Spiral Of The Thought










9

 軽快なリズムでまな板の上を踊る包丁は食材を鮮やかに刻んでいく。
 演奏者はミコト。
 黄色のエプロンを身に纏い料理へと勤しんでいた。
 邪魔にならないよう前髪はピンでとめ、長いストレートの髪はカラーゴムでまとめている。
 料理はシンジとミコトが毎日交代でつくり、今日は彼女の番だ。
 長い間料理をしているため二人とも味については折り紙つきで、一度味わったものなら太鼓判を押していく。
 家庭で食べるには充分すぎる。
 それに人に食べてもらいたという気持ちが料理をより美味しくする秘訣となっていた。
 両親を事故で亡くしたミコトは一人暮らしを余儀なくされた。
 親戚で引き取ろうとするものはおらず、それを察して自ら一人暮らしを選んだのだ。
 両親の遺産でお金に困ることはなかったが、寂しさまで埋めることはできない。
 一人で家事をこなし、母親に教えられた料理を作り、一人で食べる。
 美味しいとも不味いとも返ってこない食卓はさびしいものだ。
 だが、どうにもならないために彼女は不満も言わず、ずっと堪えていた。
 唯一の救いは友達が遊びに来て、寂しさを紛らわしてくること。
 冷たい身内ではなく、温かい周囲の助けによってミコトは頑張ってこれたと言える。
 加えて、シンジの存在がさらにいい方向へと向けてくれた。
 人に作る料理の楽しさを思い出させ、笑顔を増やす。
 当たり前となっていた『食事という作業』に楽しさというスパイスが戻り、彼女の心を浮き出させた。
 キッチンを駆け回るミコトの後姿をシンジは微笑を浮かべながら見ている。
 楽しそうな彼女の姿を見ていると自然と笑顔が浮かんでしまうが、その彼女が楽しく作っている原因が自分にあるとは思ってもいなだろう。
 どこかでそれを感じ取っているかもしれないが。
 シンジもまた同じような境遇だけに、言われればきっと理解する。
 艶やかな肩までかかる黒髪の凛々しい姉と慕った人と、甘い栗色をした勝気な少女と暮らした時間が彼にとってはそうだったのだから。
「お待ちどうさま」
 テーブルの上に鼻腔をくすぐる料理の数々を並べる。
 そしてシンジの正面に座り込むとエプロンを外した。
「「いただきます」」
 声をそろえると料理へと手を伸ばす。
 気持ちのこもった料理は自然と笑顔を生み出し舌をとろけさせた。
「相変わらず美味しいよ、これだから料理が楽しみになるんだよな」
「でも、シンジさんの料理の方が美味しいよ」
「それは自分の味に慣れてるからだって。新鮮な味のほうが美味しく感じるだろ?」
「う〜ん…そうかなぁ」
「そうなの」
 やや強引に締めるが、納得いかないのかミコトは首を傾げた。
 シンジの言うとおり普段から慣れている味は変化がなく、当たり前のものと感じてしまう。
 だから自分と味付けが異なるものは同じくらいの出来でも美味しいと感じる。
 尤もシンジの場合なら本当に美味しいと言う可能性は高い。
 先に述べた二人の女性は料理などというものから縁遠く、作ったとしてもお世辞にも美味しいとは言えないものが出来上がる。
 そのくせに他人の作るものにはうるさいとかなり性質が悪かった。
 シンジはそんな環境で一緒に過ごしていたのだから料理も上手くなる。
 元々上手かったがさらに腕が上がったことを考えると意外とよかったのかもしれない。
 ただし、それは開放されたからこそのセリフで今も尚続いていたら言えない言葉だ。
「それよりもさ、明日どうする? せっかくの休日だし家でごろごろするのももったいないよね」
「私はシンジさんと一緒なら家の中でも楽しいよ」
 なんとも他人が聞いたらむず痒くなりそうな言葉だが、残念ながら止めるべき他人はいない。
「別に良いけど、それだとちょっと不健康だよ。旅行とはいかないけど、どこかに出かけない?」
「デート?」
「そう、デート」
 魅力的な言葉に誘われてミコトの心がぐらぐらと揺れる。
 家の中でも良いと言ったが、見慣れた場所にずっといるよりも外へでた方が何かと刺激が多い。
 誘惑に負け、あっさりと首を縦に振った。
「ちょっと距離はあるけど、第3新東京市に行こうかと思うんだ」
「シンジさんが前に住んでいたところなんだよね」
「うん。もう離れて一年も経ったから懐かしくなってね」
 一度は消滅した第3新東京市だがサードインパクト後なぜか復興している。
 巨大な湖が埋まり、変わらぬ町並みが並ぶ様子には誰もが首を捻った。
 だが確かに存在している以上否定する訳にもいかないし、放って置くにはもったいない。
 よく分からないが使おうと、まるでエヴァのような扱いだ。
 サードインパクト後の不思議として未だに謎だが分からないものは分からない。
 ただ心配なのはそんなところへ人が戻ってくるかということだったが、以外にもほとんどの人が戻ってきていた。
 昔のように使徒迎撃都市ではなくなり、人が住みやすいところとなっている。
 が、名残として所々に変わらぬものも見受けられるままだった。
「第3新東京市かぁ…うん、行ってみたい」
「それじゃ、決まりだね」
 空になった皿をまとめるとキッチンの流しへと置く。
 一方ミコトはぼうっと明日のことに思いをはせていた。
 第3新東京市にはいろんな魅力―――最新のものや流行の店が集まったりするがそれ以上にシンジがいたところとして魅力がある。
 出会って間もないミコトは思ったよりシンジのことを知らない。
 だからこそ彼の名残がある町に興味があるのだ。
 自分の人生の中で一年程しかいなかったけど、心の中に占める広さは一番多いよと語るくらいだから、思い出深いのだろう。
 そこまで言う場所を見てみたい―――素直にそう思った。
 明日のことを考えるだけで胸が高鳴る、今日は眠れないかもしれないと幸せな表情をする。
 シンジもまた懐かしさを胸に抱き、変わらぬだろう街並みを思い浮かべた。
 自分にとって新しい始まりであり、終わりだったその場所を。




