マドンナはサンタクロース

 暦が進むごとに、街角はクリスマスイブの訪れを期待し、華やぎを増した。立海大附属の校内にも浮ついた空気が流れ込み、ふだん硬派で知られる男子テニス部のメンバーにも伝染した。
 赤也は頬を弛ませた。
「楽しみっすね、イブのパーティ!」
「そうですね」と柳生はいつもの平坦な口調で相槌を打った。角を揃えてジャージを畳み、スポーツバッグへ収納する。今日の練習はもう終わりだった。
「赤也。お前が楽しみしているのはパーティではなく、部活が休みになることだろう?」
 柳に急な横槍を入れられ、赤也はあわてて反論する。
「そんなわけないじゃないっすか! 俺はテニス大好きっすよ!」
 パーティの発案者が当日の開催にこだわったために、今年のクリスマスイブは部活が休みになったのだ。
「おぉ、そうじゃのお。赤也はテニスを心の底から好いとる。嫌っとるのは口うるさい副部長のことやろ」
 仁王はブレザーを羽織り、そのポケットにネクタイを押し込んだ。もう下校だ。そこまで服装にこだわる必要はない。
「何言ってんすか、仁王先輩!」
 赤也は顔面蒼白になって、大げさに首を左右に振った。幸い真田の姿はない。さきほど下級生と話すのを見かけた。まだ指導が終わらないのだろう。
「楽しみなのは部活が休みになったことだけじゃねぇだろぃ」
 丸井が思わせぶりにつぶやいた。くちびるを斜めにして笑う。ガムを二粒口へ放り込み、奥歯で咀嚼を始めた。
「な……なんすか、いったい」
 赤也は不気味そうに聞き返した。どうせろくでもない話だろう。聞こえないふりをするのが利口な切り抜け方だが、彼は罠を罠と知りつつ飛び込んでしまう性格の持ち主だった。
「お前のお目当くらいお見通しだっつの! ……とイブを過ごせることが嬉しくてしょうがえねぇんだろぃ」
 部室の空気に緊張感が走った。皆一様にわざとらしく視線を逸らす。丸井がいま告げた内容は、赤也のみならず、他の面子の図星も突いたらしかった。
 ただ丸井だけが平然とガムを膨らませる。
「わっかんねーなー。確かにはかわいいけどよ」
 とは男子テニス部のマネージャーを務める女子生徒のことだ。フルネームは。丸井らと同じ三年だった。人好きのする性格で、世話焼きなことから、男子テニス部のマドンナ的存在だった。
 そしてクリスマスパーティの発案者、その人でもある。
「もう人のもんになってるわけだし、そんな女追いかけたって、虚しいだけじゃね?」
 膨らみ過ぎたガムが破裂音を立てた。部室を行き交う視線がいっせいに失望を帯びる。そう。はすでにある男の掌中におさまっている。
「みんな、お疲れ」
 幸村が真田と下級生を率いて、部室に入ってきた。
「もう着替え終わってるんだね。真田の話が長すぎるからだよ」
「そんな言い方はないだろう。俺は後輩のことを思うからこそ」
 真田の抗議を最後まで聞かずに切り捨てる。
「後輩をなごませるためのジョークだろ、真に受けるなよ」
 面倒くさそうに横目で見られて、真田はロッカーに顔を背けた。こっそり傷ついた眼差しをする。だがしつこく尾を引くことはせず、すぐに着替えに取りかかる。ちょうど全員着替え終わったところで、ドアをノックする音が響いた。
です。着替え終わった?」
「ああ、構わないよ」
 念のため、室内に視線をめぐらせ、下着姿のままの男子生徒がいないのを認めてから、幸村は入室の許可を与えた。
 ドアが開き、が入った途端、室内にやすらぎのムードがたちこめた。下級生はまぶしそうに目を細め、同級生は安息を得た満足感でうなずく。
 彼女は名実ともに男子テニス部のマドンナだ。彼女が微笑むだけで、練習後の疲労感も吹き飛ぶ。だが和やかな空気も長くは続かない。彼らはたちまち眉間を強張らせ、一様に幸村に険をふくんだ視線を突き立てた。
――そう。を独占する、その大それた罪を犯したのは、何を隠そう幸村精市だった。

 ひと月ほど前、放課後の部活が終わったタイミング。いつも通りたあいのない雑談が交わされる部室で、あえて話題の流れを無視して、幸村は出し抜けに宣言した。
「あ、そうそう。俺、昨日からと付き合ってるから」
 当然、レギュラー陣は色めき立つ。真田とて例外ではない。彼もの前では、彼女を戦地に咲いた一輪の野花と愛でる、ただのひとりの男になりさがる。
「幸村、お前のその行動は部の運営に重大な禍根を残すぞ!」
「どうしてさ?」
 幸村はわざとらしく理解が及ばぬふうを装う。
 その態度が真田の気に入らない。人の上に立つものとしてのあり方を幸村に叩き込まねば、立海テニス部に未来はない。
「よもや忘れたとは言わせん、刮目せよ!」
 真田がブレザーの隠しから取り出し、広げたのは、肌身離さず持ち歩く誓約書だった。大げさに広げられたそれは、幸村が視線を逸らしても、またすぐ彼の眼前に掲げられる。
「これは蓮二が書式、条文をきっちり調べて作成した、効力のある誓約書だ。…やめんか、幸村!」
