青春メランコリック

 ふたりの出会いは、去る八月に開かれた合同学園祭だった。関東六校のテニス部が一堂に会し、模擬店を出した。参加は原則としてテニス部員のみとされた。ただ例外があり、氷帝学園の跡部部長率いる学園祭実行委員会に所属し、出店準備の進行管理を担うため、各校から一名ずつテニス部以外の生徒から委員が選ばれた。
 立海の運営委員を務めたのが、だった。
 彼女は全体を見渡す視野の広さと、一人ひとりを細やかに観察する繊細さをあわせもった人物だった。加えて、いま相手が何を求めるのか、それを察知する能力に長けていた。
 当時、幸村は病床を離れてまもなかった。医師からのすすめで、入院前の生活に少しずつ身体を戻すべく、外出の機会を増やそうとしていた。
 学園祭への出店を聞かされた彼は、視察のため会場をおとずれ、そこでと出会った。
「幸村精市だ。君みたいな優秀な委員に来てもらえて、嬉しいよ」
 は肯定するでも、否定するでもなく、慎ましやかにほほ笑んだ。そうした態度と、日ごろの働きぶりを見て、はじめこそ感心しただけだったが、その気持ちが恋へ発展するのに月日は要さなかった。
 八月の末、模擬店の準備が完了したとから報告を受けた幸村は、こともなげに誘いの言葉を口にした。
「準備お疲れ様。それも、さんの頑張りのおかげだね。何かお礼をさせてよ。……明日は休みだよね? よければ出かけないか」
 電話口から聞こえる彼女の声に、少しの戸惑いと、羞恥がまじる。
「いいえ、とんでもないです。真田先輩の指揮ぶりには及びません」
「ああ、真田は真田でよくやったよ。でも、俺は君のほうをより評価してる。連中の体力は、底なしだ。女子ひとりでついていくのは大変だったと思うよ」
「皆さんよくしてくれましたので、そこは大丈夫でした」
 沈黙が生まれる。
 が不思議に思って呼びかけると、幸村は憂いをこめた声色を出した。
「皆さん、に俺も入りたかったな。言っても返らないことだけど。
 君と一緒にやりたかったよ」
「幸村先輩……」
 弱みを見せた後で、すかさず、同情心につけこむ。
「だからこそ、お礼がしたいんだよ。俺の不在を守ってくれたさんにね。もちろん、それだけじゃない。ねぎらいをしたいという気持ちも本当だよ」
 そこで一度言葉を切り、携帯電話を持ち直す。
「それとも、俺と並んで歩くのは恥ずかしいかな。一応、その程度の男ではないつもりなんだけど」
 は笑い声をたて、快諾した。
 こうして八月末日を共に過ごしたふたりは、学園祭終了を機に交際を始めた。
 どのクラブにも所属していなかったは、幸村の頼みを受け、テニス部のマネージャーとして活動を始めた。柳の残した方針に沿って、全部員の練習カリキュラムの詳細を決定し、それが適切に行われているかを観察するのが、彼女の役割だった。
「また来たんすか、幸村先輩」
 OBとして後輩を激励する。その大義名分のもとに、引退後も幸村は足しげく古巣を訪ねた。あまりの頻度に辟易した新部長の赤也は、呆れた表情を浮かべて出迎えた。
 幸村は無視してのほうを向いた。
「赤也は素直じゃないね。素直に尻尾をふれば、かわいがってあげるのに」
「尻尾って……俺は犬っすか」
 ふたりのやりとりを聞いて、はバインダーから顔を上げて、少し笑った。
 遠くから一年生の呼ぶ声がする。を呼んでいた。
「待って、いま行くから」
 そう返事をして、幸村に挨拶をしてから、彼女はその場をあとにした。
 お目当ての彼女に去られてしまっては、ここに来た甲斐もない。だがすぐに立ち去るのは露骨すぎるかと思い直して、幸村は備品のラケットを握った。
「せっかく来たからね。相手をしてあげるよ、赤也」
「マジっすか、先輩!」
 赤也は喜び勇んでコートに駆け出そうとして、ポロシャツの襟に喉を締め付けられた。幸村が後方から手を伸ばして、しっかりと襟元をつかんでいる。
 とっさのことに振り返って抗議しようとする赤也だったが、それより早く幸村がささやいた。
「わかってるよね? 赤也。なぜ彼女がここでマネージャーをしてるのか」
「それは、幸村先輩があいつの事務処理? っつーの、そういう才能を評価してるからじゃ……」
 幸村は呆れて息をついた。どう決着を図ったものか、と決めかねて、細い首を傾け、ひとまず赤也を睨みつけた。怒っているのだと伝えなければ、はじまりそうにない。
 途端に縮こまる後輩をながめて、ひとまずの満足を得る。
 いつか、こうなることはわかっていた。こうならないはずはなかったのだ。
 わかっていて、この事態を招いたのは、一縷の可能性に賭けたからだった。
 すなわち、赤也が自分への感謝の証として、あるいは忠誠心のしるしとして、はたまた畏怖ゆえに自制心を持ち続けるのではないか、という観測だった。
 けれどもそれはあまりに安易な発想だった。幸村という男は楽観的だ。それは彼がかつて死を目前に控えた経験があるからだ。悪いふうには考えないようにする。悲観的になっても得るものはない。だからといって割り切れないことばかりではない。
「それだけじゃないって、もう気づいてるだろ」
 口調こそ穏やかなままだったが、声には険がひそみはじめた。
 背後を取られた赤也からは、幸村の表情はうかがい知れない。それが赤也の不安を増大させた。戦慄しながらも、成り行きに身を任せるしかない。
「赤也……君はボディーガードなんだ。に悪い虫がとまらないように、羽音がしたら駆けつけて、追い払う。その役割を務めてくれればいい」
「……も、もしかして、部長、疑ってるんすか、俺とあいつのこと」
「赤也はよくと話し込んでるよね。俺が来るたびふたりでいる」
 赤也の額に脂汗がにじむ。彼からを呼び出してばかりいるわけでないのは事実だ。幸村が信じてくれるかどうかは別の問題だが。ただ、と会話しないと調子が出ない気がして、彼女のもとを訪れるのが日課になっていたのも、もうひとつの事実だった。
 出し抜けに何かがこめかみに押し当てられた。赤也はびくりと肩を跳ねさせる。フェイスタオルだ。おかしそうに幸村の笑い声が響いた。
「それはあげるよ。俺からの差し入れだ。……コートで待ってるよ」
 フェイスタオルがはらりと落ちた。それを拾い上げると、赤也は顔周りや首元に浮かぶ冷や汗を拭った。彼にとって幸村は尊敬の対象だ。裏切る真似はできない。
 赤也は額を伏せる。大丈夫、まだ好きなわけじゃない。距離の取り方を少し間違えただけだ。フェイスタオルで顔を覆う。涙が出そうだったが、練習の厳しさのせいだと言い訳し、ラケットを取りに向かった。

