どこまでも続く冷たい石壁に挟まれ、せまい廊下を進む。

 苔のこびりついた壁が途切れると、そこからは鉄格子で区切られた空の座敷牢が並び、均等な距離をあけて点々と存在する不気味な牢の並びをさらに通り過ぎると、突き当たりとなる正面の壁に分厚い鉄扉が見えた。

「緊張しなくても大丈夫ですよ、姫様」

 先を歩く久々宮のマキが、努めて気楽な声で言う。
 もはや気休めにもならないその言葉を聞いて華絵は蒼白の面持ちで頷き、知らず知らずのうちに隣を歩くレンの手を握り締めた。


 躾(しつけ)の間は、藤代邸の地下にある。
 当主直々の命により突然その場所へ呼び出された二人は、多くを語ってはくれないマキに連れられて不気味な地下を進む。
 はじめはきょとんとしていた華絵も、徐々に顔を強張らせ始め、この先に待つ正体不明の恐怖に冷や汗を浮かべ始めていた。

「代々続くちょっとした儀式です。どの家の楔姫さまも、経験なさってることですよ」

 マキの言葉を信じたいが、照明もない陰鬱な地下を歩いているとその雰囲気だけで震え上がりそうになってしまう。
 ドクドクと音を立てる心臓を沈めようと奥歯を噛み締めると、レンが繋いだ手に力を込め、マキには聞こえないよう少女の耳元に唇を寄せてそっと囁いた。

「……落ち着いて。ゆっくり息を吐いて」

 言われたとおり、ふーっと息を吐き出す。
 緊張のあまり無意識に息を吸い込みすぎていたようで、それを一気に吐き出したことで心臓の鼓動は少しだけ緩やかなリズムへと変化した。

 錆びた緑色の鉄扉の前に、当主武永は立っていた。
 濃いえんじ色の長着に灰色の羽織姿で仁王立ちする祖父を見て、華絵は握った手にどっと汗を浮かべる。

「来たな。こちらだ」

 錆びた鉄扉を開く前に、武永はまず一番手前にある座敷牢の一つを指差した。

「狗は下がれ。華絵、こちらに来い」

 一瞬、それを拒むようにしてレンの手に力が込められるのを華絵は感じたが、結局従うより他は無く、少女はゆっくり武永のほうへ近寄り、指差された座敷牢を覗き込む。

 照明もなく薄暗い上に、外界の雑音が地下全体に響いていたため、まさかそこに人が閉じ込められているとは予想だにしていなかった。けれど、武永が指差した先には確かにうごめく人の影が見える。
 武永は少女が吸い込まれるようにして視線を座敷牢に向けたことを確認すると、手持ちの懐中電灯で内部を照らす。

「きゃあああああああぁッ!!」

 思わず華絵は叫んだ。
 次の瞬間、はじかれたようにしてレンが地面を蹴るが、即座にマキが背中で弾き飛ばす。そのわずか一瞬の様子も、武永はしっかりと視界の隅で確認した。

「目を逸らすでない。きちんと見よ」
「嫌ぁッ……! 怖いっ、やだ、怖い!!」

 牢の中でうごめく何かは、初めは人に見えた。
 しかし、ライトで照らされたそれは、到底人の形を成さない異形の肉塊。

 肌には黄疸が所狭しと浮かび、体全体が今にも破裂しそうなほどに膨れ上がり、巨大なボールのようなシルエットを成している。申し訳程度に脇に生えている細長いものは、あれは指だろうか。肉に埋もれて、第二間接あたりまでしか見えない。その指先には長い長い鉤爪が生えており、爪先は全て紫色に変色していた。

 もはや目も鼻も口も確認できないその肉塊が、くぐもった声でうなり声を上げる。ともすれば外界の雑音にかき消されるほどの、儚い声だった。

 僅かに破裂したらしい臍の辺りから、赤くドロリとした液体が一筋流れる。
 その鮮やかな赤い鮮血は、彼がまだ生きていることを強く訴えかけていた。

「忘れるな華絵。これが鬼の成り損ないだ」
「お……に……?」
「これは最終的には自爆のためにブクブクと肥え太り、己の血液でもって人に細菌を植えつける。こやつらの血は、絶対に触れてはならん。凄まじい感染力で自らと同じ異形の鬼へと変貌させる。そういう本能を持った生き物だ」
「……」
「人ならざるもの故、決して人には扱えぬ。これを駆逐できるのは、同じ鬼だけなのだ」

