終局からのはじまり
第弐部
第捌話 追い求めるもの
閉じられた狭い空間を支配する血と硝煙の匂い。
噎せ返るような濃厚な空気にも動じず、一人の人物がその場に立っていた。
周りを見渡せば元は人であったものが転がっている。
首を切り裂かれ絶命をしているもの、鉛の弾を撃ち込まれ苦痛を感じるまもなく絶命したものなど、全てが血に染まっていた。
自分が死んだと理解することもできずに生涯を終えたのだろう。
「いたぞ! あそこだ!」
複数の足音が通路に響き渡り、銃器を携えた集団が姿をあらわす。
目標は仲間を殺した人物。
突然侵入し、無差別に施設の破壊をもたらした者。
恨みや復讐の思いなどまるでないが、次は自分たちが殺される番かもしれない。
殺られる前に殺れ。
自己防衛のために目の前の人物を倒さなくてはならない。
だが、当の目標とされている人物は少しも表情を変えていなかった。
焦りや不安、恐怖などとはまるで無縁のように。
視界に移る人数を確認すると同時に、滑らかに銃を取り出し目標を絞る。
ダン!
相手が構えるよりも早く引き金を引き、硝煙の煙が立ち込め同時に一人の男が地面に倒れこむ。
流れ落ち地面を染める多量の血とピクリとも動かない体が死んだことを示していた。
崩れ落ちた死体など気にせずその場からすぐに動き出し、ハンターモデルのポケットナイフを取り出す。
手首だけの動きだけで投げ出したナイフが数メートル先の男の頚動脈に突き刺さり、紅い鮮血が飛び散った
驚きに目を見開き、崩れ落ちる男。
僅か数秒の間に二人を殺され、あたりに戦慄が走った。
「こ、殺せ!」
その一言を合図に一斉に銃撃が始まる。
しかし、その弾丸が目標を捕らえることはまるでなかった。
それは…『狩り』の合図となるだけ。
一方的な狩りの。
人数の差に動じもせず、相手はただ淡々と狩るのだった。
「研究所巡り〜?」
ほぇ? と言った感じでルナが首をかしげる。
まるで観光所巡りの様な軽さで言い出した自分のマスターに、溜息も漏れそうだ。
同時に頭の中でシンジが言ったその場所を特定しはじめていた。
ロシアの北に位置し、セカンドインパクトによって沈んだと思われていたが奇跡的に無事だった島々。
人が住んでいるわけでもなく重要な拠点ではない。
尤もそれは表向きの話。
島自体に価値はなくともその地下にはある施設が存在していた。
遺伝子研究所。
名前だけなら危険な施設には思えないだろう。
わざわざ地下に作る必要もない。
だが、実際は非合法な実験を主としたものを行っている。
その中には人体実験も含まれていた。
当然そんなことがこの時代において許されるわけがない。
それでもこの施設が秘密裏に存続できたのはある組織の関連したものだからだ。
ゼーレ。
この組織の名があげられただけでどの国も逆らえない。
それほどに影響力をもっていた。
情報をまとめながらルナはまた頭を悩ませる。
ゼーレ関連というところには惹かれるものがあるが、わざわざ行く理由もない。
自分のマスターは何を考えているのだろうと思う。
考えても分からず視線を椅子に座っているシンジへと向かわせる。
じと〜っと見つめてくる瞳に苦笑しながらシンジは口を開いた。
「ルナが考えていることはなんとなく分かるよ。行ったところで特に意味がないって言いたいんだろ?」
「そうです。時間の無駄ですよ〜」
他にやるべきことはたくさんある、彼女の言い分も分かる。
だが、確かに時間は惜しいが今のシンジにとっては必要不可欠なものもあった。
「別に研究資料とかがほしいわけじゃないんだよ」
「それじゃあなんですか?」
「……戦場だよ」
言葉に重みが加わり雰囲気が変わる。
心なしか体に圧迫感を感じたような気がルナはした。
内心戸惑いながらながらも言葉を待つ。
