「私はエルです」
 青年は淡然と名乗った。けれど聞く者の耳には厳かに、あるいは絶望に似た重苦しさをはらんで響いた。
「……エル」
 は瞼を大きく上げ、宙に目を凝らした。
 エル。たとえ知らないと嘘をついたところで、空々しく響くばかりだ。
 彼女はくちびるをわななかせた。数歩あとずさる。
 瞳に何も映さない、そのくせ眼光の鋭い黒髪の青年が、その痩せた腕を振るうたび、社会に動乱を招く病巣が、いくつ粉砕されてきたのか。
 眼前にそびえたつ存在の巨大さに、は身震いした。
「……父さん。彼が、あのエルなの」
「そうだ」
 短く、落ち着き払った父の返答が、の混乱に冷水を浴びせた。
 彼女は右手を握り締める。そこにメスはない。いまいるのは手術室ではない。ひとの生き死にとはひとまず無縁の空間だ。彼女の一挙一動が脈を途絶えさせたり、心臓を眠らせることもない。うろたえる理由など何ひとつないはずだ。
 息を吸い、エルのほうを向きなおした。頭脳がどれだけの知恵で膨らんでいようが、静脈が透けるほど肌が青く滲んでいようが、人体であることに変わりはない。患者を診察し、必要な処置を講ずる。ただそれだけがに求められることのすべてだ。の眼差しが、決意できらめいた。
「はじめまして、名探偵」
 エルが自分をドクタと称するのであれば、彼女が選べる呼び方はほかになかった。
「今日からあなたの主治医になります。私のことを信頼して、健康に関するあらゆることを話してください」
 エルはまた後頭部を掻いた。その手を差し出し、に握手を求める。けれど、多くの人がそうであるように、もまた手を出すことにためらった。頬を引きつらせる。
 今度は彼女の思考を読むのに、しばしの時間を要したエルは、けれどなんとか正解にたどりつき、シャツで手を拭いた。それでも拒まれるかもしれないと思い、髪の中に突っ込んだのとは逆の手を出した。
 ようやく、ふたりのてのひらが重なった。
「どうにかエルに認めてもらえたか。これで私も正真正銘退官だ」
 父は満足げにうなずいたが、目じりには陰が差している。これまで父としてより、夫としてよりも、医師として生きてきた人物だ。老いによる能力の衰えが出るより先に身を引く潔さとは裏腹に、人生そのものに幕を下ろした物悲しさがどうにも忍び寄り、やるせない気持ちに苛まれたのだろう。
 は同志を、そして先輩を励ますつもりで、父を仰いだ。
「父さん。まだ仕事は終わっていない。引継ぎをお願い」
「ああ……そうだったな」
 父の目に少し光が戻った。
「引継ぎ……といっても、実はそれほど話すべきことはない。彼は現時点で健康そのものだ」
「どういうこと?」
 は険をはらんだ声をあげた。健康な人間に往診する必要はない。
 けれど父にはまったく別の考えがあるようだった。
「健康診断も医師の重要な仕事だ。少しでも問題があれば、早めに発見し、対処するに越したことはない。早期発見がどれだけ予後に影響するか、それはお前も承知の上だろう」
「だとしても、どうして私がわざわざ」
 父の言っていることは正論かもしれないが、病識のない人間のために往診する医師の立場になって欲しい。
 の祖国日本では、深刻な医師不足が起きている。こんな屋敷へ無駄足を食うくらいなら、ほかの患者を診る時間に充てたい。
「そこはエルの健康情報が、国家レベルの機密情報に値するほど、厳密に管理されるべきだということで、ひとつご理解をいただけませんか」
 の不満を察したキルシュ・ワイミーが、辞を低くして頼み入れる。
 彼女はため息を漏らした。どうやら断るのは難しそうだと観念し、その場に屈みこむ。足元のボストンバックから、脱脂綿とアルコール、それに注射器を取り出した。
「採血をおこないます。名探偵、椅子にかけて、腕を出してください」
 これが最初の診察だった。
 眠らない日のほうが多い、と述べるエルの不摂生極まりない生活とは裏腹に、彼の身体は極めて正常に機能していた。
 食生活も思わず顔をしかめ、何度も改善を指示するをよそに、ケーキやクッキーばかりを頬張り続けるにも関わらずだ。血糖値が平均より高いほかは、至って健康な成人男子だった。

「私の身体は今日も大丈夫そうですね。まだまだ使えそうです」
 二度目の診察を終えたときだった。良好であるとの結果を聞かされ、こともなげに感想を述べるエルを、は白い目をして責めたてた。
「あなたの身体は一生あなたのものよ」
 患者が極端に自愛を忘れたとき、容赦なく叱りつけるのが、彼女の医師としての責務のひとつだった。
「どれだけ嫌いでも、あなたはあなたとはお別れできないの。それこそ死ぬまでね」
 エルは神妙にうなだれ、反省するそぶりを見せるが、直後には決まっておどけた顔をした。
「私の身体は健康ですが、心は病んでいるかもしれません。……あなたに診てもらえるとありがたいです。きっとどんな名医でも癒すことはできません、あなたでなければだめなんです」