 そう言って武永は、マキの背中に立つレンに振り向き、手招きをしてみせる。

「レンと申したな。この成り損ないをお前の鬼火で焼き払え」

 少年は一瞬躊躇い、怯えきった目で座敷牢を見つめる華絵の姿を見つめる。
 それから覚悟を決めたように歩き出し、座敷牢の鍵をマキが解錠すると、単身で中に踏み入った。

「一瞬で焼き払え。ここには二の姫がいらっしゃる。彼女にこの汚らわしい肉片が一欠けらでも飛び散れば……どうなるかは分かるな?」

 牢に入ったレンに向かい、柵越しからマキがそう声をかける。
 少年はその言葉に頷き、険しい顔つきのまま目を閉じ、右手を伸ばすと肉塊に手を添える。その瞬間、華絵が息を呑む音が聞こえたが、すぐに意識を集中させた。

 青い光がレンの体を取り巻くように浮かび上がる。
 華絵が我妻の養成所で見た時も、彼はこの青い光を放ちながら宙を舞っていた。

 強烈な青の閃光が右手から放たれ、肉塊は青い炎に包まれる。

 物質が消え去ったのかような錯覚を覚えるほどに、肉塊は一瞬で消滅する。
 地面にパラパラ落ちていく燃えカスまでも炎は包み込み、破片が完全に消滅するまで青い鬼火が消えることは無かった。

「ふむ。見事だな」

 武永がそう呟いて頷く。
 そして、驚愕の面持ちで目を見開いている少女に再び向き直った。

「よいか華絵。これが鬼だ。成り損ないを排除するために我が一族のみに生まれてくる異端。お前も藤代の娘ならそろそろ知らねばならぬ。この鬼を、この世に縛り付ける楔の役目をな」
「くさび……」
「マキ、用意をしろ」

 まだ呆然としている華絵を無視して武永はそう命じる。
 マキは頷いて、一層不気味な分厚い鉄扉を解錠すると怯える華絵とレンを中へと誘った。

 鉄扉の中は十畳ほどの石壁に囲まれた部屋で、中央には古ぼけた木製の椅子が置かれ、壁にいくつかの棚が並んでいる。たくさんの薬品がそこに整然と並んでいるのが見えたが、どれもひどく埃をかぶっていて、放置されていた年月を物語っていた。
 この部屋が日ごろ使用されいるとは到底思えない華絵だったが、それはレンも同じだったようで、彼は表情を一層曇らせ目を伏せている。

「座らせろ」

 武永が命じ、マキがレンを中央の椅子に座らせた。

「拘束はするな。忠犬っぷりを披露してもらうぞ」

 棚から縄を取り出したマキをそう制止して、武永は壁にもたれかかり、胸元から取り出した葉巻に火をつける。
 鉄扉で閉ざされた狭い部屋に、目に痛いほどの煙が充満していく。でも、それを気にするほどの余裕など華絵には到底ありもしなかった。

「……さて。鬼は有用だが使う前には躾ける必要がある。それも楔の務めだ。本来は凶暴な気性のそれを、性根の底まで躾けあげ、狗と呼ぶ。決して飼い主の手を噛むことがないよう、厳しく繰り返し叩き込むのだ。主人が一体誰なのかを体に教え込め」

 言いながら、武永は吸っていた葉巻を無抵抗なレンの首筋にこすりつける。
 火種がすりつぶされるその熱の痛みにレンは歯を食いしばるが、すぐに飛び込んできた華絵の妨害によって武永の手は離された。

「何をするッ!」

 咄嗟に武永を突き飛ばした華絵に、彼は怒り、すぐさま少女の頬を殴りつけて吹き飛ばす。
 ガタン、と音を立てて立ち上がった少年の肩を、マキが渾身の力で椅子に叩きつけた。

「……レンに、何するんですか」
 真っ赤に腫れた頬を押さえ、涙目で訴えかける少女の口元から一筋の赤い血が流れ落ちる。

 その時、武永とマキはある変化に気付いた。

 マキの力によって椅子に押さえつけられていたレンの体が震え出す。先ほどよりもずっと強い鬼火を全身から放ちながら、彼はいつの間にか伸びた牙をむき出しにして武永を睨み付けている。

「ほう。怒り狂うつもりか若鬼よ」

 そう言って当主はにやりと笑みを浮かべ、地面に横たわり上半身を起こしていた華絵の腹部めがけて鈍い蹴りを入れた。
 少女の軽い体は宙を舞い、壁に叩きつけられて、力をなくしたままずるずると地面に崩れ落ちる。

「……レン、耐えろ」

 押さえつけていたマキがそう囁く。

 少年の体はガタガタと激しい痙攣を起こし、指先の爪は鋭い獣のような鉤爪に成り代わり、首に掛かる程度の髪も今や腰に差し掛かるほどに伸びている。額に青筋を立てて怒るレンのその変化を見て、武永はますます満足げに頷いた。

