ドント・セイ・グッバイ・マイ・ドクタ

 調度品だけを見れば、とても病室には思えなかった。ただ、ひとりで眠るには広すぎるベッドが目を引いて、不自然だった。まるで、就寝と覚醒だけを繰り返す人間が、ついに起き上がれなくなる瞬間を、ただ待つためだけの空間である印象を、訪問者に与えずにはおかなかった。
 大きな窓は、太陽の柔らかい光を取り込み、カーペットを照らした。それは住人の数少ない慰めとなりえるはずだった。けれど一握の興味も示さず、ベッドにうずくまり、食卓に顔を突っ伏したまま、けして動きださない女性は、まるで一体の彫刻だった。彼女の名をという。
 痩せほそった肩と腕に隠れているため、表情はうかがえない。喜色満面の面持ちでないことだけは確かだ。
 時計の長針がかなりの距離を移ろったが、はずっとうなじを垂れたままだ。
 部屋にも変化はなかった。人工的に洗われ、濁りをろ過された空気が、を取り巻き続ける。彼女の免疫力は衰弱の一途を辿っていた。乳児のほうがまだ病気に抗える。
 この部屋でしか生きられない。出て行けないのであれば、その場で息絶えるしかない。
 だからは指先ひとつ動かさず、隙を突いて舞いこむ希望を追い払うのに専念する。助かるかもしれない。生き延びる手段がきょうにもしらせられる。そういった夢想は必ず裏切られ、希望が羽ばたくほど、絶望への墜落は過酷になる。
 彼女は絶望だけを凝視する。全身の細胞のひとつひとつが崩れ、赤黒く淀んだ血の海に没するさまを思い描く。そしてついには意識が途切れ、巨大な病室に呑みこまれるときがくるのを熱望している。
 けれど、いまいちど彼女を現実に引き起こす事件が起こる。開かれるはずのなかったドアがきしむ。ノブがゆっくりとまわされる。訪問者だ。
 けれど彼女はいまだ気づかない。気づかないままに、まぶたの裏で次々と壊れる細胞を見つめている。ドアの開く音が響いた。
 の首がわずかに動いた。彼女はいまだ死者ではなく、端から命のなかった石像でもないと証明される。顔を食卓に伏せたまま、くぐもった声を出し、訪問者が何者かであるかを指摘した。
「またきたの、名探偵」
 呼びかけられて、痩身の男性は微笑んだ。
「ええ、何度でも」
 名探偵は右のポケットから聴診器を引き抜き、反対側からは注射器を取り出して、それぞれ食卓に置いた。
「健康診断をお願いします」
 何かが置かれたのを音と気配で感じたはずだ。それなのに、はなんの反応も露わにしなかった。しかし無視を決め込むつもりはないらしい。唐突に別の話題を口にした。
「ミスタ・ワイミーは元気?」
「ええ、少なくとも私よりは」
 あなたよりは。そう答えないのは、探偵としての優しさではなく、もっと個人的な温情だった。相手に好かれたいという見返りを求める、いわば打算だ。
「それはよかった」
 の声が少し明るくなった。本心からキルシュ・ワイミーのことが気がかりだったのだろう。彼はもうずいぶん高齢だ。健康が危ぶまれるのは当然だった。
 人はだれしも生きるうちに身体を錆びつかせてゆく。機能のひとつひとつを失い、いつかは死に至る。そこに行き着くには、本来相当の経年劣化が必要だ。
 ただごくまれに、およそ老人とは呼べない年の内から、余生と呼ぶには長すぎる人生を持て余したまま、断崖の淵に立たされることがある。そこは終着点だ。あとほんの数歩進めば、底のない暗闇に転落する。それまでの日々は、見上げればもう空にない。彗星の速さで過ぎていってしまった。
 病を背負い、痛みを知覚しはじめたときから、太陽はその歩幅を縮めた。日没の到来が遅く感じられる。満腔にくすぶる痛みをこらえ、じっと静止して、空っぽの時間を見送る。
 ふと顔を上げ、時計を眺めても、ほんの数分しか経過していない。いったいどれほどの痛みを味わえば、終焉が訪れるのか。はいっそ狂ってしまいたいと念じた。さもなくば自死したい。ベッドサイドの引き出しから刃物を取り出そうと思いたったことは、一度や二度ではなかった。
 しかし実際にベッドから痩せた手を伸ばさなかったのは、信念が邪魔をしたからだ。彼女が日々の勤労を通じて培った倫理観は、あまりに強固だった。
 人はだれしも自然な死を迎えるべきだ。たとえつま先ひとつ動かせなくなっても。思考しか許されぬ、五感の閉じた牢獄に押し込められたとしても、やはり生きるべきなのだ。
 そうは自信をもってひとびとに説いてきた。ある者は反発し、それでも死にたいと泣き伏し、またある者は胸を打たれて落涙した。
 彼らの半数は、いま墓石の下で暮らしている。
「健康診断をお願いします」
 名探偵が最初の話題を蒸し返した。
 はうんざりしながらも、身を半分起こした。食卓に両肘をつき、背中を屈めた姿勢を取る。そうして瞳を動かし、視界の端で聴診器と注射器を一瞥した。