 この一件があってからというもの、赤也はのことを避けるようにふるまった。
 新部長とマネージャーがまともに口をきかない異様さは、瞬く間に部内に不安として伝播する。
 まったく顔を合わせないわけではなかったが、ふたりで話し込む機会をなくした。これに弱り果てたのがだ。
 彼女からすれば、なぜ赤也が自分を遠ざけるのか、皆目見当がつかない。
 ただちに幸村に詳細を伝えて、アドバイスを乞うた。
「ふうん、そんなことになってるのか」
 幸村はあごを上げ、宙をながめて、考えるしぐさをした。そのまま視線を移ろわせ、の姿をとらえる。
「赤也も、あれで繊細なところがあるからね。部長の重責と闘ってるんだろう。彼が距離を置きたがってるなら、しばらくは放っておいたほうがいいね。俺からタイミングを見て話してみよう」
 は沈黙した。ひとしきり黙り込んでから、承知した。しかし彼女の眼差しには揺らぎがあった。いつもの彼であれば、すぐに赤也と面談の場をもうけて、解決を図ろうとするはずだ。
 何かを隠している。皮肉にも幸村を彼女と引き寄せた彼女の観察眼が、こんどは恋人を疑うきっかけになってしまったのだ。理由は不明だが、恋人であり前部長である幸村が介入を拒む以上、やむをえない。彼女なりに行動してみるしかなかった。

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