幸村がちょいちょい手をあげ、誓約書を取ろうとしてくる。それを真田は華麗な足裁きで回避しつつ、天下万民に向けて叫んだ。
の魅力は尋常でない。ダダ漏れだ。溢れすぎだ。このままでは彼女を巡った刃傷沙汰が起きるのは時間の問題と思われた。そこで、無用の血が部内で流れ、立海連覇が危ぶまれる事態に陥る前に、不可侵協定を締結した! これがその協定を遵守すると誓った誓約書だ」
 詳細な条文の読み上げは読者諸君も望まないであろうから、要約すると以下のようになる。を取り合って和を乱すくらいなら、に接近しないと全員で約束しあおう。そうすればみんなと付き合えないけど、ほかのだれかに取られることもない。
「そうしてみんな安心して、枕を高くして眠ったんだよね。よく眠れたみたいで嬉しいよ」
 真田は稲妻に似た形の欠陥を眼球に浮かび上がらせた。興奮をあらわにして、幸村を睨みつける。
 圧迫感のこもった巨大なオーラの直撃を受けても、幸村はほとんど堪える様子を見せなかった。ウェーブのかかった前髪が風でそよぐ程度だ。ゆったりとしたしぐさでブレザーを羽織り直してから、真田を無関心そうに一瞥した。
「みんな行儀がよすぎるんだよ。欲しいと思ったらすぐに手を伸ばすべきだ。明日はだれにでも訪れるわけじゃないんだからさ。病室で間近に死を感じたものにしかわからないんだろうけど」
 そこまでを口早に言い終えると、あとはうつむき、長いまつげを震わせるばかりだった。咽喉に張られた皮膚は薄く、それでいて青い。今にも骨の全容があらわになりそうだ。
 病からくる憐憫さを滲ませる幸村に、真田はそれ以上追及が出来なくなる。彼は道徳心に極めて忠実な人間だ。病人を――正確には元病人を――責め立てる行為は、モラルに反するゆえ行えない。
「みっともないぞ、弦一郎。たやすく言い負かされるな」
 反論の気勢を挫かれた真田に代わって、柳が前衛に躍り出た。
「それとこれとは全く別の問題だ。不幸な体験を経たものは約束を破ってよいということにはならない」
 幸村は神経質そうに目を細めた。
「参謀殿も頭が固いな。それを言い出したら、そもそもそんな協定なんか無意味じゃないか」
 柳は珍しく機嫌を損ねて、眉根を寄せた。彼が文を起こした協定の効力は本物だ。そこを疑われるのは心外だった。
「この誓約書に瑕疵はない!」
「そういう義論じゃないんだよ」
 幸村は呆れた様子で、視線を冷たくした。
「そもそも恋なんて、いつだれが遭遇するかもわからないものだよ。そんな衝動を協定なんかで制御しようという発想がまず間違いなのさ」
 幸村の言い分はめちゃくちゃだ。だが言葉が熱を帯びており、不思議と聞き入ってしまう。
 柳はうなずきたくなる気持ちを抑えて、抗弁を練り上げた。
「しかし、それなら、なぜ誓約書にサインなどした。端から俺は書かないと言えばよかったじゃないか」
 幸村は「そうだね」とあっさり認めた。それから肩をそびやかす。
「でもサインしたらみんな安心できただろ? その隙にに近づけるじゃないか」
 幸村の開き直りに、柳は絶句してしまった。横から仁王が口を出す。
「それは騙し討ちじゃ」
「そうだよ、これは騙まし討ちだ」
 また幸村は肯定した。わざわざ「ペテン師に言われたくはないけどね」と付け加える。悪びれる様子は皆無だ。
「色恋にルールを制定することのほうが間違いだと思うんだけどな」
「じゃ、じゃあ」
 それまで沈黙していた赤也が口を切った。幸村は頬に笑みをたたえて、このかわいい後輩が何を言い出すのか見守る。
「ルール無用ってことは、俺が先輩に告ってもいいんですよね?」
 幸村の表情が静止した。気難しそうに目を細めて、じっと赤也の瞳をながめる。
 気まずくなって赤也のほうから視線を逸らしたタイミングで、幸村はふっと口端に笑みを浮かべた。あたりを吹雪かせるような冷笑だった。
「できるものならね」
 そう短く告げ、更衣を済ませて立ち去った。暗い表情で立ち尽くす赤也の背中を叩いて、丸井が励ます。
「女はだけじゃねーから安心しろって」
「……ですが、さんはひとりしかいないのも事実です」
 ロッカーを閉める音に、柳生のひっそりとしたつぶやきが重なった。我関せずの態度を貫いていたが、彼もまたしっかり失恋していたらしい。部室に悲愴感が満ち、重苦しい沈黙がおのおのの肩にのしかかる。
 結局、丸井がのためにふたりの仲を祝福してやろうと言い出し、いったんはそれで話がまとまったかに見えた。だが依然として紛争の芽は残る。
 ここで場面は冒頭に戻る。

 幸村の許可を得て、入室してきたマネージャーはにっこりと微笑み、部員全員を見回した。彼女に視線を向けられるだけで、部活後の火照った皮膚がさらに紅潮する。
 だが彼女は自分が部員からの恋情の的になっていることは、もちろん知る由もない。話を切り出す。
「二十四日のことはみんな忘れてないよね?」
「もちろん忘れてねっすよ!」
 赤也が代表して返事をした。
