平穏なんていうものは、意外と分からないものだ。
当たり前のように感じているのでそれが普通だと思ってしまう。
だからこそ平穏と呼ばれるものでなくなった時に、そのありがたみが分かるのだ。
少年達にとってこれからの出来事は、そのことを身をもって実感することになる。
二人の時間 −中編−
放課後になり教室にいる人数も少なくなり始める。
人が減っていく様子にシンジは安堵していた。
昼休みのデート発言(本人自覚なし)が教室内に波紋を投げかけていたからだ。
こういった話は広まりやすいので何かと野次馬が集まる。
だが他の教室に昼休みの一件がほとんど伝わっていないため、平穏は保たれていた。
これが朝に起きてしまった出来事だったなら、ものすごいことになっていただろう。
しかし、その平穏も明日学校に来るまでの話だろう。
明日になれば話に尾ひれがついてすごいことになっている。
今回のことはそれほどすごい出来事だった。
壱中のトップを争う美少女の一人である綾波レイが初めてデートするのだ。
しかも相手は壱中の種馬(勝手に命名された)ことシンジだということがさらに話題性を高めてしまった。
「ふう……」
その話題の中心になるであろう人物は、疲れたようにため息を吐き出した。
昼休みの一件以降、クラスの生徒から目に見えないようなプレッシャーが放出されていた。
それがまさか嫉妬の羨望だと彼は思いもしないだろう。
彼らの気持ちを代返すると、
(おのれ、碇…惣流さんの上に綾波さんまでも……)
(碇君…綾波さんよりわたしのほうを見て〜)
というものだ。
男子のレイへの人気は言うまでもないが、シンジのほうも意外と人気がある。
母親譲りの中性的な顔に、他の男子にはないような透明感。
はじめの頃は頼りなげな所があったが、エヴァに関るようになってからわずかながら逞しくなった。
勉強はそこそこにでき、運動も万能とは言わないが平均以上に良い、それに加えてエヴァのパイロット。
これだけの条件がそろえばもてない訳がない。
だからと言ってそれを鼻にかけるようなことはなく、誰に対しても優しい。
こんな所がもてる原因だろう。
欠点といえば鈍感すぎることがいけないだろうが、そうでなければただのプレイボーイになってしまいそうだ。
だからまたこんなことを言い出してしまう。
「なんで、今日はクラスの雰囲気が違ったのかな?」
自分が原因だとはかけらにも思ってないらしい。
自分の評価が、他人に影響を与えるような人物ではないということが分かっているためだろう。
尤もそれは彼がそう思いこんでいるだけだが。
「まぁ、いいか。それにしてもアスカもトウジ達も帰ったし……この後どうしよう。夕食の買出しでもしていこうかな」
冷蔵庫に余裕があったかな〜などと考える所は実に中学生らしくない。
バッグの中にノートパソコンを詰め込み、帰宅への準備を整える。
荷物をまとめドアへと向かおうとすると、赤い目の少女が目に入った。
「……綾波?」
ドアの前に佇むようにして、じ〜っと視線を投げかけてくる。
視線の中に鋭さはなく何か訴えかけるかような感じだ。
「えっと…綾波さん?」
「…………」
非常にに気まずい。なんだかわからないが非常に気まずい。
(なんなんだよ〜あやなみぃ、言いたいことがあるなら言ってよ〜)
当然返答があるわけでもなく、ただ時間ばかりが過ぎていく。
(うう〜、と、とりあえず帰ろう)
「あ、綾波…一緒に帰らない?」
その一言をまっていたとばかりにレイの目が輝く。
そしてコクッっと首を縦に振る。
(もしかして…一緒に帰りたかったのかな。……なんて、そんなわけないよな)
どうもプラス思考で考えられないようだ。
それだけ自分に対して自信がもてていないというところだろう。
思考にふけりながら下駄箱へと向かい、靴へと履きかえる。
特に会話を交わすこともなく二人は校門を抜けていく。
辺りは日が落ちてきていた。
セカンドインパクトにより常夏の島となった日本は日が暮れる時間が早い。
夕方と呼ぶ時間帯には暗闇のベールに覆われてしまう。
ぼうっと空模様を見ていたが、少女がいることを思い出し隣を見つめる。
そこには相変わらず表情を変えずにもくもくと前へ進む人物がいた。
(綾波ってほんとに無口。でも、この感じ嫌じゃない。なんていうか、落ち着くな)
昔の自分ならこの雰囲気に苦痛を感じているだろう、そう思う。
他人と接することが苦手だったから。……父親と同じように。
(変わった…のかな?)