「病人に診察を頼まないで」
「病人でも、医療の知識はあるはずです」
「私はもう医者じゃない」
「医師免許を返上したんですか」
 返答が途絶えた。疲労に圧倒され、返事を出来ないのか、面倒くさくなったのか、はたまた答えに窮したのか。おそらく二番目だろう、と名探偵は憶測する。
 彼の群を抜いた洞察力にかかれば、ある程度の思考の動きは追跡できる。長年の付き合いのある相手であれば、なおさら精度は高いはずだった。
 なぜ急に口をつぐんだのか、それを指摘すれば、皮肉交じりの会話を楽しめそうだが、それを求めて訪問したわけではない。いったん会話は止めることにした。
 ふたりのあいだを流れる静寂をいとおしむのもいい。急いて交流する必要はなかった。今日の予定をまったくの空白にするために、彼はずいぶん無理をした。万一緊急の呼び出しがあったとしても、ここを離れるつもりはなかった。
 名探偵はふいにベッドのそばを離れた。壁際に寄せてあった椅子を引きずってくると、部屋の主の許可もなしにうずくまる。尻はつけずに、両脚を抱え込む、なんのために椅子を用いるのかわからない座りかただ。
 けれどにとっては見慣れた光景だ。いちいち反応を示さない。
 彼女はあくまで黙り続けるつもりだったが、忙しい中都合をつけて、訪問してきてくれた心遣いに感謝を示し、少しは話し相手になってやるべきかと思い直した。話の種を探して、思案をめぐらせる。けれど談笑に繋がる話題は見つからない。
 それも当然か、とは自嘲した。病室に引っ込み、塞ぐ毎日を送っているのだ。そんな自分が、どうして楽しいひとときを他人に提供できるだろうか。
 口を閉ざしているのが賢明だと決めかけたが、再び食卓に視線を移す途中で、聴診器が目に留まった。続いて名探偵を見やれば、細いというよりもはや薄い身体つきで、前方から一押しすれば、足をもたつかせて転倒しそうなほど頼りない。
 皮膚も相変わらず蒼白だ。下を流れる血の色をまったく感じさせない。
 いま食卓に転がっている注射器を突き立てれば、採取されるのは青い血かもしれなかった。
 そこで思考の散策を中断した。
 やはり興味の対象は似たところに行き着く。片足を棺桶に突っ込んでいようが、そんなのは関係がないらしい。
 久しぶりに笑い出したい気分だった。けれども頬の肉は、痩せて言うことをきかない。凍りついたまま微動だにしなかった。
「一日三食、きちんと摂っているの。デザートばかり食べていない?」
 語尾を上げ、確認する。
「食後に食べるからデザートなの。そればかり食べていたらだめよ」
 名探偵は嬉しそうにを見つめた。心なしか頬に血色が差し込んだようだ、と彼女は胸裏のカルテに記した。血色良好とも書き添える。
「主治医としてのご忠告ですね。ありがとうございます」
「私はもう、自分を医者だとは思っていない。でも、あなたにとっては死ぬまでドクタなんでしょうね。私の父がそうだったように」
 の父親もまた医師だった。数多の論文を書き上げ、最新の術式をいくつも立案し、数え切れないほどの患者の命を直接、または間接的に救ってきた。
 マスメディアはこぞって美談をこしらえ、世間の感動を量産するべく父に群がったが、彼は気難しげに眉根を寄せるだけで、一切の取材に応じなかった。
 それでも積み重ねてきた医師としての名誉は、ついに父を教授の椅子へ導いた。そうして地位を手に入れたころから、彼はしばしばゴシップ誌の批判の対象となった。
 医師としての腕は一流だが、付き合いが悪く、偏屈で、高慢な変わり者だと書き立てられた。
 けれど父は一切の反論をしなかった。当時医学であったは、娘としてではなく、同じ道を選んだ同志として、父に自らの主張を述べるよう勧めた。
 けれど父は愚見だとして取り合わない。口論に近いやり取りのあと、強い口調で言い切った。
「自らの野心のために医療を利用した。そうした世間の声は極めて正当だ。究極的には、私は他人の生き死になどどうでもいい。ただ私の開発した術式によって、また私の診た患者が、そして私の手術を受けた患者が、ひとりでも多く助かればそれでいい。そこに感傷はない。だれでもよいのだ。助かれば。生後一週間の赤子であれ、助かったところで、半年後には老衰で死ぬ老人であろうと。私は教授の椅子に座りたかった。どうしても座りたかったのだ。高いところから見下ろす景色を目にしたかった。眼底に焼きつけたかった」
 確かに父の言葉に偽りはなかった。けれどそれだけが父の思いでないことも確かだった。父が退官した日、彼のもうひとつの信念を、は受け継いだのだ。

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