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 ヴァイオレット奇譚「Chapter29・"ナルシス・クライシス[6]"」



 帰りの車中で、シリルは妙に饒舌だった。
 何か良い事があったのかなと思いながらも、彼女と会話していることでクレアに気をとられないで済むことに 万莉亜は内心ほっとし、車内は賑やかさを保ちながらどうにか帰路に着く。
 それからそのまま新校舎に戻り、まず確認した私室に瑛士が居ないことを知ると、驚いてフロア中を探し回る。 そんな彼女に、フロアのソファでくつろぎ優雅にお茶を飲んでいたクレアが声をかけた。
「誰を探してるの?」
「……え」
 ソファに座りながら足を組んでこちらを見ているクレアは、分かりきっているくせにそんなことを聞く。
「あの……瑛士くん……は」
「ああ、彼ね。帰ったよ」
 驚いて数秒間クレアを見つめた後、信じられない思いでその横にいたルイスに視線を移す。長身の従者は彼女に 胡散臭いほど完璧な笑顔を見せて微笑み、それから万莉亜のお茶を入れる作業に戻った。
「……本当、ですか?」
 一文無しだったはずだ。行く場所もないはずだ。だから万莉亜を脅すなんて暴挙に出たはずなのに。その彼が、どこに帰るというのだろう。
「本当に、本当ですか?」
 疑わしそうに繰り返しながら一歩一歩クレアに近づき、そっぽを向いて紅茶を飲んでいる顔を覗き見る。
「……クレアさん、本当に?」
 ダメ押しのつもりでさらに問えば、相手は観念したようにカップから唇を離し、座ったままの姿勢でこちらを見上げる。 そんな風にして真正面から向き合ってしまえば、決まりが悪いのは万莉亜のほうで、詰め寄っていたはずの自分が顔を逸らしてしまった。
「彼は更正して、自分の家に帰ったよ。これからはボランティア活動に精を出すって言ってた気がする」
「…………え、瑛士くんが?」
「うん」
「…………」
 それならそれで、これ以上ないほどに素晴らしいことだが、どうにも信じがたい。 だから混乱したまま、その場に無言で立っていると、正面からクレアの長いため息が聞こえてきた。
「……嘘だよ。彼はバラバラにして金庫に詰めたんだ」
「え」
 逸らしていた視線をクレアに戻す。いつもと何ら変わりのない彼の表情を、万莉亜は真っ白になった頭のままに見下ろした。
「それをさっきルイスが海に沈めてきた」
 その言葉に、ほんの少しのためらいを見せた後、ルイスが頷く。
「え……っえ……?」
「まぁ、当然の報いだよね」
「……っ」
 言葉の意味とその重大さに気付いた万莉亜が、思うよりも早く彼の頬めがけて片手を振り上げる。
 だがそれも、彼女より機敏に行動に移したルイスによって封じられてしまった。
「……ッ……放してっ!」
 振り上げた右手をつかまれて万莉亜が身をよじらせても、ルイスは一向に力を緩めず、何の色もない表情で万莉亜を見下ろしている。 それが恐いとも思わないほどに、万莉亜は激昂していた。
「放せ、ルイス」
 万莉亜がもう一度怒鳴る前に、クレアが命令する。ルイスは少し考えた後、それを拒絶するように首を振った。
「出来ません。万莉亜さん、落ち着いてください」
「放してっ! あ、あなたたち……なんてことをっ!!」
「落ち着いてください。今のは嘘です」
「……へ……?」
 淡々と告げられたルイスの言葉にぽかんと口を上げて二人の男を交互に見やる。
「……言うなよ」
 舌打ちをしながらそう漏らしたクレアに気付いて、またおちょくられたのだと感じた万莉亜がきっと相手の男を睨む。
「……言って良い冗談と、悪い冗談があると思いますっ……」
「別に冗談じゃない」
「……え?」
「はっきり言うと、もう二度と、あんなのと関わって欲しくない」