この街へ来てから自分は少しは強くなった。他人に気を使えるくらいには。
それはレイに対しても言える。
他人に対して価値を見出せなかった自分が他人と一緒にいる。
相手の気持ちを知りたい、そして知ってもらいたい。
なぜだかそう思う。
隣にいる彼の雰囲気が暖かくて心地いい。
たったこれだけの当たり前のことを感じ取れることが、はすばらしいことだと思えてしまう。
お互いに変わっていく。
それはとても当たり前のことなのだ。
だから、少しは他人に接することができるようになった。
それを嬉しく思う。
彼女は変わった―――昼間の光景を思い出す。
顔を赤らめていたあのときを。
と、あのときの状況を思い返す。
彼女の迷惑を考えないでいきなり誘ってしまったこと。
思い出したら急に気になりだし、訪ねてしまう。
「あのさ、迷惑じゃなかった? 突然誘ったりして…」
レイにはその質問がどちらを指しているのか分かりかねた。
どちらのことだろう、日曜日のこと? それとも一緒に帰ること? どちらでも正解だろうが。
「…どうしてそういうこと言うの」
嬉しかったのに。
彼が誘ってくれたことは自分にとってうれしいことなのになぜそういうこと言うのか。
悲しくなってしまう。
「いきなりだったからね。なんの前ぶれもなく誘っちゃったから…あの時は言えなかったけど、もしかしたら迷惑じゃなかったかって思ったんだ」
「そんな…ことない」
首を横に振り否定する。
そう思ったのは本心だから。
だから、絶対に否定しない。
「良かった。なら、いいんだ」
指で頬を掻きながら、はにかむように笑う。
カァァァ
自分に向ける彼の笑顔に戸惑う。
また、だ。
顔が熱くなる。
彼の笑顔の前では自分は無力になる。
そのせいか特に会話もなく歩き続けてしまう。
今の二人の様子を見たら周りには初々しいカップルに、もしくは中睦まじい兄妹に見えてるだろう。
互いに心地いい時間が経過する。
だが、それはとても短い時間。
レイの住んでいるマンションが見えてくる。
寂しく、人が寄り付かない冷たい空間が。
「じゃあ、綾波、ぼくはここで…」
それだけいうと、踵を返そうとする。
「あ……」
「ん…どうしたの?」
彼女は縋るような目をむけてきていた。まるで捨てられた子猫のように。
(寂しいのかな。そうか…一人なんだよね)
シンジには帰るべきところに家族と呼べる人たちがいる。
でも、彼女にはいない。
だから、寂しくないように約束する。
「また、明日学校で」
その言葉に少し、彼女の顔が和らいだ気がする。
気のせいかも知れないけれど。
「さよな……」
彼と同じように別れの挨拶を告げようとしてレイは言おうとしたことをふと止める。
そして彼の言った事を思い出す。
『別れ際にさよならなんて、悲しいこと言うなよ…』
初めて笑顔を見せた日に言われた言葉。
そして自分のために流してくれた涙を見た日。
そのときの彼の言葉を裏切らないために…
「また、明日……」
「うん、また明日」
さよならは言わない。
食事というものは楽しいものでありたい。
自ら望んでつまらないものにはしたくないだろう。
それは、葛城家にとっても例外ではない。
(ちょっち、雰囲気悪いわねぇ〜)
仕事を終えてマンションに帰ってくるなりこの雰囲気である。
どのような雰囲気かというと、ひたすらに沈黙が続く。
辺りに響くのはおかずを取ろうとした箸が食器と接触する音だけだ。
いつもならアスカやミサトが話題を振り、シンジが受け答えするのだが一切の会話がなくなっていた。
(何かあったのね……まぁ、アスカが一方的に怒ってるみたいだけど)
(ここは、このお姉さんがなんとかしないとね!)
心の中で決意を固める。
余計なお世話かもしれないが、これがミサトのいいところでもあるのだ。
「アス「そういえばシンジ、日曜日にファーストと『デート』するのよねぇ」
ミサトがアスカに話しかけると同時に、アスカがシンジへと話し掛ける。
すっかり出鼻を挫かれる。
アスカのほうは別段気にせずデートの部分を強めに言う。
皮肉を込めているのだろう。
突然のデートという単語に少年は焦ってしまう。
「そ、そんなんじゃないよ。ただ一緒に買い物に行くだけだろ」
鈍感なこの少年はその意味に気づくことはない。
そのことがかえってアスカの神経を逆なでする。
きっぱりと、『そうだよ』とでも言われたほうがまだましだ。
「へぇ〜そうなの。てっきりデートだと思っていたわ。ま、あんたとあの冷血女ならお似合いなんじゃない?」
さすがにこの言葉にはシンジもムッとした。
自分のことならまだしも、レイのことまで悪く言われるのは気に食わない。
「綾波のことを悪く言うなよ。……それにアスカには関係ないだろ」
「なっ……」
絶句する。シンジがここまで強気な発言をしてくるとは思っていなかったようだ。
何よりレイのことはかばい、アスカに対しては関係ないとまで言い放った。
心が怒りと悲しさで埋め尽くされていく。
「はん、確かにあんたたちがどうしようと関係ないわ。せいぜい楽しんできたらいいわ!」
感情的なあまり自分が何を言っているのかもよく分からないのだろう。
返事を待たず、逃げるようにして部屋へと去っていく。
バタン!
