新しい恋を、きみと

 聞こえるのは、自分の泣き声だけだった。くちびるがわずかに動く。呼ぼうとしたのは、離れていったばかりの恋人の名前。だが、喉のつまりが邪魔して、声が出ない。
 は肩を震わせ、閉じている目に力をこめた。もう何も見たくなかった。
 ふいに、どこかで水滴の弾ける音がした。
 彼女は少しずつ顔を上げる。
 化学実験室の水道の蛇口から、水滴が少ししたたっただけだった。再びうつむきかけたとき、がらりと戸の開く音がした。この時間帯はだれもいないと見越していたが、どうやら予想は外れたらしい。
 はあわてて物陰に隠れようとする。泣き顔など、他人の目に触れさせたくない。しかし、部屋へ入ってきた人物は、が身を潜めるより早く、彼女の姿を目でとらえていた。
――幸村精市。
 彼はすっかり印象として定着している、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。しかしその直後、の目が濡れているのに気づいて、真顔に戻った。
「大丈夫?」
「……どうしてここにいるの?」
 この時間、化学実験室に立ち寄る者はいない。
 だからこそ彼――いまとなっては元カレだ――も、ここを最後の場として選んだのだ。
「きみの彼氏が、クラスで話してたんだよ。別れたって……」
 彼氏という言葉が、の胸に新たな悲しみを運んだ。
 視界がさらにぼやける。
「ああ、そう。……そういうことか」
 幸村は、自分の言ったことが無神経だったのを察して、謝った。
「ごめん。傷つけるつもりはなかったんだ。……ただ、俺は、が泣いてるんじゃないかって、気になって」
 心配するのは彼の役目ではなかった。
「別に大丈夫だから、私のことは気にしないで」
 それよりここから離れてほしかった。それが彼女からすれば、いちばんありがたい。

 幸村は唐突に呼びかけてきた。すばやく肩をつかまれる。首を伸ばして、耳元で彼が言った。
「俺と付き合わない?」
「え?」
「絶対、幸せにする。だから俺と付き合わないか」
 は何も言えない。頭の中が真っ白になっていて、とてもそれどころではなかった。驚いたせいで、涙はすっかり止まっていた。
「前向きに検討してくれ」
 幸村はそう念を押した。しかしから返事はない。
 それをさして気にするそぶりも見せず、黙って彼女の隣りにたたずむ。
「俺、ここにいてもいいよね」
 ふしぎそうに見返す彼女に、幸村は億面なく答える。
「ひとりにしておけるわけないよ。好きな人がそんな顔をしているのに」
 そう言われてようやく、自分が顔を上げていることに気づいたは、再び顔を伏せた。
 その反応を見て、幸村はまた優しく笑った。
 なぜいきなり彼が告白してきたのかは、結局わからずじまいだった。

 には、自分を好きだといった幸村の言葉が、どうにも信じられなかった。
 共通点といえば、クラスが同じということくらいだ。
 それも、席が隣りであったり、よく雑談する気心の知れた友人というわけではない。
 クラスメート。二人の関係を言い表すのに、これ以上的確な言葉はなかった。
 思い返してみても、口をきいたことなどほとんどない。
 について何も知らないのに、好きだと言う気持ちが理解できなかった。

 恋人と別れて以来、教室はにとって居づらい空間になった。
 相手も同じクラスなので、こればかりはしかたない。
 登校して席につくと、決まって幸村が話し掛けてくる。

 はじめのうちこそ周囲の視線が痛かったが、じきに気にならなくなった。
 ただ、一人だけ、どうしても見つめられるのが耐えられない人物がいた。元カレだ。
 彼の視界に自分が入っているのを感じると、落ち着かなかった。
 そんなとき、幸村はいつも声のボリュームを上げて話しだす。
 まるでの関心を、自分に引き寄せようかとするかのように。
 告白云々の話は抜きにしても、気を遣って話し掛けてこない周囲に同調することなく、話題を振ってくれる幸村の存在が、いまのにはありがたかった。

 声をひそめ、周囲に漏れぬよう注意しながら、たずねたことがあった。
 自分のどこが好きなのかと。それに対する答えは、こうだった。
「全部」
 揺らぎのない眼差しで直視され、かえってのほうが戸惑った。
 頬に熱を感じて、あわてて顔を下向ける。
 頭上で、幸村の優しい声が響いた。
「好きだよ、。……だから、ちゃんと考えて、俺とのこと」
 からかわれているわけではなさそうだ。
 化学実験室で受けた告白は、真剣なものだった。
 しかし、のほうも、まだ気持ちの整理がついていない。次の恋愛など考えられる段階ではなかった。
「大丈夫、俺が忘れさせるから。きみはひとことイエスと答えてくれたらいいんだ」
 こうして、も答えを先延ばしにするわけにはいかなくなる。

