ヴァイオレット奇譚2

Chapter11◆「聖なる夜とヴァンパイア─【6】」




 頭の中でもう一人の自分がとても冷静にため息をついた。すっかり現実を見失ってしまった自分に、 呆れたようにしてため息をつく。
 もうどこに立っているのかも分からない。ただ、背筋の凍るような恐怖と、焦りと、それをもってしてもなお押さえきれない怒りに、 じっとしていられない。
 乗り越えてなんかいない。この痛みを乗り越える日などきっと永遠に来ない。──果たしてそうだったろうか?
 痛む胸を堪えたまま、それでも立ち上がったような気がする。誰かが、手を差し伸べてくれたから。あれは、誰だったのだろうか。 また、もう一人の自分がため息をついた。

 あの手を取った日、彼は確かにここにいて、笑っていた。愛されていると思った。けれどそれは、ただの思い上がりだった。 彼は、愛しているように見せかけているに過ぎなかった。愛されてなどいなかった。──果たしてそうだったろうか。いや、それは 曲げようのない事実だった。

──頭が、……痛い

──「隠れなさい、まりあ」

 嫌だ。お母さん。私はもう、隠れない。逃げない。この惨劇が終わるその時、自分が息をしているのも許せないほどの絶望を、 また味わうくらいならば。私は、共に終わる事を選ぶ。このどうしようもない宿命を、地獄の底から恨みながら。

「万莉亜っ! しっかりしろ! ちくしょう、……」

 春川の術中に落ちた万莉亜を前に為す術もなく、瑛士は振り返って未だ足掻く第四世代拳を振り上げている クレアの名を呼ぶ。
 第四世代の断末魔に負けじと張り上げた少年の声に、虚ろだった万莉亜の瞳はクレアを捉えた。
 彼女は小さく息だけの悲鳴を上げると、ガクガクと膝を振るわせ、憎々しげに惨劇を見据える。

「……やめて」

 憤りを含んだ声は、ほんの僅かな風にもかき消されそうな儚いものだったけれど、その声を合図にクレアは動きを止めた。 そこで初めて彼は万莉亜の異変に気付いた。それから狼狽える瑛士へと視線を移す。

「万莉亜が、万莉亜が変なんだよ! 春川が万莉亜に何かしたんだっ、あいつ……、万莉亜に何か見せやがった!」

 何度か舌を噛みそうになりながら口早に説明すると、クレアは今まさに校門をくぐろうとしている春川の背に目をやる。 それを確認すると、彼は一旦胸ぐらを掴んでいた男を解放し、地面に投げ捨てた。

「俺、春川を……!」
「いい。どうせ出られない」
 ほとんど駆け出しながら言う瑛士をクレアはそう言って静止し、背後に横たわるいくつもの体を拘束するよう瑛士に命じた。
「ルイスが向かってる。それまで見張ってろ」
「……ああ」
 少しだけ、余裕がないように感じたのは気のせいではないだろう。クレアの額には汗が浮かび、頬は赤く上気しているのに 額から目元にかけては青ざめていた。一言喋るにも億劫そうに唾を飲み込む彼は、朦朧と立ち尽くす万莉亜よりもずっと頼りなげに見える。
「……クレア?」
「早く」
 苛立ちが交じった声でそう命令され、瑛士は言われたとおりに横たわるいくつもの同胞を縛るための拘束具を探しに新校舎へと駆けていく。

 身の毛がよだつような寒々しいオーラを放ちながらも、限界まで張り詰めた緊張感に倒れてしまいそうなクレアは、 やはり瑛士の知っているクレアとはどこか違うような気がした。永遠に手が届かない存在だと思っていた彼が、 ひどく余裕を失っているというだけで、まるで随分幼くなってしまったような、ただの少年にも見えてしまうような、奇妙な違和感。