 は「ありがとう」とはにかんだ。彼女から笑顔をおくられて、彼はうっとりした顔つきになる。
「その日は部活はお休み。部室でパーティやるから、みんな是非出席してね。もし出れない人いたら手を挙げて」
 彼女の呼びかけに、挙手する者は出なかった。それを確認した彼女は、満足げにうなずいて、部室を出る。幸村の前を通りかかった折、一瞬だけ足を止めて、意味ありげに視線を交わした。
 そのアイコンタクトの意味は不明だ。このあと合流してデートに繰り出そうという意図があるのかもしれないし、単に視線を重ねただけなのかもしれない。それは恋人同士にしかうかがい知れない秘密のやりとりだ。
 だがに恋するレギュラー陣に失望の念を抱かせるには、十分すぎるほど親密な場面だった。
「それじゃあ、お疲れ様」
 やはりと約束があるのか、幸村はさっさと着替えて部室を出た。残されたメンバーは顔をつきあわせ、密談を始める。
「いまさら幸村からを奪おうなどとは思わんが……やはりこうしょっちゅうあてられては、なかなか堪えるな」
 真田が厳しい顔つきで腕を組み、その言い分に柳もうなずいた。かといってをテニス部から追い出すわけにもいかない。まさに抜き差しならない現状だった。
 丸井はロッカーに背中を預け、部活後の疲労感をはらんだ視線を宙に投げた。
「そんなにが好きなら告ればいいじゃん」
「これで俺たちの中からに告白する者が出たら、さらに空気が乱れるぞ」
 柳の警告に、一同はうなずいた。部内の和を乱す真似はしたくない。それは全員の共通の思いだ。だがこのまま何もせず、ただ手を拱くのも失望感に苛まれるばかりで悔しい。それもまた全員の思いだった。
 ふと仁王が何事か思いついた様子で「あ」と声をあげた。
「なんだ? どうした仁王」
 真田に聞き返されるが、仁王は笑みを浮かべるばかりで、すぐには答えない。ロッカーのそばにいる丸井のそばへにじり寄る。
 仁王が何かを囁き、それに丸井は耳を傾けた。
「どうじゃ、乗ってみんか?」
 丸井はおもむろにガムに息を吹き込んだ。ガムは風船をかたどり、彼の口先から膨らむ。やがて飽和した二酸化炭素の質量を抱えきれず、ガムの膜は破裂する。
 丸井は破れた瞬間、ガムを吸い込み、口の中へしまった。
「悪趣味だな」
 それが仁王の提案への反応らしい。だがまだすべて言い終えていない。仁王も丸井の続きの言葉を聞くべく待機する。
 丸井は赤い前髪をくしゃくしゃにかき乱してから、いたずらっぽく笑った。
「でも、そういう悪趣味なのが好きなんだよな、俺」
 味のしなくなったガムを包み紙に吐き出した。ポケットをまさぐり、運悪くガムのストックを切らしてしまったことに気づく。そろそろ何か、新しい刺激が欲しいところだ。
 丸井はロッカーから背を離した。立ち上がるなり、仁王に向かって拳を突き出した。その意図を理解した仁王も、拳を投げ返す。
「いぇい」の短い歓声にあわせて、ふたつの拳がぶつかった。契約成立だ。互いに口を斜めに曲げているのが、ふたりが悪党であることの証拠だった。
「いったい、何をするつもりなんだ?」
「お前らが望むことを」
 訝る柳が問い詰めてきたが、丸井の返答は思わせぶりで曖昧なものに終始した。一方の仁王のもとへは真田が真意をただしに行く。
「何やらペテンを考えているらしいな。今回ばかりは俺も止めようとは思わん。思わんが……事前に何をするつもりなのかを、責任者として把握しておく必要がある」
「それには及ばんよ」
 仁王は一歩後ろに引いて、真田の追及を逃れた。そうしながら手を払い、丸井に外へ出るよう合図をする。
 丸井も意図を了解し、先立って部室をあとにした。
 幸村を心の底から祝福することは到底出来ない。だが追放するほど冷徹にもなりきれない。ぬるま湯に浸かり続けるのも癪だ。仁王と丸井がなんらかの突風を吹かそうというのであれば、反対する理由はない。
 だがこの期に及んで、彼らの脳髄に深く打ち込まれた良心が、戸惑いの声を上げ始める。テニス部の空気が乱されることはないのか。だがだれひとりとして、ドアノブに手をかけた仁王を追う者はいなかった。
 彼は出る間際にひとこと言い残した。
「言ったじゃろ? 俺らがこれからすることは、お前さんらの望みでもあるんじゃ」
 彼らが何をするのかはわからない。それでも止めなかった点においては共犯者だ。
 柳は心配そうに真田をじっと見つめた。真田も眉間に皺を寄せたが、とうとう何も言わなかった。ふたりを見送った後になって、何かを言ったところで、それは言い訳でしかない。
 残された彼らにできるのは、パーティの席で何が起こるのか、それを見届けることだけだった。

 翌日、赤也がほかの二年連中を連れて、幸村のもとをおとずれた。
「部長、こいつら来年レギュラーなりたいんすよ。でもなかなか上手くなれねえって悩んでて……」
 幸村は優しく出迎えこそしたが、隙を突いて赤也に詰問した。
