CALL ME, CALL MY NAME
 自室に足を踏み入れたティエリアは、その整った顔を歪めて、言葉を失い立ち尽くした。
 彼の視線の先――ひどく殺風景な部屋に備え付けられたベッドの横、硬質で冷たい床の上に、は横たわって寝息を立てていた。指通りの良さそうな細い髪が床に広がり、艶やかに散らばっている。灰色に統一された無機質な部屋の中で、彼女のあたたかな栗色の髪色だけが浮いていた。
 自分だけのものであるべき空間に、己以外の異質な存在があることは、彼にとって非常に不愉快極まりないことであった。ティエリアは、他者の侵入を許してしまった己の不用意さに歯噛みしつつ、眉間に深い皺を寄せたまま、彼女の傍に歩み寄った。
「おい」
 淡く色づく頬を冷たい床に吸い付けるように当て、薄い腹を上下させる彼女を見下ろす。

 先ほどよりも、やや声を張り、彼女の名を呼ぶ。反応はない。
 それから何度名を呼んでも、目を開けないどころか身じろぎのひとつもしないので、怪訝に思うと同時に、もしかしたら彼女はこのまま目を覚まさないのではないかという気にさえなった。この部屋の無感情な空気と、薄暗さがそうさせているのかもしれない。
 他者と肉体的に触れ合うことを、彼はあまり好んではいなかったが、この際ばかりは仕方あるまいと、今度は肩に手をかけて揺さぶった。伏せられていた彼女の瞼が、ようやくうっすらと開かれる。
「何故ここに居る。とうとう自分の部屋もわからなくなったのか」
「…ティエリア…?」
 厭味に応じるだけの気力のない寝ぼけ眼が、ティエリアを見上げる。バターのようにとろん、と溶け落ちてしまいそうなまなざしと同じくらいに甘く、いささか掠れた声で、は彼の名を呟いた。
 はあ、というティエリアのため息の音が、存外大きく響いた。
 そして彼女が起き上がるのを確認し、部屋の照明をつける。天井から降る白い明かりに、の顔は歪み、大きな瞳も細められる。
「どうしてそんなところで寝ているんだ」
 と言いながら、ティエリアは呆れ果てた様子で、彼女が今しがたまで寝転がっていた床を指差した。
 なぜ、彼女がこの部屋にいるのか。ティエリアが一番に問いたいことはそれだった。けれど、あまりにも無防備な―彼に言わせれば、「能天気」な―その姿を見、もはや問いただす気も失せてしまったため、あえて別の疑問を投げかけたのだ。
「床、ひんやりして気持ちいいんだもん。こうしていると、気持ちよく眠れるの」
 照明の光にも目が慣れたらしく、ふにゃりとした笑みを浮かべたは、ぺたりと床に手をついて、起こした身体を再び床に投げ出した。気の抜けたソーダのような、ただ甘さだけが胸に痞えるその笑顔は、ティエリアが彼女を疎ましく思う要素のひとつであった。
 なんのための寝台だ、とティエリアはますます呆れ返ったが、何も言わなかった。自分が干渉するべきことではないし、したくもない。自分がされて嫌なことを相手にしないだけの分別は、彼にもあった。
「いつからそこに?」
「…1時間前ぐらいからかな」
 ちら、とデジタル時計に目をやり、後ろめたそうに答えると、案の定彼の表情はより険しいものとなり、声も低く硬さを帯びる。
「随分と暢気なものだな」
 このところ、はよく眠っているように思えた。食事室、仮眠室、あるいは自室で、暇を見つけては所構わず。地上での束の間の休息時にも、思い思いにはしゃぐクルーたちをよそに、彼女はひとり自室に籠りすやすやと眠っているらしいのであった。ティエリア本人が目にすることよりも、クリスティナやフェルトの口からその事実を伝え聞くことのほうが多かったが、それでも彼自身、一度だけ、彼女の寝顔を目撃したことがある。
 あの時。
 待機室のベンチで小さく身を丸め、寝息を立てるを見て、ティエリアは驚いた。あれほどまでに穏やかな彼女の表情を、彼は見たことがなかったのだ。
 戦場とはまるで程遠いところにいるような安穏な表情を見、なんて幸せなそうな顔だ、と思った。

「過度の睡眠は、心身に支障をきたす」
「…うん」
 返事をすると、は床に座り込んだまま、ティエリアに背を向けてベッドの端に凭れかかる。わかってる。くぐもった声でそう言った。その向こう、皺ひとつない整頓された白いベッドの上には、彼女が持ち込んだのであろう、書類やらファイルやらが散乱している。
 無論、彼はの健康を案じているわけではない。彼女の体調管理の杜撰さによって任務に乱れが生じる可能性を危惧しているのである。
 実際に彼女は、ティエリアの懸念通り、以前に比べ小さなミスが目立つようになっていた。幸い、ミッションプランの妨げになるような重大な過ちは犯していないものの、ヴェーダの任務をまっとうすることに全てを懸ける彼にとっては気が気ではなかった。