 そう言いながら立ち上がると、クレアは戸惑う万莉亜の前に立ち、そのまま油断している彼女の唇を塞ぐ。 途端に飛び上がるようにして驚いた彼女の体を掴んで、拘束していたルイスと入れ替わるようにその体を抱きしめる。
「すごく不愉快だ」
「…………は……」
 まだキスのショックから立ち直れないでいる万莉亜に告げられた一方的な言葉。 理解できなくてぱちぱちと瞬きを繰り返す中、彼は一度もそれをせずに、ただ真っ直ぐにバイオレットの瞳を向ける。
「言っただろう? ことマグナに関しては心が狭いんだ。君が思うよりも、ずっと」
「……ずっと、って……えっ?」
「僕に隠れて男を連れ込むなら、もっと上手くやってくれないと」
「つ、連れ込むってっ……そんなんじゃ……」
 瑛士と自分はクレアが思っているような甘いものではない。
 それを伝えたくて顔を上げると、唇を人差し指で封じられ、咄嗟に言葉に詰まる。
「別に勘違いしてるわけじゃない」
「……?」
「ただ覚えていて欲しいのは、例えばもし君が雨に打たれている可哀相な犬猫を不憫に思って同じベッドで寝かせやる優しさを発揮したとしても、 それが雄ならば、僕は問答無用でそいつらを叩っ斬る自信がある。ちなみにこれは、比喩じゃない」
「……は」
「そのくらい心が狭いんだ。それが第四世代の若い雄ともなれば、発狂ものだよね」
「…………」
「意味が分かる?」
「……ペ、ペット禁止……」
「五十点」
 言いながら抱きしめていた万莉亜を解放し、クレアがソファに深く腰かける。万莉亜は彼の言葉の半分も飲み込めないまま、 複雑そうな表情で頬杖を付く青年を呆然と見下ろした。
「あ、あの……それで……瑛士くんは……」
 結局何の解答ももらえなかった万莉亜の言葉を、彼は清々と無視してそっぽを向く。 その子供じみた態度に驚いて閉口していると、後ろから女性の声で呼ばれて振り返る。 呆れたような表情のハンリエットが、万莉亜を手招きしていた。
「いらっしゃい万莉亜。連れて行ってあげる」
「……ハンリエットさん」
 相変わらずあらぬ方向を向いているクレアと、主人に倣って貝のように押し黙っているルイスの顔を交互に見てから、 万莉亜はその場で一礼してハンリエットのもとへと駆け寄る。
「馬鹿二人に付き合ってたら夜が明けちゃうわ。私が案内してあげる」
「……え、瑛士くんのところ?」
「そうそう。そんな名前なのね」
「は、はい……」
 すたすたと螺旋階段を下りていくハンリエットに続きながら、フロアにいるまだ不機嫌そうなクレアへちらちらと振り返り 万莉亜はため息を零した。相変わらず、何を考えているのかさっぱり分からない。
「気にすることないわよ」
 そんな万莉亜の様子を見かねてハンリエットが声をかけた。
「あんなのただの嫉妬なんだから」
「……嫉妬、ですか……」
「そう。マグナっていうのは、すごーく危うい存在なの。例えば、万莉亜が他の男の子供を妊娠するでしょ?」
「ええっ!?」
「例えよ、例え。それで、万が一出産なんてされたら、それってお父様にとって一大事なの」
「……どうして?」
「出産は、しばしば母体の性質を変えてしまう恐れがあるわ。その変化は微々たるものでも、マグナにとっては重要よ。 バランスの取れていた相性が、崩れてしまうかもしれないから」
「…………」
「そのくらい、デリケートなものなのよ。万莉亜や梨佳の体は、お父様にとって奇跡なの。だから独占しようとする本能も強いわ。 傍から見たらただの狭量な男だけど」
「…………」
「……実際、狭量だけどね。あの器の小ささと言ったらもう」
「そ、そんなに言わなくても……」
 思わず庇ってしまうと、「いいならいいけど」と呟いてハンリエットがさらに下る。
――いい、わけじゃないけど……
 ただ彼の嫉妬は、あくまでマグナである自分に向けられたもので、それに万莉亜自身が戸惑うのはどうにもお門違いな気がしてしまう。 その嫉妬は、彼に好意を向けている自分からすれば、全くもってどうでもいいものだ。そのはずだ。