 そう軽口を叩いた。
 そこに本音が垣間見えるのを、はわざと気づかないふりをした。エルのもとを離れ、窓際へ移動する。桟に腕を置き、ワイミーズハウスの外壁を照らす光を目でたどっていった。満月には少し足りない。
「それは私が名医じゃないということ?」
「まぜかえさないでください」
「名探偵は嘘をつきなれてるから。本気にしたらこちらが痛い目を見るだけじゃない」
「ドクタ」
 微塵のたわむれもない、真剣な目つきを向けられるたびに、は落ち着きを失った。白衣を何気なしに掴む。これが彼女を守ってくれる鎧だった。
 もう少し結末を先延ばしにしたい。エルの一途な、あるいは執念深い性格からして、一度欲しがったものを諦めたりはしないはずだ。それならもう少しこの不均衡で、どちらに倒れるともしれない、曖昧な関係を続けたかった。
 は眉を上げ、気取った笑みを作った。
「あいにくだけど、心の治療は専門じゃないの。なんなら紹介状を書きましょうか」
 エルは沈黙した。目を伏せ、垂れた前髪の奥から、恨みがましい視線を寄越してくる。
「……そのつもりはありません。あなた以外に診てもらうつもりは、ないです」
 は勝ち誇って満面の笑みを浮かべた。軽い足取りでドアを目指す。部屋を出る間際に「いい心がけね」と褒めてやったら、エルは心底いやそうな顔をした。抱えたひざに鼻を埋める。
 は廊下を歩きながら、鼻歌を歌いだしたい気分だった。
――焦らないで、名探偵。いまがいちばん楽しい時期よ。時間はたっぷりあるんだから。
 そう胸中で、未来の恋人に語りかける。
 だが皮肉なことに、彼女に未来は用意されていなかった。エルに何十回と健康診断を施しながら、彼女自身は多忙を理由になんの検査も受けていなかった。
 が異変に気づき、専門医に判断を仰いだときには、手遅れだった。すでに幸福はの行く手から、残らず逃げ去っていた。道すらもはや眼前にないのだ。
 はベッドの上で手鏡を覗き込んだ。そこにはもうひとりのエルがいる。正確には、彼に劣らぬほど蒼白な皮膚をした、自分自身の姿があった。
 は療養に専念するためだと説明し、エルの主治医を降りた。病のはびこる自分自身を、夜な夜な抱きしめながら、あふれだす恋心を必死で押さえこんだ。死を目前にして、後悔をしたくないという思いが、衝動となって彼女を突き動かそうとする。
 けれど、もはやにはエルに寄り添う資格はない。未来があったから思いを告げなかった。そしていま、未来を喪失したから思いを告げられない。
 は何度も面会におとずれるエルを、拒みこそしなかったが、終始迷惑そうな態度を貫いた。白衣に代わって、白いベッドシーツが、いままた彼女の秘密を覆い隠してくれた。
「ねえ、エル」
 から声をかけてもらえるとは思っていなかったらしい。
 静寂に耳を傾けていたエルは、あわてて彼女に意識を向けた。見れば、彼女は起き上がろうとしている。
 エルは椅子を飛び降り、をベッドに押しとどめた。触れる口実を作りたかったという、浅ましい欲望をここに至って否定するつもりはなかった。
 エルはにくちづけようと決意した。彼女も最後の贈り物だと諦めてくれるかもしれない。
 けれど、彼女が床頭台の引き出しから、何かを取り出したいのだということに気づく。
 エルはしばし逡巡した結果、ベッドから伸ばされる腕に手を乗せ、優しい声色でたずねた。
「何を取りたいんですか」
 引き出しを開けてたずねる。そう多くのものは入っていない。一通の白い封筒が目に留まった。ほかはどれも生活用品だ。そしてやはりが必要なのも封筒であったらしい。
 エルは彼女に手渡そうとしたが、首を左右に振られただけで、受け取ろうとしない。意味がのみこめずに首を傾いだ彼に、か細い声で説明が返る。
「紹介状よ」
「……精神科医のですか」
「そんな強靭な神経をしているくせに」
 エルは注意深くの表情を観察した。
 彼女は過日の自分とのやりとりを覚えていないのだろうか。そんなにたやすく、掴もうとしても次々と手の端から零れ落ちる、うたかたほどのもろい記憶しか、に刻み込めなかったのだろうか。
「三代目ドクタの紹介状。日本の医師だけどね。私の知る限り、腕がよくて、そして人柄も誠実よ。けしてエルの秘密を外部にもらしたりしない。これを見せれば、大丈夫だから」
 私が死ぬ前にね。その言葉はさすがに胸中でつけくわえるだけにした。
 けれどエルには伝わっているはずだ。明日をも知れぬ身体で、彼女は医師としての責務を果たそうとする。愛する男の健康だけは守り抜こうとする。
 けれどそのひたむきな真摯さも、エルにはいっこうに通じない。臨終の直前を迎えてもなお、あくまでと患者の間柄でありたいという、自分への婉曲な拒絶であると感じ取る。

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