 授業が終わり、は鞄を手に教室を後にした。
 帰りの支度をする彼女を見るたび、幸村は
もテニス部、入ればいいのに。そしたら、いっしょに帰れるよ」
 と言うのだった。
 昇降口を下りたところで、はぴたりと足を止めた。
 元カレとその友人が前方を歩いていたからだ。のほうには背を向けている。
 いったん昇降口を上がって、廊下に隠れようとしたが、偶然後ろを見た元カレと目が合ってしまう。
 は、顔から血の気が引くのを感じた。走り去りたいのに、身体が硬直して動かない。
 彼女の視線になんらかの意図を見て取ったのか、元カレがきびすをかえして近づいてきた。
 いまならまだ、会話を避けられる。そう思っても、足が自由にならない以上、にはどうしようもない。
 なすすべもなく、かつての恋人が自分の至近距離に入るのを許した。
 彼はをながめると、くちびるに嘲りとも自嘲ともつかない、微妙な笑みを浮かべた。
「よかったな。早速新しい彼氏ができてさ。まったく、これじゃ、俺が振られたみたいじゃん」
 は、自由にならない身体の代わりに、目で後を追う。見慣れぬうしろ姿は、まるではじめて見る人のようにも思われた。
 なぜなら彼女は、いつも彼の隣りを歩いていたからだ。置いてけぼりを食い、後ろ姿に目を凝らしたことなどなかった。あまりにもそば近くにいすぎたせいで、目に入らなかったのだ。
 あまりに強く噛み締めすぎたせいで、くちびるから血の味が伝わってきた。やっということをきくようになった手で、頬をすばやく払う。透明なしずくがあたりに飛び散った。
 この日を境に、は学校を休むようになる。

 病気をよそおい、適当な嘘を並べて、親の目をごまかす。
 そうして彼女は、今日もベッドで一日を過ごしていた。何をするわけでもなく、ぼうっとして時間が過ぎるのを待つ。
 うとうととまどろみ始めたとき、ふいに部屋のドアがノックされた。どうせ親だろうと決め込み、無視していると、勝手に入ってきた。
 視界に飛び込んできた人物に驚き、はあわてて飛び起きる。
 たずねてきたのは、幸村だった。
「あ、ごめん。返事なかったから、寝てるのかと思って」
「……座ったら?」
 追い返す気は不思議と起こらず、床のクッションに座るよう促した。
「なんで学校来ないの?」
 いきなり本題だった。
「返事もまだもらってないし……、ひょっとして、俺が原因なのかな」
「違うよ。幸村くんは関係ない」
 は首を振る。そんなことはない。幸村の存在は、彼女にとって唯一の味方だった。
「……なにかあったのかい? ほかの奴と」
 『恋人』や『彼氏』のたぐいの言葉は出さずに問う。おそらく、以前が傷ついたのを覚えていたのだろう。
 が話すべきか迷っていると、幸村は唐突に微笑んだ。
「……本当は、ずっとのことが好きだった。もうそれこそ、同じクラスになる前から。……でも、好きだって言えなかった。言わなきゃはじまらないって、頭ではわかってたんだけど」
 話しながら、後ろに手をつき、身体を反らせる。
 視線は、どこか天井をぼんやり見つめていた。
「怖かったんだよ。振られたらどうしようって。グズグズしてるうちに、ほかの男にとられて。……自業自得だね。奪いたいとも考えたけど、あいつの横で楽しそうに笑ってるを見てたら、決心できなくて。俺のせいで悩んだり、泣いたりしたらいやだなって」
 微笑が、自嘲めいたものに変わる。
「だから、が振られたってわかったとき、真っ先に行ったんだ。後悔を重ねるのはいやだったから」
 そこで口をつぐみ、姿勢を正して、を見据えた。
 彼の黒い瞳を真っ向から見返すことができず、彼女は視線を部屋の隅にうつろわせた。
「だから、俺は言った。好きだって。何度も言ってる。多分、を混乱させてるだろうなって、わかってる。でも、自信があるんだ。に、恋の痛手を忘れさせる自信が」
 からは、幸村がいまどんな顔をしているのかわからなかった。
 だから幸村は言った。
「こっち向いて」
 促がされて、やむなくは幸村と向き合った。
 彼はわずかに首を伸ばし、の顔をのぞきこむようにして、言った。
「俺と付き合って。俺が幸せにするよ、約束する」
 固い決心を語ったあと、にわかにおどけた顔をして、続けた。
「どう? 俺に賭けてみる気はない?」
「……うん、賭ける」
 は目を細めた。涙で濡れた視界に、かつての恋人との思い出が浮かび、そして消えてゆく。忘れることはできそうにない。
 それでも、いま目の前にいる彼を、新しく愛したいと感じていた。
 は小さく、けれど何度もうなずく。
 彼女のあごをとらえ、引き寄せた幸村は、半ば強引にキスをした。
 持ち込み方は無理やりだったが、キスそのものはこの上なく優しかった。
「誓うよ。きみがまた涙を見せるとしたら、幸せのために流す涙だ」
 そう約束しながら、彼は自信ありげにほほ笑むのだった。
 テニスコートで強敵と対峙したかのように。

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