何となく放っておけなくて、静かに立ち去ろうとする彼の後をつけた。
 ドアの前で僅かにためらった後、ノックする。

 やがて開かれた扉の隙間から覗いたレンの顔は、先ほど廊下で見かけたよりもずっと疲れているようで、暗闇の部屋に立つ彼は、彼自身が何か薄暗いものを背負っているかのように見えた。

「あ、あの……」

 戸惑いながら声をかける華絵を見て、レンは静かに息を吐くと彼女のために扉を開く。
 
 何をしているのか、なんで部屋に戻らないのか、もうそう言って責める気力もないような力の抜けた態度で、彼は無言のまま部屋に置いてある簡素な机の椅子を引くと、自分は窓辺の床に腰を下ろした。
 入っても構わないという彼なりの合図だろうか。華絵はためらいながら両手に抱えた缶コーヒーを持ち上げてぎこちなく微笑んだ。

「あ、えっと、……そこの自動販売機でコーヒー買ってきたんだけど、良かったらいかが?」
 
 床に座ったまま部屋の奥から眺めていたレンが頷くのを見て、少女はおずおずと一歩進んだ。

「えっとね……誰かに、話を聞いて欲しいんじゃないかなって思ったの。……余計なお世話かもしれないけれど……」

 買った缶コーヒーを机に二本並べながら、華絵が椅子に腰を下ろす。

「私、記憶を取り戻してから、大河原さんや小巻や、……レンにも、とても助けてもらったでしょう? 道に迷った時、みんなの助言や言葉が、とても支えになったの。人に話を聞いてもらうのって、すごく助けになると思うの。きっと心が楽になると思うわ」

 様子のおかしいレンをどうにか慰めようと、努めて明るい声で華絵が言う。
 レンはそんな彼女のセリフを聞きながら、今すぐ帰って欲しいと喉まで出かかっている言葉を飲み込んでいた。
 気遣いはありがたいけれど、彼が彼女に望むことは変わらない。それを彼女が受け入れないことも変わらない。どこまでいっても平行線なのだから、無駄なあがきはせずに休みたいと素直に思った。

「あのね、レンの複雑な立場、私わかっているつもりよ」
「はい」
「私を守らなくちゃいけないって思っているんでしょ。なのに私が邪魔ばかりするから、レンは怒っているのよね?」
「……いえ。ただ、不出来な自分に苛立っているだけです」
「それでも、レンが私に怒ってるの、伝わってるわよ」

 悪戯な笑みを浮かべる華絵を見て、青年がわずかに目を見開く。
 図星を指されたような気がして、レンが唇を噛んだ。

「私が我儘なの。だから、レンが怒るのはもっともよ。それはとても正しい感情だわ。だけどね、どうしても心に嘘は付けなくて……」
「嘘をつけとは申していません。御身のために、なさるべきことをなさってほしいだけです」
「家のためだけに、好きでもない人と結婚は出来ないわ。家がしていることも、見過ごせない」
「あなたには、あなたの身を守る義務があるはずです」
「体より心のほうが大事よ。死んだっていいわ。私が決めた道なら、覚悟の上よ」
「それで俺にもその覚悟を強いるのですか」

 気がつけば彼女に食って掛かるようにしてレンは立ち上がっていた。
 彼はもはや隠すこともなくその瞳に怒りを湛え、わずかに怯え始めた華絵を睨みつけている。

「また平気な顔で俺を置いていくのですか」
「ち……違うわ」
「何も違わない。あなたは自分がそうと決めた道のためなら、死をもいとわない。それが、正しいのかどうかなんて俺には関係ない。確かなのは、あなたはいつだって振り返らないで俺を置いて行くということだけだ」
「違うのっ……レン、私は……」
「ゼンや家のためにならば死ねるのに、どうして俺のために生きてはくれないのですか。俺はいつだって……」
「違うっ!!」

