大学病院を去った父は、部下が申し出た送別会を拒んだ。
 帰宅後「ただいま」の挨拶もなしにを外へ連れ出した。行き先は告げなかった。
 当時のはすでに医師だった。まだ新米であり、太陽が身を隠す間の休息ではとても癒されない。疲労は皮膚の下にくすぶり、彼女の勤労への意欲を挫き続けた。
 いったいどこへ行くつもりなのか、くたびれた自分を引っ張り出すほどの用事なのか、不満を並べ立てるを、父は黙殺し続けた。
 連れられた先は擁護院だった。ワイミーズハウス。門のプレートにはそう刻まれていた。は新聞でいつか目にした施設の名前だと想起する。
 世界にその名を広めた発明家、キルシュ・ワイミーの設立した擁護施設で、身寄りのない子どもたちを集め、高度な教育を受けさせている。いずれ自分の後を継いで、新しい技術を開発してくれる子どもが出ることを楽しみにしている、とキルシュ・ワイミーは記事の中で語っていた。いわば後進育成を兼ねた、金持ちの道楽だ。それが世間の、そしての抱いた感想だった。
 父は擁護院から自由な出入りを許可されているらしく、勝手にドアを開けた。だれかに案内を頼むことなく、娘を従え、慣れた足取りで進んでゆく。
 やがてたどりついた一室では、設立者たるキルシュ・ワイミーが待っていた。父と親しみをこめた挨拶を交わした後、彼の傍らに控えるに関心を寄せた。
 キルシュ・ワイミーはすっかり霜に覆われた眉の下で、聡明そうな瞳を鮮やかにきらめかせた。の容姿をまじまじとながめ、満足そうにうなずく。
「なるほど。賢そうなお嬢さんだ」
 キルシュ・ワイミーとは、互いに相手の中に秀でた知性を見出した。
 彼女は父に促され、簡単な自己紹介をした。まず名を述べ、現在どの病院で勤務しているかを話し、続いて専門分野について言い添えた。
「それで、彼は?」
 父がだれについてたずねたのか、には話が見えない。問いを挟める空気ではなかった。とりあえず話に加わらず、なりゆきを傍観する。
 キルシュ・ワイミーは短く「まもなくだよ」とだけ答えた。
 その言葉から、この部屋をおとずれる人物が、自分たちのほかにもいるのだと知れた。けれどそれがだれなのか、父も、キルシュ・ワイミーも説明しなかった。
 アンティークショップのような部屋だ、とは内装を見まわして感じた。大時計をはじめ、調度は見るからに年代物だ。だがどれも古ぼけた印象はない。手入れが行き届いており、光沢を帯びて輝いていた。
 窓際のデスクも、一見しただけで年代物であり、それも値がずいぶん張るにちがいないと判断できた。絨毯だけは新しいもののようだったが、それでも安物ではないだろう。
 の見物を中断させたのは、ドアの音だった。ようやく遅れてきたもうひとりの登場人物に会えるのだ。
 は少しの関心を胸に芽生えさせ、背後のドアを肩越しに振り返った。そこにはひとりの青年がたたずんでいた。
 彼はドアを後ろ手に閉め、部屋の中央まで進み出る。
「お久しぶりです、ドクタ」
 そう父に向かって呼びかけ、挨拶する。ところどころ掠れた、低い声だった。発音はあいまいで、言葉がぼやけて聞き取りづらい。けれど、口調だけは鋭い。決してかすむことのない、意志をはらんだ物の言いかたをする青年だ。
 それがエルへのはじめて抱いた感想で、それはずっと未来、が臨終を間近に控えてもなお、いささかも薄らがない印象だ。
 父は小さくうなずき、皺の目立ちはじめた手を伸ばすと、青年の黒髪を一度だけ撫でた。父のめずらしく慈愛に満ちた眼差しが、ふたりの別離をに予感させた。
 父は青年から目を逸らし、へ移す。
「彼女がきみの新しい担当医だ」
「ドクタは?」
「私はもうきみのドクタではないよ。定年を迎えたんだ」
 青年は黒い瞳に父を映しこんだ。一歩近づき、老いた顔をじっとのぞきこむ。思考の欠片を拾おうとするかのようだった。
 青年のくちびるが開きかける。何事かを言おうとして、思い直したのだろう。再び閉ざした。
 彼は白い皮膚に覆われた首を動かし、さきほど父がしたのと同じにうなずいた。
「わかりました。……ドクタ」
 後半の呼びかけは、父に向けられたものではない。キルシュ・ワイミーと父の視線が、自然とに集まった。
 青年は父のそばを離れ、ドクタを継いだ女性の目の前に立つ。ふと手を上げた。
 握手を求められるのかと彼女は思ったが、早合点だった。
 青年は後頭部をひとしきり掻いた後、再び手先を絨毯に向け、だらりと腕を垂らす。肘の裏側の、薄く柔らかい皮膚の青白さが、のまぶたの裏に焼きつき、残像となってちらついた。
「はじめまして、お世話になります」
 その瞬間、空気の擦れる音がした。突風が吹き込んだのだ。
 気まぐれな暴風は室内に飛び込み、渦を描いて青年とのまわりを乱舞する。