「あの研究所はそれなりに必要な施設だからね…警備は硬い。規模が大きいから比例して人数も多くなる。決して簡単に潰せるわけじゃないよ」
「なら…!」
淡々と話を続ける様子に不安を感じ、拒絶の言葉を示す。
それでもシンジは止まらない。
「だからこそ、だよ。今の自分には圧倒的に実戦の経験が足りない…どんなに技を身につけようともそれは補えない。そして……」
一度言葉を区切り、また紡ぎだす。
「人を殺す経験も」
空気が震える。
まるで言葉に込められる強烈に反応するかのように。
その様子に気圧されルナは何も言えなかった。
確かにシンジの言うことにも一理ある。
必要なのは蓄えたものを生かすための経験。
いくらカヲルとの特訓があったからと言ってそれは訓練の域を出ることはない。
戦いにおける緊張感は得られても命のやり取りには及んでいなかった。
無意識に相手に殺す気はないと感じ取れるために、どうしても安堵感は残る。
シミュレーションにおいてもそれは同じだ。
だからこそシンジは実戦における確かなものが欲しいのだろう。
単身でゼーレに対抗するには甘えなど許されない。
人を殺さずになんとかなるほど優しい世界ではないのだから。
「そんな顔をしないでよ、ルナ」
明らかに不満ですといった感じを否めない表情の彼女に苦笑いを浮かべるしかない。
付け加えるなら、理解は出来るが納得できないとルナは思っているのだろう。
「でもマスターがそんなことしなくても……」
「それじゃだめなんだって。誰かがなんとかしてくれる、なんとかなるじゃね。他力本願でいても何も変わらない。だからこそ僕自身が動かなければならないんだ」
「むぅ……」
分かりましたと不満ながら小さく呟く。
シンジもそれを確認すると、次の予定へと話を移した。
「とりあえず、一年くらいしたらまたここに戻って来るよ」
「い、一年もですか?」
てっきり長くても数ヶ月くらいだろうと踏んでいただけに戸惑いが生じる。
経験を得るための一年は決して長い期間とは言えないが、短すぎるとも思えない。
しかし、今更何かを言ったところで意外と頑固なシンジは予定を変更することはないだろう。
主の言うことだから仕方ないとルナも覚悟を決めることにした。
「分かりました、こうなればどこまでもついていきます!」
「あ、ルナには別にやってもらうことがあるから」
「マスターのために粉骨砕身…って…えっ?」
何か決意を壊すような横槍が入ったような気がした。
こほんと一息し、改めて事実を確かめる。
「マスター、なんて言ったんでしょうか?」
「ルナには別にやってもらうことがあるから」
今度は聞こえた内容を咀嚼し、じっくりと頭に叩き込んだ。
と、それと同時にルナが割れんばかりの大声で叫びだす。
「なぁんでですか〜マスタ〜ぁ」
「いや、だからやってもらうことがあるんだってば」
「よよよ…私は用積みなんですね……」
その場に崩れ落ちたルナが涙をこぼしながら目を伏せる。
そんな彼女の姿を見ながら誰だよこんな風に作ったのはと疑問に思うが、それが自分なために文句は言えない。
正確にはルナ自身の人格を作ったのはシンジではなかった。
プログラムしたあらゆるパターンの情報からルナ自信が作り出したというのが適切だ。
しかし、ここまで感情豊かになるとは思っても見なかった。
なりすぎると目の前のようになってしまうのだが。
「ルナ〜そんな落ち込まないでよ。これからやって欲しいことはルナにしか出来ないことなんだ」
「……私にしか?」
ぴくっと体が反応し、潤んだままの瞳でシンジを見つめる。
彼も掴みはOKだとばかりに続ける。
「そう、優秀なルナだからこそ出来ることなんだ」
ぱっと表情を輝かせルナは期待のこもった瞳を向ける。
それに応えるようにシンジはシリアスな顔つきで命令を下した。
「日本政府と戦自を脅してきて」
「はい! ……って…えっ!?」
