校で交わったきり、再び重なることはないだろう。
 報われない思いなのはわかりきっていた。けれど恋愛は感情だ。胸の中にひとりでに湧き上がってくる。止めることなんてできなかった。感情を止めることは、心音を停止させることと同じだ。
「助けて、王子様」
 なんとなくつぶやいてみる。そんなことをしてもだれも突っ込んでこない。無人だった。
 いま私がいるのは図書室で、私は図書委員。もうひとりの担当はさぼりの模様。
 活字離れの進んだ現代では、図書室を利用する人間も少ない。お堅い生徒会書記の柳くんくらいだ。今日は姿を見せないけど。
 結果、ひとりカウンターの中に閉じ込められている。
 ふと、昔読んだラプンツェルを思い出した。ある塔に閉じ込められたお姫様を助けるために、王子様がとんでもないことをやらかす話だ。
 お姫様のいる塔には出入り口がなかった。お姫様はいつも最上階から、地上の王子と会話した。
 お姫様にとって、外の世界は小さな窓から見える景色だけだ。孤独を砕く方法はひとつしかない。王子様がお姫様のもとへ行くことだ。
 その逆ではいけない。お姫様にとっての世界は狭い部屋だけだから。世界を否定することはできない。王子様がお姫様のいる部屋へ行かなければならなかった。
 でもなんのとっかかりもない、つるりとした壁をよじのぼっていくことはできない。何か掴むものが必要だった。
 お姫様は仕方なく、地上に達する長さの髪を窓の外へ垂らした。王子様は愛するお姫様の頭皮をさんざん痛めつけて、塔の最上階へ到達する。
 よく考えたらひどい話だ。小さいころは気づかなかったんだけど。でも、ある意味では男女平等ってことなのかもしれない。王子様は一切を捨てて姫のもとへ。そしてお姫様は豊かな髪を犠牲にして王子を愛する。
 失ったものの比重がちがいすぎる気もしなくはない。
 でも、そっか。王子様に助けてもらうには、長い髪が必要なのか。……伸ばしてみようかな、何十メートルにもなるまで。
「そうしたら、きてくれるかな……」
「だれを待っとるんじゃ?」
 ふいにかけられた声。どうして、ここにきたんだろう。私は振り返らずに答えた。
「王子様」
「王子? なんじゃ、それは」
 小ばかにした感じの口調だった。
「ラプンツェルを知ってる?」
「知らん」
 物語自体を知らないなら、話にならない。
「じゃあいいや、なんでもない」
「冷たい言い方やの。そう言わずに教えんしゃい」
「たいした話じゃないから」
 私はそこでようやく声のするほうを振り返った。カウンターの奥にある窓から差し込んできた日の光りが、ブレザーの襟の端にあたってきらめいた。
「……何しにきたの?」
 彼がこんなところを訪れる理由などない。
「お前さんの喜ぶ顔が見れるかと思っての」
 さらりと答えを返された。
「言ってることの意味がわからない」
 私は仁王くんから顔を背けた。用もないのに、カウンターの資料に視線を落とす。
 仁王くんが何を言わんとするのか、まるでわからなかった。見えそうで見えない彼の真意に平常心を奪われた。
「嘘はよしんしゃい。お前さんはわかっとるよ」
 核心には触れずに、思わせぶりな言葉を連ねる。それが腹立たしかった。てのひらの上を転がされる気分だ。
 その一方で、具体化しつつある期待に私の胸の鼓動が加速する。
「俺のことどう思っとる?」
 突然の質問だった。
 私はスカートの上で手をきつく握りしめた。震えるくちびるを叱咤して、たずねかえした。
「どうって?」
「聞くまでもないじゃろ」
 余裕に満ちた声だった。
 もう我慢できない。こらえることはできなかった。
 私はにわかに席を立つと、背後にたたずむ仁王くんをにらみつけた。
「あらかじめ答えを断定した問いかけは気に入らない。……出てって」
「ええんか? 出てっても」
 問いかけながら、片足に重心をかけて身体を傾ける。けだるげなしぐさだった。銀色の前髪の向こうで、ふたつの瞳が鋭い光を放っている。私の好きな目だ。
 けれど、彼の態度はやっぱり疎ましかった。自分の気持ちを明かさずに、揺さぶりを使って私の反応を見るだなんてやりかたは卑怯だ。
「……私が出て行く」
 歩き去ろうとして仁王くんの隣りを横切った。そのまま部屋の外を目指そうとしたけれど、後ろ髪をつかまれた。引き止められる。
 私は冷たい声で「放して」と言った。
「ほぉ、俺が塔から落ちてもええんか?」
「……知らないんじゃなかったの?」
「いま思いだしたんよ」
 はじめから知っていたにちがいない。
「俺から打ち明けてもええが……お前さんも続けてくれるか?」
「私がどんな答えを返すかはわからないな。それを決めるのは仁王くんじゃない」
「俺は……お前さんが好きじゃよ」
 聞けるとは思っていなかった言葉。でも、いちばん聞きたかった言葉。
 とうにあきらめていた言葉。そして、私がいちばん口にしたかった言葉。
「……私も好き」
 背後で彼の動く気配がした。髪を手放したのだ。
 抱きついてくるのをひらりと交わして、こちらから抱きしめた。
 私は目いっぱいかかとを上げ、つま先立ちをした。仁王くんの耳たぶに噛みつく。

 お姫様は、王子様と一緒に落下したけど、奇跡的に一命は取り留めたみたい。

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