PREV | TOP | NEXT
 ヴァイオレット奇譚「Chapter4・"狙われた花嫁"」



 気が付くと、放課後の新校舎に立っていた。
 隣には摩央がいて、正面には羽沢梨佳。そしてその横には金髪の青年が立っている。
「ここで何してるの?放課後は、新校舎は立ち入り禁止になっているんだけど」
「すみませーん。先輩がどんどん新しい規則を作るから覚えきれなくって」
 きつい口調で梨佳が二人を責めれば、摩央が皮肉を込めてそう返す。

 ああ、これは、あの時の夢だ。
 そして万莉亜は視線を青年に移した。やはりあの時と同じ。 どんなに見つめても、その顔は曖昧なものとして瞳に映る。あの時もこうだった。彼の顔を確かに見たはずなのに、 さっぱり頭に入ってこなかったのは、実際に見えていなかったからだ。
 きっと惑わされていた。
 でも今は違う。もう知っている。彼が存在する事を知っている。だから、信じればいい。
 そう心に強く言い聞かせて、もう一度視線を上げる。
 バイオレットの瞳が、淡い光を漂わせながら微笑んでいた。

「……ちゃん、万莉亜ちゃん」
 少し強引に肩を揺すられてまぶたを持ち上げる。見慣れない車内に、ドキッとして万莉亜は飛び起きた。
「起きたかい?」
 運転席から、マスターが心配そうに声をかけると、万莉亜はやっと現状を把握して恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「……私……寝ちゃった」
「ぐっすり寝てたね。ほら、病院に着いたよ」
 マスターは目尻を下げてそう言うと、目の前に立つ建物を指さす。 いつの間にか祖母が入院している病院の駐車場まで辿り着いていたことに驚き、万莉亜はマスターにお礼を言うと車を降りた。
「おばあさんによろしくね」
「はい」
 そう言って敷地から出て行くマスターの車を見送ると、万莉亜は大きくて白い建物に振り返った。
 二年前に特定疾患である難病を患った祖母は、治療こそ終えたものの、今まだ一般的に療養型病院と呼ばれるここで暮らしている。
 しばらく建物を見上げた後、万莉亜は持っていたハンドバッグから小さな鏡を取り出して、自分の顔と向き合う。
 つらいのは当たり前なのだ。でも今日は笑っていよう。泣きたいのなら、明日泣けばいい。
 しっかりと自分と見つめあい、鏡をしまう。これは、いつもの儀式だ。しっかりと気を引き締めて万莉亜は真っ直ぐに 祖母の病室へと向かった。

