いつもどおりの空間。
毎日通う学校。
変わらない場所である教室がいつもと違った。
多少なりとも騒がしさがある授業が、いつになく静かなのだ。
その原因はというと、
「……はぁ」
これだ。
その悩ましい吐息に、教室が静まり返る。
むしろ、凍りつくと言ったほうがいいだろう。
ため息をつく少女の名は綾波レイ。
あのいつも無表情、無感情である綾波レイだ。
その彼女がこうなった原因を語るには時間を戻さなければならない。
二人の時間 −前編-
3日前の昼休み。
「まったく…バカシンジはだらしないったらないのよ」
「ん、何のことなの、アスカ?」
突然主語の抜けた会話をはじめるアスカ。
「聞いてよヒカリ、シンジったらねぇ……」
長くなりそうなので要約すると、シンジに買い物に誘われた(本当は無理やり付き合わせた)が、アスカが買った荷物の多さにシンジが根を上げたらしい。
どうやら、そのときのことを言っているようだ。
「それにさぁ、洋服を選んでるときに意見を聞いても、似合うんじゃないとしか言わないよ。男ならもう少し気の利いたことが言えないのかしら。」
口ではきついことを言っているが、心しか顔はほころんでいる。
下手な事を言ったら殺されそうだから、無難な意見を言ったと心の中では思っているが気弱なシンジには言うことができない。
だいたい何軒も店を連れまわされ同じようなことを聞かれれば、そう言いたくもなるだろう。
「そんなに言わなくてもいいだろ。それにアスカは服を買いすぎるんだよ」
シンジが言うとおり、行く店先ごとに服を買えばしだいと量は増えてしまう。
おまけに夕食の材料などを買うのだからさらに量が増えていくのは目に見えている。
「なんですってぇ〜あんたは男だからそういうことが言えるのよ」
「なんだよ」
確かに男に比べれば多少は女性のほうが服が多いだろう。
まぁ、アスカの場合は多少を通り越してかなりだが。
「また夫婦喧嘩かいな、センセ。こんな女を女房に持つと大変やな」
購買から大量のパンを購入して戻ってきたトウジがあきれたような口調で言う。
「誰が夫婦ですって!」
「誰がってそりゃなぁ、ケンスケ?」
一緒に購買へと行っていた親友へと話を振る。
「惣流とシンジ以外に誰がいるっていうんだよ」
「「ほんと、イヤーンな感じ」」
アスカとシンジが見せたシンクロも真っ青な調子で二人の声が重なる。
こういうときばかりはすばらしいコンビプレイを見せてくれるものだ。
「ふざけんじゃないわよ! なんでバカシンジなんかと…このジャージ男!」
「ジャージの何が悪いや! お前なんかに言われとうないわ!」
ギャーギャーと口論が始まる。いつもの光景なので周りは気にしていないようだ。
この機に、しめしめと思いながらシンジは逃げ出す。
「ふう、アスカにも困ったものだよ。そう思わない綾波?」
まったく話に加わっていない様子に気づき、頬づえをついて外を見ているレイにシンジが話し掛ける。
「別に……」
相変わらずそっけない。
しかし、よく見ると頬がうっすらと上気しているのは気のせいだろうか。
あいかわらずの返答に別段困った様子もなく、シンジは話し続ける。
「どうせあんなに買うなら店から宅配してもらえばいいのに……」
買い物の様子を思い出す。
服を選んでいるときはまだましなんだけどなぁ、とアスカの様子を思い描いていたらふと気づいた。
「そういえば、綾波の私服って見たことがないね」
「……持ってないもの」
「えっ…ど、どうして?」
普通この年で私服を持っていないのはおかしいことだ。
シンジが驚くのは当たり前だろう。
(……どうして碇君は驚いているの?)
(……服…体を覆うもの。温度の変化から体を守るもの)
(……制服だけで充分。…他に必要なの?)
