華絵のために用意された部屋は、8畳ほどの白い壁に囲われた、ベッド以外に何もないような部屋だった。
 小巻が持ってきてくれた寝間着は白い薄手の着物だったが、空調はよく効いていたので寒さに凍えることもないだろうと安心し、疲れた体を投げ出すようにベッドに横になる。

 もう眠ろうと目を閉じれば、待ち構えていたかのように昼間花咲きの庭で見た光景が目に浮かんだ。
 何も考えたくないのに、思考は勝手に働き始め、あらゆる考えが脳裏に浮かんでは睡眠の邪魔をする。

 サラリとした黒い髪の、青い瞳が印象的な男の人だった。
 その美しさに舞い上がってしまった華絵を見ても、眉1つ動かさない冷静な人。

――私の、狗って……本当なのかしら

 阿久津の話してくれた内容はあまりにも突飛で、あまりにも浮世離れしていて、とても理解の範疇を超えていた。

 でもどこかで、全て本当なのだろうとも思っていた。

 あの時、ゼンを抱いたレンを見た時、彼ならば言うことを聞いてくれると思った。
 理屈なんかを通り越して、気がついたら彼に命じていた。

 そして実際彼は華絵に従った。あれだけの準備をしてゼンの捕獲に尽くしていたのに、その彼をあっさりと逃したのだ。

 そう言えば、そのことで彼はなにか罰を受けるのだろうか。
 彼にそれを命じた華絵にも、罰を与えられるのだろうか。

――ああまた考えてしまう……もう寝ないと……

 何度寝返りを打っても、思考は冴えていくばかり。
 ベッドの中で1時間ほどもがいた後、疲れきった体に鞭打って少女は起き上がる。

 何か寝付きの良くなるような温かい飲み物をもらおうと、そっと部屋を出た。

 華絵が寝ていた部屋のフロアはしんと静まっていて、非常灯だけが冷えたリノリウムの床を照らしていた。
 廊下の窓は全てブラインドが下ろされていて、外の景色を窺い知ることすら出来ない。

 不気味さと、居心地の悪さを感じながら小巻の姿を探しにフロアをうろつき、見つけた下り階段を降りてみる。
 下の階に差し掛かった時、わずかに明かりが漏れているドアを見つけ、華絵は近寄った。
 煌々とした蛍光灯の明かりと、会話をしているような数人の話し声。
 
 小巻の声ではないことに気付いてはいたけれど、この際構わないと華絵は扉の取っ手に手を伸ばす。その時、会話の中に自分の名前が上がったことに気付き、思わず身を固くした。

「……華絵に薬は出したんでしょうね」

 若い女性の声だ。
 心当たりはないが、親族の誰かであることは想像に難くない。
 少しだけ険のある彼女の声色を聞いて、開けるに開けられなくなってしまった。
 
「小巻がすすめたが、拒否したようだ」
「……なにそれ。今までずっと飲んでたくせに、今更疑いだしたっていうの?」
「分からんが、彼女に入れ知恵している者がいるらしい。手紙でやりとりしてるそうだが」

 大河原のことだ。
 小巻が喋ったのかと思えば、裏切られたような気持ちになって胸が傷んだが、しょうがない。それが彼女の役目なのだろう。

「少しずつ、思い出してきてるようだ」

 そう呟いているのは、おそらく阿久津だろう。
 先ほど会議室のような場所で話をした男の姿を思い浮かべる。

「まぁいい。薬を食事に混ぜて飲ませればどうせまた記憶は曖昧になるだろうさ」
「全部思い出されたら困るわ。今更華絵がレンの飼い主ヅラをするなんて、耐えられない」
「それはないだろ。あのペアは長年接触させない方針でやってきた。今それをやめれば、レンの研究だって全部水の泡になるからな」
「……いっそゼンに食わせればよかったのに」
「国枝」
「レンは華絵が居なくても生きていけるわ。この七年でそれを証明してる。それにゼンの存在だって、狗が楔姫なしに生きていける何よりの証拠になるわ」
「死んで会えないのと、生きていて会わないのじゃまったく違うだろう」
「……同じよ」
「とにかくあのお嬢様にはもうちょっと生きていてもらわんと。せめてレンの研究が終わるまでは」

