さよならだけが人生だ

「俺、向こうに戻るよ。留学する」
 そう言ったリョーマの表情はおろか、声すらもまったくの平静だった。日常会話のときと同じ顔。いまのって重大発表じゃなかったの?
「ふうん、そうなんだ」
 あんまりにもさりげなかったから、軽く相槌を打つしかなかった。だって、ほかにどうしろっていうの?
 リョーマが小さくうなずく。
 テレビのスピーカーから、ゲームの音楽が流れ出る。それがせめてもの救いだった。完全な沈黙にはきっと耐えられない。
 ベッドに腰かけた私は、つと立ち上がってリョーマの隣へ座りなおした。首を倒して、恋人の肩に頭を預けた。
「向こうって……アメリカ、だよね?」
「うん」
「そっか」
 私は気のない返事をする。本当はどこだってよかった。別にリョーマの行き先なんてどうでもいい。ついていくわけじゃない。
 私の五感が知るのは、リョーマのいなくなったあとの風景だけだ。いままで彼で占められていた空間を、どうやってふさげばいいんだろう。途方もない大きさの虚無に脱力した。
「いつ?」
「二月。卒業したらすぐ」
 二月か……。バレンタインはなんとかなるかな。お返しはもらえないけど。
 私はリョーマの横顔を見つめた。テレビ画面の放つ色彩が、瞳に映ってきらめく。
 リョーマと出会ったのは、三年に入ってからだった。同じクラスになって、付き合いはじめて。一年足らずで別れることになるんだ。
 すべての四季は一度きり。バレンタインやクリスマスの年中行事も。こんどの春を迎えることなく、リョーマはここを離れる。寂しくなるなあ。
「そっか。じゃあ、最初で最後の春だね」
 私は何気なくつぶやいたあと、リョーマから身体を離そうとした。
 でも、逆に抱き寄せられる。しかたなく、そのまま寄り添い続けた。
「三年に入って、付き合いはじめて。……そのとき迎えたのが、最初の春だった。最初で、最後の」
 私は最後という言葉をきっぱりくちにした。それは自分自身の迷いを断ち切る意味だった。私がいくら戸惑ったところで、決断をくだしたのはリョーマだ。私にはどうすることもできない。目の前にある現実を呑み込むしかなかった。たとえそれが、どんなに苦くても。
 リョーマはやにわにコントローラーを投げ出すと、両腕で私を抱きしめた。別れの抱擁か……。でもどうせなら空港とかがいいな。
 なんてロマンチック。どうでもいいことを考える私の耳に、リョーマのささやきが聞こえた。
「待っててくれるよね?」
 ……は? 私はあわててリョーマを突き飛ばした。すばやい動作で立ち上がる。
 突然の暴挙に驚いて床に座り込んだままのリョーマを見下ろした。
「そんなわけないじゃない! 渡米して、それから帰国するまで……三年、ううん、大学も向こうで出るとしたら七年。ひどければもっとかかるよね。そんなに長いあいだ、私に待ってろっていうの?」
 リョーマも立ち上がって、いきりたつ私をなだめてくる。
「電話するよ。長期休暇には帰ってくるから」
「私はそんなに長い間、拘束されるつもりはない」
「離れたら終わるくらいの関係だったんだ、俺たち」
 リョーマが悲しげにつぶやいた。そんな問題じゃない。思いの強さとか、そういうのじゃない。
 離れて暮らせば、きっと私は不安になる。さまざまなことに杞憂して、疲れ果ててしまう。そんな日々には耐えられない。だから、これきりにしたい。
「いいかげんにしてよ。リョーマは私よりテニスを選んだんでしょ。どっちも欲しいだなんて贅沢すぎるよ!」
 そう怒鳴りつけて、リョーマをにらみつける。
 彼は困惑した様子で弁解してきた。
「別に、よりテニスが大事ってわけじゃないよ。離れても好きでいられる自信があるから……」
「リョーマのさっきの論理でいえば、テニスで消えるくらいの存在なんでしょ、私は。だったらいいじゃない、アメリカ行く前に手放してよ!」
 ひと息に言い放って、それから何度も呼吸する。悔しかった。なぜだかわからないけど、とても悔しかった。たぶん、リョーマの思いと私の思い、両方かなえることができないのをもどかしく思ったからだ。
 リョーマはゆっくりうなずいたあとで「わかった」と言った。その声は、聞くほうが顔をしかめてしまうくらい重々しかった。
「別れるよ。でも、渡米するまではこの関係続けよう。……わがままかな、これも」
 私は小さく首を振った。
「そんなことない。私も、そうしたい」
 あらためてリョーマの隣に座りなおす。
 リョーマももう一度腰を下ろした。薄い筋肉に覆われた腕が、私を包み込む。
 ……いまは、一月の末。もうすぐだ、お別れは。