(……わからない…)
「……必要ないもの」
「だ、だめだよ!」
いつもより大きめの声で否定の言葉を発するシンジに何事かと周りの注目が集まる。
いつの間にかトウジとアスカの口論も終わっており、目がシンジたちへと行く。
それに気づいていないのかレイとシンジは話を続ける。
「…どうして?」
「それは…ええと…その……」
とっさに言ったものの何も理由が見つからない。
「と、ともかく普通は持っているんだよ」
「……そう」
会話が途切れてしまう。間が持たないため必死になって話題を続けようとする。
(私服を持っていないなんて…いったい父さんたちは何をしているんだよ。リツコさんも保護者ならもっとちゃんとしないとだめじゃないか。)
(こ、こうなったら僕が何とかしないと。綾波は常識に欠けたところがあるからなぁ)
(けど、どうしよう……いきなり服を買ってあげるなんておかしいよなぁ)
(う〜ん……)
(そ、そうだ! 僕が自分の服を買うついでに綾波を誘えばいんだ。その時に綾波が服に興味を持てるようにすれば……)
一言でいえば余計なお世話なのだが、口に出して話しているわけではないのでだれもつっこんでくれない。
一人で思考してうなっている姿は見ていてなかなか面白い。
ようやく考えがまとまったのかレイのほうを振り向く。
「あ、あのさ綾波」
「……何?」
「今度の日曜日に服を買いに行こうと思うんだ。そ、それでさ僕ってあんまりセンス良くないから…」
「……」
周りで二人の様子を窺っている生徒はシンジの一言一句に注目する。
「いっしょに見てくれないかなぁ……なんて」
おおっ
シンジの意外な言動に生徒たちがどよめきたつ。普段の彼ならこんな大胆なことは言えないだろう。
彼は気づいてないだろうが、これはどこからみてもデートの誘いだ。
はっきりと言えないところがシンジらしい。
とはいえ、シンジはデートに誘っているという自覚はまったくない。
生粋の鈍感なのだ。
そんな彼の一大決心をよそにレイはというと考えていた。
(…日曜日…ハーモニクステストの予定はなし……)
(……断る理由はない)
「あ、他に用事があるならべつにいいから…」
レイが考えている様子を見て、なかなか返答がないことからダメなんだとシンジは勘違いをしてしまう。
本人は気づいていないが残念そうな顔になる。
(あ……)
ズキッ
(…何、これは? 胸が苦しい……)
(…碇君の顔を見たら苦しくなった…さっきはなんともなかったのに……)
もう一度シンジの顔を見る。
ズキッ
(……また…)
(……そう、今の碇くんの悲しそうな顔が嫌なのね)
そう思うと無意識に声が出た。
「…かまわないわ」
「えっ……?」
「…なにも…予定はないから…」
「本当に!?」
「……ええ」
おおおおっっ
さらに生徒たちがどよめく。
シンジに男たちの嫉妬の視線が突き刺さり、女子からは落胆のため息が漏れる。
そんな周りの状況に気づかずシンジはここぞとばかりに話し掛ける。
「じ、じゃあ、今度の日曜日に家まで迎えに行くから」
「……ええ」
「よかったぁ……」
さきほどとはうって変わり、安堵の表情になる。
そしていつもの優しげな笑みを浮かべた。
トクン
(あ……)
胸の痛みが消え、新たに別な感じになる。
(…この感じ…嫌じゃない……)
(心が安らぐ……)
(…ずっと…見ていたい)
いつもの氷のような視線から優しげな視線へと変わる。
そこに圧迫感はなくなり優しい瞳となっていた。
「あ、綾波?」
「…………」
互いに目が離せなくなる。いつもなら誰かが茶化すだろうが、さすがにこの雰囲気のなかではできない。
女子に関しては大半がシンジの笑顔に見とれていて、それどころではなくなっていた。
真っ先にやりそうなトウジでさえ状況を静観している。
(綾波の瞳ってきれいだなぁ……)
シンジにいたってはすっかりレイに見入ってしまっていた。。
いつまでもこの時間が続くかと思われたが、突然それは終わりを告げる。
キーンコーンカーンコーン
無粋な真似をしたのは昼休みの終了のチャイムの音だった。
「……はっ!?」
甘い雰囲気の中、真っ先に覚醒したのは委員長こと洞木ヒカリ。
「ほ、ほら、みんな授業がはじまるわよ。席に戻って」
手を叩き、回りの生徒の意識を覚醒させる。
その音に遅い足取りながら、全員のろのろと席へと戻っていく。
やっと、あの雰囲気から開放された…と安堵していると一人、一段と思い足取りでいる人物が目に入った。
「アスカ…?」
どこか呆然としているようにヒカリには見えた。
気になりはしたが、授業が始まるためおとなしく席へとつく。
ガラガラ
扉が開く音とともに教師が入ってくる。
いつもより静かなのに疑問をもつが、授業を進めるには都合がいいと判断し、ノートパソコンの電源を入れる。
教師が思ったとおり、授業はスムーズに進んでいく。生徒たちの内心とは裏腹に……
なかでも一番心収まらないのがアスカだ。
(なんなのよバカシンジ! わたしのことは一度も誘ってくれたことがないのに……)
ちらっとシンジのほうへと目をむける。彼は相変わらずノートパソコンへと目を向け、真面目に授業を受けているが、時折隣へいるレイへと目を向ける。
その様子がまたアスカの神経を逆なでする。
(そんなにファーストのほうがいいの!? あんな人形みたいな女が!)