「きゃあああっ!」
 背中で万莉亜の悲鳴が上がった。ぎょっとして振り返る。
 クレアが一歩彼女に近づいた事で、動転した万莉亜が悲鳴を上げたらしい。
──……大丈夫かよ
 クレアにしても、今の万莉亜を目覚めさせる術はないというのに、その上余裕まで見失ってしまった今の彼に、 万莉亜を任せるのはいささか不安が残った。



******



 黒い影が、忍び寄る。もう見つかってしまった。もう隠れられない。

「私を……殺すの……?」

 黒い影が、何かを言った。くぐもっていて、よく聞こえない。壊れたスピーカーのように 音が割れる。低く蠢くような、高く耳を劈くような声。

「殺すの……?」

 殺される。分かっている。それでいい。殺してくれていい。でも……

「……あなたを、許さないから」

 ずっと言ってやりたかった。ただこの一言を。
 涙が止まらない。恨み言の一つも言えなかった。あの時、生き延びてしまった自分は、 無残に両親の命を奪った犯人に恨み言一つ言えなかった。憎しみ一つ、ぶつける事が出来なかった。

「殺すなら、殺してよ。私、あなたを許さない……、絶対、許さないっ……」
 震える膝から力が抜けて、万莉亜は地面に再びへたり込む。たくさん傷つけてやりたいけれど、 もう体中が恐怖で脱力してしまっている。殺されるのは怖い。父や母は、こんな恐怖を味わったのだ。

 でも。
 それでも。

 押し入れの中で、陽気な歌に震えていたあの日の自分は、もっと救いようがなかった。 この恐怖が残す傷痕は、未来永劫消えないのだと知っていたからだ。
 
「やめてっ……」
 黒い影が、おぞましいほどの冷たさと共に万莉亜の体を包む。冷たくて、凍えてしまいそうだ。 胃が絞り上げられるようにして痛む。

「万莉亜」

 初めて、言葉として捉えられた声。驚いて、万莉亜は肩を振るわせた。耳元から聞こえてくる小さな声は、 たくさんのノイズに交じりながらも、とても澄んだ響きで鼓膜へと伝わる。

「万莉亜、ずっと君に、謝りたかった」
「……許さない」
「何度謝っても、君は目を開けてくれなかった。もう、君の寝顔は見飽きたよ」
「…………」
「もう本当に、……見飽きたんだ」

 体を縛り付ける冷たい鎖がさらに力を増して、万莉亜は小さく呻いた。耳元から直接頭に響く声は 酷く掠れていて、悲しげだった。
 怒りと激しい嫌悪感。しかしその一方で、どうしようもなく泣きたくなるような切なさがこみ上げ、 万莉亜は渦巻く幾多の激情に飲まれ言葉を詰まらせた。自分が何を思い、何を考え、何を見ているのか、 そのうちのたった一つも掴めずに、ゆっくりと遠のいていく意識。抗えない強い引力に逆らわず、 万莉亜は全てを放棄し、目を閉じた。

「クレア」

 万莉亜が一瞬にして気を失ったと同時に、現れた男がクレアの肩を叩く。 振り返ったクレアの背に立つのは、やや呼吸を乱しているリン・タイエイだった。
 一足遅れで学園に駆けつけた彼は、様子のおかしい万莉亜を即座に眠らせ、素早く 暗示の上書きを施す。

「万莉亜はこのまま眠らせておこう。血なまぐさいショーになりそうだからな」

 若い第四世代らの横たわる体をちらりと見て彼が言う。

「クレア?」
 返事のない相手を、リンが首を傾げて覗き込む。
「……万莉亜は、僕を許さないかも知れない」
 力の抜けた万莉亜の体を抱いたまま呟いたクレアに、大きなため息をついてリンが頭を振った。
「万莉亜は春川に幻影を見せられていただけで、別にお前に対して悪意を向けたわけではないぞ」
 まさかそんな事にも気付かなかったのかと半ば呆れ気味に言ってやったが、すっかり脱力気味の男を 相手にするのも馬鹿らしくて、それ以上は言わない事にした。大体にして、気付いてないはずがないというのに。