 思えば、睡眠過多の傾向が見え始めた頃から、彼女の体調は芳しくなかったように思える。顔色は常に悪く、笑顔もおぼつかない。眩暈に足を縺れさせることも少なくなかった。少しずつ丸みを失ってゆく華奢な身体は、クルーの困惑と同情を誘った。その不安定さは、誰の目にも明らかだった。
「最近の君の失態は、目に余るものがある」
「そうね…ごめんなさい」
 いつもならば、肩を竦めておどけてみせるくらいの度胸を示す彼女だが、さすがに近頃の己の行いを省みているのだろう、一切の反論もせず謝罪の言葉を口にした。しおらしく項垂れる姿は、ひどく自堕落的に見えた。そんな活気の欠けた態度すらも癪に障り、ティエリアは、自身の苛立ちを全て解消せんとばかりの刺々しさで、彼女を責め立てようとする。
「体調を崩すなど、自己管理が行き届いていない証拠だ。不規則な生活を続けているからそうなる。君の睡眠時間は、無駄にしか思えない」
「違う」
 だが、先の素直さとは一転し、ティエリアの指摘をぴしゃりとはねのけるように、は即答した。
 決して強くはない語調だったが、それでも彼女の強固な意思が垣間見える、芯の通った返答だった。
「ティエリアには無駄に見えても、人にとってはそうじゃないことだってあるんだから」
「君にとっての睡眠がそれだと言いたいのか」
 返事はなかったが、彼はその沈黙を肯定のそれとして受け取った。
「君からすれば有意義なことだとでも?」
「わからないよ、ティエリアには」
「しかし、現に君はこうして、生活に支障をきたしている」
 は押し黙り、唇を噛み締めた。そしてティエリアが、さらなる言及を続けようとした時、彼女は再びそっと口を開いた。

「とても苦しいよ。でもね、」
 震えた、小さな声だった。
「それでも、幸せなの」
 とても。ゆっくりと瞼を閉じた安らかな顔は、何かを憂いているようにも見えたし、あるいは無心であるようにも見えた。結局のところ、その横顔から、彼女の思いは何ひとつ読み取ることはできない。
 眠ることが幸せだと、そう告げたの気持ちが、ティエリアには寸分たりとも理解し得なかった。彼にとっての睡眠という行為は、生理的欲求を満たすためだけのものでしかなかった。それ以上でもそれ以下でもない。そこには好きも嫌いも―そもそも私的な感情を挟む余地すらない。眠りというものについて思いを馳せたことすらなかったかもしれない。
「私、眠っているときが一番幸せなの。ほんとうよ」
 ティエリアは、あの、何も知らぬ無垢な少女のようにあどけない顔を思い出していた。

「ティエリアが私を起こさずにいてくれたら、ずっと眠ったままでいられたのかもね」

 がつん、と力任せに殴られたかのような衝撃のあと、ティエリアは唐突にすべてを理解した。
 知ってしまえば、もう遅い。彼はそれに気付いてしまった。その遠い目の理由を。彼女の瞳は、いつだってそれを求めていたのだということを。
 強烈な怒りが彼の身体を支配した。
「くだらないな」
 本当にくだらない。ティエリアは胸の内で再度その言葉を繰り返した。このような甘ったれた思考の持ち主が、自分と同じソレスタル・ビーイングに身を置いているという事実が、俄かに信じがたかった。もっとも、信じたくない、といったほうが正しいのだろうが。
「君は最低だ。甘えも大概にしたらどうだ、
 ティエリアは、一切の躊躇もなく、強く言い放った。敵意さえ感じさせるほどの固い声音は、研ぎ澄まされた刃の如く鋭い憤りの表れであった。
「……わかってはいたけど」
 はしばらく口を噤んでいたが、やがて眉ひとつ動かさず、表情も変えぬまま、ぽつりと口を開いた。
「本当に…憎たらしいほど、リアリストなのね」
 きつい物言いに屈した様子もなく、緩慢な動きで身を起こす。そして、彼の釣りあがった瞳を怯むでもなく真正面から見つめ返し、そうね、だとか、うん、だとか、独り言ともつかないようなことをぶつぶつと口に出したあと、
「ううん…ティエリア、あなたはそれでいいんだわ」
 と、一言だけ呟いた。
 途端に、彼女をじっと見つめていたティエリアの赤い瞳が苛立ちに染まっていく。
 のこういった、自分ひとりで勝手に自己完結し、自分だけわかったような顔をする、ある種の余裕のようなものが、幾度となく彼を苛立たせた。
 彼女は決して彼を見下しているわけではない。ただ、一人でするりと、いとも容易く思考の渦から抜け出してしまうだけなのだ。まるで、なにもかもすべてを悟ったとでも言いたげなまなざしで。その視線と向き合うたび、ティエリアは、まるで自分だけが置き去りにされたかのような気分を味わう。同時に、彼女のペースに巻き込まれ、これほどまでに苛立ちを覚えている自分自身にも、戸惑いを覚えていた。

「ティエリア」
 は目を細めて、ティエリアを見つめ、こう言った。
「ありがとう」
 先ほどまでの曇りがちだった顔が嘘のように、穏やかに微笑む彼女の横で、またしても自分だけが後味の悪さを抱いていることに苛立ちを覚えながら、ティエリアは砂を吐き出すように苦々しい表情のまま、言葉を投げつける。

「君のそういうところが嫌いだ」
「そうね、知ってる」

 言うと、は、ふ、と息遣いだけで短く笑った。


  



CALL ME, CALL MY NAME
(101206)