時代

「久しぶり」
 つまらない挨拶だと思った。
 に会うのはいつ以来だろう。歳月の流れは人を変える。変わらないものはない。
 そしてそれはも例外ではなかった。
「久しぶり」
 彼女は笑って返事をした。内心はきっとつまらない挨拶だと感じたはずだ。でもそれを口に出さない程度に、彼女は変化したのだ。成長というべきかもしれない。
「暖かくなってきたね」
 は円卓の向かいに腰かけた。
 俺は小洒落た白の木製のテーブルにメニューを広げる。彼女に見えやすいよう、俺からすれば逆さにして差し出す。
 彼女は俺を見ずに礼を言った。メニューを追うふりをするが、ほとんど視線は動かない。俺と視線を重ねないのをメニューのせいにしたいだけなのは、明白だった。
「ホットコーヒーをください」
 近づいてきたウェイターに、は短く注文を告げた。
 俺は一握の寂しさを覚えて、目を伏せる。
 学生時代、彼女はコーヒーを飲めなかった。砂糖をたっぷり入れたカフェラテからたちこめる甘い湯気を吸い込むのが好きだった。
「飲めるようになったんだね」
 ウェイターが下がるのを待って、俺はに言葉をかけた。
 彼女は円卓の上で手を組んだ。鮮やかな発色のマニキュアが爪先を彩る。
「あれから何年経ったと思ってるの?」
 いくらかの皮肉をはらんだ台詞が返った。コーヒーを飲めなかったことを指摘されたことで、過去の自分を侮られた気分に陥ったのだろう。相変わらず彼女の目は俺を見ない。円卓の木目を視線でなぞり続ける。
「何年になるかな?」
 俺はわざととぼけた。の神経を逆なでして、俺のほうを見てほしいからだった。けれどその目論見は外れた。
 彼女は小さく息をつくと、運ばれてきたコーヒーを口にした。
「どうして呼び出したの?」
 彼女は早速本題を切り出した。まるで俺と過ごす時間を少しでも短くしたいといいたげな態度だった。
 俺は胸裏を絶望感が這い上がるのを感じて沈黙した。
 そんな心境を見透かして、彼女は笑った。その目元は丹念にメイクが施されている。
 俺の記憶の中にいるは、メイクが下手で不器用な女の子だった。それがどうだろう。いま俺の前に座っているのは、コーヒーカップにリップが移るのを気にかける、ひとりの女性だった。
 けれどそれは俺も同じことだ。ジャージを脱ぎ、ネクタイを締め、スーツのジャケットを羽織った。過ぎ去った時間は常に美しい。俺たちは失われたものにばかり執着し、往々にして手に入ったものを見過ごす。同じ失敗を繰り返したくない。
 の瞳に諦念が滲む。時間はなさそうだ。彼女がコーヒーを飲み切る前に、俺は焦慮して口を切った。
「聞いたんだ。……が離婚したって」
 知らぬ間に、俺の視線はの左手に向かった。
 彼女が落ち着かない様子でさきほどから手を組み替えるのは、長年嵌め続けた指輪が急に失せたことに、違和感を禁じえないからなのかもしれない。
「元カレとして慰めようと思ったの?」
「違う」
 俺はともすれば閉ざしそうになる口を押し開いた。声を絞り出す。いつもより喉を狭く感じるのは、おそらく緊張のせいだろう。
「俺たち、やり直せないか?」
 今度はが黙り込む番だった。彼女は最後の一口となったコーヒーを飲み、カップをソーサーへ戻した。陶器の重なる音が、沈黙を阻害する。
 彼女はようやく俺を見た。眉の形を整え、彩りを添えられた瞼の下に並ぶ瞳で、じっと俺を見つめる。
「変わらないね」
 彼女は唐突に笑った。それは冷笑ではなかった。穏やかで明るい、俺がいちばん好きな彼女の表情だった。
 俺は彼女の言わんとすることを呑み込めなかったので、慎重な態度を示した。次の言葉を待つ。
 そうするうちに彼女はまた俺を見るのをやめ、窓の外をながめた。連休に入った昼下がりの街頭は、意外なほど人出が少なかった。すでに皆遠出してしまったのだろう。
「今日で平成が終わるんだね」
 俺は小さくうなずいた。だからこそ今日、彼女と会いたかった。道行く人の足取りが、どこか急いでいるように見えるのは、きっと俺たちが感傷的な気分になっているせいだ。
 カフェの中ではほかの客がスマホを片手に、ニュースに注目している。夕方に控えた、天皇陛下のご退位の儀式について、会話を交わす人も多い。
「でも幸村くんは変わらない。……あのころと全く同じ。何かを失うことなんて怖くないって、平然としてる。私と別れることになったときも動揺しなかった」
「……虚勢を張ってただけさ」
 それも嘘ではなかった。だが本当のところを言えば、失うことが怖いなんて知らなかった。なくしたものは、また手に入れたらいい。取り返せばいい。そんな高慢な考えに取り憑かれていた。
「それはお互い様だよ。私も喧嘩の流れで別れたいと言い出して引っ込みがつかなくなっただけ。……最後まで幸村くんが引き止めてくれるのを期待してた」
 だが俺は止めなかった。彼女が離れたいというなら仕方ない。そんな大人ぶった寛容さを示したい気持ちが働いた。あのとき彼女に縋り、懇願してでも、破局を避けるべきだったと気づいたころには、彼女は苗字を変えていた。
 俺は彼女と別れてから、何人かの女の子と付き合ったけど、そのたびに相手がじゃない現実に直面した。きちんと向き合った交際のできない俺に、彼女たちは失望し、俺のもとを去っていった。でもそれは仕方のないことだ。俺が隣に置きたいのは、過去も未来も、そしてたったいまこの瞬間もひとりきりだったから。
「今すぐに返事はできない。心の整理が必要なの」
 それはもっともな話だった。彼女は人生を共有すると決めた相手と道を違えたばかりだ。
 俺の同意を確認して、彼女は立ち上がった。
 俺はさりげなく伝票を引き寄せる。礼を言われるような金額ではないのに、彼女が財布を取り出したので、俺のほうからコーヒー代の受け取りを拒んだ。
「ごめんね、ありがとう」
 彼女は財布をバッグへしまい、礼を述べた。連れ立ってレジへ向かい、会計を済ませる。外に出たところで、と別れる。
 人の流れにまぎれかけた彼女を、俺は駆け寄って引き止めた。どうしても伝えておきたい、伝えておかなければならないことがあった。
 俺はためらいも、淀みもない口振りで告げる。
「新しい時代を、君と生きたいんだ。だから、俺とのこと、真剣に考えて欲しい」
 彼女が許してくれるなら、法定期間が空ければ、すぐにでも結婚したいくらいだった。
 俺の決死の覚悟をよそに、は口元をおかしそうに緩めた。笑い声をたててから、俺を凝然と観察した。
「それが言いたかっただけでしょ?」
 俺は苦笑いした。図星だった。今の台詞はと会う前から決めていた。こんな言葉が様になるタイミングは、今日を置いてほかない。明日には新しい御代が来る。
「ばれた? でも、俺は真剣だよ」
 そこはわかって欲しい。洒落で離婚してすぐの元カノに告白なんかできない。
 俺のひたむきな眼差しを受けて、は笑いを引っ込めた。ちゃんと考えるから、と言い残して、今度こそ立ち去る。
 俺は彼女の後ろ姿が見えなくなるまで立ち続けた。次に会えたときには、こんなふうに見送るのではなく、隣りを歩きたい。そうして歩き続けたい。
 きたる次の時代をきみと、歩きたい。心からそう願った。

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