先ほどとまったく同じリアクションを返しながらルナはシンジの方を見た。
冗談でも言っているのかと思われたが、その表情は真面目なままだ。
「僕が動きやすいように協力を申し込んで欲しいんだ。けど、普通にやるには時間がかかりすぎるし無理だろうからね。詳しいことはルナの部屋にあるデータに書き込んでおいたから」
言葉が足りなかったと補足するが、内容には変わりない。
確かにシンジの言うとおり、普通のやり方ではどちらに対しても協力を求めるのは無理だろう。
人脈があるわけでもなく、なにかのコネがあるわけでもない。
そんな人物が出向いたところで門前払いが関の山だ。
シンジの戦力は現在ルナと自分の力しかない。
ネルフにも協力を求められるだろうが、それでも戦力不足は否めなかった。
ネルフの最大限の力はエヴァに集約される。
MAGIの性能には目を見張るものはあるが、ゼーレがその気になればMAGIを封じることは可能だ。
対人戦にいたっては戦力としてまったく期待できなかった。
それは戦自の襲撃の際に実証されている。
そのためにも日本政府と戦自の力が必要とされた。
頭脳と力のどちらかが欠けてしまえばゼーレには勝つことができない。
脅すというシンジの選択は苦渋の選択と言わざる得ないだろう。
ゼーレに対立するということはかなりのリスクを伴ってしまう。
経済をほぼ掌握し、それによる人脈も計り知れない。
あやかれば特をなし、逆らえば全てを失いかねないのだ。
誰が好き好んでそんな組織に対抗しようものか。
それは日本政府も戦自にとっても変わらない。
「でも、それだと後々大変なことになりますよ?」
ルナは驚きはしたが、それに反対する気はなかった。
他に何か有効な手があるわけでもないのだから。
ただ、脅すことは仕方ないと割り切っても問題なのはその後のことだ。
そんなことをすれば当然脅された人物たちからはよからぬ感情をもたれる。
下手をすれば事故に見せかけて始末されてしまう可能性もあった。
「それは仕方ないことなんじゃないかな。それ相応の事をすればしわ寄せが来るのは当然のことだしね」
当の本人はまったく気にしてないような顔をする。
決して開き直っているわけではなく、覚悟の上での行動だからだろう。
「本当ならこういうことは言い出した僕がやるべきことなんだろうけど、失敗しそうな気がするんだよね。人に対して強く出るのは苦手だから……」
「マスターには人を脅したりするのは似合わないです。やっぱりこういったことは冷静に対処できる私のほうが合ってますよ」
溜息をつくシンジにまかせてくださいとばかりに胸をはってルナは応えた。
普段は喜怒哀楽を見せ、本物の人間のように感情をあらわしているが、TPOによってそれは変化する。
いざ局面に立てばコンピュータとしての冷静な部分を見せ、動揺することはない。
交渉や状況分析では遺憾なくその能力を発揮するだろう。
対してシンジは、元来の性格から言っても他人を脅すということには似つかわしくはない。
彼女もそのことを分かっていての発言だ。
ルナの様子を見てシンジは柔らかな笑みを浮かる。
そして椅子から立ち上がると、まとめてある荷物へと手を伸ばした。
「…行ってくるよ」
「お気をつけて。無事に帰ってくること祈って待っています」
シンジは小さく頷きそれに応えると部屋を後にした。
ルナはしばらくの間シンジが出て行ったドアをじっと見つめていたが、あっと何かに気付いたように声を上げる。
「この時間軸にいるもう一人のマスターはどうしましょう?」
引き取ると言ったものの、創造主のほうであるシンジはすでに出て行ってしまっている。
かといってこれからのことを考えると、自分ひとりでは引き取り、なおかつ面倒まで見るのは難しい。
う〜んと頭を悩ましたが、やがて一つの結論に達した。
(マスターが帰ってきてからのほうがいいですよね?)
