Spiral Of The Thought










1

 過去を思い出として胸に秘める。
 忘れる必要はなく、懐かしきものとして留めておけばいい。
 ありきたりな言葉だがそれ故に納得できるものもある。
「…夢?]
 体を起こして少年はぽつりと呟いた。
 夢うつつなのか眼は現実と夢の狭間にいるかのように焦点があっていない。
 体にかけてあった毛布が滑り落ち、大きな皺を形どる。
 少年は夢を見ていた。
 懐かしい夢―――楽しいことも悲しいこともあったあの頃を。
 忘れようと、懐かしき思い出に変えてしまおうと思っていたはずなのに。
 まだ引きずっているのかなと、少年―――碇シンジは汗でべとつく黒い髪をかきあげ自嘲ぎみた笑いを浮かべた。
 昔の夢がきっかけでいつもより早い時間に目が覚める。
 それは充分昔を引きずっていることだろう。
 悪いことではないのだが、なぜかシンジは罪悪感を感じた。―――自分自身に。
 深い溜息がもれ、体が小さく揺れる。
 ギシっとベッドが軋みをあげた。
「ん…]
 揺れに反応したのか隣で眠っていた少女が寝返りをうつ。
 シーツの上を長い黒髪が滑らかに流れた。
 楽しい夢でも見ているのか口元が綻んでいる。
 そのまま夢の世界に置いておこうとシンジは静かに見ていたが、やがて少女は目を覚ましてしまった。
 眠たそうな目元を細い指で擦り、小さな口をあけて欠伸をする。
 が、シンジがじっと見ていることに気付くと、慌てて口を閉じて顔を赤くした。
「おはよう」
「お、おはよう」
 くすっと笑いながら挨拶をしたシンジに対して、少女は顔を赤くしたまま返事を返す。
 消え入りそうな声だったが透き通ったそれははっきりと伝わった。
 シンジの瞳がじっと少女を覗き込み、それがまた彼女の顔を赤くさせる。
 飽きることなく彼はじっと見続けていた。