アスカはレイのことを嫌っている。確かに他の人たちが言うように綺麗だとは思う。
ただし、それは生を感じさせないマネキンのような美しさだ。
初めて会ったときそれに嫌悪し、恐怖した。
しかし、最近のレイはどうだろう。心なしかやわらかくなった様に思える。
それはひとえにシンジの影響だ。
彼の前でだけレイは僅かながら表情を変える。
それがアスカは気に入らない。
(シンジはファーストのことが好きなの……?)
先ほどからシンジのことばかり気にしている自分がいる。
(はん! 別にシンジが誰とどうなろうと関係ないじゃない)
(わたしはエリートなのよ! シンジなんかわたしには相応しくない! そう、シンジなんか……)
「アスカ…」
アスカの様子が気になり、後ろを振り返ったヒカリが見たのは今にも泣きそうな顔をしているアスカだった。さすがに授業中なので席から立つことはなかったが、今すぐにでもそばへ行きたい衝動に駆られる。
(あとで相談にのってあげよう……)
彼女の親友として、そう心に決めた。
問題の彼のほうはというと、先ほどの余韻もあってか一応授業は受けているが身に入らない。
時折レイのほうへと目が行ってしまう。
(さっきはいったいどうしたんだろう? 綾波、何か言いたかったのかな?)
(う〜ん、綾波は何を考えているかよく分からないからなぁ……)
またレイのほうへと目を向ける。
窓際のため太陽の光が彼女の席を射し、空色の髪が光に透けてより美しく見える。
(かわいいなぁ)
赤毛の少女がこちらを見ているとはかけらも思わず、空色の髪の少女を見続ける。
(綾波は綺麗って言うよりかわいいよなぁ……)
こんなことを言うのはシンジだけだろう。その彼女が表情を変えるのは彼の前だけ。
だから、他の人物にとっては見た目通りの綺麗という印象になってしまう。
(日曜日が楽しみだな)
他人の羨望を集める少女との買い物に思いをふける。
レイのために服に興味を持たせる」という考えのもとに誘ったはずだが、すっかり自分も楽しみにしているシンジだった。
そして綾波レイ。
(日曜日。休日。休むべき日。……なのにわたしは出かける…)
(…碇君と一緒…。なぜこんなに胸が高鳴るの……?)
先ほどのシンジの笑顔を思い浮かべる。
トクン……
顔が熱くなる。顔へと血液が上がってくるのが分かってしまう。
(…わたし…嬉しいのね。碇指令のときにはこんな感じはなかった…)
(あの人は私を見ていない…わたしを通して誰かを見ている)
それに気づいたのはいつだったか。
ふと自分の記憶を思い起こす。
(…碇君に出会ってから…碇君はわたしを見てくれる。他の誰もわたしを気にかけなかったのに……)
そのことに気づいてからレイはゲンドウに合うことに抵抗を感じていた。いつも自分を見ていた優しい視線でさえ今は嫌悪に値する。
(……碇君)
その名を心の中で呼びながら日曜日へと思いをめぐらせる。
今のレイの顔を誰かが見たなら十中八九かわいいと思ってしまうだろう。
なぜなら、彼女は微笑んでいたのだから。
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