「……っ」
 それなのに、馬鹿正直な恋心が喜びを感じている。キスだって、本当は全然、嫌じゃなかった。
――……馬鹿みたい
 あまりにも不毛すぎて、情けなさがこみ上げる。
 ハンリエットに気付かれないようにもう一度こっそりため息をついて、万莉亜はひたすら新校舎を下る。 それからハンリエットは、一階にある空き教室に入ると、一度も使われていない綺麗な黒板に手をかざす。
「見える? 見えるわよね、万莉亜なら」
「……はい」
 感心したようにして頷く。
 どうしてこれが、黒板に見えていたのだろうか。これは、横に長い鉄の扉だ。それをハンリエットが、思い切り持ち上げると、 途端に黒い空間が開く。
「……ほんとに、からくり屋敷ですね」
 力なく笑うと、ハンリエットも可笑しそうに頷く。
「遊び心があって、私はけっこう気に入ってるわ」
「……なるほど」
「気をつけて、すぐに階段だから」
「は、はい」
 彼女に手を引かれながら段差をよじ登ると、そこは狭い階段の踊り場で、よく見ると上の階にも繋がっている。
「……もしかして、この階段から五階にも行けるんですか?」
 何の気なしにそう尋ねると、ハンリエットは困ったように微笑みながら頷いた。
「行けるけど、梨佳の部屋のクローゼットに直通よ」
「…………あ、そう、ですか」
 とても気まずい相手の名前を出されて万莉亜の言葉が萎むようにして消えていく。
 梨佳とは、あの夜以来顔を合わせていない。というのも、彼女が学校も休み、フロアの私室に引き篭もったように 生活しているからだ。あの部屋からは一歩も出ずに、顔をあわせるのも、食事の面倒を見ているルイスだけという徹底ぶり。
 もちろんそれは万莉亜も気にしていたし、おそらくクレアも、そして枝のみんなも気にしているはずだ。
「……放っておくのが良いわ。ああいう性格だもの。下手に刺激してまた一悶着起こされても困るしね」
 流れるぎくしゃくとした空気を蹴散らすかのようにハンリエットが言う。 少し冷たくも思えるその言葉に万莉亜が見上げれば、言葉とは裏腹に、寂しげな表情の女性が見えて万莉亜は戸惑った。
「……ああいうの、分かるわ。馬鹿みたいだけど、自分ではどうしようも出来ないの」
「ハンリエットさん……?」
「プライドが高くて、自分を愛しすぎて、それが自分を不幸にしてるの。分かっていても止められないのよ。 私もそうだから、よく分かる。梨佳みたいな女性に、クレアは毒よ。あの二人は二人ともが、ナルシストなんだから」
「…………」
 ハンリエットの言葉は、よく分からない。多分、それを理解するほどに、二人のことをよく知らないせいだと思う。
――……でも……
「行きましょう。暗いから、気をつけて」
「……はい」
 手を引かれて薄暗い中、コンクリートの階段を下りてゆく。
――……そうね……きっと
 いつも思ってた。どうして梨佳は、泣いているのか。
 あれは、縋りついた先のクレアに、確かな手ごたえを感じていないから。それはクレアの冷たさ、そして弱さ。 それが、とても悲しいのかもしれない。
 きっと彼もまた、自分の体を支えるのに精一杯で、それを上手く隠しているから誰もが忘れがちになってしまうけれど、あの人はきっと 脆い。とても弱い。あの背中には、いつも背負いきれないほどの荷物が乗っかっている。そんな気がする。
「ねぇ、ハンリエットさん」
「なあに?」
 振り向かずに背中で答える彼女に、確信を持って問いかける。
「クレアさんって……もしかすると、歳相応なんでしょうかね」
 少し驚いたような瞳でこちらへ向いた彼女に、慌てて「見た目の」と付け加えれば、ニヤリと微笑んだハンリエットの瞳が それを肯定しているように見えた。
「……今の言葉、クレアさんに告げ口しないでくださいね」
