盧植王允伝訂正表

五頁四行目 鄭玄
字は康成。北海郡高密の人である。京兆の第五元老や東郡の張恭祖、馬融らに師事して儒学を学び、郷里に帰ると門下千数百人に学問を教えた。官吏となることなく著作に努め、多くの書に注を入れた。著述は百万字余りにも及び、『毛詩箋』などの著作や『周礼』『儀礼』『礼記』などの注が現存している。袁紹に従って官途の戦いに赴く途中、病没した。当代随一の学者であり、たとえば当時の法である漢律には馬融、鄭玄など諸家の解釈があったが、天子の詔によって鄭玄の解釈だけを用いるように命じられている。

五頁四行目 馬融
字は季長。扶風郡茂陵の人である。ちなみに馬騰、馬超父子とは同県。京兆の摯恂に師事し、その才を評価されて娘を娶った。安帝の初めに郎中となり東観の秘書の誤りを調べたが、ケ太后が臨朝すると『広成頌』を著して諫め、それが怒りに触れて禁錮となった。安帝が親政するようになると再び召されて郎中となり、議郎まで昇ったが病を得て官を去った。鼓琴に堪能で吹笛を好み、儒者としてのきまりにこだわることなく高く立派な家に深紅の薄絹を吊し、前には生徒を並べて講義をし、後ろには娼妓や楽器を列ねた。春秋について『三伝異同説』を記したほか、『孝経』『論語』『詩経』『易経』『三礼』『尚書』『老子』『淮南子』などに注をつけた。

五頁五行目 馬融の外戚は大いに栄えた家で
馬融の家は外戚として大いに栄えた家で

五頁十四行目 諱


十一頁九行目 蔡ヨウ
字を伯?。陳留郡圉の人である。若くして博学で知られ、詩歌や文章、数術、天文、音律までこなした。六経の誤りを正し、碑に刻んだことは本伝に見える。諫言して朔方郡に流され、赦されてまた戻ったが、宦官の目の敵にされたことから江湖に暮らした。董卓が実権を握ると無理に召し出され、董卓が殺されると捕らえられて獄で殺された。著作は詩、賦など百四篇あった。

十一頁九行目 楊彪
字を文先。弘農郡華陽の人である。楊賜の子であり、鶏肋の故事で有名な楊脩の父である。後漢末の大臣で衛尉まで昇り、董卓政権下では三公を歴任した。曹操が捕らえて獄に繋ごうとしたが、孔融が諫めて止めた。曹丕が即位すると太尉に推挙されたが辞退し、光禄大夫となった。このときのことは『魏志』文帝紀に見える。

十四頁十二行目 北軍五校
都を守る五つの軍隊。それぞれ屯騎・歩兵・越騎・長水・射声という。

十六頁七行目 誄
死者の生前の功業を称え、冥福を祈る文章のこと。

十七頁十一行目 しかる後に有名になるのです
しかる後に名声を得るのです

十九頁二行目 郭林宗
郭太のこと。郭泰とも書く。林宗は字。太原郡界休の人である。家は貧しかったが学問を好み、李膺に見出された。人柄は明るく名士を見出すことを好んで行い、人を評するのに厳しい言葉を使うことがなかった。党錮の後は弟子をとって教え、没すると千余人が葬礼に訪れた。郭太をたたえる石碑の碑文は蔡ヨウの手による。

二十頁三行目 侍御史
周代の柱下史。殿中の給事や官吏の監察、検察を司る。

二十一頁二行目 君より罪を獲ました
「君より罪を得ました」の誤り

二十一頁十一行目 責が軽く罰が重ければ
テキストの通りに訳すとこうなるが、あまり意味が通らない。注にある馮唐の言葉も賞は大いに軽くとなっており、賞が軽くの誤りではないかと考える。

二十四頁七行目 鄭公業
鄭太。鄭泰とも書く。公業は字。河南郡開封の人。若くして才略に優れ、何進の下で官に就いたが董卓を呼び寄せることに反対して官を去った。袁紹らによる董卓討伐軍が起こると董卓は兵を集めてこれを討伐しようとしたが、言葉巧みに董卓を説得し、軍隊の派遣を妨害した。後に何ギョウ、荀攸らと董卓暗殺を共謀したが、事が漏れたため逃亡して袁術を頼った。袁術は揚州刺史にとりたてたが任地に赴く途中で死んだ。鄭渾の兄であり、事績は『魏志』鄭渾伝に詳しい。

二十七頁十五行目 三輔
長安のある京兆と左馮翊、右扶風を合わせて三輔という。すなわち都を身内で固めていたのである。

二十八頁十四行目 王陵
注に追加。テキストは王陵となっているが、王晨と兄弟であることを考えると王凌のことであるのは間違いないように思われる。