「若鬼よ。お前がここで怒り狂えば、マキは一瞬にして童子のお前を蹴散らすだろう。そうなれば、この楔はすでに用無し。お前と同じ墓に葬られる定めとなる」
「……やめろっ!」
「そうだ。自制心と戦え。怒り狂えども人の言語を操れ。鬼の欲求よりも主人の命を重んじろ」
「……ッ……」
「華絵、聞こえているか。立て」
「やめろッ! それ以上楔に触れるなッ!!」
 思わず身を乗り出しかけたレンを制止しながら、マキもまた華絵の名を呼んだ。

「華絵様、お家様の命令です、立ちなさい」
「……ぅ……っ」

 鈍いうめき声を上げながら、華絵が何とか頭だけを持ち上げる。
 それから時間をかけて立ち上がり、彼女はぼんやりとした視界にレンの姿を映した。

 長い髪。鋭い爪と牙。彼を包む、怒りの青い炎。

「若鬼よ、それだけの鬼の力を解放しながら自制心に打ち勝った褒美として、これより楔の身の安全は保障しよう。悪いことをしたな。許せよ、華絵」
「……」
 武永の声が遠くに聞こえる。
 先ほどの衝撃からずっと、左耳に膜がはったような感覚が続いている。

「では次の躾けだ、華絵、そこに立てかけてある鉄剣を持て」

 そう命じても、少女はぼんやりと立ち尽くしたまま動かないので、自ら錆びた一本を抜き取り、武永はレンに近寄ってその太股めがけ容赦なく貫通させる。

「……ッ……」
 レンは一瞬顔をしかめたが、傷口はすぐさま青い炎に包まれ、肉にのめり込んだ刃は溶けて落ち、二つに割れた鉄剣がガラガラと音を立てて地面に転がり落ちる。

「頑丈だな。染谷も資質のいい狗に恵まれたもんだ。」

 あっという間に回復していく傷口を眺めながら、武永は感心したように呟く。
 しかしそんな彼の背中を、いつの間にか武永の背後まで来ていた華絵の腕が押しやる。

「やめて……レンを……傷つけないで……」

 息も絶え絶えに訴える華絵の姿を見て、青ざめたのはレンだった。

「楔姫様……っ! 俺は大丈夫ですから後ろに下がっていてください!」
「よろしい、お前の要望どおりやめてやろう。なぁ華絵」

 武永はそう言って、もう一本鉄剣を取り出すと、それを華絵に握らせる。

「お前がやれ。楔としてやつに主従関係を叩き込まなければならぬ」
「……え……」

 うつろだった少女の瞳に、再び恐怖が宿る。

「レン、お前は決して主人の刃に逆らうな。意味が分かるな」

 その言葉を聞いた少年は一瞬不可解そうに目を細めたが、やがて察し、体から発していた鬼火を消した。すると先ほど武永に貫かれた太股の、僅かにふさぎ切れなかった隙間から血が滲み始める。

「華絵、この部屋には20本の鉄剣が置いてある。すべてこやつに差し込むまで、この部屋を出てはならぬ」
「……そん、な……」
「なに、鬼火を使わなくとも狗は頑丈だ。死にはしまい」

 フン、と鼻で笑って武永は鉄扉を開かせ、扉の向こうに姿を消す。

「……1時間後に、私が様子を見に来ます」

 マキもまたそれに続き、二人を躾けの間に残して分厚い鉄扉は閉じられた。



 武永とマキの姿が見えなくなると、華絵は握っていた鉄剣を床に落とし、そのまま崩れ落ちるように床の上でむせび泣いた。
 レンは出血している片足を引きずりながら立ち上がり、激しく泣きじゃくる華絵の背中を撫でる。

 汗でシャツは滲み、少女の黒い髪が背中に張り付く。そこから覗く白い肌には、極度のストレスのためか赤い蕁麻疹が浮き出ていた。レンはその悲壮な背中を見て歯を食いしばる。喉の奥から込み上げてくる熱から逃れられず、幼い少年の青い瞳にもまた、涙が浮かんで零れた。



 砂埃だらけのコンクリの床に座って二人、どのくらいそうしていたのだろうか。

 レンは華絵が泣き止むのを待つと、涙で腫れた少女の顔を持ち上げ、先ほど武永に殴られたであろう頬を用心深く撫で、出血している口内に指を這わせる。それほど深くは切れていないし、衝撃で歯が折れたような形跡も無い。それを確認すると、少年は決意の瞳で立ち上り、残っていた鉄剣を全て椅子の周りに運び、床に放り投げる。