 何となく、聞いたら彼は気分を害しそうで、おそるおそるそう頼み込めば、ハンリエットは意地悪にも肩をすくめただけで また階段を下り始める。
「ねぇ万莉亜」
「……はい」
「やっぱり、私は思うのよ。どっちかを置いてきぼりにして、片方だけが成長なんてありえない。 心と体は、セットなの。絶対に」
「……」
「老いていくってことは、人生において無くてはならないプロセスだわ。老いていく姿がどんなに醜くても、死がどんなに辛くても、 それはやっぱり、あるべき姿なの。短い生涯を、皺だらけになって全うしてこその人生なのよ」
「……はい」
「私の言葉、覚えておいてね。クレアの傍に居たいのなら、いつか絶対にぶち当たる難問よ」
 それに、声には出さずに頷いた。
 ぶち当たる難問とは、何だろう。ぼんやりと考えながら、彼の姿を思い浮かべた。
 老いない体は、どんな気分だろう。死なない体は、どんな気分なんだろう。誕生日を忘れてしまったクレア。 人生を、どこで区切っているのかが不思議だった。
――クレアさん。……もしかして……
 あの人が本当に欲しいのは、子供なんかじゃなくて、もっとずっと些細なものなのかも知れない。ほんとに当たり前のことを、 悲しいくらいに切望しているのかも知れない。
「ついたわ」
 ハンリエットの声で我に返り、いつの間にか出ていた広く薄暗い空間をきょろきょろと見回す。
「広い……ですね」
 忘れ去られた地下駐車場とでも言おうか。コンクリートが打ちっぱなしの空間に、ひどい湿気とさびた鉄のような匂いが漂っていて、万莉亜は思わず眉をひそめた。
「アレなら、ほら、あそこにいるわよ」
 そう言ってハンリエットが指さした先には何本もある柱のうちの一つに鎖で巻きつけられた小さな少年の体が見える。 その情け容赦ない拘束に万莉亜は息を呑んで、それからすぐに瑛士の側へと駆け寄った。
「瑛士くんっ……!」
 ガックリとうな垂れている相手はその呼びかけに反応を示さない。額は汗でぐっしょりと濡れて、着ているシャツも同様に水浸しだ。 それに顔が真っ青で、まるで生気がない。
「瑛士くんっ……、瑛士くんっ!!」
 声を上げながら、彼の体に巻きついた鉄の鎖を解いてあげようと四苦八苦するが、がっちりと施錠されたそれは、ぴくりともせいない。 自力でどうにかする事をさっさと諦めた万莉亜は、二人から距離を取って眺めているハンリエットに物凄い勢いで突進し、鍵を出せと捲くし立てる。
「だめよ。拘束は解くなってきつく言われているの」
「お願いハンリエットさん! 瑛士くんすごい汗なの。ぐったりしてるし、もう暴れたりなんて出来ないって、見たら分かるでしょうっ!?」
「……困ったわね」
 本当に困り果てた様子でハンリエットは視線を左右に振る。どうしたものかと思案している彼女に、とどめの一押しで万莉亜はとうとう地面に膝をついた。
「ちょ、ちょっと! 止めてよ!」
「止めませんっ、お願い、鍵を出して……っ」
 そう言って頭を下げた万莉亜の顔を前髪ごと乱暴に引っ張り上げて、タイトなスカートのどこに隠し持っていたのか分からない鍵を彼女の唇に差し込んだ。
「……クレアには内緒、いいわね?」
 銀の鍵を口にくわえながらコクコクと頷き、即座に瑛士のもとへ引き返す。 その背後で微かに聞こえた金属音に振り返れば、リボルバーの弾倉を回転させているハンリエットの姿がちらりと目に映った。
 一瞬背筋に冷たいものが走ったけれど、あれは自分を守るための武器なんだ。万が一の万が一の、そのまた万が一のための保険なんだ。 そう言い聞かせて、万莉亜は今見たものを無視する事に決めた。
「瑛士くん、待ってね……今っ……」
 言いながら鎖を繋いでいた部分の鍵を開錠し、重たいそれを解いていく。やがて支えを失った瑛士の体が万莉亜の胸に倒れこみ、 それを何とか受け止めて地面にゆっくりと座り込む。