10

 第3新東京市へ行くのはいいが、距離があるためどうしても時間がかかってしまう。
 リニアに揺られながらシンジは軽い欠伸をしてしまった。
 代わり栄えない景色を見たところで面白くないし、加えてじっと座っていても面白くない。
 ひたすらに退屈だった。
 隣りではシンジの肩に頭を預け、ミコトは寝息を立ててしまっている。
 ロングスカートの膝下はスリットとなっており、そこから白い綺麗な足が見えていた。
 退屈、それもあるが今日のデートが楽しみで睡眠が浅かったため、乗り込んで早々に眠り込んでいた。
 いっそのこと眠ってしまおうかとシンジは思ったが、眠気があるほどでもないため眠るに眠れない。
 第3新東京市がある方へ向きこれからの予定でも考えることにした。
 が、単にぶらぶらと懐かしい場所を見て回りたいだけなのですぐに考えるのを止めた。
(ミサトさんたち…元気にしてるかな)
 会う約束をしているわけではないが、なんとなく懐かしがる。
 ミサトが元気でないのは二日酔いの時くらいだろう、意味のない心配をしてしまったと後悔した。
(死んだはずなのに生き返るくらいだしね、元気で当たり前か)
 戦自との戦いの中で散ったミサトだが何事もなく生き返っていた。
 リツコや加持もなぜかいる。
 唯一犠牲となったのはゲンドウだけだ。
 死んだ現場を見たわけではないが姿を見たものは誰もいない。
 だが、母さんの所へ行ったんだとシンジは漠然と感じていた。
 世界が何事もなく復興したのもレイの姿をしたリリスの力、そう考えるのが一番しっくりくるような気がする。
 何かを話したような気がするがシンジは全く覚えていない。
 気付けばただゲンドウがおらず、それ以外は何事もなかったかのように元通り佇んでいた。
 それはまるで悪い夢を見ていたのではないかと思わせるくらいだ。
(でも…僕は離れた)
 夢のようであってもそれは現実。
 すべてのわだかまりが消えてなくなるわけではない。
 色々な意味で思い出深いその土地は苦しいことを思い出せる土地であった。
 ミサトはまた一緒に暮らしましょうと言ってくれたがシンジは受け入れることがない。
 口から出る言葉はこの街から出て行くということだけ。
 そして、少年はこの街から離れていった。
 なのにどうしてまたその土地へ行こうとするのか、自分でも分からない。
 昔が恋しくなったのかと言われればそうかもしれない。
 ただ、何かがそこにあるような気がした。
(…やっぱり暇)
 考えるのつかれ、腕を上に上げて背伸びする。
 と、ミコトの頭がぽんとシンジの太ももの上に倒れこんできた。
 肩に頭を乗せられていたのを失念していたらしい。
 一方ミコトはふみゅと変な声を上げるが起きる様子はまるで見受けられず、体を小さく丸めてシンジの太腿に頬を摺り寄せた。
「こいうのは僕の方がやりたいんだけどなぁ……」
 膝の上で猫のようにごろごろとしているミコトを見て、思わず口に出してしまう。
 少しくすぐったいが可愛い寝顔を見れれば差し引いても充分と記した気分だ。
 流れる髪を梳いてやりながら笑顔を零す。
 他人が見ていたらこれまたむず痒くなる様な光景だが、向かい合っている席には誰もいない。
 少しはなれたころで談笑している人たちがいるが、立ち上がらない限りは死角となって見えなかった。
 人目をはばからずいちゃつきあうこの二人(自分たちはそう思ってないだろうが)は他人の視線などまるでかまないようにしている。
 その後、到着のアナウンスが響き起きた所でミコトが慌てふためいたのは想像に難くない。




