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 ヴァイオレット奇譚「Chapter33・"十二番目の花嫁"」



 日が昇り、部屋の温度がじわじわと上昇を始める。
 その纏わりつくような熱に寝苦しさを覚えて万莉亜が目を覚ましたのは午前十一時。
 それから一時間ばかり新校舎の五階にある私室のベッドで横になって過ごし、 気を利かせたハンリエットが昼食とともに自前のノートパソコンを小脇に抱えてやって来たのがちょうど 午後十二時。
 ニ、三度のノックの後、万莉亜の返事を待たずに部屋に入ってきた彼女は鼻歌まじりにそれらをテーブルの上に並べた。
「好きに使っていいわよ。それで時間を潰したらいいわ」
 そう言って彼女が薄型のノートパソコンを人差し指で軽く突付いてみせる。
「……あ、えっ?」
「いい加減、暇で暇で頭おかしくなりそうでしょ?」
「は、はい! 実はそうなんです」
 慌てて万莉亜がコクコクと頷く。

 テスト明けの連休。
 その初日から風邪を引き、気がつけば丸二日寝込み、今なお絶対安静の名の下にこの部屋に軟禁されている万莉亜は、 もう二日も学校を休んでいる。その間蛍には連絡を入れたが、寮には一度も帰っていない。 アルバイトにも、祖母の見舞いにも行けていない。 本音を言えば、そろそろ寮に戻りたかったが、「完治するまでは」と何故か強固に言い張るクレアに 押されて結局寮には帰してもらえずにいる。
「平熱に戻るまではダメよ。風邪こじらせて入院なんて事になったら、まためんどくさい事になるわ。 ここに医者を引き込むか、病院ごと乗っ取るか」
「……わ、分かってますよ」
 こうやって脅され続けて今にいたるが、日を追うごとに、寮に帰りたくてたまらなくなっていた。
 勉強の遅れも気になるし、アルバイトに出られないのも辛い。祖母の見舞いに行けないことももちろんそうだ。
 ただそれ以上に、どんなに豪華で見栄えのいい私室といえど、寮にある自分の部屋以上に居心地の良い空間にはなりえないわけで、 小さな不便さや退屈さが、日に日に万莉亜をホームシックにさせてしまう。
「これ使って、オークションでも何でもやればいいわ。少しは退屈しのぎになるでしょう?」
「……ハンリエットさん」
 ただ、彼女の心遣いはとても嬉しいし、ありがたい。
 だから万莉亜は素直に喜び、ベッドから起き上がると昼食の並べられた窓際のテーブルについた。
「ありがとうございます。もう退屈で退屈で……」
 眩しそうに目を細めて真新しいそのパソコンを指先で撫でる。
「随分昔に買ったものだけど私ってほら、古い人間でしょ? 苦手なのよね。機械」
「それにしては……随分新しいデザインですね」
 昨今のパソコン事情にそれほど詳しいわけではないが、何となく口をついて出た言葉をハンリエットが咳払いで散らす。
「……ハンリエットさん?」
「さて! お昼にしましょう。見てこれ、和食よ。初めて作ったみたいだけど、結構いけてると思わない?」
「ルイスさんが?」
「もちろん」
 テーブルに並べられた昼食はこの新館で出されるメニューとしては異例中の異例だろう。
 ルイスの新たなる試みに、万莉亜も両手を打ち鳴らして喜びを露わにする。
「ありがとうございます。何だか、色々してもらって悪い気がしますね」
「いいのよ。あなたはマグナだもの」
「……はぁ」
 何だか釈然としないまま俯いていると、ハンリエットは「用があるから」といって 早々と部屋を出て行ってしまう。万莉亜は首を傾げながらそれを見送り、 一人席に座りながら茶碗を片手に黙々と箸をすすめる。
 料理自体は文句のつけようも無かったが、なんとも味気ない。
――帰りたいな
 安静にしていなければならないのは十分に理解した。
 ならば寮でもいいはずなのに、クレアはそれを許してはくれなかった。