「おばあちゃん」
 そう声をかけて扉を開ける。
 すでに顔見知りとなった隣のベッドの患者さんが、万莉亜の姿を見つけて祖母に呼びかけた。
「ハナさん、万莉亜ちゃんが来たよ」
 言われると、横になっていた祖母が顔だけ扉の方へ向ける。穏やかな微笑みに万莉亜はほっと胸を撫で下ろして駆け寄った。
「来たよ、おばあちゃん」
「万莉亜、いらっしゃい」
 病気のせいで震えがちな祖母の手をしっかりと握って、万莉亜は存在を知らせる。 視力障害が最も顕著に現れている祖母に万莉亜の姿は見えなくとも、ここに居る事を分かって欲しくて、 見舞い中は大抵手を握り合うのが習慣だ。
「そこにね、お饅頭があるから持って帰りなね」
「うん。私もおばあちゃんにお土産があるんだよ」
 ベッドの脇にある棚の上、そこにぽつんと置かれたお饅頭を万莉亜は鞄にしまって、その代わりに 自慢の品々を取り出した。
「まずコレ。茨城産の限定梅味ハミガキ粉! おばあちゃん梅好きでしょ? コレを使ってもらうように病院の人に言っておくからね」
「まぁ、うれしい」
「あとコレね。インドネシア産の万能お守りペンダント。真ん中にね、私読めないんだけど何かありがたい言葉が 書いてあるんだって! 枕の横に置いておくからね」
 そう言って銀のペンダントをそっと置くと、隣のベッドで二人のやり取りを見守っていた老婦人がクスクスと笑い出した。
「万莉亜ちゃんはいっつも不思議な物を持ってくるわねぇ。ハナさんの棚を見てお医者さんがいつもびっくりしてるわよ」
「ええ、そうなんですか!?」
 顔を赤くして万莉亜が驚く。それを聞いて祖母も含み笑いを零した。
「いいのよ。変わったものが沢山あるってみんなが楽しんでくれるんだもの」
「そ、そうだよね」
 フォローされてほっと安心する。
「ほんとはね、フラワーシュガーって言う面白いお砂糖も持ってこようとしたんだけど、それは 別の人にあげちゃったの。ごめんねおばあちゃん」
「あら、残念だったわね」
「うん、……でも何かお礼をしないとって思って」
 大事な孫娘が微妙に声色を変化させたことに祖母が気付く。彼女はニッコリと微笑んで 万莉亜の顔の方へ目を向けた。
「男の人なんでしょう?」
「え!?」
 隣のベッドの老婦人も思わず「まぁ」と声を上げる。
「……そ、それは、そうだけど別にそんなんじゃないのよ!?」
 ぶんぶんと首を振るが、どんどん顔が熱くなっていくのを感じた。思わずキスをされた頬を空いている手で隠すように包み込む。
「たいへん。万莉亜が恋をしたわ」
「もう! おばあちゃんっ! 違います!!」
 年寄りにいいようにからかわれて万莉亜は顔を真っ赤にして否定した。初々しいその反応を 病室の誰もが微笑ましそうに眺めている。たとえ本人は気付かなくとも、閉鎖がちな病棟に舞い込んできた若い風は、彼らにとって心地の良いものだった。
 それから面会時間ギリギリまで学校や寮、そしてアルバイト先で起こったありとあらゆる事を語りつくし、看護婦に注意されて初めて万莉亜は 自分の腕時計に目を落とした。
「……もうこんな時間」
「気をつけて帰るんだよ。バスの時間は分かってるの?」
「うん。大丈夫」
 何度も通っている病院だ。最寄のバス停の時刻表はすでに暗記している。
「ねぇ万莉亜」
 名残惜しそうに孫の手を撫でて祖母が口を開く。
「好きな人が出来たら、おばあちゃんにも会わせてね」
「……だから……あの人はそんなんじゃ無いのに」
「あの人って? お砂糖の人?」
 うっかり墓穴を掘って万莉亜は口元を覆う。
「もしかしてお付き合いをしてるのかしら?」
「違うよ!! そんなわけないじゃない。大体あの人は……」
 日本人ではないし、そもそも人間ではないし、第一子持ちの既婚者だ。
 だがまさか病床に伏せている祖母にそんな暴露が出来るわけも無く万莉亜は必死に言葉を探す。
「あの人は、……すごく綺麗だし……私なんか相手にされないわ」
「……万莉亜?」
 そこまで言ってはっと我に返る。一体何を口走っているのだろう。
「大体! そもそも! 好きな人なんて私は居ません!!」
 そう宣言して荒っぽく立ち上がると、祖母に丁寧な別れの挨拶をして万莉亜は病室を後にした。 見えない瞳で孫娘の後姿を見送ると、祖母がそっとため息をつく。
「……たいへん」
 独り言のように呟かれた言葉に、隣のベッドの老婦人が振り返る。
「万莉亜が恋をしたわ……」
 喜びと不安、期待と寂しさを織り交ぜたような声色でそう呟いた祖母を見て、老婦人は穏やかな笑みを浮かべた。