11

 第3新東京市、かつては使徒迎撃都市としてその役割を果たしていたが、現在においてもあまりそれは変わらない。
 ネルフは情報機関として役目は変わったが、エヴァがある以上ただの情報機関で終わるわけがない。
 表向きはそうだが、各国の牽制の意味も込めて機能は昔と変わっていなかった。
 シンジも少しながらそのことは知っている。
 ただし、彼が思っている以上にこの街は設備を増強してるが。
 溢れるような人並みの中をはぐれない様に腕を組みながら街中を進む。
 あまり変わってない街並みに懐かしそうに目を細めながら目的地へと向かっていた。
 特に行く場所を決めていなかったがさすがにそれは困るので、昔よく行っていたデパートへといくことに決めた。
 品揃えがいいその場所は物に溢れ、見ているだけでも飽きることはない。
「おっきいんだぁ…」
 ミコトは上を見上げた。
 いつも行っている近所のとは違い、大きさだけなら倍以上ある。
 シンジがなんでもあるよと言って意味がすぐに頷けた。
「そんなおのぼりさんみたいにしてないで行こうよ」
 くすくす笑いながら先導するため絡めた腕を引っ張る。
 はっと周りの視線を思い出したようにしてミコトは頬を染めた。
 店内は内装にも気を使っており、清潔さと人の目を惹きつけるように作ってある。
 ミコトはごみごみしている様子を思い浮かべていたが、綺麗に商品が並べられているさまに目を奪われた。
 まずはと、シンジは洋服を見に行くことにする。
 勿論気に入れば買うだろうが。
 どちらかと言えば服装に無頓着なシンジだが、センスが恐ろしく悪いわけではない。
 恥ずかしくない程度には服を選べる。
 そんなシンジが服を見に行く…というよりはミコトが行きたそうにしているのを察したのだろう。
 流行のものからマイナーなものまでいろいろと取り揃えているために興味は尽きない。
「あ! あれかわいい」
 指差した先にはネオンピンクの色をしたシースルーブラウスを着たマネキンがある。
 当然マネキンのことを可愛いと言ったわけでない。
「中にちょっと濃い目のものを着たら合うよね」
「そうだね、黒いブラジャーとかだとほどよく透けて…」
 と言って、じと〜っとした視線にさらされていることに気付く。
「…………えっち」
「……ごめんなさい」
 別に変な気持ちで言ったわけではなく、純粋に合うかもと思っただけだがそんなことは彼女は知らない。
 大人な女性なら確かに似合いそうだが、美人と言うよりかわいいと言った方が合うミコトには不適切だった。
「…シンジさんはそういうの好きなの?」
「いや、好きというか合うかなぁと思っただけで」
 誤解されたような詰問を受け、たじたじなシンジは上手く口が回らず後ずさりした。
「外では駄目だけど、二人きりの時なら着てもいいよ」
「え!? ほんと?」
「…やっぱり好きなんでしょ」
 引っ掛けられたことにようやく気付き、顔を引きつらせる。
 日頃のミコトを考えればそんな大胆なことなど言うはずがない。
 容易に思いつくはずなのに、引っ掛かるところを見ると図星だったようだ。
 否定しようとするがすでに今更、手遅れだった。
 ぷいっとへそを曲げた彼女はお冠だ。
 ミコトの服装は大人しいものが多く、大人っぽいとか派手とかからは縁遠い。
 雰囲気に合っていてよく似合っているのだが、多少魅力に欠けるかなと思っていた。
 そんなところにシンジの発言はいささか痛い。
 着るには勇気がいるし、着れたとしても自分に似合うような気はしなかった。
「あ〜うん、ミコトにはミコトの似合う服があるわけだし、僕の戯言なんか気にしなくていいって」
「でも好きなんだよね?」
「いや、だからね…」
「好きなんだよね?」
「……はいぃ」
 迫力に負けて大人しく返事をしてしまう。
 こういうときは普段控えめな彼女だがシンジを押し切るぐらいの迫力を出す。
 それを知ってか、逆らうことを本能が拒否してしまった。
 すごすごとひきさがる様子を見て溜飲がさがったミコトは、うって変わったように雰囲気を変える。
「今日はシンジさんのおごりだよ」
「はいぃ!?」
 驚いているのか承諾しているのか分からない声を上げ、目を見開く。
 だがすでにミコトは物色をはじめてしまっていた。
 止めようと伸ばした手が空しく空気だけを掴み、所在なげに彷徨っている。
 自業自得なだけに奢りませんなんて口が裂けてもいえないだろう。
「お手柔らかにお願いしますぅ」
 言えるのはこのくらいだ。
 相変わらず押し切られると弱ことに涙を流しつつ、直せない悔しさを噛み締めた。
 唯一の救いはすべての商品が安いので、思ったより出費が少ないことか。
 尤も量が多ければ予想を越えていくのは目に見えるが。
 とことことミコトの後をついていき、服を手渡されている姿はどこまでも情けないものだった。




