ヴァイオレット奇譚2

Chapter4◆「マグナマーテルの憂鬱―【4】」




 何か飲みますかと、最初に口火を切ったのは意外にも詩織の方だった。

「あ、……ありがとう」
 扉の前で、まるで金縛りにでもあったように立ち竦んでいた万莉亜がそう答えると、 彼女は立ち上がって部屋の中にある簡易キッチンへと向かう。
 ゆっくりと部屋の中央へ歩み出た万莉亜は、どこへ座っていいのか迷いに迷い、結局 窓際の小さなテーブルの席についた。

 こうしてこの部屋にいる詩織を見ていると、本当にマグナになったのだなと 痛切に実感させられる。
 ルイスに聞かされて、覚悟は出来ていたはずなのに、目の当たりにしてはじめて、言いようのない衝撃と 悲しみを感じずにはいられない。
 これは嫉妬だろうか。そうだろうか。
 燃え上がるような情熱を感じられない、ただただ悲しいだけの気持ち。
 まるで心が、初めから白旗をあげているような……。

「ごめんなさい」
 テーブルに二つのカップを置きながら、唐突に詩織が呟いた。
 驚いて顔を上げた万莉亜の前で、詩織が大きな瞳を揺らす。
「理事、クレアさんは……先輩の恋人なんですよね? 私……」
「あ、そんな……そんなこと……」
 相手の言わんとしていることを察して、万莉亜が首を横に振る。醜い嫉妬心を 見透かされているようで居心地が悪かった。
 詩織は静かに正面のイスに座り、万莉亜も自分のカップを持ちあげる。甘いホットココアだ。
「先輩はずっと、ここの存在を知っていたんですね」
「……」
「先輩はマグナにはならなかったんですか?」
「……え」
 意外な質問に、どう答えるべきか万莉亜が目を泳がせる。
 クレアや枝たちは、何も話していないのだろうか。たとえ彼らが黙っていたとしても、シリル辺りが ペラペラと漏らしそうなものなのに。
「ごめんなさい、いいんです。ただ私は、私がここにいることで、先輩が不愉快な思いをしたなら、 謝りたいと思って。マグナとかって、彼らの理屈だし」
「……」
「だからもし先輩が納得していないなら、謝らなきゃって」
「……あ」
「だって私達、今日から敵ですから」
 さらりと投げられた言葉が、すぐには理解できなくて、万莉亜は息を止めて今の彼女の言葉を繰り返す。 気付けば、目の前の詩織は厳しい目つきで万莉亜を睨みつけていた。
 あんなに甘かったはずのココアが、味をなくしたまま万莉亜の喉を通り過ぎる。

「私、もうそっちの世界には帰りません。だから、もし先輩が私を追い出したいと思っているなら、 私たちは分かり合えません」
「守屋……さん」
「ずっとここに居たいんです。あの人の側に」
「……でも、でもだって、学校は? 友達とか、家族とか……みんな心配するし、それにマグナは危険なんだよ」
「良いんです。覚悟は決めてますから」
「…………」
「クレアさんは、私が望む限り側にいることを約束してくれました。私は、ずっとここにいたいんです」
 きっぱりと言い切った詩織に、迷いはなさそうだった。
「どう、して……そんなに」
「先輩は知らないんです。得体の知れないモンスターよりも私は人間の方がずっと恐ろしい」
「……」
「先輩は、知らないんです……知らないから、いつだって綺麗でいられる。正論を並べれば、私が納得すると思ってる。 でも、正しい言葉が救いになるとは限らないんです」
 詩織の声は、怒りと悲しみに震えていた。
 こんな風に、彼女が感情をあらわにするのをはじめて見た気がする。
「……守屋さ」
 やっとことで万莉亜が口を開いたところで、部屋のドアがノックされる。
 振り返った二人の前にあらわれたクレアは、そのまま窓際のテーブルに寄ると、詩織を呼んだ。

「知り合いが来てるんだ。マグナとして紹介するから、来てくれないかな」
「分かりました」
 素直に頷いて立ち上がった詩織を、後から部屋にやってきたルイスがフロアへと連れて行く。
 当たり前のように部屋に残ったクレアに、彼女が一瞬振り返ったのを万莉亜は見た。