******



 そそくさと万莉亜の部屋を後にしたハンリエットが、ちょうどラウンジのソファで一息ついていると、 遠くから女性の叫び声とそれと同時にドアが閉められる強い音が聞こえた。
――またか……
 思わず心の中でそう呟いて天井を仰ぐ。
 しばらくそうしていると、硬質な足音が徐々にこちらに近づいてきて彼女は振り返った。
「あらま」
 思わずそう声を漏らす。
 眉をひそめて立っていたクレアの頬にくっきりと浮かぶ赤い引っかき傷もさることながら、 インパクトが大きかったのは左腕に垂直に刺さった果物ナイフだった。それは根元まで深く刺さり、ボタボタと零れ落ちる赤い血が 大理石の床を染め上げる。
「わぉ、キョーレツ」
 そう言って茶化すハンリエットを横目でじろりと睨んだ後、倒れこむようにしてソファに沈む。
 言葉も無いのか、ただ黙って長いため息を零した父に、彼女は少し憐れむような視線を向けた。
「説得は、また失敗に終わったわけね」
「…………」
「とりあえずそれ、抜いたら? また瑛士がうるさく言うわよ。床を汚すなって」
「ああ……忘れてた」
 閉じかけていたまぶたを半分ほど開いて乱暴に左腕のナイフを引き抜くと、彼はそれをテーブルの上に投げ捨てて ふさがっていく傷跡を視線で追った。
 露程の痛みすらも感じていないような彼の表情にハンリエットが目を細める。
「お父様……もしかして薬使ってるの?」
 確信を持って投げかけられたその言葉にクレアが肩をすくめる。
「最近どうもシリルがハイになってると思ったら、そういうことだったわけね。やめてくれない? 影響大きすぎるんだから」
「……もう少し辛抱して。今だけだ」
「それって、痛み止めのつもり? そんなに痛むの?」
「それもある。ルイスは?」
「……調達に行ってる。弾の残りが頼りないから」
「そうか。じゃあハンリエット、悪いけどお茶を…………いいや。自分で入れよう」
「ちょっと! 失礼ねっ! お茶くらい入れられるわよ!」
 いきり立つ彼女を無視してクレアは立ち上がり、ものの三分ほどで二人分のマグカップを片手に戻ってくる。 その足取りはしっかりとしたものだったが、長年ともに過ごしてきたハンリエットには、酔っ払いの千鳥足にしか見えない。
 多分彼は、この四、五日間ほど、一睡もしていないのだろう。
 それでも枝たちが問題なく活動出来ているところを見ると、おそらくは薬物の投与によって無理に神経を研ぎ澄ませ続けている。
 クレアを筆頭に、彼らの体とは上手く出来ているもので、 分かりやすく言うのならば一日ごとにリセットされる肉体だ。細胞は決して時を止めてしまったわけではなく、 一日ごとにきちんと生まれ変わりを繰り返すのだが、ただ老いる事を知らない。ある決まった状態を、グルグルと永遠に回り続けている。 当然の如く、髪も爪も一定の長さまでしか伸びない。
 逆に言えば、つまりはどれだけ麻薬を摂取しようとも、決して中毒になったりはしない。 どんなに体を汚染しても、彼の肉体はすぐさま十八歳のあの日へと生まれ変わる。それは確かに強みではあるが、ただ決して褒められた事ではないだろう。 特に枝を抱えているクレアにとって、自分の体のコンディションは、最早自分だけの問題ではないのだから。

「……そんな状態で、大丈夫なわけ?」
「あと数日は持つよ。心配はいらない」
「薬漬けでよく言うわよ。梨佳の説得だって、上手くいってないんでしょ? もう無理やり追い出しちゃいなさいよ。 あのヴェラとかいう女の情報が正しければ、猶予はそんなに無いわよ」
「ご忠告どうも。万莉亜のほうは上手くいった?」
 カップを持ったままテーブルに足を投げ出してクレアが聞くと、ハンリエットは視線を万莉亜の私室の方向へと向けた。
「一応ね。昨日ルイスが買ってきたパソコンを渡したら喜んでいたけど、でもどうかしら。顔に帰りたいって書いてあったわ。引き伸ばせても あと二日が限度かな」
「そっちは何としてでもここに居てもらわないと困る」
「最善は尽くしてるのよ。ただ……」
「ただ?」
「少し寂しそう。お父様が梨佳にかかりっきりだから」
「…………」
 その言葉が意外に威力を持っていたのか、クレアは黙りこくってカップの中身を睨み合いを始める。
 梨佳には、何としてでも近日中にここを出てもらわなければならない。
 万莉亜には、何としてでも数日間ここに居てもらわなければならない。
 どちらも複雑な事情によるものだったが、そのどちらにも事情を説明するわけにはいかない。 もっともらしい事を言ってやり通すしかないのだ。