 伸ばした腕を慎重に引き戻して、華絵は息を殺したまま扉の前から後ずさった。
 
 大切にされているなどと、心から実感できたことは七年の中で一度もなかったけれど、記憶を取り戻しさえすればきっと思い出せるんだと、そう言い聞かせてきた。

 今は見えない愛情を、失った過去に求めてきた。

 ジリジリと後退を続け階段の踊場まで戻ると、しゃがみ込んで震える体を自分で抱きしめる。泣きたいような気がしたけれど、瞳は乾いて、涙の一滴も出てこなかった。

――私……これからどうすればいいんだろう……

 もうここには居られない。強くそう思う。


「……どうなさったんですか」

 ふいに静かな声が聞こえた。
 振り返った華絵の視線の先に、下の階に続く階段の途中でこちらを見上げている青い瞳の青年が映る。しゃがみ込んだまま動かない少女を見て、彼は不思議そうに瞬きをした。

 昼間、異端の様相を見せたあの青年はもう居ない。
 腰まで伸びていた髪は再び首元にかかる程度に切られ、するどい鉤爪も消え去った。
 
 シンプルな白いシャツに黒いズボンを履いた彼は、その圧倒的な美貌と日本人離れした青い瞳を除けば本当にただの青年に見えたが、そうではないことをもう知っている。

「レン……」

 ここで出会ったのが、彼で良かったのかそうではないのか。
 分からないままに立ち上がり、少女は今だ震える両手をそっと胸の前で握りしめる。

「レン、お願いがあるの」

 青年の瞳が、怪訝そうに細められる。

「……あなた、私の言うことに逆らえないって本当なの?」
「…………」

 何も言わない彼を見て、華絵は勝手に納得する。

「私、ここを出たい。行きたい場所があるの。……誰にも知られずに」
「……それは出来ません。あなたをこのビルに置いておくことは、武永様のご命令です」
「ならば一人で行くわ。せめて見逃して」
「……出来ません」
「じゃあ力ずくで止めればいいわ」

 ムキになってそう言うと、階段の途中で立ち止まったままの彼の横を通り過ぎ、早足で駆け下りる。けれど心の勢いに足取りが追いつかず、段の縁に爪先を引っ掛け、あわや落下かと息を呑んだ瞬間、素早く伸びてきた腕に上体を支えらる。

 肝が冷える思いをした華絵は、しばらく目を見開いたまま階下の床を眺め、助かったことを実感すると震える唇で息を吐いた。

「あ、ありがとう……」
「いえ」

 片腕で彼女を抱きかかえていたレンが、変わらぬ静かな声色でそう言うと、そっと腕を離す。それから辺りを確認するように視線を動かし、まだ冷や汗を浮かべる華絵を見下ろす。

「出入口は厳重に警備されています。どうあがいても通してはもらえません」
「……え」
「非常用の出入口も全て監視されています。どうやって外に出るおつもりですか」
「それは……」

 走って。

 と言うのはあまりにも不毛な気がしたので口ごもる。

「……ならば窓から出るわ」

 悔し紛れにそう言って、ブラインドの降ろされた窓ガラスを見やる。
 
「8階建てのビルです」
「1階からなら降りれるでしょう」
「全階の窓と全ての通気口には熱感知センサーが」
「……」
「気付かれずに外へ出るのは不可能です」
「……ここ、製薬会社のビルなのよね? テロリストとでも戦っているわけ?」

 あまりにも警備過剰なセキュリティに驚いて、思わず皮肉を零す。

「そうです」

 けれど青年は大真面目な顔で頷いた。

「あらゆる侵入者を想定して作られたビルです。当然、正しい形でしか外には出られません。諦めて部屋にお戻りください」
「……嫌よっ!」

 そう言って華絵が声を張り上げると、青年は無表情のまま、やや上体をのけぞらせる。そんな彼に詰め寄るようにして、少女は目を吊り上げ胸元の拳を握りしめた。

「もうたくさんだわっ! 人形のように扱われて、自分の事を知らない誰かに決められるのはもう嫌よっ! 私は、……自分の人生を取り戻したいのっ!」
「……」
「大切にされてるんだってずっと言い聞かせてきたけど……もう、無理よ……」