12

 洋服の入った袋を片手にシンジはやや疲労した顔を見せていた。
 奢らなければいけない以上、高い安いに拘らず金額にびくびくしてしまうが、そこはミコト、ほどほどの量にしてくれている。
 相手が払うのだから見境なく、などという相手を気遣わないどこぞの人のようなことはしない。
 ならばなぜシンジが疲れているのかと言うと、量の問題ではなく時間の問題の方だ。
 買う以上は自分に一番似合うものにしたいし、しばらく着れる様なものにもしたい。
 気軽に買って後で合わないではただの無駄遣いだ。
 だからこそ、そうならないように一通り目を通し物色する。
 だが人の興味はなかなかなくならないもので、選んでいるうちにどれもいい物に見えてきてしまうから困りものだ。
 あれがいい、でもこっちもいいと言っているうちに時間ばかりはどんどん過ぎてゆく。
 そんな時の女性は非常に楽しそうで、傍で暇をもてなしている男のことなんて気付きやしない。
 時折意見を尋ねては来るが、シンジは引きつった笑いを浮かべて浮かべるだけだ。
 最初は楽しくもあるが度がすぎれば飽きも来る。
 まさにその状態を迎えてしまったがためにシンジは疲れていたのだ。
 こんな時に女性の感性が共感できればなぁと思うがさすがにそれは無理だろう。
 と、そんなシンジを察して・・・はいないだろうが昼時を迎えてミコトはデパート内の飲料店へと向かっていた。
 満面の笑みを浮かべている様子はシンジと対照的だ。
 欲しいものが買えて心なしか足取りも軽く、いつもとは逆に彼の手を引いて先行している。
「どこにしようかなぁ」
 辿りつくなり視線を巡らす。
 複数並ぶ店はそれぞれの特色が出ていてメニューも様々だ。
 ショーケースに並ぶ品を見ながら店を選び出そうとする。
「シンジさん、ここでいいかな」
「ミコトがそう言うならいいよ」
 そうは言うがここで大量に奢らされるのではないかと内心びくびくしている。
 ミコトが選んだ店はどことなくいつも行っている喫茶店に似ているような気がした、少なくともシンジの目には。
 自動ドアを抜けていく足取りも鉛がつたように重かった。
「いらっしゃいませ〜」
 開閉の音に気付き、ウエイトレスがにこやかな笑みを浮かべて迎える。
 他の客に注文の品を届けながらも瞬時に笑顔を作れるとはなかなかのものだ。
 が、トレイを胸に抱えながら済まなそうに表情を変えた。
「あいにく満席となっているので少々待つことになってしまいますが……」
 言われたとおり空いている席は見当たらない。
「どうしよっかな、他の店に行く?」
「う〜でもでもここに食べたいものがあるの」
「じゃあ、待つ?」
「うん」
「ではこちらにおかけしてお待ちしてください」
 テーブルから離れた入口近くに横長のイスが設置してある方向に手を差し伸べた。
 そこには自分たちと同じく待っている人がたくさん並んでいる。
 大人しく待っていれば随分時間がかかるだろう。
「…これでも待つ?」
 控えめに指差して尋ねてはいるが他行かない? という心の声が聞こえてくるようだ。
 気持ちは持っても腹の虫は待ちきれないとばかりに声を上げてしまう。
 さすがのミコトも人数を見て溜息をつきながら頭を振った。
「でもどうしようかね。ここだけが混んでいる様には見えないから、他のところも多分混んでいるだろうし……」
 ガラス越しに見えるほかの店もテーブル席は埋っている。
 傍から見ても分かるくらいなのだから、店内では待っている人たちもいるだろう。
 昼時より早く、または遅い時間帯ならよかったのだが、残念ながら最もベストな時間を選んでしまっていた。
 路頭に迷ったのかのように行き先をあぐねてしまう。
「ちょっとそこのあんた!」
 突然誰かに呼ばれ咄嗟に振り向く。
 自分をさしているのかは分からないが、どこか聞き覚えがあった声がために反応してしまった。
 聞こえてきた方向はどうやらテーブル席の方らしい。
「思ったとおり。シンジじゃない」
 席から離れ誰かが近づいてくる、
 歩くさまはまるでモデルのようで栗色の長い髪が歩くたびに揺れた。
「アスカ?」
「なぁに、変な顔してんのよ」
 シンジの頭をこつんと指で突き、彼女は勝気な顔をして昔と変わらない懐かしい笑みを浮かべた。