「どうして俺なんだい? こういう話はいつも柳に持って行ってるだろ」
 赤也は狼狽しなかった。彼の脳裏には想定問答集が積み上げられており、その中から適当な回答を口にするだけでいい。努めていつも通りにふるまった。
「だからなんすよ。いつも柳先輩にアドバイスもらってるのに、成果が上がらないから、正直もう、こいつらを柳先輩のとこに連れて行くの気まずいんすよね」
「ふうん……なるほどね」
 話の筋は通っているだけに、追い払えない。だが赤也たちの訪問には何か裏がある。それを直感だけで見抜いた幸村は、後輩の面倒を見る傍らで、いったい何が起こっているのか考えをめぐらせた。彼らが自分のもとへきたのが何者かの差し金だとしたら、赤也に受け答えの指南をしたのも同じ人物だろう。それは立海大付属の頭脳、柳をおいてほかにはいない。
 だが、とそこまで考えて幸村は首を傾げた。そうだとしても、柳がそんな悪巧みに手を貸すとは考えにくい。大方、主犯は仁王だ。あのふたりが手を携えて行動するとなれば、自ずと目的は限られてくる。
「……か?」
 結論にたどりついた瞬間、幸村は赤也たちを捨て置いて駆け出した。二年連中は目を丸くして部長を見送るしかできない。
 ただ赤也だけが悔しそうに舌打ちし、スマートフォンを取り出した。仁王に「引き止め失敗」とメッセージを飛ばす。だがその着信を告げる電子音が仁王のスマートフォンから発せられたとき、すでに目的は達成されていた。
 遡ること十分前、赤也たちが幸村の目をごまかすあいだを狙って、仁王と丸井がに接触していた。
、パーティの準備は進んどるか?」
「俺たちにできることがあればなんでも言ってくれよ」
「ありがとう、ふたりとも」
 はいつもの満面の笑顔を浮かべる。草木が芽生え、花びらが開くような、鮮やかな笑みだ。
 彼女の明るさを真っ向から浴びながら、しかし彼らは怯まなかった。ミッション達成はすべてに優先する。巻き込まれる彼女をかわいそうに思う気持ちがないわけではなかったが、いまさら後には引けない。
「ところで、余興はなんか決まってんの?」
「余興?」
 は目を白黒させながら、丸井に向き直った。何も考えていなかった様子だ。
「お菓子とケーキにジュースくらいしか用意してなかった」
「それはいかんのぉ」
 仁王はわざとらしく眉根を寄せる。
「部員の中には口下手なやつもおるじゃろ。そいつらが黙ってみてても楽しめる出し物は必要やと思うぞ」
「なるほど……」
 もっともらしい口車に乗せられ、は感心してうなずいた。仁王と丸井はほんの一瞬見交わしあう。納得を得られた機に乗じて、勢いに任せて攻め立てるのが定石だ。
 仁王は身を乗り出し、の瞳の中をのぞきこんだ。
「そこでじゃ、俺らにいいアイデアがある。コスプレはどうじゃろう?」
「コスプレ?」
「そうそう。出し物って言っても、複雑な奴はいまから仕込んだって間に合わねえ。その点コスプレなら、着替えるだけだからいいんじゃねえ? 盛り上がりそうじゃん!」
 は機嫌よくうなずいていたが、急に表情を曇らせた。
「でも、いまから用意して間に合うかな」
「心配しなさんな。当てもないのに声をかけたりはせんよ」
 仁王が力をこめてを見返した。
 彼女はまた満面に笑顔を咲かせてうなずく。パーティが成功に近づいたことを喜んでいるのだろう。
 が無邪気にはしゃぐ姿を見て、仁王と丸井の胸裏に罪悪感がちらついたが、すぐさま飲み下した。
 丸井が一歩踏み出し、の耳元に口を寄せる。最後の仕上げに取りかからなければならない。
「この話は幸村くんにしないほうがいいぜ。……実はそのコスプレ、幸村くんが好きなコスプレなんだよな。サプライズ、したいだろぃ?」
 は弾かれたように顔を上げた。照れくさそうに頬を緩ませる。付き合い始めてまもないころが、いちばん気分の高揚する時期だ。恋人を喜ばせるために、できることはなんでもしてやりたくなる。
 そんな心の運びを見透かして、丸井は話を持ちかけたのだった。が否定しないのを確認してから、いかにも物分りのよさそうなふうを装い「うんうん」と首を縦に振る。
「せっかくの初クリスマスだからな、テニス部で会うだけじゃ寂しいだろぃ? 幸村お気に入りのコスプレを着て、ふたりきりのパーティーになだれこんじまえよ」
「も、もうやだ、丸井くんたら」
 は頬を赤くして横を向いた。手を伸ばし、丸井の肩を照れ隠しに叩く。やがて消え入りそうな声で「ありがとう」とつぶやいた。
「おうっ、お安いご用だぜ」
 丸井は胸を張った。そこへ、仁王のスマートフォンに着信が入る。赤也からだ。幸村を解き放ってしまったらしい。
 仁王らはただちに撤退準備に入る。
 丸井はけして取り乱した様子を見せずに、に念を押した。
「じゃ、衣装はパーティ前にこっそり渡すから。……あと、くれぐれも幸村くんには?」
 聞かれて、彼女はくちびるに人差し指を押し当てた。自信満々に答える。
「内緒!」
