狗にとって楔姫とは、何者にも代えがたい唯一無二の女性だと聞いた。

 一部の例を除き、大抵の場合彼らは同時期に一族の中に生まれる。
 まず楔姫が生まれ、その後を追うようにして狗が生まれる。
 互いの気質に問題がなければ、大概はつがいのように仲良く育てられる。
 少なくとも、どちらかが思春期を迎えるまでは。

 15の歳に、彼らは互いに別々の婚約者を割り当てられる。 

 誰かのかつての執念が、深い愛情が、一族の血脈に流れ続けていて、もはや怨念じみたその想いが昇華されるその時まで、鬼の血は途絶えることがないのだと聞いた。

 だからこそ、姫と狗が結ばれることは許されないのだと。

 それを聞いた時、国枝(くにえ)は心の底から安堵した。

 彼の楔姫になりたいと幼い頃から願い続けてきたけれど、楔姫であるがゆえに彼から遠ざけられ、わずかな接触も叶わない華絵を見ていると、やがて羨ましいとも思えなくなった。

 それでも、時折言葉に出来ない焦燥感が胸をかすめる。

 会えなくても、触れられなくても、決して結ばれない定めでも、いつもどこか彼方の空を眺めているようなレンの姿を見ていると、どうしようもなく悲しくなるのだ。



 富士白第二ビルのとある一室にて、国枝は自分のデスクに腰掛け、点滅するデジタル時計を眺めていた。その隣には、幼い自分とレンの二人が収まった写真立てが並ぶ。

 写真の中の無表情な男の子を見て、国枝がふと口元をゆるめた。

 あの日、嫌がるレンを無理やりカメラの前に立たせた何気ない思い出が蘇る。
 彼はあまり気が乗らなかったようで、それでも国枝の頼みにしぶしぶ大人しく並んでくれた。

 写真の中の二人は14歳で、これから15歳になろうかという思春期真っ盛りの頃だった。
 狗のレンに思春期があったのかどうかは知らないが、少なくとも国枝にはあった。

 だから、彼が国枝の婚約者であると家に決めらたあの時も、嬉しいような、悔しいような、不思議なジレンマに悩まされたものだった。
 レンが自分を好きでないのなら、形だけの婚約者なんて嫌だと、そう思ったからだ。
 だからそれをレンにも打ち明けた。少女らしいロマンスを期待していたのかもしれない。

 15歳のレンは、それなら仕方がないとあっさり辞退を申し出て、国枝を傷つけた。
 慌てて縋りつく国枝を見て、きょとんと首を傾げた彼の表情が忘れられない。

 きっと、本当に理解が出来なかったのだろう。

 彼は狗で、人とは違うから。どんなに人と似通っていても、人の真似をしていても、人の心の機微に敏感なふりをしていても、本質はまったく理解してくれない。

 彼らは飼い主に従順なだけの、ただの獣なのだ。

 彼らが持つ感情らしい感情は全てが楔姫に向けられていて、それ以外は目にも入っていない。
 それを、悪びれる様子もない。そういう生き物なんだと、諦めるしか無かったあの日。

 大人になって、少しずつ割り切れるようになっては来たけれど、やっぱり華絵とレンが一緒にいると思っただけで動揺してしまう自分が情けない。

 たとえ形だけでも、婚約という約束を交わしてもうすぐ三年になる。
 そんなに脆い絆でもないだろうに。


 ぼんやりと物思いに耽っていると、ふと背後に気配を感じて国枝は頬杖をついたまま首を持ち上げた。
 
「あ……お、おかえりなさい」

 背後から彼女のデスクを覗きこんでいたレンが、中央に置かれた茶封筒を持ち上げて頷いた。
 
「いつ戻ったの?」
「今です」
「言ってくれれば下まで迎えに行ったのに」
「携帯が壊れたので」

 何事もなかったかのような顔でそう答えた彼は、国枝の隣のデスクに腰を下ろし、コートも脱がずに茶封筒の中身を取り出す。

 レンと国枝が顔を合わせるのは、レンが華絵を連れてビルを抜けだしたあの夜以来だ。
 華絵が逃げたと大騒ぎになったかと思えば、間もなくしてゼンが死んだという一報を受け、国枝を始めとするビルのものが大慌てで対処を考えている最中に、藤代の里では菖蒲が自殺未遂を行うという、怒涛のような数日間だった。

 それでも、目の前の彼は平然とした佇まいで通常の生活に戻ろうとしている。
 たった一言の弁明もないその姿を見て、なんだか無性に腹が立ってきた。

「ちょっと」
「え?」

 バシッと勢い良く彼の手から書類を取り上げ、自分の背中にそれを隠す。

「私になんか一言あってもいいんじゃない?」
「……と言うと」
「と言うとじゃないわよ。どれだけ心配したと思ってるの! レンが華絵を連れてビルから逃げた時から、ずっと今日まで生きた心地がしなかったんだから!」

 強い口調で責めれば、少しだけ困惑したように彼が眉根を寄せる。
 多分、国枝の言葉の真意を探ろうとしているのだろう。言葉通りに受け取ってくれればいいのに、そうは出来ないレンを憎たらしく思いながら国枝がさらに続ける。