誰もいない部屋から答えは返ってこなかったが、ルナは一人頷き納得する。
無計画に物事を言い出すマスターも悪いんですよと心の中では少し愚痴も漏らしていた。
中途半端な体制のままでは、結局この世界のシンジのためにはならない。
今の放置されている環境と何も変わらないのだ。
それならば最善の状態にしてからのほうが望ましいとルナは思う。
(うん、うん、そのほうがいいです)
悩み事が消えたと憑き物が落ちたかのように表情を輝かせ、軽い足取りで自分の部屋へと向かいだす。
備え付けてある机の上を見ると一枚のディスクが置かれていた。
シンジの言っていたデータとはこのことだろう。
ディスクを手にとり、データを読み取るために機械へと差し込む。
(わざわざディスクに入れなくても口で言えばいいのに…)
小さな疑問が出るが、本人がいなくては確かめようがない。
それよりも頭に入ってくるデータに意識を向けるほうがいいと集中する。
中にはこれからの行動に関することがまとめられていた。
ほとんどはさっきまでシンジと話していたことについての詳細だが、そこにルナを困らせる一文が書かれていた。
「だから詳しく言わなかったんですね……」
はふぅと項垂れて大きな溜息を漏らす。
『日本政府と戦略自衛隊へと交渉の際における手段については一任する。ただし、僕(碇シンジ)の姿で出向くこと』
ルナを困らせている一文とはこのことだった。
姿を変えること自体は何の問題もない。
情報の集合体である彼女にはそのくらい造作もなかった。
問題なのは『僕の姿で出向くこと』ということ。
それはすなわち、交渉後における両機関の悪意がシンジへ向かうこととなる。
本来ルナの役割は主たるシンジの行動を円滑にできるようサポートし、危険から守り、安全にすることだ。
本体さえ狙わられなければ、ルナは傷つくことがない。
質量投影、質量再生回路により触れば感触はあるが、実際の肉体と言うわけではないのだ。
例え銃に撃たれた所で傷を追うわけでもなく、血を流すわけでもない。
そんな自分だからこそ今回のことは適切なはずだった。
が、何が悲しくて主たるシンジを危険にあわせる行動をとらなければならないのだろう。
ルナではなくても溜息がつきたくなる。
命令に逆らってもいいのだが、そこに何らかのシンジの考えがあることを思うと戸惑いが生じてしまう。
(帰ってきたらぜっ〜〜〜〜たいに理由を聞きますからね!)
納得がいかないことは多々あるがぐっとこらえ、胸のうちで不満を叫ぶことで我慢する。
しぶしぶながらも彼女は従い、行動を開始することにした。
男は静寂が支配する暗闇にいた。
椅子に座り、机の上で口を隠すかのように腕を組んでいる。
表情は彫像のようにピクリとも動かない。
思案に耽っているのか、それとも何かを待っているのか。
やがてともし火の様な小さな光が暗闇の中に浮かび上がり、黒いモノリスが数体姿をあらわした。
『碇……』
「はい」
年齢を感じさせてはいるが、低くはっきりとした声が闇に相応しいかのように響く。
大抵の者ならその声を耳に入れただけで気圧されてしまいそうだ。
だが、男―――碇ゲンドウは表情も姿勢も変えず、静かに返事を返す。
『碇ユイがサルベージされたという報告が届いている…偽りはないな』
「私が嘘の報告でも伝えたと?」
『そういう意味ではない。俄かに信じがたいことのため、再度確認を取っただけだ』
最初に声を発した者とは明らかに違う、高い声が疑問に答えを返した。
僅かだが声の中に軽い戸惑いが混ざっている。
「偽りはありません、事実です」
『むぅ……』
『我々のシナリオにはない出来事だよ』
人の姿ではない、SOUND ONLYと刻み込まれたモノリスに動揺が波紋のように広がる。
ユイのサルベージなど誰も予想しなかったことだろう。
唯一行われたサルベージは失敗と言う結果に終わり、技術面からいっても無理だと判断され続行はされなかった。
あれから10年が経ったとはいえ、成功するだけの技術になってはおらず計画は中止のまま。
しかし、数日前に送られてきた報告書には碇ユイのサルベージに成功と記載されていた。