2

 学校へ行くための通学路を歩きながら、速鳥ミコトは考えていた。
 元栓を閉め忘れていないか、戸締りはしてきたかではなく、隣を歩いているシンジのことを。
 出会って2ヶ月が経ち、一緒に住むまでになってしまっている。
 自分の性格から考えてこんなことになるとは思ってもいなかった。
 他人からも控えめで大人しいと言われている自分が同棲だなんて。
 ミコト以上に彼女の友人たちの方が驚いてはいたが。
(恋人…なんだよね)
 自分の速度に合わせて歩幅を緩めているシンジを彼女は見つめた。
 実感がない。
 本当は夢を見ていてこれは現実ではないと思ってしまう。
 しかし、これが夢だとしたら大層な妄想家のレッテルでも貼られてしまうに違いない。
 別に不満があってそう思っているわけではなく、あまりの状況の変化にそう思ってしまっていた。
 尤もその状況を作り出したのは彼女に他ならない。
「なに?」
 見つめられている視線を感じ、足を止めてシンジは振り返った。
「ううん、なんでもない」
 そう言ってミコトは慌てて手を振った。
 実際、ただ見ていただけで本当に何も用はない。
 そう? とシンジはすぐに自分の勘違いだと知り、歩みはじめる。
 しかし、何か物足りなさを感じて首を捻った。
 一人唸っているとやがて思い出したように彼は顔を上げ、ミコトに近づく。
 と、手を握りそのまま引っ張るようにして歩き出した。
「えっ? えっ? えっ?」
 引きずられるようにして着いていくミコトの顔は、周りを気にしてか赤くなっている。
 彼女はそういう人間なのだ。
 非常に奥手で手を握られるだけで顔を赤くしてしまう。
 そんな彼女だから先ほどのようなことを考えてしまっていた。
 速鳥ミコト、16歳。まだまだ純情だったりする。
「おっはよー」
「ひゃっ!」
 誰かに背中を叩かれ、彼女は思わず悲鳴をあげる。
 驚きで高鳴る胸のまま声がしたほうを振り向くと、満面の笑みで親友が立っていた。
「相変わらず仲良いね〜お二人さん」
「フブキちゃん、驚かさないでよぉ……」
「あははは、ごめんね〜」
 にこにこと笑っている様子からは反省した素振りなど感じられない。
 それを分かっているのかミコトは深々とした溜息をついた。
 仕方ないと言う思いと、動悸を落ち着けるために。
 その間を埋めるかのように、シンジも遅れながらフブキに対しておはようと声をかけた。
「おはよう、碇の旦那」
 奇妙な呼び方をしてくるフブキにシンジは少しばかり苦笑を浮かべる。
 ミコトと付き合っていることが分かるなり彼女は勝手にそういう呼び方をしていた。
 確かにこのまま結婚すれば旦那になるだろうが、気が早すぎる。
 ショートカットと大きな目をくりくりさせているフブキのことだ、茶化しているのだろう。
 溌剌で楽しんでいるような様子からそんな感じを受ける。
「しっかし朝から見せ付けてくれるわね。一人身には目の毒だわ」
 しっかりと握られた手をじと〜とした目つきで覗き込むように見る。
 ミコトは顔を赤らめるが、シンジは別段戸惑うこともなく返す。
「伊角さんも彼氏をつくればいいじゃないか」
「それができたら苦労はしないって」
「フブキちゃんは可愛いのに…」
「うぅ…そう言ってくれるのはあんただけだよミコト…」
 よろよろとふらつき、ミコトに抱きつく。
 わざとらしすぎてシンジはつっこむ気にもならない。
 ミコトに慰めてもらいたいのか、それともただからかいたいだけなのか。
 やれやれと思いながらシンジは優しい瞳を向けるだけだ。
 一頻り自分がやりたいことをやってすっきりしたフブキが二人を促し、歩き始める。
 だが、シンジたちを見て溜息をついた。
 なぜ溜息をつかれなければならないのか彼らには分からず、互いの顔を見合わせる。
「ミコトよりは先に彼氏ができると思ったんだけどなぁ…」
 ぼそっとした呟きが耳に入り、なるほどとシンジは納得した。
 奥手に累乗をかけるほどのミコトに、自分より先に彼氏が出来ると思っても見なかったのだろう。
 可能性がないわけではないが、限りなく低いのは確かだ。
 ここで慰めの言葉を書けたところで幸せ者の言うこととして効果は示さない。
 シンジは苦笑を浮かべることしか出来なかった。
「二人ってさぁ、どういう経緯で付き合いだしたわけ? 細かく聞いたことなかったのよね」
 暗い雰囲気を纏ったままのフブキは真っ青な空さえも陰りがあるように見せてしまう。
 答えなければならない、有無を言わせないような迫力があった。
「経緯…ねぇ…」
 思い出すかのように顎に手をやり思案にふける。
 それはすぐに思い出すことができ、光景が脳裏に蘇るとシンジは笑い出してしまった。
 突然笑い始めた彼に驚き、二人の少女は目を丸くする。
「どうしてそこで笑うかな?」
「よく考えてみたらさ、出会いがすごく唐突だったんだよね。付き合うようになった切っ掛けもなんだけど…それを思い出したらおかしくって」
「だからどんな経緯だったわけ? 余計気になるじゃないの」
「昼休みにゆっくりと話すよ」
 いつの間にかたどり着いていた校門を抜けながらシンジは言った。
 上手く反らされた気がしたが、フブキは不満を言うことはない。
 どうせ昼になれば分かること、それまで待てばいい。
 一方、ミコトは首をかしげていた。
 笑ってしまうほどに面白い出会いだったかなと。
 ?マークを浮かべたまま彼女もまたシンジを追う様にして、校内へと姿を消していった。