叩きつけるような音がして、部屋のドアが閉まる。
呆然とシンジはそれを見送る。
(女心ってやつをわかってないのよねぇ〜シンちゃんは)
すっかり話し出す機会を失ってしまったミサトは客観的に見て、心の中だけでつぶやく。
先ほどの決意はどこにいってしまったのだろう?。
「シンちゃんも、そのうち分かるようになるわよ。」
「はぁ?」
本人以外分からない突拍子もない発言に、少年は首を傾げるしかなかった。
翌日になっても険悪な雰囲気は変わらない。
シンジが謝るというのがいつものパターンなのだが、今回においてはそれはなかった。
それでも、朝にはシンジと一緒に学校に行っている。
このあたりがアスカらしい。
その間には会話が一切なかったが。
ヒカリたちと合流してからもそれは変わらない。
誰もがこの雰囲気に息苦しさを感じていたが、原因がシンジとアスカにあるのだからうかつに口を出すことができない。
トウジだけはさっぱり分かっていないようだが。
ギスギスした雰囲気が続く中、タイミングが悪いのかき学校へと続く曲がり角から一人の少女が現れた。
「お、綾波やないか」
うかつにも今の状況の原因を担う人物の名を、場の雰囲気を読みきれていないトウジが言う。
ピクッ
僅かながらアスカの肩が震える。
トウジに名前を呼ばれレイが振り向くが、その目は一人の少年しか捉えていない。
レイの視線に見つめられると自然と言葉を放つことができなくなり、誰も話し掛けられない。
しかし、例外というのはいるものだ。
シンジが真っ先に挨拶を交わす。
この場合は慣れとでもいったほうがいいだろう。
「おはよう、綾波」
少女は少しだけ迷うそぶりを見せるが返事を返す。
「……おはよう碇君」
たったこれだけのことだが、周りの人物は驚きを隠せない。
今までにレイが挨拶を交わしたことなどなかったからだ。
そのまま二人は連れ添うようにして学校へ向かう。
周りも少しの時間呆然としていたが気をとりなおしその後についていく。
「あ、綾波も挨拶するんやな」
「と、当然だろトウジ」
当然と言いつつも、動揺を隠せないケンスケ。アスカやヒカリにいたっても同じだろう。
この状況がこのまま続くと思われたが、学校へ近づくにつれてだんだんと変わってきた。
周りの生徒たちがシンジとレイの様子をちらちらとうかがっている。
時折アスカのほうを見ている生徒もいた。
気になったケンスケは近くにいた生徒に話し掛けた。
「どうしたんだ?」
「ん? ケンスケか。どうしたもこうしたも……」
「……?」
「碇の奴がアスカさんと別れて、綾波レイと付き合うことにしたらしい!」
「…はぁ?」
脈絡のない話である。
そもそも、シンジとアスカは付き合っていない。
しかし、ケンスケにとっては訳の分からない話でもない。
いつものアスカとシンジの様子から考えると傍目から見たら、付き合っていると思われても仕方ない。
ただし、クラス内の人物にとってはそう見えないだろうが。
あくまでも、他のクラスの人たちにとってはである。
「これで、俺にもチャンスが〜」
生徒A(笑)は浮かれながら校内へと去っていった。
(まさか、こんなに早く話が広まるなんてな)
内心、ケンスケは喜んでいた。
これでアスカの写真の売上がまた増えるだろう、と。
この手の話の影響は真実だろうが嘘だろうがでてくるものだ。
だが、ケンスケと対照的に一方収まりつかないのがアスカだ。
シンジと付き合っているなどと事実無根のうえに、さらに別れたとまでうわさされている。
付き合っているという部分はうれしいのだが、別れたというところはいただけない。
ただでさえ機嫌が悪いのに、怒りのボルテージがますます上がっていく。
隣にいるヒカリはいつアスカが爆発するかわからない様子に、オロオロしている。
そして、波乱の幕開けが始まりそう―――そんな感じを抱いていた。
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