「久しぶりだね」
 二人きりになると、彼はそう言って万莉亜の手を引き、彼女を自然に立たせ、そのまま軽く抱きしめた。 さりげなく体を離すことも出来たのに、そんな自分の心が見透かされているような、まるでテストされているような 気分にもなって、万莉亜は結局体を硬くする程度の抵抗しか出来ずにいた。
「もしかして怒ってる?」
 まわした腕を緩めながらそう訊ねてくる彼に、首を振って否定する。
 ざわつく胸に蓋をするのも難しかったが、その全てを吐露するほうが万莉亜にとっては難しい。
「詩織の事なら、あれは一時的なものだから」
「……はい」
「なかなか枝と打ち解けなくて、今は僕が面倒を見ているけど、あの、誓って言うけど、下心なんて 微塵もないよ。万莉亜が心配するような事は何もない」
「…………」
「だから君は、学園生活の最後の年を思う存分楽しんで。ね」
 
 そうだ。
 そのためだけに戻ってきたのだ。危険もかえりみず、そのためだけに。
 分かっていたはずなのに、最近は鬱々としてしまい、とても楽しんでいるとは言えない。
――だめ……ちゃんと……今を考えなきゃ……
 油断すると未来を探りたくなる衝動を堪えて、ぎゅっと目をつぶる。
 思い切って彼の背中に腕を伸ばし、力を込めて抱きしめれば、シャツの肌触りや、その下の硬い胸の感触が伝わって、 ほっと息を吐いた。これが今だ。今感じていることで、心をいっぱいにすれば良い。

「万莉亜?」
「……そういえば、クレアさんの知り合いって……?」
 顔を上げた万莉亜の表情に、彼は一瞬不思議そうに見入った後、実にどうでもいい風に説明する。
「ヒューゴの妹なんだ。兄とは決別してるから今のところこちらに害はないけど、念のため、君が生きているのを知られたくない」
「……」
「といっても、死んだ僕のマグナの名前も顔も彼女は知らないから、心配は要らないと思うけど」
「そうだったんですか……」
 驚いたように目を見開いている万莉亜の頬を右手で包みながら、優しい熱を持った瞳がじっと見つめている。 それに気付いたときには、もう相手の唇が触れる寸前まで近づいていて、万莉亜は慌てて目を閉じた。
 久しぶりのキスは少し慎重だったけれど、なかなか万莉亜を放そうとはしないその腕に、もしかしたらさっきのことを 根に持っているのかなとぼんやり考える。しかしそれも、唇の間を割って入ってくる彼の熱に翻弄され、すぐに頭が 働かなくなる。だから小さく鳴ったノックの音に気付いたのは、すでに扉が開けられた後だった。
 
「あの、クレア」
 申し訳無さそうに発せられたルイスの声に、万莉亜が我に返る。
 いつの間にか、部屋の中にはルイスと詩織が戻ってきていて、そんなものはお構い無しに 清々と無視しながらキスをやめないクレアと、全く気付かない万莉亜に戸惑っている様子だった。
「っおかえりなさい!」
 言うと同時にクレアから体を引き剥がし、赤面したまま万莉亜が二歩も三歩も後退する。
 咄嗟に視界に飛び込んできた詩織は、俯いていたのでその表情までは万莉亜に読み取る事はできなかったが、 もしかすると傷付けてしまったかも知れない。
 あんな話をしたすぐ後にこれでは、さすがに申し訳ないなと思う気持ちもあったが、しかし同時に、 とんでもない理不尽さも感じていた。
 傷つかれるのは納得がいかない。
 なぜだろうか。
「あ、じゃあ私……裏から帰ります……その方がいいと思うし」
 言いながら皆に背中を向けて、万莉亜が新校舎の裏手に続く螺旋階段のドアを開ける。
 引きとめようと名前を呼んだクレアに、精一杯の微笑みを向けながら手を振って、そのまま理事長室を後にした。

 心が白旗をあげている。
 なぜだろうか。
 詩織はかつての自分だ。言葉にするかしないかだけの違いで、万莉亜がこの場所に惹かれたのも、 きっと詩織と似たり寄ったりの理由だったのかもしれない。
 では自分はどうだろう。今の万莉亜は何なのだろう。

 恐れているのは、舞い込んできた希望。
 心が白旗をあげているのは、それは、決して自分から彼には与えられないものだからだ。
――ああ……そうか……だから先輩は……
 泣いていたのだと、今も鮮明に覚えている梨佳の顔が浮かんでは消える。
 だから憎まれていた。自分が現れた時点で、勝負はついてしまったから。
 恐ろしいのはクレアの心変わりじゃない。
 その、どうしようもない事実。



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