 殆ど叫びながらレンの言葉を遮って、華絵が青年の体に抱きついた。
 咄嗟の事でかわせなかったレンが、体ごと体当りしてきた華絵を黙って見下ろす。

「違うの! 全部私が悪いの、私のせいで、レンがいらない苦労をしているの」
「姫様」
「言うつもりなんて無かったわ。でも、でもね……私……」

 そう言いかけて、少女が押し黙る。
 何かに耐えているように、小刻みに震えているのが伝わった。泣いているのだろうか。

 強情なのに、よく泣く人だと思った。
 泣かせたくないのに、泣き顔ばかりを見ている気がする。

「私……私が、楔姫になれないからなの……」
「仰る意味がわかりませんが……」
「私…………あなたを、狗だと思えたことなんて、一度もなかった」
「……」
「レンが狗じゃなかったら、私、修平さんと結婚していたかもしれないわ。我が身可愛さに、家の行いにも目をつぶっていたかもしれない。でも……それは出来ないの。どうか、分かって……」
「姫様……?」

 今度こそ支離滅裂な彼女の言葉に、レンが眉根を寄せる。
 わずかに顔を持ち上げて、こちらを見上げる少女の瞳は赤く、涙に濡れていて、悲しみと自責の念に押しつぶされているようにも見えた。

「家がしていることを、罪深いことだと、レンにも思って欲しいの。そんなこと、レンにはして欲しくないの。どうしてか、分かる……?」

 震える声で問いかけられた言葉に、青年がまばたきも忘れて「いいえ」と答える。
 彼女が、なにか大事なことを告げようとしているのがわかった。でも、それがなんなのかは分からない。
 やはり自分は、人の心とやらに鈍いのかもしれない。

 わからないと答えるレンを見て、華絵が悲しそうに微笑んだ。
 それが、妙に胸に突き刺さって、痛む。

「レンは、私の憧れの男の子だからよ。昔からずっと、変わらないわ」
「……」
「だから、あなたには人の道に外れたことをして欲しくない。私は、レンの目の前で、他の人と結婚なんて出来ない。……全部、私の身勝手な我儘なのよ」

 ごめんなさい、と小さく呟いて華絵が身を離す瞬間も、一言も発せられないでいた。


 なぜだろうか。今更になって、幼いころの少女の姿が脳裏をよぎる。
 どうして毎日会いに来るのかと邪険にすれば、華絵は顔を曇らせて、黙りこくった。
 それでもまた次の日になれば、懲りずに会いに来る。

 何も知らないくせに、呑気なものだと、そう思っていた。

 獰猛な獣が、どれほどの激情を少女のその小さな体に向けているのか、知りもせずに邪気のない笑顔で、無警戒に近寄る彼女。それを愛おしく思いながらも、疎ましく感じていた。

 多分、同じだけの愛情を彼女が持っていないことが、悲しかったんだと思う。

 いつかお嫁さんにしてと頬を染める少女は、15になれば互いに別々の婚約者を充てがわれることも知らないのだろう。
 どんなにあがいても姫と狗が決して結ばれないことも、知らないからそんなことが言えたのだろう。

 だから話を合わせて頷けば、少女が花のように微笑んだ。
 それが本当に可愛らしかったから、そうだったらいいのにと少し望んだ。

 彼女のために、この身を差し出すことが、どれほど容易いか。
 そうは出来ない定めが、どれほど厄介か。あの日の少女は何も知らない。

 知れば、どうにもならない現実を目の当たりにすれば、きっと目が覚めるだろう。

 そう思っていた。


「……俺は、あなたの狗です」

 部屋を出ようと、ドアノブに手をかけて背を向けていた華絵に、そう告げた。
 小さな吐息混じりの声だったけれど、静寂が広がる室内には思いの外よく響いて、少女がビクリと肩を揺らして動きを止める。

