誰もが寝静まった深夜、風が吹き抜ける森の入り口で高耶は空を見上げていた。幾千の星が散らばる夜空は松本に居た頃を思い出させた。

「高耶さん」

 静かに、名前を呼ばれた。
 気配が先ほどからしていたことには気づいていた。そっと高耶の邪魔をしないように、それでも自分が傍にいることを主張するように緩やかに歩み寄ってきた男は、一向に戻ろうとしない高耶に痺れを切らしたように名前を呼ぶ。甘く、他の誰にも聞かせたことのないような声で。
 高耶は振り返らなかった。その必要がないと思ったからだ。案の定、名を呼んだ男、直江は高耶の背に少し凭れるように後ろに座る。背に微かなぬくもりを受けて、高耶はそっと身体の力を抜いて大きなその背に体重を掛けるように凭れ掛かった。安堵する広い背。幾度も高耶を護ってきた背中だ。

「…何を考えているんですか?」
「何も。…ただ、明日もこの空を見られるかどうかは分からないなって」
「高耶さん…」
「未来に希望を抱けないのは、悲しいことじゃない。俺達には護りたいものがあって、そのために毎日毎日生きる。必死になって、命がけで。そうして護りたいものが笑っていてくれるなら、未来(さき)なんて必要ない」

 未来ばかり夢見ていても護りたいものは護れない。だから、今手にあるものしか見ない。希望を抱かない。そうしないと不安と焦りで押しつぶされそうで、とても生きていけそうになかった。

「…せめて、次の日位までは私たちはここに居ると、信じてみませんか?」

 少しばかりの沈黙の後、直江がボソリと言った。直江の前向きな発言はここ最近になってようやく聞くことが出来るようになってきた。それを今ここで言われるとは思ってもみなくて、高耶は少し驚いた。

「明日になったらまたその次の日まで、明後日になったらさらにその次の日まで。一日一日を信じるんです。それなら、怖くありません」
「…お前はそうしてきたのか?」
「いえ…。私は…貴方の居ない日々なんて耐えられなくて、希望も何もあったものではありませんでした。一日一日が長くて、ただ、貴方だけを求めていた」

 顔が見えないこの状況で、高耶は今直江がどんな表情をしているのか分かるような気がした。膝を抱えるようにして座って、その膝を抱きしめる腕に力をこめた。

「けれど今は、貴方がいるので」

 突然、背後のぬくもりが消えたかと思えば、再び熱が高耶を覆った。今度は先ほどとは比べ物にならないくらいに熱い、熱。直江は高耶の背後から包むようにぎゅっと抱きしめていた。

「一日一日が大事で、明日も貴方を護れるようにと、いつも願ってますよ」
「直江…」
「貴方を失いたくない。もう、離れることなんて出来ないんです」

 ぎゅうう、と強く抱きしめられて高耶は安堵の息を吐き出した。そうされることですごく安心している自分がいることに気がついたのは最近だ。気がついた、というより認めたという方が正しいのかもしれない。
 高耶は直江の首筋に、少し顔をめぐらせて擦り寄った。直江の、橘義明という宿体だけが持つ匂いに安堵して目を閉じた。

「私は、明日もあなたの隣に居ます。貴方の傍で、貴方を護らせて…」
「…傍に、いろ。手が届くところに」
「はい」
「お前が言うなら、俺は明日もこの星空を見られると信じる。明日の分だけ、俺は希望を抱く」

 身体の向きを変えて、高耶は直江に正面から抱きついた。

「明日もお前は俺の隣に居て、俺と共に生きていると信じてる」
「高耶さん」
「明日の分だけ、俺を安心させろ」
「…はい」

 クスリと直江が笑う気配が高耶に伝わった。だからまた首筋に頬を摺り寄せて、甘えて見せた。近づく顔に薄っすらと目を開けて、静かに唇をあわせる。触れるだけでは足りなくて、何度も擦り寄って舌を絡めた。

「たくさん安心させてあげます。だから、傍にいてください」
「…ああ」

 幾千の星が広がる夜空の下で、二人はただただ、お互いのぬくもりだけを求めた。
 先の見えぬ未来のために、星に祈りを捧げながら。




END


2009.8.29



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