「私はレンの婚約者なんだから、無断で勝手なことをされたら、心配するのは当然でしょ」

 あ、と小さく声を漏らして、レンが納得したように頷く。

「すみませんでした」
「謝るのが遅すぎるでしょ」

 自分の行動が、国枝の立場を危ういものにしたと考えたらしい彼が、もう一度国枝に謝罪して、迷惑はかけないように計らうから、と付け足すと、今度こそ国枝は落胆してため息を零した。
 彼に、人の情や恋愛感情を理解してもらう事など、とうの昔に諦めたが、時々どうしようなくやるせなくなる。

 今だって、なぜ国枝がこんなに怒っているのか、彼は理解していないし、理解していたとしても、それを心に留めておくことはしない。反省だって、きっとしていないのだろう。
 狗は、楔姫以外と情を交わしたりはしないから。

 それでも側に居たいと、願ったのは国枝だけれど。

「これは、病院の書類ですか」

 久々宮ターミナルケアセンターと書かれた空の封筒を国枝に差し出しながら、彼が問う。
 もう話題を変えるのかと内心イライラしながら国枝は頷いた。

 国枝がレンから奪った書類は、親族が経営する終末医療専門の病院から送られてきた患者のパーソナルデータだ。

 国枝の今日の仕事はそれをパソコンに入力してサーバーにアップロードするだけの単純なもので、普段は阿久津が暇を見て行っている作業だが、ここ数日のゴタゴタで彼の仕事の一部は国枝に任されている。
 
 製薬会社を基軸に多くの医療機関に枝葉を伸ばしている家業ではあるが、なぜ鬼を狩るという大役を任された富士白第二ビルの職員が、こんなつまらない事務作業までやらねばならないのか、ふと不満に思ったが、突き詰めて考えることはしない。

 何かと理不尽がつきまとう一族の厳しい理(ことわり)の中で、上手に生きていくためには、考え過ぎないことだと、国枝はとっくの昔に知っていた。

「阿久津に頼まれたのよ。これ打ち込んだら、今日はもう帰れるけど、レンは?」
「俺がやります」

 そう言って国枝の手から書類を引き抜き、レンが隣のデスクに並ぶパソコンを起動させる。

「いいわよ出来るから。でも……終末期の患者のデータなんてなんで必要なのかしら」
「さぁ」

 こちらを見ようともせずに小さく答えた相手の態度が気に入らず、国枝が口をとがらせた。
 素っ気ないのはいつものことだが、それで済ませられないのは、きっとここ数日間のせいだろう。

 最後に目にした時と寸分違わぬ完璧な横顔を眺めながら、ぽつりと零す。

「……どうだったの。久しぶりに楔姫と二人きりだったんでしょ。それに、ゼンのことも。私に色々話すことあるんじゃないの?」

 そんな国枝の呟きに、レンは作業を止めないまま一瞬視線を国枝に向けて、またディスプレイに戻す。

「一人で、ゼンを焼き殺したの?」
「はい」
「今のレンに、そんなこと出来るの?」
「結果的には」
「……華絵が居たから?」

 終わらない質問に作業を諦めて手を止めると、レンが椅子ごと国枝に振り返る。
 何が言いたいのかと訴えかけるその青い瞳を見て、国枝が両手の拳を握りしめた。

「華絵が、記憶を完全に取り戻したと聞いたわ。つまり、レンの楔姫として目覚めたってことでしょ。ゼンを一人で始末できたのは、レンが鬼の力を自由に使えたからなんでしょ。それでもまた元の姿に戻れたなら、それは宝良様とハクのように強い絆が目覚めたってことよ。良かったわね」

 刺々しく響く国枝の言葉尻に、不可解そうに目を細めながらもレンが頷く。

「普段の仕事に鬼の力は必要ありません。狗のままで十分事足ります」
「それでも、力を取り戻せたのは嬉しいんじゃない?」
「俺たちは力を誇示したいわけではありません、そもそも進んで力を捨てたわけですから」
「そうじゃなくてっ! 華絵との絆を取り戻せて嬉しいんじゃないかって聞いてるのよっ!」

 思わず怒鳴ってしまった少女を見て、青年が上体を仰け反らせる。
 相手が戸惑っているのを承知で、肩で息をしながら国枝はレンを睨みつけた。

 しばらくの沈黙の後、やがて青い瞳が伏せられる。
 少女の複雑な心中を知ってか知らずか、レンは静かな声で切り出した。

「……楔姫の、傍で生きることが狗の望みです。ですがそれが叶わないのなら、せめてあの人が生きていてくれたらそれでいいと思っています。国枝の言う絆が、楔姫の力や彼女の記憶の事を言うのでしたら、俺は嬉しくはありません。それは、あの人を危険な立場に追いやります」
「……」
「力など要りません。俺が望むのは、嬉しいと感じるのは、あの人が生きているという事実のみです」

 透き通った青い瞳や言葉を紡ぐ声に、迷いは見当たらなかった。
 だから彼が心からの本心で答えているのだと知った。

 そんな彼に積年の恋情を抱くことの不毛さも、また思い知った。