は紹介状について説明を加えた。
「浪速医大国立がんセンターの里見内科部長。とてもいい先生よ。私も日本にいれば、きっと里見先生に診てもらったと思う。……海外の先生だから、診察の回数は減るかもしれないけど、問題ないと思う。もともとあなたの検診の回数は多すぎたもの」
 それはあなたに会いたかったからですよ。告白の言葉を呑みこむとき、エルは確かに血の味を覚えた。なぜこの期に及んで自分を見ないのか。拒んでもいい、好きになれないなら仕方ない。
 でもせめて、思いを告げさせてほしい。長きに渡って、彼女を愛していた男がいたのだと、脳に血が行き渡らなくなり、次々と細胞が死滅し、記憶が崩れ落ちる瞬間まで、知っておいてもらいたい。
 それはそんなにわがままなことなのか。許されないほどに。
 エルは前屈ぎみの背中を震わせた。眼球の真下が熱い。涙の兆候だ。はじめて知る感覚だった。けれどしずくはこぼれなかった。エルより先に、が泣いたからだ。
 彼女は喉を閉ざし、声を殺して、さめざめと涙をこぼす。しばらくそうしてうつむいていたが、やがてこらえきれなくなって、嗚咽を漏らした。
 そこから紡がれる言葉のひとつひとつは、遺言だった。
「悔しいなあ。やりたいことがあったのに。どうしてもやりたいことがあった。たくさんあった」
 ふだんの彼女とはちがう、子どもじみた話しかただ。虚勢を張ったり、社会を渡る上で、実際より大人であると見せかけることが、彼女にはどうしても必要だったのだろう。
「聞かせてください」
 エルの求めに応じたのかどうかは定かでない。ともあれ彼女は話を継いだ。
「父の跡を継ぎたかった。医学の進歩に少しでも貢献したかった。先人の残した技術を吸収して、実践するだけじゃなくて、私は治療するすべがなくて死んでいくひとびとを救いたかった。……私は、いま私が救われたいと、そう強く願うのと同じくらい、病で倒れるひとたちを救いたかった」
 エルは両腕を伸ばした。を胸の中に抱き込む。迷いはなかった。性愛からくる行動ではなかったからだ。彼女が顔も知らぬ他人を救いたいと願ったときと同じ感情が、いまのエルの胸には満ちあふれている。
 ももはや拒まなかった。だれでもいい。人でなくても構わないのにちがいない。とにかく何かにすがりたいのだ。
 たまたま差し出されたのが自分の手であっただけで、枯れ木でも彼女は飛びついただろう。エルはそう自嘲した。
 を抱きしめたときは確かに純粋で、少しの恥じるところもない、澄みきった清潔な心情がエルを動かした。けれどいまはもう、再び人間らしい、だれもが目を背けたくなるにちがいない、醜い欲望が顔をのぞかせている。
――そんなにも愛されたいのか。それは生者のエゴだ。
 そう指摘したのは、エル自身の声だった。
 出現した欲望は、いつのまにかエルの姿を形作り、ひょろりと長い首をめいっぱい伸ばして、嘲る物言いをした。
――そうだ、愛されたいんだ。それの何がいけない。いや、死に行く彼女に気持ちを押しつけたって、何にもならない。だから私は黙っているじゃないか。
 そうエルは反論する。
 の涙で濡れた吐息がこぼれた。
 彼女はエルの背中にまわしていた手を少しずつ動かした。衰弱している上に、泣きはらして体力を消耗したのだろう。
 彼女は身動きひとつするにも、かなりの時間を要した。
 けれどエルは辛抱強く待つ。彼女の最期の姿を目に、声を耳に、可能な限りすべてを記憶しなければいけない。得られた情報が多ければ、視界を閉ざしたとき、より鮮やかに生前の彼女が甦るだろう。
 エルがドクタと呼びかければ「どうしたの、名探偵」と相槌を打ってくれるにちがいない。夢想の中の彼女も、自分を愛してはくれないだろうが、それは仕方のないことだ。
 彼は愛する人を見つけた。それはとてもすばらしいことなのだと自らに言い聞かせ、募る不満と悔いを潰そうと試みる。
 一方のは、ようやく手を目的の場所まで移動させた。エルの襟ぐりを両手でぎゅっとつかみ、絞めつけて、絞殺する真似をする。むろん、力はまったくこめられない。エルは少しも苦しくはなかった。それがまた彼の悲哀を呼び起こす。
「ドクタ私は」
「ねえ、私をまだ好き」
 エルがしまいまで言い終えるのを待たず、無視して、一方的にたずねた。
 問われたエルは緊張して背筋を伸ばす。まさか、そんなことを確かめられるとは夢にも思っていなかった。返答を躊躇していると、厳しい声で「答えて」と急かされる。
 エルは苦しげにうめき、うなずいて、それを返事にした。
「……そう、よかった」
 エルは顔を離し、と見交わしあいたいが、それを彼女は許さない。いつしか手は首へとかけられた。薄い皮膚の張られた咽喉の骨を、指先だけで掴む。
「なら一緒に死んで。いいでしょう、きみは私を好きなんだから。……私がきみを好きなのと同じくらい、好きなんでしょう。そうでなきゃ許せない」