******



 何だかネタにされてからかわれっ放しの一日だったが、思ったより元気そうだった祖母の 姿に安心して万莉亜はバス停に佇んでいた。
 ここでバスを待っている時に考える事は、いつも次回の土産だ。 いくつかめぼしい物には目をつけてあるし入札もしてある。 残念がっていたから、もう一度フラワーシュガーを探してあげようか。いやしかし、 またあの話題をほじくり返されるのも困る。
 一人で唸っていると、不意に気配を感じて振り返る。
 眼鏡をかけたサラリーマン風の男性がいつの間にか自分の背後に立っていて一瞬どきりとしたが、 すぐに同じバス停に並んでいるだけだと思い直して視線を外した。
 しかしその直後、しっかりと後ろから自分の腰に回された腕に、心臓が飛び跳ねた。 声を上げる暇もなく、男の顔が自分の首筋に埋められる。
 完全に恐怖で固まってしまった万莉亜に男が低い声で呟いた。
「……お前、匂うな」
「な、……な、なに……」
「匂いが強いな……第三世代だ、そうだろう?」
「いや……、やめ……」
 震え上がった喉では上手く言葉を紡げない。それがもどかしくて万莉亜はパクパクと口を動かした。
「お前……マグナだな?」
 首元で男がニヤリと笑う気配がする。
 それがきっかけになって一瞬金縛りから解放された万莉亜は全身の力を込めて持っていた鞄を振りかぶった。
 バスの中で読もうと思っていたハードカバーの大長編小説、その上巻、下巻が入った鞄が、男の頭部に直撃するやいなや、万莉亜は走り出す。
 突然の全力疾走に驚いた脇腹がジリジリと痛み出すが、かまってはいられない。
――痴漢だ!痴漢だ!!
 ただ頭の中にその二文字が浮かび、ひたすら走る。 大声を出して近隣住民に助けを求めなかったのは、あまりにも追っ手との距離が近かったせいだ。
 男は、ほんのすぐ後ろまで迫ってきている。スピードが、段違いだ。
 結局万莉亜はあっさりと髪の毛を捕まれて、男はそのまま彼女を羽交い絞めにした。
「マグナだ……第三世代のマグナを捕まえたぞ」
「やめ、……やめてくださっ……」
 殺されるぞと本能が警告していた。だけどどうすればいいのかは教えてくれなかった。 羽交い絞めにされた体を解放されたかと思うと、男の両手はすかさず万莉亜の首に回され、 締め上げるようにして少しずつ少女の体を持ち上げる。息を吸いたいのに、それが出来ない。
――殺される……私……殺されるの!? じゃあ一体、私は何のために……

 「隠れなさい、まりあ」
 初めて聞く、母親の鬼気迫る声色に、気が付けば押入れを目指して駆けていた。
 そして自分は惨劇を回避して、代償に地獄を見る破目になった。
 あの時駆け出したことを、後悔しないと決めた。
 絶対に、後悔しないと決めた。
 それなのに。
 ……こんな所で、私は死んでしまうのだろうか。

「万莉亜っ!!」
 自分を呼ぶ声が聞こえたのと同時に、背中に物凄い衝撃を感じて万莉亜はそのまま地面に倒れこんだ。
 その瞬間、男の手から解放された喉がヒュー、と音を立てて酸素を吸い込む。上手く呼吸が出来なくて しばらく苦しみ続け、やがて酸素が送り込まれると、今度はむせ返ったようにして咳を繰り返す。
 朦朧とした意識のままとにかく自分に圧し掛かっている物体を確認しようと視線を動かすと、 先ほどの痴漢の顔がすぐそこにあって万莉亜は声にならない悲鳴を上げた。 その音で男が意識を取り戻し微かに呻く。しかし覚醒する間もなく、その脳天に再び容赦ない蹴りが入った。 更に念を入れて、今度は頭部を地面に叩きつけるようにして拳が振り下ろされる。
 男の顔は、たったの一瞬で元の面影もなく変形していった。
「……大丈夫? 万莉亜」
 ダウンした相手から視線を逸らさずにクレアがそう言うと、万莉亜は恐怖で頷く事も出来ないまま、 ただ呆然と彼を見上げた。 すると動けない彼女に気付いたのか、地面に膝をつき、腕を伸ばして万莉亜の上半身を抱きこした。
「走れる?」
 まだ混乱した頭ではその言葉の意味が理解できなくて、万莉亜は否定も肯定もしない。
「……無理か」
 諦めたようにそう呟くと、彼は彼女を両手で掬い上げるようにして抱きかかえる。 しかし、立ち上がった瞬間、あたりに耳をつんざくような銃声が響き渡る。
 万莉亜を抱いて立ち上がったクレアが、再び地面に崩れた。そのとき万莉亜は、彼の肩越しに 信じられない光景を見る。
 先ほどまで変形した顔でのびていたはずの痴漢が、銃を構え、不敵な笑みを浮かべて立っている。 その顔には、傷一つ残っていない。
 さらにその瞳がクレアと同じバイオレットだった事に気付いて万莉亜はショックを受けた。
――まさかあの人も……人間じゃ、ない……?
 そう思ったとき、ハッと我に返り右足を撃たれたクレアに目をやる。 特に痛がっている様子は無いが、思うように動かない足に青年は顔をしかめる。
「だ、だいじょうぶ!?」
「……うん。走れる?」
 クレアが、もう一度同じ質問をする。 万莉亜は今度こそしっかりと頷いた。
「遠くまで逃げるんだ。いいね?」
 子供に言い聞かせるような口調でそう言うと、彼は万莉亜の背中を押した。少女は一目散に駆け出す。 けれどその時、再び背後で銃声が響いて、万莉亜は思わず振り返る。
「再生に限って言えば、あんたらも俺たちと大差ないんだな」
 スーツを身にまとったサラリーマン風の男が嬉しそうにそう呟く。左足も同様に打ち抜かれたクレアが忌々しそうな目つきで男を見上げた。
「喜べ、第三世代。お前の肉は一欠けらも残さん」
「……能無しほど強欲だな」
 呆れたように言うと、男がピクリと眉を上げた。
「なん、だと……」
「お前ら世代は能無し揃いだって言ったんだよ」
「貴様……!!」
 右足はすでに皮まで再生していたが、左足が膝を打ち抜かれてしまったため、砕かれた膝蓋骨の再生までにあと数秒は必要だった。
「とはいえ、僕達一族で賢かったのはセロだけだ」
 ポツリと漏らすと、案の定相手が目を見開いた。
 彼らの世代はこの名前に並々ならぬ執着心を持っている。それを知っているから あえて餌をちらつかせ時間を稼いだ。
「なぁ、第一世代に肉を分け与えたとき、セロがどんな言葉を残したのか、 お前は知っているのか?」
あと四秒。
「セ、ロが……?セロ、セロは何を言ったんだ!?」
ニ秒。
「それは……」
いち。