「おしっ、そんじゃ、俺らそろそろ行くな。またな!」
 と手を振り合って別れる。どうにか幸村が駆けつける前に、話を終わらせることができた。仁王らは安堵して、自販機コーナーの前で足を止めた。どちらからともなくコインを投げ入れ、続けざまにエナジードリンクを買う。まるでグラスを鳴らすかのような調子で、アルミ缶をコツンとあてて、乾杯する。
「当日も上手く行くじゃろうか?」
「さあな」と丸井はここでもドライに振る舞った。エナジードリンクにふくまれる、柑橘の香りが湧き上がる。細やかな炭酸の泡が喉を洗い流す感覚は、冷たくてひどく気持ちよかった。
「俺はあくまでひとの女には興味ねえから」
「じゃ、なんで引き受けてくれたんじゃ」
「決まってるだろぃ」
 エナジードリンクを最後のひと口まで呷った丸井は、空き缶を放り投げた。ゴミ箱までかなり距離があったものの、彼の天才的妙技のなせる業か、いともすんなり入ってしまう。
 丸井はぐっと拳を天に突き出した。
のミニスカサンタ姿には興味があったからな」
 仁王は思わず噴き出した。
「不純じゃの」
「至って健康的だろぃ」
「違いない」

 クリスマスイブ当日。
 仁王は朝練で幸村が後輩の指導をする隙を突いて、部室棟裏にを呼び出した。事前に調達したコスプレの衣装を手渡す。
 は渡された紙袋をのぞきこんで、驚きのあまり飛び上がりそうになった。素っ頓狂な声をあげる。
「わ、私、こんなの着れないよ!」
 某激安量販店で買ってきたと思われる衣装のパッケージには、凹凸の明瞭なラインを惜しげもなく晒したモデルが、サンタクロースの服装を模したミニスカートのワンピースを着て、胸を強調したポーズを取った写真が印刷されていた。
 は赤面し、冷や汗をかきながら、写真をつぶさにながめる。ときおり自分の身体を見下ろして、モデルと比較した。いろいろ足りない上に、いろいろ余っている。とても着こなせそうにない。
「大丈夫じゃ。自信を持ちんしゃい。これを着れば幸村は一発KOじゃ」
「……そ、そうなの?」
「ああ。幸村はこの衣装だけでご飯三杯は軽くいけるそうじゃ」
 そのたとえはよくわからなかったが、幸村が喜んでくれるなら、一肌脱ぎたい気持ちがの中で働く。とはいえ、まさか本当に一肌脱ぐことになるとは考えていなかった。
 彼女が逡巡し出したのを見逃さず、仁王はもうひとつの紙袋を取り出した。を説得するための切り札として用意したアイテムだ。
「大丈夫じゃ。お前さんはひとりじゃない。これを見んしゃい」
 仁王が差し出した紙袋の内側をのぞきこめば、サンタクロースやトナカイの衣装が見えた。
「俺らもこれを着る。せっかくのパーティじゃ、三年が先陣を切って盛り上げんとな」
 の表情に安堵の色が混じった。ひとりでコスプレなど、周囲とのあいだに隙間風が吹きそうで、とても耐えられない。だがほかの三年も一緒なら心強い。覚悟を決めて、受け取った衣装を抱きしめる。
 ふとパッケージのモデルと目が合った。残された問題は、彼女にこの衣装が着こなせるかという点だけだ。少しでも腹を凹ませるため、今日の昼は抜くことに決めた。

 やがて放課後が訪れ、テニス部の部室において、クリスマスイブパーティが開催された。
 柳のツテで生徒会から借りたテーブルが運び込まれ、その上に大量の菓子が並べられた。氷の詰められたクーラーボックスも用意され、そこにはペットボトル飲料が差し込まれる。
 軽音部から借りたスピーカーからは、クリスマスソングが絶えず流れた。
 ほんの今朝まで練習があったため、飾りつけは今日の昼休憩でしか行えず、殺風景になってしまったが、そこは仕方がない。
「せめてツリーは欲しかったな」
 は小さな声でつぶやいた。景観にまで手が届けば完璧だったのにと悔やむ。
 その嘆きを耳にした幸村が、彼女の肩先に手を置いて慰めた。
「ここまでやってくれただけで十分だよ。マネージャーとしての仕事もあるのに、苦労をかけてすまなかったね」
 恋人からの労いの言葉に、は相好を崩した。幸村が手を繋ごうとしてくるのを「こんなところでだめだよ」と拒む。だが本心から拒むつもりがないのは、声の甘さで明らかだ。
 幸村はさらに半歩近づき、に顔を近づける。ふたりの親密な様子を、ほかの部員は遠巻きにながめる。柳生が軽く咳払いをして、眼鏡の位置を直した。レンズが白く反射する。
「幸村くんがああなるとは意外でしたね。もう少しクールなタイプだと思ってましたが」
「まったく、たるんどる」
に惚れてるお前が言っても説得力がないぞ、弦一郎」
 柳に指摘されて、真田は決まり悪そうに視線を伏せた。
「まぁまぁ。そう落ち込むのはよしんしゃい。お前さんらにも幸せのおすそ分けがあるからの」
「幸せのおすそ分け?」
 柳生が不思議そうに眉をひそめた。
「おう」と自信ありげに返事をして、仁王はどこからか紙袋を取り出した。ビニールの包みを真田、丸井、赤也に押しつける。
