ヴァイオレット奇譚2

Chapter7◆「万莉亜―【6】」




 八月が終わり、九月を迎えた。
 万莉亜がクレアに一方的な保護を受けてから、三日が経つ。

 突如彼女に変化が現れ始めた。それが、前向きなものなのかそうではないのか、クレアには判断しかねたが、 とにかく万莉亜は、何の前触れもなく、笑うようになった。

 それは万莉亜の祖母が亡くなってから七日目の朝だった。



******



 朝から、ちょっとしたトラブルが起きた。
 祖母の担当医が、万莉亜が行方不明だと警察に駆け込んだらしい。
 友人知人にはあらかじめでっちあげのシナリオをすり込ませておいたが、病院関係は後回しにしていた。 しかしルイスの素早い対応で、とりあえずは事なきを得た。
 いや、正しくは、事なきを得るはずだ。

「万莉亜ちゃんっ!」
 初七日。僧侶の読経を始めに、一通りの供養の儀式を終えると、細長いテーブルを囲んで茶菓子を前に談笑する 者たちを押しのけて永江医師が少女の名を呼んだ。
 会場の入り口に立っていた万莉亜はその声に振り返り、にこやかに手を振る。
 まずはその動作に驚き、それから少女を囲むようにして立っている異色の男二人に驚いた。

 彼女の前に立ちはだかるようにして両腕を組んでいる男。
 ブラックスーツに包まれた随分と立派な体躯、きちっと刈り上げられた髪。神経質そうな眉に、細い瞳。銀縁の薄い眼鏡をかけた男が、 挑むようにこちらを見据えている。
 その一歩後ろ、万莉亜の横には、目に痛いほどの金髪がこの場において非常に浮いているサングラスの青年。 こちらもまた、厳しい視線を自分に向けている気がして、永江は思いきり躊躇した。

「……先生?」

 中々近寄ってこない永江を不思議に思ったのか、万莉亜が小首を傾げている。
 はたと我に返った永江は、慌てて彼女に駆け寄った。
 彼女に張り付いているSPまがいの男性二人には、とりあえず気付かないふりをして、 万莉亜の肩に手を伸ばす。

「万莉亜ちゃん! 探してたんだよ!」
「……え?」
「ずっと携帯が繋がらなかっただろ? それで寮に電話をかけたら、君はマスターの所に いるって先生が……でも、そんな話マスターには全く伝わってなかったんだ。それで心配になって、 警察に相談に行ったら、君はお兄さんの所だって役所が言うじゃないか。一体全体どうなって……」
 一連の不可解な出来事を、一気に吐き出すようにして捲し立てると、それをじっと聞いていた万莉亜が 頷いて、肩に置かれた永江の手を握った。
「先生、落ち着いて」
「でも……っ」
「私は、大丈夫です。だから、心配しないでください」
「君のお兄さんて一体誰なんだ……っ?」

 自分の言葉に、思わず永江は両脇にいる男二人を交互に見やった。
 金髪のサングラスか、黒髪の眼鏡か。無意識に選んで、永江の視線は黒髪の方へ向けられる。

「あ、え……あ、……あの、ワタシ、ワタシ、は」
 突然の事に、ただでさえ不自由な日本語が、さらに不自由さを増し、リンが口ごもる。
 その間僅かに紡がれた言葉に独特の訛りを察知した永江が、素早く相手を中国系と判断し、今度は金髪の青年に視線を向ける。
 その姿に、一瞬激しいデジャブを感じて、彼は瞬きを繰り返した。
 彼を、見た事がある気がする。黒いサングラスの下にある瞳の色を、その形を、知っているような気がする。 しかし、すぐに思い直してわざとらしい笑みを浮かべた。そんなこと、あるはずがない。覚えている限り、 こんなに見事なプラチナブロンドの知り合いはいない。いたとしたら、強烈に記憶に残っているはずだ。

「君が、万莉亜ちゃんのお兄さん?」
 おそるおそる尋ねてみれば、少しの間の後、青年が小さく首を振って否定する。
 どちらもハズレかと永江が肩を落とすと、万莉亜が握った手に力を込めて微笑んだ。
「先生、私一人っ子だから、兄弟はいないんです」
「……そう、だよね? なのになんで」
「だから、もう、大丈夫ですよ。私は本当に、大丈夫なんです」
 これ以上の追求を許さない万莉亜の笑顔に、永江はたくさんの言葉を見失い、眉根を寄せる。 なぜ彼女に拒絶されているのか全く分からない。
 そして、この笑顔は何だろう。
 唯一の祖母を亡くしてたったの一週間。なぜ彼女は、笑っているのだろう。



******



 会場から少し離れた木陰で、急遽用意したスーツの息苦しさにリンがネクタイを緩めて深呼吸をした。
「ルイスのやつ、適当なサイズで寄越しやがって。クレアじゃあるまいし、俺にキッズサイズが着こなせるかよって話だ」
「…………」
「ほんの冗談だろ」
 ノリの悪い相手に肩をすくめてリンが芝生の上に直接腰を下ろす。
「ところで、あの先生にはいつ仕掛けるんだ? このままじゃあの先生、延々居もしない兄貴とやらを探して 方々かけずり回りかねないぜ」
「そこまで馬鹿じゃないよ。さっきの万莉亜の言葉で、もう十分だ」
「……まぁ、お前らがそう言うのなら、俺は良いけども」

 晴天の空を見上げながら芝生に寝転んで、雨が降るな、と一人呟くリンの横で、クレアも妙にまとわりつく湿気を 感じていた。
「万莉亜は、随分回復したみたいだな。……今朝はきちんと食事もしていたようだし、機嫌も良さそうだ。 そういえば、あの子の笑顔をはじめて見たよ」
「……強がってるんだろ」
「強がれるほどの余裕が出来たって事だ」

――そうかな……

 言葉にはしないで、クレアは俯いた。
 万莉亜の笑顔は完璧だった。いつもの、可愛らしい笑顔だった。
 今日はじめて知った。彼女は本当に、笑顔が上手だ。本当に嬉しいときの笑顔と、 寸分違わぬ笑みを浮かべてみせる。それが、とてもショックだった。

 そもそも、かつて彼女はたったの一度でも、自分と過ごして心から笑えたときがあったのだろうか。 信じていた何かが崩れ落ちていく気がして、悔しかった。
 
「今の彼女になら、きちんと別れを告げられるんじゃないか?」
「……え?」
 返事と同時に視線を向けると、リンはすでにこちらを見上げていた。
「さよならってのは、たとえ辛くとも、きちんと告げないと後々その分引きずってしまうんだ」
「……」
「曖昧な別れは、残酷だ。それが恋人ならば、尚更だ。きちんと捨ててやるのも、男の義務じゃないのか?  俺は、そう思うよ」
 しばらくの間の後、分かっているよと答えたクレアの言葉を聞いて、リンは立ち上がり、衣服についた 雑草を豪快に払い落とした。
「言っておくが、急かしてるわけじゃないからな。念のため」
 最後にそう言って、彼はサイズの小さいスーツのボタンをきちっと留めながらその場を後にする。

 その場に取り残されたクレアが一人空を見上げると、待ちかねていたように一粒の雫が空から 落ちた。一粒、また一粒。
 晴れ渡っていた空から、次々と降ってくる雫が髪を濡らす。

「傘、お貸ししましょうか」

 物陰から現れた人物が、クレアの背後からそう言って傘を差しだした。
 少し警戒して振り返った。リンにしてはいささか流暢すぎる英語に、違和感を感じたせいだ。

「……濡れますよ」
 振り返った先で、永江医師が厳しい視線と共にそう言った。



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