「全てを徒労にしてくれるなよクレア。約束をしただろう。果たさないといい加減俺はお前に見切りをつけるぞ」

 早口に告げて、向き直る。
 リンが視界に捉えたのは、校門の前で、どういう訳か見えないバリアに足止めを喰らいパニックに陥っている 春川の姿だった。

──あれで……最後だ。

 あれを喰えば全てが終わる。
 そう思えば、疲れ切っている体に鞭打つのも容易い。



******



 見えない壁に阻まれて、たったの一歩も踏み出せない。

 このままでは殺される事は必至。焦る心のままに、どうにか出口を探ろうと 右往左往していた春川を、気がつけば穏やかな目が見つめていた。
 まっすぐにこちらを見つめる彼は、学園と外の世界を跨ぐ一線に立ち、 両手を少し曲がった背中で組んでいる。一見すると初老の男性のようにも見えるが、 よくよく観察すれば、それがただの猿まねである事が分かる。彼は真っ直ぐに立つ事も出来るし、 おそらくはこの世界の何よりも早く駆ける事が出来る。それなのに彼は、上手に「人」を演じていた。

「さて」

 小さな声と共に一歩近づく相手に、春川は体ごと飛び跳ねてへなへなと地面に腰をつけた。

「……セロ」

 思わず呟いた名前に、初老の男性のふりを続けているそれは恐ろしいほどに澄んだバイオレットの瞳を 切なそうに細めた。

「セロ……あなたが、始まりの……!」

 声色は、次第に色めき立ち、春川の全身が歓喜に打ち震える。今目の前にいるこの生き物こそ、 アンジェリアが恐れ、ヒューゴが欲し、全ての同胞がこうべを垂れた奇蹟の始祖。

「君は変わらない」

 しわがれた声が言う。その言葉の意味が分からずに、春川は眉根を寄せた。

「あなたは、おそらく、一番賢く、そして私は、愚かだった」
「……」
「あなたの賢さが全ての始まりであり、私の存在が全ての始まりであり、兄弟の愚かさが、 全ての始まりだった。弟よ、あなたは誰よりも狡猾だった」
「……セ」
「それでも一時、我らは幸せでしたね」

 初老の男性が微笑む。
 深く皺が刻まれた目元には、涙が浮かび、一筋流れ落ちる。

──「ならば、殺して食べてしまいましょう」

 聞いた事もない声が、突如春川の頭に響く。
 なぜだろう。記憶など、あるはずもないのに。遥か遠く、気が遠くなるほどに遠い、ただの昔話。 知るはずもない、小さな村で起こった全貌が、驚くべき速度で春川の脳裏に雪崩れ込む。
 誰かが言った。絶対に言ってはいけなかった。誰が言った。一番最後の、一番賢い者。けれど、 正しさとは遠くかけ離れていた。

「ち、違うっ……私は、"三十番目"では無いっ……違うっ!」

 ぎりぎりと、心臓が痛む。抗えない強い力が、一つ一つの細胞を破壊していくのが分かる。 内側から侵食されていく。

「やめてくれ! 私は……"そいつ"では無いっ!! やめ……」

 耳を劈くような断末魔を上げて、春川の体がぐらりと揺れる。そのままぷつりと事切れて、彼は 永遠に沈黙した。二度と物言わぬ亡骸を、初老の男性は涙を流して見下ろす。
 
 しばらく黙ってそうしていた彼は、おもむろに視線を持ち上げて、呆然と立ち尽くす リンと、その後ろで膝をつきながらこちらを睨み付けているクレアを見やる。しかし、何か言葉を かける事もなく、そのまま春川の体と共に霧のように夜の闇に溶け、ごく自然に彼らの視界から その身を消した。

 誰一人として動けない、不気味な静寂を取り戻した闇夜の中、吹きすさんだ一陣の風は、 赤ん坊の泣き声のような鋭い音を立てて、その場にいる全ての者へ、恨み言を吐くようにして通り過ぎていく。



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