「梨佳は万莉亜ほど抵抗が強くないわ。記憶の改ざんは試してみたの? すっぱり消しちゃえばいいじゃない」
「出来るならとっくにやってる。騙せたとしてもほんの数分程度だよ。梨佳には僕の力が通用しない」
「……真っ向から話し合ってあの女が納得するわけないじゃない。時間の無駄だと思うけど」
「…………まぁ、出来る限りは」
 誠意を尽くしたい、そう言いかけて口をつぐむ。
 今更言えた義理ではない。
 ただ、数日間真っ向から向かい合って、彼女の気がすむまで罵詈雑言を浴び、引っかかれ、あまつさえナイフで腕を貫通されても、 それで彼女が満足しているかと問われれば答えはノーだ。
 冷たく突き放す事も、「愛している」と上手く丸め込む事も、二年間昼夜を共にしてきた梨佳には通用しないから、 馬鹿みたいに真正面から彼女の怒りに付き合うほか無い。その上で「それでも出て行ってくれ」と頼み込むのだ。
「絶対に時間の無駄よ」
「他に方法があるのか? 力でねじ伏せたって、梨佳はいつだって自分の意思でここへ来られるんだ。それじゃ困る」
「殺しちゃうしかないわね」
「私情は抜きで頼むよ」
「そうねぇ。しばらくの間どこかへ監禁しておくとか。このゴタゴタが終わるまで」
「……却下」
「何でよ」
「この状態が、永遠に続くことだって考えられるんだ。暫定的措置じゃ意味が無い」
 淡々と告げられるクレアの言葉にハンリエットが降参して両手を上げて見せた。
「それじゃあもう、万莉亜をつれてこの学園を捨てるしかないわね。そんなに梨佳を巻き込みたくないなら、 そうするしかないわ」
「…………」
「そもそも、もう梨佳はマグナではないただの一般人よ。狙われる確立は低いわ。なのに、 どうして今回はそんなに躍起になるのよ。今までみたいにきっぱりと捨てたらいいじゃない。円満に解決しようだなんて、 絶対に無理なんだから」
「……まぁね」
「まさか……梨佳に惚れてたの?」
 顔をしかめてこちらを覗きこむハンリエットにクレアは視線を外して頬杖をつく。
 梨佳の記憶を上手く改ざんできたらどんなに楽だろう。自分に関わる記憶だけを上手く消すことが出来たら。
 それでも、皮肉にもマグナはその力が及ばないからこそのマグナであって、それがやっかいなしがらみを引き起こすたびに、 なんて役に立たない能力だろうと失望してしまう。
――……ったく……
 面倒だ、と色んなものを切り捨ててきた皺寄せだろうか。
 ここ最近は、どうしようもなく救いがたい感情のやり取りに悩まされている。 いちいち対応していたらきりが無いと割り切っていた事柄が、どうしても気になって、 あげく無視を決め込んでいた罪悪感までその存在を露わにし始めた。
 死んでいたものが息を吹き返す。
 この窮地ではもっとも不必要ものが、判断を鈍らせる。