「……瑛士くん……瑛士くん!」
 彼の茶色い髪が、汗でべっとりと額に張り付いている。万莉亜はためらいのない雑な手付きでそれを払いのけ、 膝の上にある彼の頬をぺちぺちと叩いた。やがて聞こえてきた少年の鈍い呻き声に、ほっと胸を撫で下ろす。
「瑛士くん、大丈夫?」
「……っ……」
「ど、どこか痛い? 痛いところある?」
「……っい……」
「えっ? ど、どこ? どこ!?」
「……うる、さい……んだよ……」
「…………」
 叱られて、黙り込むしかなくなった万莉亜が、ただおろおろと見下ろしていると、瑛士はぐったりとした頭を彼女の膝に乗せたまま、 全てが煩わしそうな瞳で天井を見上げた。
 そんな彼の一挙一動をするどい目つきで観察し、引き金を引くタイミングを今か今かと待ち受けているハンリエットを気にしながら、 万莉亜はただ成す術もなく、パーカーの袖で彼の額の汗を拭う。嫌がられたらすぐに手を引っ込めようと思っていたが、不思議なことに彼は 怒らなかった。もとよりそんな元気も、無いのかも知れない。
「……え、瑛士く」
「お前」
 びくつきながら発した言葉を遮られて万莉亜は言いかけた表情のまま彼に視線を合わせる。 幼さと生意気さを併せ持った憎めないバイオレットの瞳が、そんな万莉亜の姿を映していた。
「なんであの時、持ってかなかった……」
「……え」
「あの時、俺が寝ているとき、持っていけただろ」
 そう言って力の抜けた腕でジーパンのポケットから瑛士が万莉亜の白い携帯電話を取り出し、 ハンリエットに向かって放り投げる。地面を滑るようにしてやってきたそれをハンリエットは素早く拾い上げ、自身の胸元へと押し込んだ。
「……あ」
 呆けている万莉亜に苛立ったのか、少年がまた舌打ちをする。
「お前みたいな偽善者、俺は嫌いなんだよ」
「…………」
「そうやって、誠実な自分に酔ってるんだろ……お前みたいな奴は……」
 棘のある言葉を万莉亜に浴びせながら、それでも額の汗を拭う彼女の袖を甘んじて受け入れている少年。 それを奇妙に感じながら、万莉亜はただ黙って彼の汗を拭い続けた。
「どいつもこいつも……イライラするんだよ。馬鹿にしてるなら……偽善ぶるのは止めて、そう言ったらいいだろ……」
「……瑛士くん」
「むかつくんだよ……畜生っ……」
 少年が、歯を食いしばる。その瞳一杯に涙を溜めて、何もかもが憎いような、その悲しい目つきで、彼はただ天井を見上げている。 彼が感じている不条理が何なのかは分からない万莉亜にも、その痛々しさが伝わってしまうほど、瑛士は打ちのめされていた。
「俺は、不死の体になったんだっ……なのに、何でまだこんな所でこんなことやってんだよ! どーなってんだよっ……」
「……」
「どうなってんだよっ、何で俺は、いつもこんな……」
 瞬間、零すまいと彼が耐えていた一粒が頬を伝い、万莉亜はそれをさりげなく、でも素早い手付きで拭き取った。
 全世界に裏切られたと、幼い少年が泣いている。慰める術は、あるのだろうか。少なくとも、万莉亜はそれを知らない。 だから出来ることといえば、彼の涙に、見て見ぬフリを決め込むだけ。
「……あいつが、言ったんだ」
「……え?」
「俺は……どこまでいっても……弱者だって……っ! でもあいつはどうなんだよっ、第三世代が、そんなに偉いのかよ。 何で俺が欲しいもの、あんなやつが全部持ってるんだよっ……なんでいつも俺じゃないんだよっ!!」
「……え、瑛士くん、落ち着いて」
「ふざけんなよ……全部知ってるって、全部持ってるって顔しやがって、……むかつくんだよっ……」
「…………」
 分からない。
 第四世代は、第三世代に強いコンプレックスを抱いていると聞いたことがある。
 でも、これがそうなのだろうか。これが、そのコンプレックス? 世代間にある、異端独特の?