「……レン……何してるの……?」
「目を閉じて、耳をふさいでいて下さい」
「え……」
「すぐに終わりますから」
「やだ、やめて……死んじゃうよっ!!」

 慌てて縋り付き彼の両腕を拘束しようとする華絵からするりと逃れ、椅子に腰掛けたレンは手に取った一本を先ほど武永に貫かれた場所に突き刺す。

「ッ……!」

 鬼の力を使っていた時とは比べ物にならない衝撃と痛みに、少年は思わずうめき、身を捩じらせた。

「やめてぇぇッ……!!」
「……離れて」

 額に汗を浮かべ、奥歯を噛み締めながらレンが言う。けれど華絵はブンブンと首を振って、レンの胸元に抱きついた。

「聞いてください。これを全部突き刺しても俺は死なない。でも、……長引けば危険です」
「……でも、でもっ……」
「大丈夫です。だからどうか、目を閉じていてください」



 部屋には、肉を裂く鈍い音と、少年のうめき声だけが響く。
 華絵は隅で丸くなり、両手を耳にあて、硬く目をつぶりながら小刻みに震えていた。

「……ごめんなさい、……ごめんなさ、……」

 繰り返される鈍い貫通音と共に、ガチガチとうるさい奥歯の隙間から、華絵は無意識に謝罪を繰り返す。
 もう、これが夢なのか現実なのかさえ分からなくなっていた。

「……謝らなくて、いいんです……よ」

 殆ど吐息だけの声で、少年が答えた。
 ヒューヒューと音が抜けていく喉はおぞましいほどにしゃがれていて、彼はどこを貫いたんだろうと考えた。

「ごめんなさい……レン、ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……ッウ、ァッ……クッ……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 少年が身をよじるたびに、その体を貫く無数の剣先がぶつかり合い、カシャンカシャンと不気味な音を立てる。それが鳴る度に華絵は嗚咽して、何度も何度も吐いた。空っぽの胃からはもう透明な胃液しか出てこないというのに、込み上げるものが収まる気配は無い。


「……華……絵……」

 もう殆ど音にならない声で、赤く濡れた少年の唇が少女の名を紡ぐ。
 その片方の端を持ち上げ、彼はかすかに微笑んで最後の一本を体に突き立てる。

 光の消えかけたうつろな青い瞳には、「名前で呼んでほしい」と無邪気に告げる少女の笑顔が浮かんでいた。







「……あそこまでする必要が、あったのでしょうか」

 武永の書斎にて、壁掛け時計の秒針を見上げながらマキが尋ねた。
 すると、革張りの椅子に腰掛けデスクの書類を整理していた武永が鼻を鳴らして笑う。

「あるだろうさ。じき分かる」
「しかし……あれでは忠義を立てさせるどころか、反感を植えつけかねませんが……」

 珍しく口答えしてくる従者に、武永はギロリと鋭い眼光を向けてにらみ付ける。

「忠義も反感もどうでもよい。植えつけねばならないのは恐怖だ」
「……」
「どんなに従順な狗も、裏切るか否かは楔次第。あやつらにとって楔とは神の別名なのだ」
「……お言葉ですが、二の姫はご本家の娘です。それも、危険な思想を抱かないよう細心の注意を払って育てた特別な姫君でした。なのに……今日の出来事は彼女の心の傷となり、癒える日は来ないかも知れません……」

 ほう、と意味ありげに呟いて、武永は髭を撫でる。
 ニヤニヤと不遜な笑みを浮かべる相手を見て、マキは怪訝そうに眉根を寄せた。

「言うではないかマキ。ではお前の楔はどうだ。華絵の母親がどうなったか言ってみろ」
「……菖蒲(あやめ)様は長く忠義を尽くされ、二人の姫をお生みになり、今なおこの家を守ってらっしゃいます」
「ふん。よく言ったものだ。あのような出来損ないの楔……。だが狗は質がいい。その点、華絵も狗の質には恵まれたな」
「…………」

 黙りこくってしまったマキは、時計の針が一時間の経過を告げるのを見るや否や部屋を後にする。
 逃げるようにして去っていった彼の後姿を、武永は不満そうな目つきで見送った。


「……反抗的な狗はいらんのだよ」

 反乱の芽は早いうちに潰しておくべきだが、難しいのはその選定だ。

 誰もいない部屋で武永は重たいまぶたをそっと閉じる。

 どんなに疲れても、老体に鞭打っても、立ち止まることは許されない。長い人生の中でたくさんの勝利を手にしてきたが、頭の中で思い描く途方も無い未来図は、まだ完成の兆しすら見せていない。

 けれど、いずれ現実のものとなるだろう。

 否。現実にするのだ。