3

「…あのっ!」
「?」
 自動販売機の脇で缶コーヒーを飲んでいるとシンジは一人の少女に呼び止められた。
 彼にとっての知り合いではないため、間違いでもしたのかなと周りを見るが他に反応した人物はいない。
 ならばと、少女に視線を戻せばじっと自分を見つめていた。
 腰まで伸びている漆黒の髪につぶらな瞳。
 痩せているせいか線が細い。
 穏やかというよりは大人しそうな感じを受ける。
 視線をあわせると顔を赤くして俯いてしまった。
 かわいい子だなぁと思わず口に出してしまいそうになるが、初対面なだけに言葉にすることはない。
 飲みおわって空になった缶を片手で持て余しながら目の前の少女が口を開くのじっと待つ。
 が、顔を上げたり下げたりするだけで一向にその気配はなかった。
 やがて業を煮やしたのかシンジは空き缶をゴミ箱に捨て、少女に話し掛ける。
「何の用かな?」
 相手を驚かせないよう言葉を選び優しく話し掛ける。
 シンジの方が背が高いためどうしても視線を落とし、見下ろすような形だ。
「あの、私と…」
 慌しく動いていた視線を意を決したようにシンジ一人へと向ける。
 手を硬く握り締めだし、逃げ出してしまいそうになる心を落ち着けようとした。
 時間はかかったが少しだけ、ほんの少しだけ彼女の心に余裕が生まれる。
 そして、その僅かな余裕は言葉を放つには充分だった。
「私と付き合ってくれませんか!」
 少女にとって多大な勇気を振絞ったのだろう、傍から見ても分かる程に肌が赤みをさしている。
 それでも視線を外すことは決してなく、不安に満ちた瞳を向けてきていた。
 が、シンジは
「はぁ?」
 と、本人も分かっていなかったであろう程、間の抜けた声を出してしまう。
 決してこの子は何を言っているんだと変に思ったわけではなく、あまりの唐突さにそういう言葉しか出なかった。
 シンジにとってはそれだけのことだったが、何を勘違いしたのか少女は急に目を潤ませて泣き出してしまう。
「ご、ごめんなさい……」
「え?」
「迷惑…でしたよね…突然…変なこと言ったりして……」
「あ、あの…?」
「ごめんなさい!」
 頭を下げるとシンジの言葉を待たずして踵を返し、駆け出す。
 自分でも何を言っているのか分かっていないのだろう、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
 初恋と失恋を同時に経験して嬉しさと悲しさもまた同時。
 だから逃げ出してしまう。
 一方何がなんだか分からないままシンジは呆然としていた。
 反射的に伸ばした手は空しく中をさ迷っている。
「何がなんだか…」
 なぜか周りの視線が痛い。
 興味の視線というよりは殺気がこもった視線のような気がする…特に男からの視線が。
 体が自然と震え、この場にいることを危険だと知らせる。
 確かにシンジが感じたとおり、周りは悪意のこもった視線に満ちていた。
 なぜかと聞かれれば先ほどの彼の行動にあるのだろう。
 街中である以上話し声はいつの間にか周りにも聞こえる。
 当然大きな声を出してた先ほどの少女の声は辺りに響いていた。
 雰囲気から告白のようなものを感じ取り、周りは自分たちの話題を交わしながらも、耳と目は常にシンジと少女に向いている。
 そして見ていれば、少女は泣きながら逃げ出すように去っていった。
 この場合、悲劇のヒロインは少女で悪役は少年―――シンジだ。
 ヒロインが美少女ということもあって、よりシンジが悪役となってなってしまう。
 となればシンジに悪意が向くのは当然だったりする。
 周りの無言のプレッシャーがひしひしと体に伝わり、幻聴のように『最低』という言葉が木霊していた。
 身を切り裂くような思いに耐え切れず、シンジは少女を追うように駆け出した。