 出発を明日に控えた夜、リョーマから電話が入った。
「明日、十時に発つから」
「そう」
 私はそっけなく了解した。
「じゃあ、その時間帯に、リョーマの番号、メモリから消すよ」
 スマートフォンの向こうに、沈黙が広がった。
 私が居心地の悪さを感じ始めたころになって、リョーマは会話を再開した。
「もう一度、考え直すつもりない?」
「ない」
 私は断固として答えた。
「見送りもいかない。もうこれでおしまい」
……」
「やめようよ。口論したくないの、最後だから。きれいに終わろうよ」
「……わかった。じゃ、バイバイ」
「うん、バイバイ」
 私はスマートフォンを手放した。涙は出ない。全然ロマンチックじゃないな。悲しいっていう実感もない。ただこんなにもむなしいのは、なくしたものの存在が大きいからだろう。でもそんなのいまさらだ。
 私はリョーマを待ち続けることはできなかったし、リョーマもここに残ることはできなかった。
 私たちの完敗だ。くよくよしたってしかたない。私の青春はまだ続く。新しい出会いだってある。

 私はその後ベッドについたけど、なかなか眠れずに、ついには朝を迎えてしまった。時計を見やれば、十時を少しまわったところだ。
 私は起き上がって携帯を手にした。リョーマのデータをクリアする。……おしまい。そう考えるとふしぎなことに安堵感がこみあげた。諦めがついたことで、却ってすっきりしたんだろうな。いまならぐっすり眠れそうだ。
 私はベッドに入った。心地よい睡眠が、私の身体を包み込む。それはリョーマの腕の感触に似ていた。この期に及んでまだ、私はリョーマを忘れない。

 何かが私を呼んでいる。そんな気がして目を覚ますと、机の上のスマートフォンが呼び出し音を響かせていた。これか、私を呼んでたのは。
 電話に出る気にもなれずに無視していると、しばらくしてまたかかってきた。その間隔たるや、五分ほど。ストーカーかな? 相手は、たぶんリョーマだろう。そんな気がした。だってほかにいないだろうし、私にそこまで執着する人間。
「はいはい、どちらさま?」
 私はやむなく携帯を手にとった。
「……よかった、やっと出てくれた」
 やっぱりリョーマだった。スマートフォンの液晶画面には番号だけが表示されている。
 私がリョーマの名前を削除したからだ。
「ごめん、寝てた。で、何? 到着の報告?」
「……ちがう。あのさ、いまからちょっと出てこれない?」
「はあ?」
 私は窓の外をながめた。もう真っ暗だ。なんで私が出かけなきゃいけないの。アメリカまでこいとか? ありうるな、リョーマ、ちょっと世間離れしすぎてるところあるし。
「さっき行ったんだけど、父親に門前払いされたから」
「……はい?」
 私、さっきから間の抜けた返事ばかりしてる。
「こんな時間にくるな。娘には会わせんとか言われちゃって。印象最悪だね、これは」
「いやちょっと待って。なんか話がおかしくない? だってきみいまアメリカでしょ? ロスとか、ニューヨークとか」
 思えば私、リョーマがどの街へ行ったのかも聞いてない。関心がないわけではなかったけど、リョーマが私から離れていくイメージを具体化したくなくて、あえてたずねなかった。
「ああ、それやめたんだ」
「……やめたって。留学を?」
「うん」
 ……私は絶句した。もう、なんて言えばいいのかわからない。その前に本当なんだろうか。私をからかって遊んでるんじゃないかな。
「本当だよ」
 あ、疑ってるのばれてる。
「窓から顔だしてみてよ。いるから」
 窓を開けて首を突き出してみると、たしかにリョーマらしき人物がいる。その影は私に気づくと手を振ってきた。
「……ちょっと待ってて」
 私はスマートフォンをベッドの上に放り投げると、簡単な防寒具を着込んで外へ出た。

 私が外へ出ると、すぐにリョーマが駆け寄ってきた。……うん、確かにリョーマだ。ずっとここで突っ立てたらしく、かなり寒そうだけど。頬とかりんごみたい。いつも白いだけに、赤みが目立った。
「だいじょうぶ?」
 リョーマはくちびるを震わせている。
「だいじょうぶじゃないかも」
 少し迷ったけど、まわりにだれもいないし、私はリョーマを抱きしめた。……やだ、本当に冷えてる。
「ちょっと、本当にだいじょうぶ?」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくてさあ」
 もう一度顔を覗き込むと、こんどは嬉しそうな表情をしていた。満面の笑顔でつぶやく。
「よかった、なくさなくて」
 リョーマは目的を果たしてご満悦みたいだけど、私はどうも釈然としない。だいたい、どうしてここにいるの? 留学はどうなったの?
 私の視線の意味を読み取ったリョーマが、こちらからたずねるより先に説明しだした。
「留学は、本当に取りやめた。……めちゃくちゃ説教されたけど。でも、いいよ。テニスはどこでだってできる。でも、はいないとだめだから。生きてけそうにないんだ、いまのところ」
 ……バカだ。本当にバカだ。こいつ、何考えてるの? でも、こんなこと言われて感動してる私の頭もどうなのかな。バカふたりでちょうどいいのかも。
 私はリョーマを抱きしめる腕にさらなる力をこめた。リョーマも強く抱き返してくる。
「最後、じゃないよね。訂正してよ」
「……何が?」
 私は聞き返した。
「春。最後って言ってたでしょ。最後じゃなくて、最初の、になったよね」
 言われて、黙ってうなずいた。いつまでもずっとこうしていたかった。リョーマの冷えた身体に体温が芽吹く。そこに春を見つけた気がした。

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