******



 午後十時。
 散々八つ当たりをして荒れ果てていたはずの自分の部屋は、先程無言で部屋にやってきたルイスによって綺麗に片付けられ、 気がつけばいつもの整然とした姿に戻っていた。
 ただ床にうずくまって泣いている自分の顔だけが、相変わらずくしゃくしゃに歪んでいる。
 涙もいい加減枯れ果てた頃、梨佳はゆっくりと立ち上がり、ドレッサーの前で赤く腫れたまぶたを そっと指でなぞった。
 それから乱れた短い髪を手櫛で整えて耳にかける。
 打ちのめされているはずなのに、鏡の中に映る自分はなおもきつい印象のままだった。
――可愛くない……
 散々見飽きた己の顔に心の中でケチをつける。
 だけど悔しいのは、そんなことは全く意味が無いということだ。
 どんなに絶世の美女が現れたって、それがマグナの資質を持っていなければ、クレアは興味も示さない。
「……クレア……ッ」
 自分以上に彼と相性の悪い女生徒など、もう現れないと思っていた。
 確率から、そうそう現れるはずが無いと。
 だから保っていられた。
 マグナは恋人ではない、と一線を引かれていても、クレアが自分の求めるような意味で愛してくれているわけではないと知っていても、 結局は自分のほかにマグナたる女性が現れないから、だから保っていられたのに。
「クレア……クレア……」
 両腕で自身の体を抱きしめるようにして背中を丸める。
 怒りと失望が交互にやってきて、もういつ壊れたっておかしくは無いのに、 心は中々頑丈に出来ていて、易々とは壊れないし、気が違ったりもしない。
 この部屋にずっと篭り続けて、分かった事はそれだけだった。
「……っ」
 おもむろに立ち上がり、奥にあるバスルームへ向かう。
 涙でひどい顔を洗おうと洗面所の蛇口をひねり、それから何気なく目に付いたそれを 手に取った。
「…………」
 くだらない。
 そう感じながらも、細いカミソリを握って、それを軽く手首に押し当てる。
――ハンリエットが、喜ぶかな……
 一瞬の勢いに任せて、切ってしまおうか。
 しばらくの間、そんな誘惑が梨佳を誘う。

