突如放たれた青い閃光が、ゼンの体を貫いた。

 驚いて振り返った赤い鬼を、青い鬼火が容赦なく捕らえ、その四肢を封じるようにして地に張り付ける。

「……なっ」

 何事かと視線を彷徨わせた。
 華絵はすでに虫の息で、赤い業火に燃えながら確実に苦しみ、死への道を歩みだしている。
 彼女の仕業ではないだろう。

 わずかに焦りを滲ませたゼンが、洞窟の入口に視線を投げる。

 やがて暗がりから現れたレンの姿を見て、赤い瞳の鬼はわずかに目を見開いた。

 追ってくることは想定していたが、どうにも様子がおかしい。 
 鮮やかな青い炎をまとう彼は、先ほど雑木林であっさりとゼンの手に落ちた彼とは違う。
 むき出しの牙や鉤爪に変化はなくても、鬼火の質が違う。

 彼が一線を越えて"こちら側"へ来てしまったことは、一目見て分かった。

「……華絵様の死を前に我を見失いましたか?」

 レンは答えない。その代わりに、瞳をギラつかせてこちらを睨んだまま、獣のような唸り声を上げる。
 そのたびに鬼火は青々と揺れ、燃えたぎった。

「焦ることはないんですよ。華絵様を殺したら、どうせあなたとは喰い合う定め。どちらかが死ぬまで、喰い合うしかない……」

 ゼンの体を拘束する青い鬼火が、その温度を上げる。
 皮膚が一瞬にして焼けただれていくのを感じて、ゼンはうめいた。

 一線を越えてしまえば互角だと思っていたのは、どうやら大きな誤算だったらしい。

「……それでもいい、僕が燃え死ぬか、華絵様が先に燃え死ぬか……」

 チラリと視線を華絵に向ければ、赤い鬼火に包まれながらくぐもった呻き声を上げる少女の姿が見える。皮膚は燃え、その魂も今まさに灰となりかけている。あと少し。あと少しだけあれば、彼女の全てを燃やし尽くすことが出来る。

 そう思ってさらなる殺意を少女に向けた途端、赤い炎はすっと消え去り、少女の体から青い光が放たれる。それは肌を滑らかに滑り、ひどく焼けた全身を癒すような柔らかな動きで、彼女の肌を白に塗り替えていく。

 信じられない思いでレンを見上げれば、青い鬼は今だ獰猛な目つきでゼンを見つめていた。

 無意識に姫を守っているのだろうか。
 無意識に、ゼンの鬼火を打ち消して。

 彼の本性は鬼で、今はただ、敵対する鬼を喰らい尽くすことしか頭にないはずだ。
 自分と同じように。

「……いつまで、鎖に繋がれているつもりですか、鬼なら鬼らしく、この場ごと燃やし尽くしたらどうだっ」

 悔し紛れにゼンが叫ぶ。
 レンが、こんなにも容易くゼンの鬼火を打ち消したとなれば、もう勝機など無いだろう。
 結局は、彼のほうがずっと格上だったということだ。

 でも、だから何だと言うのだ。首輪が外された狗など所詮は理性のない獣。
 こうなってしまえば、藤代の家はもうレンを葬るしか無い。かつてゼンを捨てたように。

 戻る場所も、戻りたい場所も、失えばいい。


「……レン…………ごめんね……」

 少女の、かすかな声が響いた。
 生と死の際をさまよいながら、うわ言のように呟かれたその言葉に、青い鬼の体がびくりと揺れる。
 わずかに震える鋭い鉤爪の手を顔に当て、鬼が呻く。まるで葛藤するかのように。

 やがて震える両手で顔を覆い、レンが崩れ落ちるようにして地面に膝をついた。

 獣のような呻き声は徐々に人の呻きとなり、それも音をなくすと、彼はフラフラとした足取りで横たわる少女の元へ行き、その体を抱き起こす。

 頑丈な首輪が、再び鬼の首にはめられたのをゼンは見た。

 その戒めは鬼が作り出した幻想だ。
 そんなものに喜んで繋がれて、尻尾を振るような真似を、もうずっと昔から続けている。

 なんと愚かで、滑稽な生き物だろうか。


「謝らなくていいですよ」

 そう狗が囁くのを、ゼンは湿った岩肌を見つめながら聞いていた。
 全てが終わったんだと、悟る。
 あの鬼は境界を超えてゼンを完封し、その力を持ったまま再び狗となり姫の元へ戻った。

「……雪絵……さま……」

 敵を討つことすら、出来なかった。
 たった一人の愛する人のために、何も出来なかった。その目に、映ることすらも。

「ゆき……え、……さま……」

 叶うことなら、彼女の鎖に繋がれてみたかった。
 彼女に名前を呼んでもらえたらそれだけで、何でも差し出せる気がした。何でも出来る気がした。
 狗と呼ばれてもいい。愚かでいい。鬼の誇りなどいらない。彼女を守れるのなら、鬼火が尽きてもいい。

 もし愛してもらえるのならば、それだけで、この世界にはもう何も望まない。


「……ゼン」
 誰かの声がそう呼んだ。
 もうまぶたは燃えただれ、この瞳は二度と開かない。それでも、すぐ側に誰かが膝をつく気配がした。

「ゼン……ごめんなさい」

 華絵だ。彼女の声は、雪絵に似ているのだろうか。分からない。
 
「…………ゆる、さない……」

 心の奥に潜む鬼が、地獄から答える。
 これが自分の本当の声なのだろう。もうずっと、この声に支配され続けてきた。
 楔姫を失ったあの日から。

「……あなたに、本当のことを言えなくて……ごめんなさい……」
「…………ダ、……ま……れ」
「でもこれだけは信じて。……お姉ちゃんはあなたを愛してた」
「……」
「あなたを守って欲しいと、私に言ったの。お姉ちゃんは自分が殺されることを知ってた。それから、あなたが生まれてくることも……全部知っていたの。でも、……間に合わなかったの……だから私に託したの。ゼンを守ってほしいって、……私、私は……そんなことも忘れてしまっていた」
 
 何を言っているのだろう。今更戯言を聞かされて、この心が慰められるとでも思っているのか。
 彼女を殺しておいて、何を言っているのだろう。

「もっと早く思い出せていたら、もっと私が強かったら……あなたが鬼に心を喰われてしまう前に……私があなたを守れたら……」

 この世で最後に聞く言葉が、敵の世迷い言とは、この魂はつくづく不遇の定めにあるらしい。

――雪絵様……せめて一目、……お会いしたかった……

 現(うつ)し世に、愛しい人がいると知った。
 彼女に会うために、魂は蘇る。

 行き違うようにして二度と出会えない定めを知れば、心の中の鬼はむせび泣いた。

 それでもまた、この魂はあの世を彷徨い、再び彼女に巡り合えるまで、永遠に輪廻を巡る。
 
 また会えるだろうか。
 今度は、その声を聞くことが出来るだろうか。

 たった一度の逢瀬も叶わなかった、愛しい楔姫。
 あなたのために、また無限の時間を彷徨う。



――ゼン

 対岸で、誰かが呼んでいた。
 切れ長の瞳をした、美しい少女だった。

――ゼン、きっとよ

 そう言って少女が微笑めば、赤い瞳の鬼は涙を浮かべて頷いた。

――きっと、また会いに来て

 必ず、と誓う言葉の代わりに、か細い声の狗が啼く。
 愛していると告げる代わりに、鬼が頬に涙を流す。

 きっとまた、会いに行く。
 この世に咲いた、たった一つの花のために。

 いつかあなたに、出逢うために。