13

「ふ〜ん、こっちには遊びに来たって訳?」
 パスタをフォークにくるくると器用に巻きつけ口に運ぶ。
 味が好みにあったのか美味しいと口元を緩めた。
「懐かしくて来たっていうのもあるんだけどね」
 同じようにパスタを口に運ぶ。
 テーブルの上には他にコーヒーとサンドイッチが乗っている。
 隣りで食べているミコトのメニューも同じ様なものだ。
 ようやく食事にありつけたとばかりに二人とも口数を減らし、黙々と食べていた。
 アスカの好意によりテーブルを相席にしてもらいこうして食事をしている。
 ありがたいが、代わりにここはあんたが奢ってよとのことでシンジは笑顔を凍らせた。
「で、そっちの子は? 紹介しなさいよ」
 フォークでミコトを指す。
 行儀が悪いなと思いつつも、シンジは余計なことを言わないように飛び出そうとしていた言葉を抑える。
「速鳥ミコト。僕の恋人だよ」
 簡潔にさらっと紹介する。
 食べていた口を止め、ミコトはこくんと頭を下げた。
「ま、そんなとこだろうと思ってたけど。あんたってそういう子が好みだったのね」
「そういう子ってどういう子だかよく分かんないけど」
「おとなしそうなタイプってことよ」
 別にそんなことないんだけどね、シンジは思った。
 強いて言えば好きになった子がタイプという彼だ。
 だが、それは結局アスカの言うとおりなのかもしれない。
「これで納得いったわ。だから私と一緒に住んでいたのに何もなかったのね」
 アスカは大して気にも留めず言ったのだろうが、ミコトはぴたっと動きとめる。
 フォークを置くとどういうこと? とシンジに視線を送った。
 一連の行動を観察するかのように見ていたアスカは不思議そうな顔をした。
「まさかなにも言ってないわけ?」
「話す機会はなかったし、話すようなことでもないだろ」
「そりゃそうかもしれないけど…」
「第一説明しにくいよ」
 うっとアスカは怯んだ。
 昔の彼女のことを話す、というわけではないがいろいろと面倒なことがある。
 一緒に住んでいたことさえややかしい。
 それに加えエヴァンゲリオンのパイロットは一般的に知られていないし、機密に近いものでもある。
 不用意にはなすことはできない。
 シンジの場合はネルフから離れたと言うことでさらに制約がかかっていた。
 ひそひそと二人の間で会話が交わされるが、一人だけ放っておかれているようでミコトは面白くない。
 自然と見る目もきつくなってしまう。
「…なに話してるんですか?」
 底冷えするような声が二人を硬直させる。
 表情を見なくても不機嫌なのは容易に知ることができた。
「な、なんでもないわよ」
「そ、そう、なんでもないって」
 慌てて取り繕うとするがミコトの表情は変わらない。
 なんとかしなさいよとアスカは視線を向けてくるが、どうしようもできないためにシンジはさらに慌てた。
 なんとかしてほしいのはこっちのほうだと。
「あ…そのね、ミコトさん。話すと長くなるなんだけど……」
「別にかまいません」
「ええと…」
 再びアスカは助けを乞う視線を向けてくる。
 先ほどより切実だ。
 おとなしいと思っていたのに、こんなに迫力出すとは思いもしなかったのだろう。
 いや、日頃大人しいからこそいざと言う時に迫力があるのかもしれない。
 シンジもさすがに収集がつかなくなるとどうにか頭の中でいい考えをまとめようとする。
「あのさ、僕とアスカはちょっとした都合で一緒に住むことになったんだ」
「ちょっとした都合?」
「親の都合ってやつでね。僕は父さんの部下の人と最初は住んでいたんだよ。父さんは何かと忙しくて一緒に住めなかったらその人に面倒見てもらっていたんだ」
 実際は面倒を見ていたような気がするけど、心の中で思う。
「で、アスカのほうも同じような理由でその人のところに来て、一緒に住むことになっちゃったんだ何かとおせっかいな人でね、困ったもんだよ」
 かなり焦っているのだろう、納得できるには程遠い。
 ああこりゃだめね、とアスカは頭をかかえた。
 すぐに猛反撃が来るだろう。
「……分かりました」
「えっ?」
 予想とは違う行動にすっとんきょんな声を上げる。
 盗み見るようにミコトの顔を除くが、やばり納得したような顔には見えなかった。
「納得いかない点はたくさんあるけど、今はいいです。『長くなる』ようですから。そのかわり」
「そのかわり?」
「帰ったら、ゆっくりとシンジさんに説明してもらいます」
 にこやかな笑みを浮かべる。
 天使の笑顔ではなく、死神の笑顔をだ。
「そ、そうよね。帰ったらゆっくり聞けるわよね」
 凍るシンジとは対照的にアスカだけは満面の笑みを浮かべた。
 冷水を浴びせかけられる対象が自分から逸れただけでもいい。
 シンジには悪いが素直にそう思った。
「いや、だからね」
「帰ったらゆっくり聞きますね。『二人きり』ですし」
「…はい」
 肩を落として項垂れる。
 逆らったところでいいことはなしだ。
 助けを出してくる唯一の存在は早々に退却してしまっている。
 二人きり…響きはなんとなくいいが、この場合は猛獣の檻に投げ込まれたのと近い。
 逃げ出せない限定の空間には逃げ場がなく、果てしない緊張だけが続くだろう。
 動作の一つ一つに過敏に反応して気が休まることないに違いない。
 シンジは状況を想像して、恨みがましくアスカを睨みながらこれからの自分の運命に無情さを感じていた。