彼らが問題視しているのはユイの存在ではなく、ユイがサルベージされたという事実。
完璧な作業を行える人物がいるとは思ってもみなかった。
このままでは自分たちの計画に甚大とは言わないものの支障をきたしてしまう。
作業を持ちかけた人物も気になるが中でも尤も気になることは……
『初号機の起動に問題が出るのではないか?』
『カギの一つが……』
『それは由々しき事態だよ』
声だけがひしめき合い、答えを知っているであろう人物へと自然と視線が集まる。
緊張感が高まる中、隠されて見えない口に嘲笑を浮かべながらゲンドウは表情を変えた。
「それについては問題ありません。サルベージを行ったイリア・ジーナスという人物によって解決済みです」
その返答に心なしか緊張感が和らぐ。
ゲンドウがその様子を可笑しそうに口元を歪めているなど知らずに。
「イリア・ジーナスという人物についてはいまだ調査中です」
問題の中心であろう人物についてゲンドウは先に口を開いた。
これから問われるだろう質問にいちいち答えないため、必要としていると思われるものは全て話しておく。
彼らも分からないものについてわざわざ無意味な討論を続けるような無駄なことはしない。
『良い結果を期待している』
一言プレッシャーをかけながらの言葉もゲンドウはそよ風のごとく受け流し、頷くことで肯定の意を示す。
現在急遽開かれた会議の内容はこれだけについてだが、彼らにとって『それ』は重要な部分。
どんな詳細な出来事も予定外になられては困る。
『シナリオの修正をしなくてはならないが、さほど支障を出さずに済みそうだな』
『すべては約束の日のために』
『「すべてはゼーレのシナリオ通りに……」』
場に存在する声が全て重なる。
後には音が消え、モノリスが静かに光を失っていた。
その様子を確認するとゲンドウは一瞥することもなく、暗闇に溶け込んでいく。
足音が闇に吸い込まれ、人の存在を感じさせなくなると再びモノリスが光りだした。
『ふ…すべてはゼーレのシナリオ通りにか…あの男、心にもないことを……』
『碇ユイが戻ってきたとなるとあの男についても見直す必要があるな』
『あいつは自分の妻に会いたいがために協力してきたようなものだよ』
『新しい総司令を用意すべきでは?』
『シナリオに影響が出る前にそのほうがよいかもしれんな」
各々がゲンドウに対する嘲笑と侮蔑の言葉を吐きながら、存在価値の見直しに入る。
『まだその時期ではない』
一番最初に声を発した人物が皆の言葉を静まり返させる。
罵っていた口からは言葉が消え、次の発言へと耳を傾けさせていた。
「碇ほどの手腕を持つ人物はそうはいない。使えるものは必要なくなるまで使っておけばいい。我らのシナリオが最終段階になったときまでつかの間の幸せを味あわせておけ」
表情が見えたらぞっとするような笑みを浮かべていそうな感じを、言葉のニュアンスから受け取る。
そのとおりだと他の人物もちいさな笑いを漏らした。
所詮は後ろ盾もなく、自分達の力によって総司令の座を得ている者など彼らにとっては大した存在ではない。
いつでも消せるといった自信があった。
『だが、監視を怠るわけにはいかんな。追いつめられた者は時に思いがけない行動に出る』
『大したことができないとはいえ、目障りなことには変わりない』
『碇…見極めさせてもらうぞ』
音も立てず一つのモノリスが消える。
それに続くように次々と他のモノリスもその姿を消していく。
光が消えた時、そこにはよりいっそうの深い闇と渇いた空気が支配をはじめていた。
部屋から出てきたゲンドウはくくっと押し殺したような小さな笑みを漏らす。
「お前が笑うとは珍しいな」
出てくるなり待ち構えていた冬月が軽い驚きを表す。
自分に対する歪んだ笑みを見ることはあっても相手を嘲るような笑みを見るのは久しぶりだった。
「冬月か……」
「会議のほうはどうだった?」
「ふ…予想通りだ。老人どもは慌てていたよ」
再び嘲笑を浮かべる。
日頃尊大にしているものが慌てている様子を思い出し、無様だとゲンドウは思った。