4

 逃げ出すように―――というより実際逃げ出したシンジだが、少女を追っていた。
 勘違いされたままでは癪という思いがある。
 彼女に気があるかどうかなんてことは分からない。
 なにせ初対面なわけだ、外見と感じ取れた印象ぐらいでしか彼女という人物を特定できない。
 しばらく走っていると意外と簡単に発見することは出来た。
 公園の片隅にあるベンチに佇むように座っている。
 風が髪を揺らし、僅かに乱れさせるが彼女は心ここにあらずと言った感じで反応がない。
 近づき隣りに座り込むが気付いた様子はなかった。
「なんか僕がものすごい悪者になっちゃったんだよね」
 苦笑しつつ、空を仰ぐように見る。
 話し掛けていると言うよりは独り言を言っているというほうがあっていた。
 少女はその声でようやくシンジの存在に気付き目を丸くする。
 と、ベンチから立ち上がり再び駆け出そうとするが、シンジの動きの方が速い。
 腕を掴まえると少しだけ力を入れて引き、再び腰をおろさせた。
「僕はまださっきの返事をしてないよ?」
「……えっ?」
 まだ逃げだそうとしていた少女だがその一言で動きが止まった。
 シンジも察して掴んでいた手を離す。
「今度は勝手に解釈していなくならでね」
「ご、ごめんなさい」
 小さく項垂れ、頭を下げる。
 謝ってばかりいる様子を見てシンジは自分と似ているなと思った。
 また、自分と言う存在は他人の目からこういう風に見えていたのかもと同時に思う。
「で、返事なんだけどね」
「……はい」
 ここで再び間を出したら勘違いされかれない、シンジはすぐに答えることにした。
「保留ってことじゃ駄目かな」
「…………?」
 分からないといった表情を浮かべ、少女は首をかしげる。
 はっきりした答えが返ってこないのは期待も不安も両方消してしまった。
 説明足らずかもしれないとシンジは続ける。
「名前」
「はい?」
「君の名前はなんていうの?」
「あ…」
 自分が名前も名乗っていなかったことに気付く。
 そんな状態で告白するとはなんて順序が悪いんだろうと顔を赤くした。
 だが、シンジがじっと答えを待っていることを思い出して、慌てて名前を告げる。
「は、速鳥ミコトっていいます!」
 ベンチから飛び跳ねるような勢いで立ち上がり、名前を言いながら深々と頭を下げる。
 その様子にあっけを取られ、ぽかんとシンジはしてしまう。
 今まで出会ったことがないタイプなだけに驚きも新鮮だ。
「は、速鳥さんだね。立つことないから座りなよ」
 ミコトを促し、再び腰をおろさせる。
 自分の行動にまた顔を赤くして彼女は大人しく従う。
「僕の名前は碇シンジ…って知ってるよね」
「あ……知りませんでした」
「し、知らないって、知らないのに声をかけてきたの?」
「は、はい」
「もしかして見たのも今日初めてとか…まぁ、そんなわけないだろうけど」
「あの…見たのも初めてなんです……」
「はぁ!?」
 あまりの意外さにシンジはまた間の抜けたような声を出す。
 ただし前とは違い、語尾が強まって出てしまう。
 ミコトの意外な積極性を正直驚いた。
 大人しそうな人だったと思っていたがどうやらそれは思い込みだったらしい。
 俗に言う一目惚れをして、すぐさま思いを伝える。
 シンジには真似できないことだった。
「えっと、話はずれたんだけど、さっきの保留ってやつはね額面どおりに受け取ってほしいんだ。僕は初対面の人といきなり付き合えるような性格じゃないんだよ」
「そう…なんですか」
 一気に表情が暗くなりミコトの瞳が潤み出す。
 瞬間、シンジの顔色が変わり始めた。
 街中ほどではないとはいえ公園の中にも人はいる。
 何かと目立つ行動を続けているので人目も多分引いているだろう。
 泣かせてしまったとなると再びあの惨事が起こってしまう。
 思い出しただけでも嫌なため、慌ててシンジは取り繕った。
「だ、だからね、もう少し遠い感じから始めた方がいいと思うんだ。小学生みたいな言い方だけどお友達からって、ね」
 優しい笑みを浮かべ―――ることなどできず、引きつった笑みを浮かべながら話す。
「友達…?」
「そう、友達」
「良かった…嫌われたんだと思ってたから……」
「いや、そんなことはないよ」
 変な子だと思いはしたが。
 引きつった笑みも今のミコトには優しい笑顔に見える。
 まさしく恋する乙女は盲目だ。
「良かった…」
「ち、ちょっと…」
 が、結局彼女は泣き出してしまう。
 悲しさではなく嬉しさの、だ。
 俯きながら涙を零す少女を目の前にシンジは何もできない。
 女性の扱いなどまるで分からない彼はただおろおろするだけだった。