 真田と赤也は事態が呑みこめず、目を丸くするばかりだったが、ひとり事情を把握する丸井は「げっ」と心底嫌そうな声を出した。
「俺も着るのかよ、これは予想外だぜ」
 不透明の黒いビニール袋で包まれているため、中身はうかがい知れない。
 丸井は口の中で「せめてサンタがいいなぁ、トナカイなんかサンタの使いっぱしりじゃん」とつぶやく一方、仁王から包みを押し付けられた真田と赤也の顔を順に見やり、最後は仁王に視線を移した。
 彼自身も包みを手にしている。発案者として責任を取るつもりはあるようだった。
「で、この人選の根拠は?」
「キャラじゃよ」と仁王は即答する。
「柳生や柳にはいくらなんでも似合わんじゃろ」
「それ言ったら真田もそうじゃね?」
「いや、そこは一周まわって面白いと判断した」
「くだらねえ。でも確かに面白いわ」
 目の前で交わされるやりとりの意味がまったく見えず、真田と赤也はどちらからともなく顔を見合わせた。
 真田が包みを破ろうとしたので、あわてて彼の肩を抱いて、仁王は部室の入り口へ向かって歩き出した。赤也のことは丸井が連れ出す。
 彼らが出て行くのが合図だ。事前にそう聞かされていたも戸口に向かって歩き出した。
「あれ? どこ行くの、
「余興の準備があって。すぐ戻るからね」
 途中で幸村にたずねられたが、仁王のあらかじめ準備した逃げ口上で切り抜けた。部室を出ると、これまた仁王があらかじめ話をつけてあった女子テニス部の部室へ向かい、そこで着替える。真田たちはほかの運動部の部室を借りたらしい。
「うーん、本当にこれで大丈夫なのかなぁ。もっとスタイルいい子に頼んだほうがよかったんじゃ……」
 姿見がないので、全身を確認できないのが不安で仕方ない。
 はコンパクトミラーやスマートフォンのカメラ機能を駆使して、自分の姿の全容を確認しようと努めるも、いまいちイメージがつかめない。仕方なく身だしなみだけは念入りに整えることにする。
 ブラのパッドをいつもより増やし、デコルテや肩まわり、二の腕などふだんならさほど気にかけないところまで、リキッドファンデーションを丁寧に伸ばした。スカートの裾は太ももの中ほどだ。ガーターベルトと網タイツも用意されていたが、それには手をつけなかった。あまりに気恥ずかしい。
 ちょうど手先の化粧を終えたところで、女子テニス部の部室のドアがノックされた。
、そろそろ行こうぜ、開けていいか?」
「うん、開けていい……」
 そう返事をしながら、改めて自分の身体を見下ろしたところで、愕然と立ち尽くした。ドアの開く音が聞こえる。
「やっぱりまだダメ!」
 は大股で戸口へ駆け寄ると、開きかけたドアを押し返した。
 はドアを背にうずくまった。何たる失態だ。上半身しかチェックできていなかった。いざ幸村の前に出るとなると、大胆に脚を晒すのがためらわれた。
「どうしたんだよ、
 ドアの向こうから彼女の行動の不審さを感じ取った丸井が、声をかけてくる。
「なんでもないの、気にしないで」
 さきほどは手をつけなかったガーターベルトと網タイツを着用することにする。これでいくぶん見られるようになったはずだ。
 ひとまずの達成感を得て、はすっくと立ち上がった。深呼吸をして、平常心を取り戻す。ドアノブに手をかけた。
「ごめん、お待たせ丸井くん」
 なかなか返事はなかった。丸井は呆然との容貌をながめるばかりで、一向に口を聞かない。
 あんまりつくづくとながめられるので、は不安になって顔を背けた。コンパクトミラーに向き直る。
「やだっ、やっぱりどこかおかしい? 教えてよー」
 雪の結晶をモチーフにした髪飾りの位置がいまいちなのだろうか。そんな考えをめぐらせつつ、少しでもましに見えるように試行錯誤を繰り返す彼女の手を、サンタクロースの本来は手綱を握るための手袋がつかんだ。
 はとっさに丸井を見上げる。燃えるような赤い色の帽子を始め、サンタクロースの衣装に身を包んだ彼が、これまた情熱的な赤の前髪を掻き揚げ、その光沢を揺らしながら、一心にの姿を凝視する。
「かわいいよ、
「え?」
「想像以上だ。幸村くんにはもったいないぜ」
「え? え?」
 戸惑うばかりで何も言えずにいるのをいいことに、丸井はどんどん距離を詰めた。閉ざしたドアが背後にあるため、に退路はない。
 丸井は頭を上向けて、ぞんざいな手つきで帽子を脱いだ。そのまま適当に放り投げる。帽子を脱いだ折り、うなじを反らした拍子に、皮膚が伸びて喉仏の形が明瞭になった。加えて、腕を振るい、帽子を投げ飛ばした際の鎖骨の動作にの目は引きつけられた。痩せた表層からは窺い知れない、男らしい骨格のありようがあらわになり、目の前の級友はいつしかただの級友でなくなっていたことを、彼女に思い知らせる。
「プレゼント配るのなんかトナカイ連中に任せようぜ。サンタはサンタ同士、夢を語らなくちゃな」
 のワンピースの裾に手をかけたところで、丸井が急に吹き飛んだ。放物線を描いて大きく跳ね上がった。