「撃たないでぇーっ!!」
 叫び声と共に猛進してきた少女が、鞄を振り回して男の頭を突き飛ばした。
「万莉亜!?」
 慌てて起き上がり、駆け寄ってきた少女の腕をつかむ。
「馬鹿! なんで戻ってくるんだよ!!」
「……だ、だって! と、とにかく早く逃げよう!!」
「逃げるのは君だろ。全く何をやって……」
「動くな」
 そう言って銃口が万莉亜の背中に突きつけられる。 心臓が凍ったように全身が一瞬にして冷えていくのが分かり、万莉亜は息を呑んだ。
「動けばマグナを撃つ」
「……万莉亜、動いたらダメだよ」
 頷く事もダメなのだろうかと思いながら万莉亜はただただ震えた。
「このマグナにお前の子を生ませるのか?」
「さあね」
 飄々と答える相手に男が眉をひそめる。
 一体何の話なのか。まぐな、それに子供とはどういう意味だろう。万莉亜にはちっとも検討がつかなかったが、背中に銃を突きつけられてもなお そんな事に気が回ってしまうのは、きっと抱きしめられているせいだ。
 彼女の顔を自分の胸に押し付けて、両手でかたく抱きしめる彼の腕が、安心しろと言っている気がして、万莉亜はその言葉を信じる事にした。
「まあいい。マグナを殺されたくなかったらまず腕をよこせ」
「嫌だよ。馬鹿にくれてやる肉は無い」
「……マグナを撃つぞ」
「撃っていいのかな?」
 そう言って不敵に微笑む相手に男は苛立ちを募らせた。
「何を言っている? 撃つぞ」
「……本当にそれでいいの?」
「貴様、……馬鹿にするのもいい加減にしろ!! 撃つぞっ!」
「どうぞ」
 パン、という大きな破裂音に万莉亜がギュッと奥歯を噛んだ。
 けれども、痛みは無い。撃たれていないのだ。自分は相変わらずしっかりとクレアに抱きしめられたまま、 ただ背中にあった銃口の感触だけが消えていた。
 おそるおそる顔を上げると、ちょうど彼女を見下ろしていたクレアと至近距離で目が合う。
「見ない方がいいよ。トラウマになるから」
 そう言って微笑む彼が、一体何のことを言っているのか分からなくてつい振り返った。
 いつの間にか自分の背後には赤いスーツを身にまとった金髪の女性が立っていて、その右手には銀色の小型銃が握られている。 そして左手は、頭部が砕け飛び散ってしまった男の首根っこをしっかりと掴んでいた。
 辺り一面は血の海だったし、恐らく自分の背中も真っ赤な血に染まっているに違いない。
「さて、警察が来る前に移動しようか。ハンリエットはそれをちゃんと持っててね」
「……あたしばっかり汚れ仕事なんだから」
「来るの遅かったくせに、文句言うなよ」
 拗ねたように唇を尖らせると、ハンリエットは顔の無い男の肉体を肩で担ぎ、こちらへ振り返った。 万莉亜と目が合うと彼女は血で染まった手を振り「ハーイ」と陽気な挨拶をしてみせる。 しかしそれに答える事無く、少女の意識はそこでブツリと途切れた。
PREV | TOP | NEXT
Copyright (c) 2007 kazumi All rights reserved.