14

 注文すれば店はその通りに品物を運んでくる。
 店とはそういうものなのだから当たり前のことだろう。
 昼食が終わったにもかかわらず、テーブルの上に並べられたものは減る気配を見せない。
 むしろ増えていることにシンジは頭を振った。
「…アスカはここで何してるの」
 隣りで黙々と食べ続けるミコトにびくびくしながら話題を変えようとする。
 刺激しないためか声は小さく、なぜか控えめだ。
「私はここで人と待ちあわせよ」
 同じように声は小さい。
 時折ミコトを見る目は怯えに似た色が走っていた。
「彼氏?」
「だったら良かったんだけどね、生憎私に相応しいやつに出会えないの」
「……そんなのいるのかな」
「なんかむかつく言い方ね、あんた私のことなんだと思ってるのよ」
 ものすごく高望みをしてそうだから、シンジはコーヒーで喉を潤しながら言う。
 容姿か性格か経歴か、それはわからないがどれも一流に部類される人物を想像する。
 アスカの恋人はそんな感じだと持った。
 彼の中においてアスカはエリート意識が高い人物だと言うのは未だに残っている。
 全てが全てそうだとは言わないが広い部分を占めているだろう、と。
「とりあえず深くは考えないことにするわ」
「それは、どうも」
「はぁ…もっと興味しめしたりしないわけ? 仮にもかつて一緒に住んでいたっていうのに」
 と、自分で言っておいてアスカはしまったという顔をする。
 ミコトを刺激する言葉に慌てるが、当の本人はにこやかに笑い続けていいですよと再びデザートに集中した。
 絶対に気にしてるよと突っ込みたいところだが火に油を注ぐようなことはしない。
「…話を戻すけどさ、誰を待ってるの」
「レイよ」
「綾波?」
 ケーキを口に運びこくんと頷く。
 ミコトほどではないが、すでに二つほど皿を重ねている。
 甘い匂いがテーブルの上に漂っていた。
「なんで驚いた表情をするわけ?」
「だったさ、二人って仲良さそうに見えなかったんだけど」
「いつの話をしてんのよ。前は確かに仲悪かったわけど、今じゃヒカリと同じくらいの大事な親友よ」
 へぇとシンジの顔が緩んだ。
 氷と炎のように正反対の少女たちがそういう関係になっていたことに驚く。
 しかしそれ以上に嬉しさがあった。
 アスカが嫌悪の態度をなくし、レイにどうやって歩み寄ったのか興味がある。
「そっか、仲良くなったんだ」
 自分のことではないが嬉しさにシンジは自然と笑顔を浮かべた。
 その昔と変わらぬ笑みにアスカは懐かしさを感じると共に、胸の高鳴り覚えて僅かに頬を染める。
 ぽかんと惚けた表情で見つめしまう。
「なに?」
「え、いや、な、なんでもないわよ。レイが来るのが遅いなって思っただけ」
 誤魔化すようにケーキを口にかきこむが、表情を見れば一目で状態が分かる。
 残念ながら恋愛沙汰に鈍いシンジは気付きはしない。
「綾波って時間にルーズじゃなかったよね」
「あのこに限って迷うなんてないし、人込みに流されてるとか…」
「まさか〜」
 あははと笑うが、なんとなくありそうな気がする。
 お世辞にも体格が良いとはいえないレイなら充分可能性があるだろう。
 少なくともセットした髪や服装が乱れていそうだ。
 可能性がありそうなことを並べ立て、ああだこうだと談笑を交わしてるとアスカが何かに気付く。
「あ、来たみたいだわ」
 服装等が乱れてはいないが、息を切らしているレイに向かってこっちよと手を振る。
 彼女もそれに気付き歩み寄ってくるが、アスカ一人ではないことを怪訝に思い表情を硬くした。