 はいったい何が起こったのか、確かめる時間の余裕も、精神的な余裕もなかった。ほんの一瞬の出来事だったのだ。
 気がつけば彼女のかたわらには、しゃがみこんで右腕を高く突き上げたポーズを取る、一匹のたくましいトナカイが寄り添っていた。丸井を殴り飛ばしたのはおそらくこのトナカイだろう。
 は小首を傾げる。その横顔には見覚えがある気がした。
「……さ、真田くん?」
 真田トナカイは横を向いた。ご丁寧にツノつきのフードまで被って、トナカイになりきっている。
「やだ、かわいい真田くん! 鼻は赤くしなかったの?」
「む……一応、赤鼻もあったが、その、恥ずかしくてつけなかった」
「ここまでやったんだから、最後までやらないと!」
 真田はおずおずと赤鼻を差し出した。裏側がウレタンで作られており、鼻先を埋めるための穴が開いている。
 まん丸の赤鼻をつまんで、はいたずらっぽく微笑んだ。彼女のほうから間近に迫られる幸せを享受する以外、真田には何も出来ない。
 されるがままになるうちに、真・真田トナカイが爆誕した。
 気恥ずかしさのあまり、鼻の根元の皺はいつもより深く刻まれているが、その先端には赤い球体が光り輝く。
「真田くん、かわいいー! 後輩たちもきっと盛り上がるよ!」
 すっかり鼻の下を伸ばして、スカートの裾からのぞくの脚をちらちらと視線を配る真田の耳元に、シャッター音が届いた。振り向けばトナカイ姿の赤也が仁王立ちになり、スマートフォンのカメラで繰りかえし真田を撮影していた。
「なっ……赤也! いったいどういうつもりだ!」
「いやー、副部長の貴重なお姿をアルバムにおさめておこうかと」
 歯をむき出しにして笑う。意地の悪さを前面に出した表情だった。
 真田は出し抜けに腕を伸ばしたが、赤也はそれをもちろん予期しており、難なく回避した。
「赤也くんも似合ってるよ」
 が赤也の姿を認めて立ち上がる。背伸びをして、赤也のコスプレ姿を上から下まで観察した。
 彼は瞬く間に赤面する。少し目線を落とせば、そこには白いデコルテが広がり、さらにもう少し見下ろせば、いまにも谷間がのぞけそうな膨らみの曲線がある。
「……先輩も似合ってるっすよ」
「本当? お世辞でも嬉しい」
 は手を伸ばし、トナカイのツノを撫でた。
 赤也がうっとりした面持ちを浮かべると、途端に彼女は「隙ありっ」と声を上げ、唐突に人差し指を眼前に突きつけた。そのままつんつんと赤鼻を突っつく。距離が縮まったせいか、あるいは赤鼻を揺らされて、鼻腔の働きが向上したのか。いずれにせよ甘い香りが赤也の理性を揺さぶる。
「……先輩!」
 思わず名前で呼びかけながら、抱きつこうとした。しかし、その寸前で仁王にさらわれてしまう。哀れな赤也は抱きつこうとした目標を急に失い、バランスを崩して倒れこんだ。
 はあわてて助け起こしに走ろうとしたが、横から仁王にあごをつかまれた。
「やだ……急にそんなところ触らないでよ、仁王くん」
 人差し指を顎先にあてがい、親指の腹で頬を撫でる。顔面には数多くの神経が這う。そのうちのいくつかを刺激されたのだろう。
 はびくんと背筋を跳ねさせた。
「敏感やの」
 仁王は喉の奥で笑った。愉悦をはらんだ笑い声だった。
 彼はトナカイの衣装こそ着ているものの、フードや赤鼻は身につけていない。後頭部で束ねた銀髪が、月夜に白く浮かび上がる。
「こんなかわいいサンタ、危なっかしくてどこにもやれんね。今夜は俺の部屋にきんしゃい」
 露出したの背中の上部にてのひらを這わせる。
 は「きゃあっ」とまた仁王の望む反応を示したが、ややあってフリーズした。頬を撫でても、むき出しの肩を突いても、一切動かない。
 それならとどさくさにまぎれて、胸に手を伸ばしたところで、はようやく我に返った。頬も目元も額も紅潮している。まさに満面朱を注ぐといった様子だ。
 彼女は仁王を突き飛ばして走り去る。女子テニス部の部室に駆け込もうとしたところで、幸村に呼び止められた。あまりに彼女の帰りが遅いのを不審がって、様子を見にきたらしい。
!」
 は一瞬、足を止めたが、それだけだった。振り返らずに女子テニス部の部室に駆け込む。仮装した連中がに悪事を働いたのは明らかだ。彼らをひとりひとり凄まじい気迫をこめてにらみつけてから、を追って部室に入ろうとした。だが内側から施錠されている。
 幸村は拳を叩きつけた。
、どうしたんだい? ここを開けてくれ」
「いやだ、無理、絶対無理」
「あいつらに何かされたのか? そうなんだろう!?」
「え? ちがうよ、何もされてない……。とにかく幸村くんはあっち行って!」
 急に拒絶の言葉を投げつけられて、幸村はドアに額をつけた。経緯は知らないが、ほかの連中とはバカバカしい示し合わせて仮装に興じるのに、そこからのけ者にされたばかりか、いまこうして冷たくドアを隔てられ、顔を合わせてももらえない。