5

「と、まぁそういうことがあったわけ」
 牛乳パックを片手に持ち、シンジは出会いの一部始終を語っていた。
 話が終わるとストローに口をつけパックの中身を吸う。
 話の終わりに合うように中身がなくなり、吸い上げるものがない空しい音だけが響いた。
「信じらんない…このミコトが……?」
 フブキは呆然としたように呟きミコトを見た。
 注目の当人は湯気が出そうなほど顔を赤くして俯いている。
 他人にとっては興味深い話だが、本人にとっては恥ずかしいことに他ならない。
「その後、転校してこの学校に来てみればミコトがいるし、しかも同じクラス。なんか運命を感じるよね」
 ねっとシンジはミコトに笑いかけた。
 彼女も同じ気持ちだが、恥ずかしいために小さく頷くだけだ。
「やっっっぱり信じられない! 絶対碇の旦那がミコトをかどわかしたんでしょ。だってミコトだよ、このミコトがそんなことできるわけないじゃん!」
 顔をぐっと近づけ否定の言葉を放つ。
 一緒に唾まで放ち、シンジは袖で顔を拭いながら口を開いた。
「驚いたのは僕の方だって。ミコトがまさかこんなに控えめな子だったなんて思わなかったよ。あまりのギャップに別人か双子の片割れかと思ったくらいだ」
「う〜〜〜なんか信じにくいなぁ。となれば、本人に聞くしかないわね」
 二人の視線がミコトに定まる。
 彼女は本能的に身の危険を感じ、逃げ出すことができない。
 怯みながらも場をなんとかするため、小さい音量ながらぽつぽつと言い出す。
「だって…あの時を逃したらもう会えないと思ったんだもん。そうなるのは絶対に嫌だから勇気を振絞って……」
 だんだんと声が震え始め瞳が潤んでいく。
 シンジとフブキの勘がこれはやばいと危険警告をはじめた。
「精一杯勇気をだして告白したのにシンジさんは断るし…」
 いや断ってないってと力いっぱい否定するが、周りは受け入れてくれない。
 生徒の悪意…主に男子生徒の悪意がシンジに突き刺さる。
「でもそれは私の勘違いだったの。勝手に私が思い込んでシンジさんの前からにげて……」
 周囲の悪意が消え、シンジはほっと胸をなでおろして椅子に座る。
「シンジさんの言ったことは本当なんだよ。今まで嘘をついたことなんてないもん。フブキちゃんは信じてくれないの?」
 ついに堰を切ったように涙が零れ出した。
 ぽろぽろと零れ、スカートの上に染みを作っていく。
 その様子にシンジとフブキは完全に動揺し、うろたえまくる。
「ご、ごめんね、ミコト。全部信じてるから、ね。ほら、泣かないでよぉ…」
「伊角さんもこう言ってるわけだし、泣かない泣かない」
 子供をあやすかのように必死で二人は慰め始める。
 ミコトの涙は彼らにとって尤も苦手なものの一つだった。
 女性の涙は武器というがこの場合、核にもN2にも匹敵する威力を発揮する。
 5分ほどの言葉の応酬によってようやくミコトは落ち着くが、その頃には慢心創痍の二人が転がっていた。
 終わりを遂げた達成感は見られず、疲労の色が濃い。
「お、お互い相変わらずミコトの涙には弱いわね」
「反則兵器だよ、これは…か、勘弁してほしい……」
 周囲は笑いと同情に満ちてるがどちらもありがたくない。
 ぐすっと鼻をすするミコトは不思議そうな顔をしている。
 自分の涙が二人にとってどれだけの威力があるかなんて分かっていないのだろう。
 分かっていたら分かっていたで相当性質が悪い。
 ばったりと倒れると同時に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、生徒たちは席に戻る。
 憩いの時間であるはずの昼休みは二人の人物にとって余計な疲労となってしまった。
 精神的に疲れながらもどうにかして席に戻る。
 おかげでその後の授業の内容などほとんど覚えてはいなかった。