「梨佳」

 聞きなれた呼び声と共に、右手に添えられた白い腕。
 ふと顔を上げると、目の前の鏡の中でクレアと目があった。
「……クレア……」
 呆然としながらそう呟く梨佳をよそに、彼はカミソリを取り上げるとそれをその場にあったゴミ箱へ 捨ててしまう。それから微動だにしない彼女の体を両手で持ち上げると、そのままベッドの上に運んだ。
「……どうして分かったの」
「勘」
「……」
「……冗談。この部屋から殺意を感じたんだ。知ってると思うけど、鼻が利くからね」
「それで……走ってきたのね……」
 乱れた息を整えながらクレアが頷く。
「また私に刺されに来たの?」
「君に滅多刺しにされるのって、そんなに悪くないよ」
 そう言っていとも容易く笑顔を見せる相手が愛しい反面憎たらしくて、梨佳は目を伏せた。
 どうあがいたって、この男は殺せない。殺したいほど憎いのに、それが出来ない。
「自殺ならよそでやってくれ。万莉亜のあずかり知らぬ所で頼むよ」
 梨佳の髪を撫でながら淡々とした口調でクレアが言うと、梨佳は唇をぎゅっと真一文字に結んだ。
 ひどい事を言う。
 自分の命になど興味は無いが、自分に取って代わったあの少女の心をむやみに傷つけるなと、笑顔のままに告げる。
 必死になって、額に冷や汗まで浮かべてこの部屋に飛び込んできたくせに、今更 とってつけたようなその冷淡な台詞で自分が傷付くとでも思っているのだろうか。
 クレアは、彼が自覚している以上に情に厚く、情に脆い。だから、本心ではない事は分かっていた。 けれど、そんな彼がそこまでして梨佳を切り離そうとしているその事実が、何よりも彼女を傷つける。
「……何度も言ってるでしょ。私は、絶対にここを出て行かないわ。……絶対に」
 低い声で、己に言い聞かせるようにして呟かれた梨佳の言葉に、クレアもまた打ちのめされてしまう。 こんなやりとりを何百年続けていても、この問題は解決しないのではないか。そんな錯覚に陥る。それほどに、 彼女の愛は根深く、重い。しかしそれを育て続け、利用してきたのもまた事実。
――考えるな……
 そんなこと、悔やむだけ無駄だ。
 似たようなマグナは過去に何人もいた。何も梨佳が初めてではない。 では自分は、彼女らをどう切り捨ててきたのだろうか。どう解決してきたのか。
 答えはシンプルだった。
 逃げてきた。
 ある日突然、忽然と姿を消してきた。話し合っても、無駄だと知っていたから。 「マグナは恋人ではない」と前置きしても、そんな手前勝手な言い分を「はいそうですか」と聞く女はいない。 だから逃げてきた。それが出来たのは、土地に執着していなかったからだ。
 だけど今回は勝手が違う。
 様々なしがらみのおかげで、下すべき判断を下せない。
「…………」
 目の前でこうべを垂れている梨佳を眺めながら、クレアが肩を落とす。全身の力を抜いて、 脱力をしながら天井に向かってため息を吐いた。
「……君は、マグナにはなれない。もう、利用価値が無いんだ。分ってるだろ」
「それでも……傍にいたって良いじゃない。あの子は、そうしていたわ。あなたの子供を 産む覚悟なんて無いのに、あの子はここにいる。あなたはそれを容認してるっ……!」
「万莉亜には可能性がある。君には無い」
「分らないじゃないっ!!」
 枯れ果てたはずの涙を瞳に溜めながら梨佳が顔を上げて怒鳴りつける。 相手は驚いた様子も無く、またうんざりした様子でもなく、ただ淡々とした視線を向けていた。
「分らないじゃないっ……、分らないわ……まだ二年よっ、分らないじゃない!」
「……絶望的な可能性にかけて、何年ものんびりと君と過ごすつもりは毛頭無い」
 そう言い終えるのと同時に、梨佳の張り手がクレアの左の頬に命中し、彼女は肩で息をしたまま 怒りの目つきで彼を睨みつけた。
「大っ嫌いよ……っ」
「……そう思うのなら、今すぐここを出て行ってくれ」
 彼女に殴られた彼の表情は、その半分が垂れてきた前髪で隠されていたが、おそらくは 先程から微塵の変化も無いのだろう。冷たい口調が、それを教えてくれる。
 取り付く島も無くて、梨佳はそのまま突っ伏し、シーツを強く握り締める。小さな拳が、 あらゆる激情で震えていた。
「……どうして……どうして捨てようとするのっ……」
「…………」
 いらないから。その言葉が、喉まで出かかった。危うく零しそうになったところで、クレアはそれを飲み込む。 どこまで傷つけて良いのかが分らない。
 先程の自殺の真似事が、自分が駆けつけるのを見越しての狂言だったとしたら。
 だけどもし本気だったら。
 ざっくりと切り捨てる事が出来ないのは、良心の呵責だけではない。だけどそれを、悟られるわけにはいかない。 ほんの少しの希望も、与えてはいけない。
「……私を捨てないでクレア……お願い……もうどうしたらいいか、分らないの……」
「…………」
「お願い……っ」
「…………」
「もう二度と会えないくらいなら、死んだほうがマシよ……っ!」
 時間が無い。ここにいれば、彼女は確実に巻き添えになって命を落とすだろう。マグナの万莉亜すら 守りきれるか分らないこの現状で、梨佳の存在は、足枷以外の何者でもない。
「二年間の謝礼は払う。屈辱的だろうが、何も無いよりましだろう? 君が望む物なら、何でも与える。 僕が出来るのはそこまでだ。後は好きにすれば良い。生きるも死ぬも君の自由だ。ただ、やるなら外で頼むよ。 何度も言うけど、万莉亜が悲しむ姿は見たくないからね」
 梨佳を効果的に傷つけるためだけに、また万莉亜の名前を利用する。この際なりふりなど構っていられない。
 実際、連日続く緊張状態で、クレアもまた苛立っていた。
 眠れない。気を緩める事も出来ない。常に警戒し、集中力が途切れれば薬で無理やり意識を覚醒させる。 いつまでこんな事が続くんだとうんざりしながら、どうかその日が来ないようにと祈る。
 そんな風にしてストレスが少しずつ心を蝕んでいく。
 どうにでもなれ、と投げ出す一歩手前で彼は踏みとどまっていた。
「……梨佳」
 心の中で舌打ちしながら「どうして分かってくれないんだ」と毒づき、突っ伏す彼女の前で額に手を当てる。 とても疲れている。事情を全く説明していないのだから、分かれと言うほうが無茶な話なのだが。