 エルは放心して反応しない。彼女の意図が不明だった。
 思案の迷路の入り口に立ったエルの意識を、はベッドの上に引き止めた。思いの丈を語るくちぶりは切実だった。
「どう、死んでくれるの。答えを急いで。いまよ。いまのうちよ。いつまでも私の心臓が動いていると思わないで。伝えたいことをみんな伝えてしまって。私もそうする。死ぬ人間には人を恋い慕う権利なんてないと思った。死ぬ人間は消えてなくなる、でも生きているほうはつらいだけだし、人生を進める上で荷物にしかならない。未亡人が薬指に嵌めた指輪ほどおぞましいものはない。だから、エル、きみも死んでよ。ふたりで死んでしまえば問題はなくなる。だから、ねえ、死ぬって言って」
 すがりつく思いで哀願する。エルは自分の選択が正しいのか、最後まで疑い、迷いながら、ようやくひとことだけ搾り出した。
「出来ません」
 口にしたのは否定の言葉だ。ともすればを傷つけるかもしれない。
 だからエルは抱きしめる腕にいっそう力をこめた。彼女の心が離れないよう、繋ぎとめたかった。
 はなかなか返事をしない。もう間に合わないのかもしれなかった。言葉はいつも後悔と追いかけっこをしている。伝えたいと思い、決心したときにはもう、言えなくなっている。重要な言葉ほど鈍足だから性質が悪い。
 エルは徐々に手から力を抜いた。少しずつ距離を取る。
 瞬間、彼女はくずおれた。彼の胸板にもたれかかる。上身を立てる力すら失ってしまった。
 のくちびるの両端がわずかに震えた。笑ったつもりなのだ。筋肉を上手に動かせない。何もかもが知覚できなくなり、彼女は自分自身の身体を認識できなくなる。ひとつずつ、わからなくなる。意識に白い靄がかかり、その中にあれほど忘れたくないと渇望した記憶が、たやすく呑まれてゆく。
 は不明瞭な発音で、言葉のかけらを落とした。聞き取るのがやったの声量だった。
「それで……いい……の。私は……ドクタ、だもの。死ぬまできっと……」
 それだけが、病が蝕み損ね、消し忘れた彼女の片鱗だった。
 そうですね、とエルは何度もうなずき、肯定する。呼吸はまだ続いている。だがすぐに途切れるだろう。そして再び紡がれることはない。
 エルはの身体を抱え、起こすと、頬を寄せた。ふせってから急激に肉が落ち、白くなって乾燥した皮膚が触れる。
 そうしてエルはささやいた。いままで彼が生きてきた中で、一等優しく、穏やかな声で語りかける。
「ドクタ。もし、いま、私に一万の言葉が与えられたとしたら、私は、そのうちのひとつとしてさようならには使いません。また会いましょう。それだけが私の言葉です。じき私も死にます。長生きはできません。こんなことを言ったら、あなたは怒るでしょうね」
 の眉間が不愉快そうにこわばった気がした。だがそれは幻だ。
 でもきっと彼女はそんな表情を浮かべる。澄ました態度で叱責する。いつもと同じ突き放した口調で、困るのはあなたよ、と言わんばかりの態度を取るにちがいない。
 エルはおかしそうに笑みを漏らした。そんなに怒らなくたっていいじゃないですか。私が無頓着な分、あなたが私の身体を真剣に案じてくれるのは、とても嬉しいですよ、と好意をほのめかす返答を用意しておく。いつ腕の中の彼女が口を開いても、言い訳が立つようにしておきたい。
「でも……だからこそ、もうじきあなたに会えるんですよ。そう先じゃありません。待っていてください。お互い言い残したことがたくさんあるはずです。今度こそ残らず話してください。怒りながらでいいですよ」
 エルはそこで言葉を切った。ベッドサイドの時計を横目で見やる。ここにとどまる理由がなくなった以上、動き出さなければならない。が意識を畳む間際に立ち会えたのは幸運だった。
 エルにとって残された人生はあと何日なのかはわからない。それまでにひとつでも多くの問題を解決し、後任が動きやすいように環境を作っておかなければならない。
 ベッドを降りて、椅子を壁際へ戻す。聴診器や注射器は食卓に置いたままにした。だれかが片してくれるだろう。あるいはベッドの中の彼女が持っていくかもしれない。医師には必要なものばかりだ。
 軽快な足取りで歩きだした。一歩前へ進むたび、髪が揺れ、それにあわせて床の影も動いた。ドアを開け、廊下に身体を滑り込ませると、振り返らずに、後ろ手でノブを軽く引っ張る。ドアが閉まりきる直前に、くちびるを動かしかけたが、結局胸の中にとどめた。
 院内を照らす光は明るい。いまは見えないが、病院を包む陽光も、きっといつもと変わらない。
 世界はまわる、たとえだれが欠けても。そしてだれもがいつかは欠ける。
 そのとき人は、地上に残す恋人、家族、友人に、しばしの別れを告げるのだ。
――そのときまでどうぞお元気で、私のドクタ。

4・終
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