 人間、仕事や運動で身体が疲労したとき、甘いものが欲しくなる。
 これは筋肉や肝臓に蓄えられていたグリコーゲンが分解され、エネルギーとして利用され、身体の中のグリコーゲン貯蔵量が少なくなるからだ。
 甘いものを摂取すると砂糖は身体の中でブドウ糖と果糖に分解される。
 分解されたブドウ糖は身体の中でグリコーゲンとして蓄えられた後数分のうちに消化吸収され、失われたエネルギーを回復させることができるのだ。
 ゆえに砂糖などの炭水化物を使ったものはエネルギーを補給できる。
 パフェやケーキは補給としてうってつけだ。
 だが、過剰な摂取は太る原因となる。
 摂取した以上のエネルギーを消費できるならば話は別だが。
 普通のものより明らかに大きなサイズのパフェを食べているフブキを見て、シンジはあきれた顔をする。
 満面の笑みを浮かべて食べている本人は幸せに包まれ、自分を見ている人物の表情に気づいていない。
 手と口を動かたびに容器の中身は比例して減っていく。
 自分なら絶対に食べきれないなとシンジは軽い胸焼け覚え、コーヒーに口をつけた。
 独特の苦味が甘い匂いを薄める。
「奢りとなると手加減ないね」
 右腕で頬杖をつきながらパフェの横に置いてあるケーキを見る。
 それだけ食べておいてまだ入るのかとあきれた声を出す。
「自分のお金じゃないとまた一段と美味しいのよ」
「遠慮って言葉知ってる?」
「これでも遠慮してるって」
 どこがだよとシンジは溜息をついた。
 普通のサイズより大きいパフェは当然値段もあがる。
 気軽に食べれるという値段ではない。
 加えてチーズケーキまで頼まれたのだから出費は増えるばかりだ。
 そして次いで飲み物の注文もしてある。
 だが喫茶店に寄っていかないかと誘ったのはシンジだし、奢るからと言ったのもシンジだ。
 今更後悔したところで遅い。
 フブキの隣りではミコトが普通のサイズのパフェを小さな口で一生懸命食べている。
 その様子はフブキと対照的にシンジの心を安らげてくれる。
「…………太るよ」
 女性にとって聞きたくない言葉を当てつける。
 ささやかな抵抗だがフブキに怯んだ様子はなかった。
 ミコトのほうがぴくっと反応し、動かしていた手を止める。
「私は部活でエネルギー消費するから大丈夫なの」
 そう言って、手を休めることなく食べ続ける。
 明朗活発と言った表現がぴったりなフブキは空手部に在籍していた。
 見かけは小さいがそこらにいる男よりはよっぽど強い。
 実際ミコトに近づく悪い虫を力によって軒並み追い払っていた。
「いいなぁ、フブキちゃんは太らなくて……」
「太らないんじゃなくて、太らないようにちゃんと体を動かしてるの」
 フブキの正論にミコトはうっと小さくうめく。
 毎回この量を平らげていたら太ってしまう、それなのに太らないと言うことは摂取エネルギーを消費していると言うことだ。
 均整の取れた引き締まった肢体はフブキの自慢でもある。
「ミコトも体を動かせば、量を気にせずケーキを食べられるわよ」
「私運動苦手だから…」
「毎日やっていれば自然と慣れるわよ。なんなら空手部に入ってみる?」
「伊角さん、筋肉質なミコトになって欲しいの?」
 シンジの言葉にフブキは固まる。
 一瞬頭にちょっと固めのお肌のミコトを想像して、慌てて頭を振った。
「うう…すっごくいや。そんな可愛くないミコトは絶対にごめんだわ」
「でしょ? それに伊角さんみたいに男が寄り付かないように…」
「ほほぅ? 言ってくれるね碇の旦那」
 途中で言葉を遮り、眩しいくらいの笑顔を向けてくる。
 瞳は恐ろしいくらいに笑ってはいないが。
 怒りの形相を浮かべられるより性質が悪い。
 瞬間的に謝らねばならないとシンジはすぐに屈服する。
「……ごめんなさい」
「大丈夫よぉ、私は心が広いからぁ」
 と、近くを通ったウエイトレスを呼び止める。
「ガトー・オペラにチーズスフレ、シブースト追加してください。あ、それとオレンジペコも」
「はい、分かりました」
 営業スマイルを浮かべ、オーダーされたものを復唱する。
 シンジは呆気にとられた顔をして呆然としていた。
「太るよぉ…フブキちゃん」
「大丈夫だってば。このくらいの量はなんてことないんだから」
 いつのまにやらパフェは空っぽになっている。
 手はもうすでにチーズケーキへと向かっていた。
 食べたことも凄いが、さらに注文を追加し問題ないと言い切るところもまた凄い。
 シンジはさめざめと涙を流し、冷えてしまっているコーヒーを飲み干す。
 味はとても苦いものになっており、今の自分の心のようだと思う。
 そして次々とテーブルに並べられるケーキを見ながら、失言には気をつけようと心から誓った。
 空っぽになったコーヒーカップを見て、おかわりはいかがですかと尋ねてくるウエイトレスが今の彼には天使に見える。
 黙々とケーキを食べる悪魔が目の前にいればそう思いたくもなるだろう。
 精算を迎えた時、彼は予想の3倍以上の額を支払うこととなり、がっくりと肩を落とした。