 が、どこかで見たような男の後ろ姿に何かを感じたのか足をせかす。
 ここに座りなさいとアスカが自分の隣りをポンポンと叩くが、少年の姿を見て降ろそうとしていた腰を止めた。
「碇君?」
「やぁ、久しぶり」
 男にはしては繊細な顔つき、中性的といってもいい、柔らかそうな髪。
 自分が知っている時から大人びた顔をしてはいるが、確かによく知る人物だった。
 座ることを忘れ、思わず懐かしい顔に見入る。
「ぼうっと突っ立ってんじゃないわよ、早く座りなさい」
 どこかお姉さんのような感じを出しながら、レイを促してイスに座らせる。
 嬉しそうに口元を緩めるその姿に気持ちを察しながらも、ミコトの存在を考えると微妙な気持ちになった。
 当然シンジは気付いていない。
「綾波の私服って初めて見たよ。なんか新鮮だ」
「変?」
「そんなことないよ、凄く似合ってる」
「あ、ありがとう」
 シンジに褒められ、これ以上ないというぐらいの笑みをレイは零した。
 久しぶりに、本当に久しぶりのその表情にシンジの顔もつられて緩んだ。
 笑うことをほとんどしなかった少女が何気ない一言で笑える、それが嬉しい。
 恥ずかしそうに俯く姿を懐かしく見た。
 そこまでは傍から見てもいい雰囲気だったが、シンジの隣りに座っている少女を見てレイは不思議そうにする。
「誰?」
 誰となく尋ねる。
「シンジの彼女よ」
 言い難いなぁと思いつつ、アスカは応えた。
 そっとレイの様子を窺うが、予想通りといっていいのか表情を収めてしまっている姿がある。
 まるで淡い恋心が一気に冷めてしまったかのようだ。
「速鳥ミコトです」
 ミコトの態度も素っ気ない。
 名前を告げてはいるが、表情は硬かった。
 やり取りを見てシンジに対して目の前の女性がどういう気持ちを抱いてるかは明確だった。
 それを考えると素直に受け入れることは出来ない。
「……綾波レイ」
 初対面の相手に対しては冷ややかな態度。
 笑顔など浮かべてはおらず、視線は厳しかった。
 シンジにとっては慣れたものだが、普通の人にとってはあまりいい印象ではない。
 見えてはいないが火花が散ってるわよとアスカはうめいた。
 鈍いシンジならともかくとして、敏感に感じ取ってる彼女にとっては最悪な状況でしかない。
 テーブルからイスを引き距離を置く様に後ろに後退した。
「どうかしたの?」
 場違いなシンジの発言に瞬時に気温が下がったような気がした。
 どうかしてるのよとアスカは無言で伝えようとするが徒労で終わる。
「懐かしいよね、こうして三人が揃うの」
「碇君は…出て行ったから」
 アスカとレイは変わらず第3新東京市にいる。
 シンジが留まっていれば常に三人でいることができただろう。
 だが、彼はそれを捨てて思い出深い土地を離れた。
「どうしていなくなったの?」
 レイの質問にアスカも同意したように頷く。
 簡単な別れの言葉だけでシンジは離れ、理由は告げていない。
 いろいろとあったとはいえ素直に納得はできなかった。
「どうして…か」
 目をそらして店の外へと視線を移した。
 視線を合わせたくないだけか、それとも思い出しているのか。
「この街は僕には思い出がありすぎるから…かな。楽しかったこと以上に嫌だったことがたくさんある。それを思い出すからね、ここは」
 遠い視線。
 そして寂しげな笑み。
 胸を締め付けるような何かがあった。
 事情を知らないミコトでさえそう感じ、あっと小さく声を漏らす。
 自分が見たことない顔、見せてくれない顔がそこにはある。
 シンジという存在がひどく遠くに感じ、寂しげにミコトは俯いた。