 悲しみでは乾いたままだった瞳が、今、怒りに潤む。

 決して泣くまいと唇を噛みしめる少女をしばらく黙ったまま見つめていた青年は、やがて諦めたように短く息を吐いた。

「……気付かれないようにするのは無理ですが、あなたを連れ出すことなら可能です」
「……え、……本当?」
「それに出るなら早い方がいい。あなたが部屋を出たことで、すでに全階に見回りの者が配置されました。……俺もそうですが」

 やはりあの部屋にもカメラが付けられていたのか。
 もはや監視されることに怒りも沸かないが、なんとなく理不尽を感じて、華絵が眉根を寄せた。 七年間一度も不満を言わなかった自分が、今更憎たらしくさえ思えてくる。

「どうやって出るの?」
「窓からしかありません」

 そう言うやいなや青年は近くの階段の踊場まで移動し、降ろされていたブラインドを引き上げると、窓ガラスを開け放つ。

 途端に煌々とした照明が二人を、ビル全体を照らし、耳を劈くような機械音がフロア全階に鳴り響いた。

「セキュリティが作動しました。姫様、失礼します」

 彼は窓を目一杯開けると、そのまま振り返って背中に立っていた華絵の体を持ち上げる。

「なっ……ま、まさか飛び降りる気!? ここ何階!?」
「7階です。着地までは息を止めていてください」
「は……」
 
 華絵の返事を待たずに、青年は少女を抱えたまま窓枠に足をかけ、そのまま勢い良く夜の空へと飛び出す。

 風を切る轟音と、内臓が破裂しそうな重力の抵抗を感じながら、華絵は無我夢中で自分を支える青年の首もとへしがみついた。
 7階から飛び降りたらしい自分が今どんな状況にあるのかは考えるのも恐ろしいが、やがて来る着地の衝撃からは逃れようもないだろう。
 そう覚悟していたにも関わらず、ふわりとした僅かな振動を感じて、恐る恐る目を開く。
 エレベーターが到着した時のような、ほんの少しの違和感だった。

「それで、目的地はどちらですか」

 夜の景色を背景に、しっかりと地面に立つ青年をその腕の中から見上げ、華絵は驚愕に目を見開きながらも震える声で行き先を告げる。

「すぐに追手が来るので、少し遠回りして行きます」
「こ、このままいくの?」

 抱きかかえられたままの滑稽な自分を指さして尋ねると、青年は真面目な顔をして頷く。

「姫様の足ではすぐに追いつかれますので、少しだけ我慢なさってください」
「……はい」

 すっかり主導権を握られた華絵が、ぽかんと口を開けながら頷く。

 再び風を切って駆け出した青年は、地面の小石を飛び越えるかのような気楽さで易易と跳ねてはビルの門を飛び越え、歩道や人の目を避けるようにして段差や塀を蹴って宙を渡る。
 
 腕の中の華絵には僅かな振動も伝わってこなかったから、余計にその人間離れした脚力に驚いて、やがて驚き疲れると今度はおかしくなって笑い出す。
 
 黙りこんでいた少女が突然笑い出したので、青年は不可解そうな視線をチラリと向けた。

「ご、ごめんなさい……でも、すごすぎて笑ってしまうわ」
「……はぁ。……ですが俺は狗なので」

 当然のことですと告げられた彼の言葉を聞いて、華絵は初めて実感した。
 彼が人ではないこと。この世ならざる異端が、ずっと一族と共にあったこと。

「そうね……あなたにとってはきっと、普通のことなのよね」
「はい」
「変ね。私の家なのに……今はもう、遠い遠い、知らない世界の事みたいに感じる」
「…………」
「でも……そうじゃないのね……」

 悲しそうに目を伏せて、少女が呟く。
 体を支える腕に、わずかに力が込められたのは気のせいだろうか。

 きっとそうだろう。

 そっと見上げた青い瞳からは、何の感情も見つけられない。
 青年は華絵の言葉に何も返さず、ただ真っ直ぐに前だけを向いて、夜の闇を駆け続けた。