7

 財布の中身が軽くなり―――といってもカードで支払ったため実際は軽くなっていないが、そんな気分になっていた。
 夕食でもなく、ただの休憩になんでこれほどの出費をとかなり顔が引きつっている。
 喫茶店でフブキとは別れたが、彼女はシンジとは対象的にご満悦だ。
 あれだけ食べてしかも奢りとなれば気持ちも分かる。
「うう…最後まで強く出れなかった……」
 まだ肩をがっくりと落としたままだ。
 情けないところは成長してもなかなか抜けきらない。
 隣りを歩きながらそんなシンジをミコトは優しい目で見ている。
「シンジさんってフブキちゃんに敵わないよね」
「強く出られるとなんか昔からだめなんだよ…伊角さんが彼女だったら絶対に尻に敷かれてる」
「そうかも」
「その点、ミコトが彼女でよかったよ」
 えっと驚いた顔をしてしまう。
「可愛いし、優しいし、料理は美味しいし、よく気が利くし…僕にはもったいないくらい」
「あ、ありがとう…シンジさん」
 顔を一気に赤くするとしょぼしょぼとかすれたような声になる。
 自分の思い人の笑顔と優しい言葉はミコトを満足させるには充分だった。
 頬をかすめる暖かい日差しと和やかな雰囲気がよりいっそう幸福感を高める。
 幸せすぎてん死んじゃいそうと場違いな気持ちをミコトは感じてしまう。
 男性と言う存在が自分のなかでこれだけ大きな割合を占めるようになるとは思ってもみなかった。
 シンジの一挙一動に心を動かして毎日に変化がある。
 出会ってからは退屈とは無縁となっていた。
「ただ直して欲しいとこもあるんだよなぁ」
「えっ?」
 幸せだった顔が一気に青ざめる。
 そんな彼女をよそにシンジは続けた。
 ミコトの腕を取ると自分の腕と絡ませ、腕に抱きつくような形にする。
「もう少し積極的になってほしいな、なんて」
 くすくすと笑い体を支えてやる。
 ぽかんとしていたミコトだが自分の体勢に気付くと恥ずかしそうに俯いた。
「私……頑張るね」
「うん?」
「シンジさんが私を好きになるよう努力するから」
 気持ちはありがたいが、シンジは複雑な表情をする。
 それはあまりいい関係とは思えなかった。
 一歩間違えれば依存関係になってしまう。
 絶対にいけないこと、とは言わないがあるべき形ではない。
 多少の依存はよしとしても、全てが寄掛かったままではだめだとシンジは思う。
「僕は今のミコトのことが好きだよ。だから無理して変わる必要はない」
「でも……」
「相手の言いなりだと、それは人形と変わらない。自分にとって都合のいい玩具だ。そんなのは…僕は望んでいない」
「……うん」
「だから、僕の言うことには時には逆らって自分の気持ちを大切にして欲しい。依存しすぎる関係もごめんだよ」
   シンジの言いたいことが分かったのか彼の腕に頭を寄せるとこくっと頷く。
 伝わる体温が優しく温かい。
 言葉を噛み締め、胸にそっと仕舞いこむ。
 そして改めてシンジの存在を確かめた。