15

 良い思いでとは違い、嫌な思い出など思い起こさないほうがいいだろう。
 過去は忘れることは出来なくとも思い出として残すことは出来る。
 しかし、それをむしかえす必要ない。
 思い出としてしまっていれば充分なのだから。
「あんなたも随分変わったものよね」
「そう…なのかな。僕はそう思ってないけど」
「変わったわよ。少なくとも私の知ってるシンジは今と違うわ。でしょ、レイ?」
「碇君は碇君よ」
「はいはい、あんたにしてみればそうでしょうね」
 暗い話題を変えるかのようにアスカは話題を外していた。
 昔のことを思い返してしまえばろくなことなどない。
 自分たちにとってはシンジの言うとおり、楽しかった以上に嫌なことの方が多かった。
「昔のシンジって笑っている顔が愛想笑いだったのよ。他人に悪い気を起こさせないようにね」
「…それはなんとなく分かるな」
「馴れ合いだったけど…今のあんたはなんか違う。本当の気持ちを素直に表してる」
 本当の自分など言うものは分かっているようで分かっていない。
 それでも漠然としたものは理解しているだろう。
「多分さ、昔みたいに他人のことを優先して考えなくなったからかな」
「他人を…優先?」
「自分の気持ちなんて昔の僕は表せなかった。それよりも他人に嫌われないように周りに合わせていたからね。ここから離れたことで少し、自分の気持ちに素直になろうと思ったんだ」
 馴れ合いではいつまであってもいい関係には進展しない。
 それは本当の気持ちを抑えてしまうからだ。
 本当に相手のことを思いやっているなら、言わなくてはならないことを言わなければならない。
 例え、それが嫌なことだったとしても。
 昔のシンジはそれに欠けていた。
 自分のことを考えてばかりいて、嫌われたくない、外れたくない、そんな思いばかりだ。
「だからアスカにとっては今の僕に違和感を感じるんだろうね」
「そうかぁ……」
「碇君は碇君よ」
「分かってるわよ」
 レイの変わらない答えに辟易しながらも素直にそう思えることに羨ましく思える。
 昔と違うシンジはシンジじゃない、どこかで感じているのだろう。
 だがそれは自分の思い込みであって本当のシンジなんて分かってはいないのだ。
 人は成長し、学習する生き物。
 いつまで同じまま、変わらないなんてことはない。
「僕にしてみれば綾波だって少し…じゃなくてかなり変わったと思うよ。僕の知っている綾波は今ほど社交的じゃないしね」
 シンジはレイを見ながら語る。
 人のことなど気にすることなど我を通す、それが彼にとってはレイだった。
 一般常識には囚われることなどな……ただ一般常識を知らないだけだが。
 それこそ服装なんてものには興味など示していなかった、常に制服しか身に纏っていない。
『普通』の女性、いや男性から見てもおかしいだろう。
「それはそうよね、レイにここまで一般常識を教えるのには苦労したんだから」
「…感謝しているわ」
「なんかありがたみに欠けるような気がするんだけど」
「気のせいよ」
 有り触れている友達同士の掛け合い。
 が、アスカとレイと掛け合いというものはシンジにとって新鮮だった。
 その当たり前を嬉しそうに彼は頬杖をつきながら眺めてた。





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