「……わかった……」

 シーツに突っ伏していた彼女が、ゆっくりと顔を上げながら小さく呟く。
 あまりに控えめなその声にクレアは一瞬耳を疑い、もう一度催促するように首を傾げた。
 そんな彼の戸惑いもお構い無しに、梨佳はその細い腕を伸ばして相手の肩に回す。
「……梨佳?」
「もう、どうしたってダメなんでしょ……」
 耳元で囁かれてもなお聞き取りが困難なほどに小さな声で梨佳が言う。 かろうじて聞き取ったクレアが頷くと、梨佳は同様の声で続けた。
「……じゃあ、最後に抱いて。そしたら出て行く。してくれないなら、出て行かない」
「…………」
 今更、そんなことで彼女が納得するとは到底思えなかった。だとしたら、今までの長い長い衝突は なんだったのだろう。
「どうするの?」
「……それって、何か意味があるのかな」
「無いわ。ただの思い出作りよ……」
「…………」
「それから、愛してるって言って。嘘でもいいから。私はそれを信じて、出て行くの。 私をいらないって言ったクレアなんて偽者。そうやって、思い出をいいように作り変えて生きていくの」
「君がそんな殊勝な女だとは思えない」
「約束するわ。明日の朝、すぐに出て行くって」
「…………」
 今更信じるには値しない。
 けれど八方塞の今、試してみない理由は無い。
「……クレア」
 しなだれかかる彼女を自分の体から離して、その頬に手を当てると、梨佳は潤んだ瞳で こちらを見上げてきた。いつもの彼女の強気な眼差しは影をひそめている。
「愛してる」
 そう言葉を紡いだ。
 梨佳の瞳が、穏やかに細められる。
 何が嬉しいのだろう。全く意味が無い。プライドの高い彼女にとって、 こんな空虚な言葉はむしろ侮辱に値するはずなのに。
「……私も、愛してる」
 一筋の涙が梨佳の頬の上に流れ落ちる。それを眺めながらゆっくりと 彼女を横たわらせると、クレアはその上に覆いかぶさり、その慣れた唇にキスをしながら目を閉じた。 瞬間、どっと押し寄せてくる眠気。それと戦う内に、彼女の言葉の真意を探ることは有耶無耶になる。
 もし彼女が本気ならば、ここで眠りこけてしまうなどという間抜けな結末だけは避けなければならない。
 一方、そんなクレアをよそに、梨佳の視線は入り口のドアに注がれていた。
 慌てて入ってきたクレアが、扉を開けっ放しにしたままの状態。
 そして今そこに立っている驚愕の瞳をした黒髪の少女に向かって微笑む。
 それからこれみよがしに彼の首に腕を回してキスをせがんだ。そのうちその影が消えると、梨佳は満足して 彼の行為に集中する。 してやったと、僅かな満足感が得られたことで、最悪だった気分はほんの少し薄れ始めていた。