「うわ…ろくなものがない」
 飲み物を飲もうとして開けたはいいが、限りなく空に近い冷蔵庫を見ながら顔を引きつらせる。
 保存しておくものがなければ冷蔵庫などただの涼しい箱だ。
 学校の帰りに買っておけばよかったと後悔するが、気付いていなかったので今更遅い。
「どうしたの?」
 制服から普段着へと着替えたミコトがひょこっとリビングから顔を出す。
 シンジは空っぽ状態の冷蔵庫を指差し、何もないんだよねと困った顔をした。
 食料品はいつも数日分を纏め買いする様にしており、うっかり忘れてしまうとこのような状態になる。
 毎日買うのもいいのだが、それでは手間がかかるのでしていない。
 賞味期限が短いものならともかくとして、保存が効くものはこつこつと買いには行かないだろう。
 仕方ないとシンジは立ち上がり、おもむろに財布をポケットに仕舞いこむ。
 冷蔵庫と睨めっこしたところで中身が増えるわけでもないし、何よりも見ていて空しい。
 意味のないことをしているよりもさっさと買いに行くことにした。
 何より食材を使い切ったのはシンジだ。
 気付きませんでしたで済まされることではない。
 すっかり日が暮れてしまっているが、タイムサービスが丁度始まる時間だ。
 急がないと主婦勢に軒並みいい品は取られてしまう。
 足早に靴を履き、デパートへと向かおうとする。
「あ、待って。私もいっしょに行く」
 ぱたぱたと駆け寄り慌てて後を追いかける。
 別に一人でもいいと思うが、待っているのもつまらない。
 それよりも一秒でもシンジの傍にいたほうが彼女は良かった。
 マンションから離れ、近場にあるデパートへと走らない程度に急ぐ。
 歩幅が違うためどうしてもシンジが先行する形となり、その後を追う形でミコトがついていく。
 他人から見れば恋人と言うよりは兄と妹と言った感じがしっくりきていた。
 シンジは物足りなさを感じているが、まぁ世間体などどうでもいいのだろうさして気にしないようにする。
 そんなことを思っていると腕に柔らかい感触が伝わってきた。
 横を見れば恥ずかしそうにしながらもシンジの腕に抱きついているミコトがいる。
 実際彼女はかなり恥ずかしかった。
 二人きりなればいいとして、他人の眼が届くところではかなりの勇気を必要とする。
 日が暮れたとはいえまだまだ人が多いのだから、ミコトにとっては恥ずかしすぎると言っても大げさではない。
 一方シンジは嬉しそうに表情を緩めていた。
 今まで何かと誘導しなければ行動を起こさないミコトが自らの意思によって行った。
 腕を組む嬉しさと共にそれにもまた嬉しさを感じる。
 若いわねぇと誰かが囁いているような気がするがあえてそこは無視した。
 他人の視線などいちいち気にしていたら疲れる、昔の自分がそうだったから。
 歩幅を緩めつつデパートへと入るとすぐさま食品売り場へと向かう。
 鮮度を保つために他の場所より温度が低く設定され肌寒い。
 この場から離れるためにもさっさと買い物を済ますほうが得策だ。
 値段を考えつつ、品定めを行う。
「値段はこっちの方が安いんだけど大きさが…」
「それならアレの方が二人で食べるにはちょうどいいし…」
 主婦顔負けの様子を見せつつ、かごに品物をどんどん放り込んで行く。
 やたらと主婦感覚があるために手際は鮮やかだ。
 タイムサービスのシールが張られた品を見定めると、群れている主婦に入り込み掠め取って行く。
 群集に揉まれながらも孤軍奮闘する姿は勇ましい…が主婦の間なだけにかっこよさには欠けていた。
「シンジさん、ファイト!」
 陰ながらミコトは応援に奮闘する。
 彼女では弾き出されるのが目に見えていた。
 実際、参加したことはあったがあっという間に押し出され、何も得る事ができないまま敗戦を帰している。
 太った主婦を相手にミコトの細い体は無力に等しい。
 使徒戦も真っ青な食材と言う獲物を得る戦いは熾烈を極め、終わった頃にはげんなりしたシンジが残っていた。
 女性が男性より弱いなどどあの場を経験したものには言えないだろう。
 しかし疲れているとは大量の食材が入っているかごはミコトには重く、持たせるわけにはいかない。
 戦利品を放り込むと、手に入れることができなかった主婦の視線から逃れるようにその場を去っていった。
「今日は食べ物での出費が多いなぁ」
「喫茶店のはシンジさんの自業自得だよ」
「……なかなかきついこと言ってくれるね」
 余計な一言でフブキを刺激させたのが本当なためぐうの音もでない。
 食材を分けて袋に入れながらじと〜っとした雰囲気をかもし出す。
 こうなると目の前の食材させ憎たらしくなる。
 ぱんぱんに膨れた袋は悲鳴をあげるがそれでもシンジは入れ続けた。
 このまままだと帰る途中に壊れる可能性があると感じ、隣りでミコトがもう一つの袋に入れ替えフォローする。
 そのおかげで助かったとばかりに最初の袋は皺を刻みだした。





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