「だから……ごめんなさいって、言ったでしょ……」

 涙声で返って来た返事に、レンがわずかに息を吸い、ゆっくりと吐きだす。

「困らせるって分かってるわ。でも、……レンが、あんまり強情だから……分かってくれないから……」

 なぜ安全な道を選ばないのか、命を守ろうとしないのか。
 レンが静かに憤るのを感じていた。

 言葉に出来ないけれど、至極明快な答えが、華絵の胸の中にはあった。

「それでも……言ったらダメだって、……分かっていたのよ……」

 はい、と返された低い声はすぐ傍から響いて、それと同時に伸びてきた腕が華絵を背中から包む。
 その熱が愛おしくて、切なくて、華絵はまた涙を零した。

「……だから、……言うつもりなんてなかったのに」

 背中から強く抱きしめられて、体から力が抜けていくのがわかった。
 
 心のうちを告げれば、好きだと告げれば、彼が自分を拒むことはない。
 だから絶対に、言わないと決めていたのに。

「あなたが、俺の全てなんです」

 きつく抱きしめる腕の力は苦しいほどで、胸に食い込む腕が痛かったけれど、構わないと少女が思う。

「分かってるわ。でも……私だってそうなのよ。私、私には……」

 レンが全てだった。
 幼いころの想いは色褪せることがなく、悲しみも痛みも、彼がいたから乗り越えられた。

 結ばれなくても、叶うならば一生側にいたいと思った。
 それも叶わないのならば、彼が好きだという、その心だけでも守っていきたい。

「お願い……他の人と結婚しろなんて言わないでよ……私の事お嫁さんにしてくれるって言ったわ……レンは嘘つきよ、私のお願いなんて、全然聞いてくれないじゃない……」

 そう責めても、レンは何も答えなかった。
 ただ抱きしめる腕の力がまた増して、このまま彼の激情と熱に絞め殺されるのならば、それもいいと思った。それはそれで、幸せなのかもしれない。

 狗を愛してしまったという母の気持ちが、華絵には痛いほどわかった。
 私にはマキだけだと涙する母を見て、きっと彼女を許すことは容易いと思った。
 だけど、雪絵のことを思うとそれは口には出来なかった。多分一生、口にすることはないだろう。

 やがて腕の力が弱まり、華絵は堪えていた息を吐き出しながら緩く解かれていく彼の手を眺める。
 振り返るのが怖かった。彼が今どんな顔をしているのか、目の当たりにする勇気がない。

「華絵様」

 けれど名を呼ばれて、少女が反射的に振り返る。
 青い瞳の美しい青年は真っ直ぐに華絵を見据えていて、一瞬にしてその視線に囚われた華絵が、薄く目を細め、震える口元で微笑んだ。

「……やっと、そう呼んでくれるのね」

 涙を浮かべた少女がぎこちなく微笑めば、レンも口元をゆるめて微笑みを返す。

「名前で呼んでって言ったのに、全然呼んでくれないんだもの」
「……大昔の話です」
「でも覚えてるわ。レンとのことは全部。もう絶対、忘れないわ」
「あなたが忘れても、俺が覚えています」

 そう言って、繊細な指先が少女の頬を撫でる。
 そんな彼の愛情に応えるようにして、華絵も手を伸ばし、レンの頬を両手で包んだ。
 青い瞳が揺れるのがわかった。

 華絵の淡い初恋など、そのへんの草花を愛でる程度の気まぐれだと彼は言った。
 随分あなどっているのだなと思ったけれど、あの時は言わなかった。

 愛することばかりで、愛されることに不器用な人だと思った。


「私、世界で一番レンが好きよ。今度私が記憶を失ったら、ちゃんとそれを教えて」 

 冗談交じりにそんなふうに告げると、とても複雑そうな表情を浮かべた彼が、しばらく悩んだ末に頷いた。今の一瞬で、生真面目に色々考えたのだろうと思うと可笑しくて、華絵が微笑む。

 それから背伸びをして、彼の背中に両腕を伸ばした。

 多分、間違っているのだろう。

 だけど、心に嘘は付けない。

 狗が、どんなふうに楔姫を愛しているのか、きっと華絵が知ることはない。
 でも、楔姫がどんなふうに狗を愛しているのかなら分かる。

 どんなに辛くても、たとえ結ばれなくても、彼に出逢うために輪廻を繰り返す程度には愛している。
 人とは違う定めの生まれでも、異形の鬼でも、たった一人の愛しい男性なのだ。