「彼らはお前の変化に気付いていただろうな」
冬月は溜息をついた。
彼が指しているのは笑みを浮かべていたことではなく、ゲンドウが彼らから離れようとしていることについてだろう。
互いに計画の目的はわかっているため、ゲンドウの動機も相手は知っている。
その動機が取り外された今、もはや付き合う必要はない。
かと言って表立って離反を示せばたちまち自分が潰されることも分かっていた。
形だけでも協力的な姿勢は必要だろう。
そしてその間にいろいろと対抗する準備をしておく。
すべてはそこからだ。
「これからは仕事が増える」
「特に私のがな。尻拭いをするのはいつも私だ」
「それがお前の仕事だろう? 冬月」
「そう思うなら、仕事が減るように済ませ!」
「ふ…問題ない」
にやっと笑いサングラスのずれを指で直す。
そのゲンドウの様子が冬月をいらだたせる。
出あった頃と変わらないこのふてぶてしい態度はいつも冬月を悩ませていた。
聞いていないとはいえ、彼は説教せざる得ない。
教鞭を振るっていた時のクセか自然と説教が滑らかに口から飛び出す。
ゲンドウがどんなに問題ないと言ったところでそれは2時間止むことはなかった。
白に彩られた世界は鮮やかな深紅へと色彩を変える。
壮絶なまでに赤に支配されたそこは人を狂わせる何かが存在していた。
天井から零れ落ちる滴―――それもまた赤。
その色彩の元は血、人の血だった。
吐き気を催すような姿で人の形をしているものが転がり、通路を埋め尽くす。
動くものはすでになく、時折思い出したかのように体が痙攣をするだけだ。
臓物がこぼれ落ちた場所からは異臭が放たれ、人の嗅覚を狂わせる。
そこに荒い息をしながら壁に寄りかかっている人物がいた。
服も肌も透き通るような銀髪も返り血に染まり、全身を深紅に染め上げている。
胃の中身を吐き出しそうになるのを必死で押さえ込み、シンジはそこにいた。
(くそっ…くそっ…!)
噛み締めている歯を少し開けただけで悲鳴が喉からせり出そうとする。
声を発することができず、シンジは心の中で悪態をつくしかできない。
彼は人を殺した重みと、その姿に苦悩していた。
一言で言えば、気分は最悪だとしか言いようがない。
肉を裂く感触と、死に際に自分を見つめてくる瞳。
どちらも頭から、体から離れようとしない。
どこか大丈夫なんじゃないかと甘い思いが心の中にあった。
人を殺すことくらい――――これからもしていかなければならないことなんだから……
自分の記憶にある誰かが行ったように。
その人は大丈夫だった、だから僕も大丈夫かもしれない。
だが、それが自分の甘い認識だとつくづく実感する。
人を殺したことを自分に刻み付けるため、シンジは凄惨な殺し方を取った。
血を撒き散らし、肉を切り裂き、返り血を飛び散らせる。
綺麗に殺したのとは違う、確かに感じ取れる死がそこにはあった。
そしてどうしようもなく怯える自分も。
だから彼は怒りを感じる―――自分に対して。
(だめなんだよ…! 今のままの僕じゃ、また何もできないまま終わるんだ!)
怒りと悔しさが交じり合い、やりどころのない思いを拳に乗せて壁に叩きつける。
ガン!、ガン!と殴っても痛みなど感じず、何も消えず、変わらない。
(今まで通りの碇シンジはもういらないんだ! 変わらなければ…いけないんだ!)
ドン!
一際大きい音を立てて、拳を叩きつける音が止む。
同時に頬に何か冷たいものを感じる。
彩られていない、透明な滴。
(涙……)
腕で強引に目元をこすり、水滴を取り除く。
(もう…泣いてなんかいられないから…)
ぐっと拳を握りこみ、自分を落ち着かせる。
通路の奥から反響して足音が伝わってきた。
残ったガードが近づいてくる音だろう。
確実に近づいてくる足音を聞きながら、シンジは目を閉じ、覚悟を決める。
死ぬ覚悟ではなく、全てのために自分を捨て去る覚悟を。
再び目を開いたシンジの姿は冷酷な殺戮人形。
通路の奥からその姿を確認した者たちはそこに…
死神を見た。
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