 幸村は泣きたい気持ちがこみあげるのを感じた。部の連中を出し抜いてを奪った罰なのだろうか? らしくない考えが胸裏をちらつく。
「俺を嫌いになったの?」
「へっ? なんでそうなるの?」
「だったら俺にもいまのの格好見せてよ。俺だけお預けなんてないよ」
「……別に幸村くんだけお預けってわけじゃないんだけど」
 は観念した様子でドアを開けた。ほんの少し隙間を開け、そこから幸村を招き入れる。彼が入室した瞬間、再びドアは閉ざされた。ご丁寧に鍵もかける。こうして女子テニス部の部室は密室と化す。
 その内部ではがヨガを披露していた。正確には、パフを背中にあてようとして、ぎりぎりのところで手が届かずに、ぷるぷると腕の筋肉を震わせる。
「何してるの?」
「背中にファンデーション塗り忘れたの! ……盲点だった。もう、こんなみっともないところ幸村くんに見られたくなかったのに!」
 はすっかり気落ちして嘆き入る。
「せっかく幸村くんが大好きなサンタコスしたのに。完璧な姿で見て欲しかったよ」
「……俺、サンタコス好きなの?」
 幸村からすれば話が見えない。も小首を傾げた。しばらく考え込んでから、解決の糸口にたどり着く。
 彼女はにわかに「ああっ!」と声をあげ、頭を抱えた。パフとファンデーションのボトルが床に落ちたので、とりあえず幸村が拾ってやった。
「私、仁王くんたちに担がれたんだ!」
「……なんとなく話は見えたよ」
 外の連中にはあとでたっぷり思い知らせてやらなければならない。
 幸村はそう胸に決意を秘める一方で、目の前のいつになく露出度の高いいでたちの恋人をながめた。恋敵のお膳立てに乗るようで癪だったが、せっかくの機会を逃す手はない。
 幸村はファンデーションのボトルをしぼり、パフに垂らした。の肩をつかむ。
「幸村くん?」
「背中にファンデーション塗るんだろ? 手伝ってあげるよ」
「え、いや、もうこれ脱ぐから……余興のカラオケは制服で歌うよ」
 あの服装で歌う予定だったらしい。立海テニス部の誇るマドンナマネージャーがそうまでサービスすれば、今宵はさぞかし盛り上がるにちがいない。だがその前に恋人としてほんのひととき独占するくらいは許されるべきだ。
 は幸村の手をどかそうとしたが、意外なほど力がこめられている。しっかりと肩を抑えこまれ、気がつけば膝をわき腹を横切る形で差し込まれている。そのまま難なく組み敷かれた。
「パフじゃ塗りにくいな」
 すっかりを制圧した幸村は、彼女の肩を押さえるのをやめ、今度は腰に手をまわした。そうして抱きかかえながら、もう一方の手にファンデーションをつけ、薄い背中を撫でまわす。
 彼女はさきほど仁王に触れられたときよりもずっと敏感に跳ねた。幸村にしがみついて、涙を目じりに滲ませる。
 幸村ははぁっと体温のこもった息を吐き出した。彼の下で熱がくすぶり、それは逃げ場を求めてのたうちまわる。
「これはきついな……。我慢できないかも」
 幸村の声が掠れはじめる。ワンピースの下に指をくぐらせた。が反射的にうなじを反らした。
 あられもない嬌声をあげながら、彼女は懸命に快楽に抗った。流されてはいけない。震える声で提案する。
「幸村くん……。とりあえず、この場は引こうよ」
「それで?」
「……パーティが終わってから、ゆっくり。ね?」
 桜色のリップの引かれたくちびるの艶に、幸村は引き寄せられた。貪るようなキスをする。も求められるがままに舌を差し出した。くちづけを終えたふたりは、のほうから身を離した。髪と着衣の乱れを整える。
「先、戻ってて。俺はもう少し落ち着いてから行くよ」
 幸村は興奮のあまり冴えた目つきをして語った。とてもすぐに立ち上がれる状態ではない。それは生理的な問題だ。
 それにはあえて触れずに、は了解した。幸村の羽織るブレザーを拾い上げる。
「借りるよ」と事後報告で伝えた。
 彼女はそれを肩にまとい、ファンデーションにまみれた背中を隠した。部屋を出る間際に「汚しちゃったらごめんね」とウインクをする。
 幸村は笑みを漏らして、彼も片目をつむってみせた。
「今夜、そのワンピースを汚しちゃうだろうから、それでおあいこにしよう」
 は意味を呑み込めない様子で立ち去った。だがつまずきかけた足取りの不安定さが、彼女の内心の狼狽を如実に示している。
 は部室へ戻ると、長いあいだ中座したことを詫び、早速トナカイを従え「恋人がサンタクロース」を披露した。歌詞の内容に反して、今宵のサンタクロースは彼女が務めることになりそうだったが、それも悪くはない。まだ聖夜は始まったばかりだ。
 余談ではあるが、ミニスカサンタの衣装に彼シャツならぬ彼ブレザーを羽織ったの姿は、色気と背徳感が絶妙にマッチしているといたく好評だった。
 立海マドンナ伝説の貴重な一ページとして記録され、部員間で末永く共有されることとなる。

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