――……違う
 そう、強く思う。
 これはもっと、根本的な問題だ。異端かどうかなんて、関係ない。
 これは、単なる痛みの蓄積が作り上げてしまった彼の歪み。
「……瑛士くん、私、瑛士くんのこと、好きです」
 何かを言おうと思って、出てきた台詞は随分素っ頓狂だったが、とりあえず、目を見開いて驚いている彼が 万莉亜を見上げて押し黙ってしまったので、これは成功だろうか。
「あ、あの、変な意味じゃないですけど……その……あの倉庫で、瑛士くんが、私の生徒手帳を取り出そうとしていた時、 なんだか、すごく良い子だなって思ったから……多分、携帯を盗めなかったのは、そのせいです」
「……はぁ?」
「つまり、嫌われたくなかったんです。瑛士くんに」
「…………」
「今は見えなくても、きっと瑛士くんにも見えるようになりますよ」
「……何が」
「私には……分かりません……」
「何、だよ……適当なこといって、慰めようとか思ってんじゃねーぞ……馬鹿女」
 潤んだ瞳できつく睨まれて、万莉亜は口ごもった。そんな彼女を見て、瑛士が鼻を鳴らし、また天井へと視線を移す。 しばらくすると、ぼんやりとしたその瞳から次々と涙が零れ始めて、万莉亜は瑛士の目の端に袖を当て、それを食い止める。 薄い布越しに、彼の熱が伝わってくる。体温よりも熱い涙を、瞬きすることもなく瑛士は零し続け、両目の端に当てられた万莉亜の袖口がその防波堤を努めた。
「……お腹、空きませんか? あ、私のお弁当、食べてくれましたか?」
 涙に気付いていない素振りで、どこを見つめるでもなく万莉亜が声をかける。もちろん、当然のように返事はない。
「考えてみれば、誰かにお弁当作ったのって初めてなんですよね……でも、そんなに下手じゃなかったでしょう? けっこう、 器用なんですよ私。よく誤解されるんですけど」
「…………」
「運動神経は悪いけど鉄棒だけは得意だったり……あ、ゲームとかも、意外に強いんです」
「…………」
「そんなにとろくないんです。多分。今度、一緒にゲームしましょうか? 私なんでも強いですよ」
「…………」
「瑛士くんも強そうですね。でも、どうかな……どっちが強いのかなぁ」
「……黙れよ」
「はい……」
 喋りすぎたと即座に肩を落として俯くと、涙を溜めた瞳が悪戯っぽく微笑んでいて、万莉亜は瞬きも忘れてしまう。
「……あんたってほんと、馬鹿みたいだな」
「…………」
 心外だと言い返したかったが、涙を零しながら満足そうに口の端を持ち上げている彼にもう何も言えなくて、困ったように微笑み首を傾けた。
「だけど……」
「……?」
「俺みたいなクズの泣き言、聞いてくれるのって、お前が……馬鹿だからだよなぁ」
「……瑛士くん?」
「何が欲しかったんだろう……」
「…………」
「俺……何が欲しかったんだ……?」
 震える声で呟いて、少年が万莉亜の膝に顔を埋める。
 その答えは、万莉亜にも分からない。でも少なくとも、一億円ではないのだろう。きっと、 今の彼には、分からない"何か"。欲しがれば欲しがるほど遠のいて、 忘れたころに隣にある、そんな"何か"。
 焦らないで、と小さく呟いた。
 肩を震わせて、顔を埋めている彼には届かなかったかも知れない。
 だけど、いつかは届くのかもしれない。
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