******


 ハンリエットが貸してくれたノートパソコンで暇を潰しながら 午後を乗り切ると、万莉亜はすっかり乾いた両目を擦りながらベッドに仰向けになって横たわった。
 喉の痛みは大分治まってきたし、寒気や頭痛も徐々に良くなっている。 少し無理をすれば学校にだって行ける気がする。
「楽になった気がするのは、体が熱に慣れただけよ」
 そう言って体温計に表示された数字を眺めていたハンリエット。
 三十八度以上あると彼女は言ったが、万莉亜はそれを見てはいない。そんなに熱があるとは 思えないほど体は軽いのだが、やはり彼女の指摘どおり熱に慣れてしまったせいだろうか。 病院で処方された薬はきちんと飲んでいるし、ルイスの作ってくれた栄養たっぷりの食事を取ってこんなに 安静にしているのに、まだ高熱が引かないなんて、随分と性質の悪い風邪だ。
「……暇」
 天井に向かって呟く。
 たまに遊びに来てくれるのはシリルだけだ。ハンリエットは、基本的には用事があるときにしか顔を見せない。 ルイスや瑛士は万莉亜の部屋に立ち入る事を禁止されている。その禁止令を出した張本人には、もうずっと顔を会わせていない。
 クレアだけじゃない。ここ数日、何となく皆が忙しそうにしている事には気がついていた。一度ハンリエットに尋ねてはみたが、 のらりくらりとかわされてそれ以降は尋ねる事をしていない。
 ただ、こうして時間を弄んでいる間にアルバイトが出来たらどんなにいいだろう。そんな焦りをつのらせて ただただ風邪の完治を待っている。しかしそれももう、限界に近かった。
 『暇だよー』
 手元にあった携帯電話を手繰り寄せ、短い文章を蛍に向けて送信する。一分と立たずに返ってきたその文章を見て、 ますます里心がつく。
 『治ったの? 早く帰っておいで。寂しいよ』
 寂しいなんて、蛍は滅多に言わない。
 そんな彼女言うのだから、多分それは偽らざる本心なのだろう。
――帰らなきゃ……
 無性にそう思う。
 ふわふわとした豪華なベッドは見栄えも良いし寝心地も良いけれど、自分が安らかに眠れる場所はあの部屋の あの簡素なベッドなのだ。向かいのベッドでは、静かに寝息を立てている蛍がいる。それが、万莉亜の部屋だ。
 転がっていたベッドから勢いよく立ち上がり、万莉亜はテキパキと寝巻きから私服へ着替える。
――何と言われても、今日は絶対に帰る
 そう強く決心をして私室を後にすると、真っ直ぐに理事長室へ向かう。
 時刻は午後十時過ぎ。最近は何やら多忙そうだけれど、この時間になれば彼もあの部屋に帰って来ているはずだ。 そう考えてフロアを歩いていると、ある一室から明かりが漏れていることに気付き、ギクリと心臓が音を立てる。
 最早このフロアでは閉め切られていることが常になっていた梨佳の部屋だった。
 その扉が、珍しく開いている。
――……先輩……
 覗こうとしたわけではない。
 通り過ぎる際に、ちらりと視線を送っただけのつもりだった。 ただ視界に飛び込んできた光景に視線が剥がせず、結果的には覗きになってしまった。
 しばらくするとまず最初に梨佳が万莉亜に気付き、挑戦的な目つきを向けた後クレアに腕を伸ばす。
 ベッドの上で抱き合う男女を呆然と眺めながら、やがてクレアが紡いだ言葉に心臓が引き裂かれ、 重なり合うようにして抱き合う男女を眺めた後、万莉亜は静かにその場を後にした。
 何が何だか分らない、というのが最初の感想だった。
 しかしその後、非常に簡単な答えに辿りついた。それからフラフラとした足取りで 無心のまま寮に向かい、機械的な手付きでドアノブを回す。
「万莉亜っ!」
 突然返ってきたルームメイトを、洗顔の途中だった蛍が泡だらけの顔で出迎えた。
「へへ……ただいま」
「あんた、もう熱は良いの? 完治するまで帰らないって……」
「うん、もう全快したみたい」
「……そうは……見えないけど」
 青ざめた万莉亜の顔を覗きこんで蛍が眉をひそめる。
「大丈夫だよ。明日からは授業にも出るから」
 口の両端を持ち上げて笑顔を作ると、蛍はますます怪訝そうな顔をした。 その視線に居た堪れなくなり、万莉亜はさっさと自分のベッドの上に移動する。 ぎしっと鈍くしなるそれが懐かしいはずなのに、そんな感慨は微塵も浮かんでこなかった。
「ほんとに大丈夫なの?」
 再度投げかけられた言葉に頷きながらベッドに潜り込む。
 数日間誰にも使われていなかった掛け布団が異様に冷たい気がして、小さく身震いをした。
「もう一日、休んだら? 死にそうな顔してるよ」
「……うん」
 壁に顔を向けたまま、そう返す。
 おかしな様子の万莉亜を怪しんでいるのに、聞き出そうとしない蛍の心遣いが嬉しかった。
 何か喋ったら、きっと自分は堰を切ったように泣き出し、崩れ落ちてしまうだろう。
 蛍がそれをしないことで、万莉亜は一旦頭を空にして眠りにつくことが出来る。
――忘れよう……
 今だけでも。最後にそれだけ、心の中で呟いた。
 とてもじゃないが、この衝撃に、耐えられそうも無い。
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