 デスクの書類の何枚かが吹き飛ばされ、そのうちの一枚が、紙のはためく音をさせながら、青年の鼻先を横切った。暗く、果ての知れないふたつの瞳が、一枚の紙切れに覆い隠される。
 青年の視界が遮断されたのは、ほんの一瞬だった。
 けれどもその短いあいだのうちに、世界は丸ごとひっくり返されてしまった。あるいは何者かがそっくりそのまま、室内の空気を取り替えてしまった。でも仮にそうだとしても、エルが感じた異変の説明にはならない。
 問題は外側ではなく、自分自身の中で起こっている。
 青年は再び後頭部を覆う髪に指を差し込み、むちゃくちゃに引っ掻きまわした。
 きれいだと思った。を見て、はじめて女性が、あるいは人間が美しい生き物たりえるのだとしらされた。そもそも彼はだれかを見て、その人物の中に魅力を感じたことはない。
 いまだ長いとはいえない半生ですれちがってきたひとは、青年の関心をまったく呼び起こさなかった。あくまで他人は利用すべき対象でしかなかったし、相手もまた自分を同様に見ているのだろうと考えていた。
 けれど、を見て、はじめて損得や利害とは無関係のところで、彼女を評価しようとする気持ちが働いた。抱きしめたいと思った。けれどそれは残念ながらマナー違反だ。そんなことは人付き合いの経験の乏しい青年でもわかる。
 だから彼は頭を掻きむしった。ともすれば腕を伸ばし、そのまま自分の胸で、の呼吸を塞いでしまいそうだったからだ。
 生涯、一定の調子でしか弾まないはずだった鼓動が、予期せぬ跳躍を見せた。
 青年の眼前に新しい可能性が開ける。自分が恋をするなど、つゆほどにも感じていなかった。苦しむかもしれない。悲しむかもしれない。幸福な結末へ運ばれる保証はどこにもない。
 それでも青年は、彼の半生をかけて築かれた、あまりに膨大な知識の中に、いまだ刻まれていなかった、あるいは実感した経験のない感情があったことに、安堵に近い平穏を掴んだ。
 まだ自分の知らない一面を、この世界は隠している。
――だから私は、世界を、人々の建造した社会こそを守りたい。
「ドクタ」
 呼びかけのあとに続く言葉は、あるいは愛の告白だったかもしれない。
 そしてそれを述べていれば、は彼女の職業にふさわしい、多くの機知をふくんだ返事で承諾したかもしれない。けれど青年は機会を失した。
 はふいに歩き出す父を見やった。
「……夜風は身体に障る。彼に何かあってからでは遅い」
 父は窓辺に立ち、戸締りをした。館の主であるキルシュ・ワイミーのほうを向く。
 キルシュ・ワイミーは申し訳なさそうに眉を震わせた。
「あなたのおっしゃる通りですね。なんともありませんか」
 青年は首を振った。毛先の跳ねた黒髪が、わずかに揺れた。石膏に似た質感の頬にはほんの些細な変化も起きない。症状の悪化とともに、肌から赤みの急速に失われた、隔離病棟の患者を連想させる風貌だ。
 はひとしれず息を呑んだ。
「……父さん、彼のカルテを見せて」
「そんなものはない」
 父が言い終わるより早く、一歩前へ進み出た。
「じゃあ、どうやって彼の病状を把握すればいいの」
 鋭い語気で問い詰める。
 父は口端を引き締めた。老齢を物語る眉間のしわを、さらに深く目立たせた。
「彼の健康状態を、けしてデータに残してはいけない。どんな些細なことでもだ」
 厳しい口調で言い聞かせながら、重々しい動作で手を上げた。
 の視線が移ろう。父の目を離れ、やがて手に行き着いた。大学の講堂で教鞭を執り、手術室ではメスを握った、尊敬すべき偉大な教授の手だ。
 父はそっと指先を、自身の額に押しあてた。
「ここに記録するのだ。私がしたのと同じに」
 は黙り込んだ。父の思わせぶりな語り口が、ひとつの疑問を浮かびあがらせる。
 正確にはもっと前から、青年の入室をきっかけに焦げついた違和感が、喉をつかえさせた。これ以上あとまわしにはできない。もっとも肝要な部分が、後任たる彼女に伏せられている。
 は父を一瞥したあと、青年をながめた。不躾とも取られかねないほど、まじまじと観察する。
「あなたは何者なの」
 ふたりを囲む空気が、途端に尖りだした。緊張感をふくんで重くなる。
「構いませんね」
 青年はキルシュ・ワイミーを視界に入れないまま、つぶやいた。答えを必要としない問いであることは明白だった。
「……ドクタ、私は」
「だれ?」
 はあえて合間に質問を挟んだ。自分の意志で知りたいのだという、能動的な姿勢を示しておきたかった。おそらくこれから語られるのは、日常の枠を逸脱した事実だろう。どうせ巻き込まれるのであれば、自分から飛び込みたい。そのほうが、突き落とされるよりはずっといい。

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