僕らの生活-もう一つの未来-

※月の生まれた年が原作設定と異なります。ご了承ください。

 初夏の気配が混じる季節になった。ジャケットを羽織り、ネクタイを締めて外出すれば、シャツにうっすらと汗の滲む気温だ。
 世間ではゴールデンウィークを楽しむ人々と、その恩恵に預かれない労働者の悲喜こもごもが散見される。夜神月は残念ながら後者に属する。
 今年の四月に警察庁に入って以来、情報管理課に配属され、終わりの見えない業務の遂行に明け暮れていた。口さがない人からは、警察庁次長である父、総一郎のコネクションを利用した縁故採用だと非難を浴びせられた。
 だがそうした非難を一蹴できるだけの実力が月には備わっていたし、だれに何を言われても、いまさら後悔を覚えるものではなかった。尊敬する父の背中を追いかけたい。そう月自身が強く願って、自ら選んだ進路だ。
 時計は退勤の予定時刻を示したが、月は端から定時を意識せず、業務に取り組み続ける。現場から上がってくるデータを解析し、捜査に役立てられるかの取捨選択をした上で、報告書にまとめるのが新社会人たるいまの彼の主な業務だ。聡明な月にとって難しくはないものの、時間と根気を要する作業だった。
「夜神捜査官」
 ノートパソコンとタブレットに視界の全てを投じていたため、係長の相澤から声をかけられるまで、彼の入室に気づかなかった。
 月はあわてて席を立ち上がり「お疲れ様です」と敬礼を上司に送った。相澤は無言で敬礼を返し、月が作業中のデータを凝視した。癖のある膨らんだ頭髪を抑えるように撫でながら、相澤は神経質そうにつぶやいた。
「これは急ぎの案件じゃないね。今日はもう上がってくれ」
「いえ、これだけはやらせてください。すぐに終わらせますから」
 月の反駁を、しかし相澤は歓迎しなかった。渋面を浮かべてノートパソコンの画面から目を逸らす。なんとはなしにデスクのまわりをうろつきながら、彼にしては珍しく、奥歯に物が挟まったような物言いで続ける。
「世間様ではゴールデンウィークだ。我々警察はもちろんその恩恵は受けられない。だが、公務員働き方改革というお上の打ち出した方針がある。不急の作業は後にまわして、なるべく労働時間を削減せよというのが、お偉いさん方の意向だ」
 月はかしこまって口を開いた。
「お言葉ですが、係長。僕たちは国家の治安を維持し、国民の安全を確保することに専念すべく設置された官庁に配属されました。犬馬の労を厭わぬ覚悟は、とっくにできています」
 まさに総一郎の血を感じさせずにはおかない受け答えだ。相澤はうんざりした様子で口を閉ざした。
 情熱や義務感を当然のように備えた人間の集団が、イコール組織ではない。崇高な理念を掲げ、その実現に求められる自己犠牲を払い続けることのできる人間は、稀有な存在だ。だがその精鋭とも呼ぶべきグループだけで、全国警察組織のガバナンスはとても維持できない。
 現実との折り合いをつけさせることを、エリートコースを歩むことの確定したこの秀才に学ばせる。それが月の父である総一郎が、ひそかに相澤に依頼した役目だった。
 相澤はふいに月の目をながめた。その眼底には情熱が眩しいほどの情熱が瞬き、任務への意欲に満ち満ちていることが見て取れる。
 相澤が正面から説得しようとしたところで、徒労に終わるに決まっていた。宗教論や禅問答に似た押し問答に発展した末、言いくるめられて終わりだ。だから相澤としては、月の土俵に乗るわけにはいかなかった。
 相澤は出し抜けに笑った。
「はっはっはっ」と続けざまに笑い声を飛ばす。月が困惑するのを待って、ようやく相澤は彼にのみ許されるカードを切った。
「さすが夜神次長の息子だ。将来は父上同様、立派な警察官僚になるだろう」
 突然褒められて、月は違和感を禁じえない。苦笑いともはにかみともつかない、曖昧な表情を浮かべて、相澤の次の出方を待った。
 彼はひとしきり月を褒め称えた末に、感情の見えない声で告げた。
「だが、いまの君は一介の捜査官だ。そして君の監督権は、係長たる俺に委ねられている」
 今度は月が黙り込む場面だった。
 どれほどの決意を秘めても、情熱で胸を焦がしても、現実はもどかしいほどに不変だ。どれだけ海辺を走りまわっても、太陽はその角度すら変えないのと同じだった。熱した砂塵を巻き上げながら、道のない砂漠を進んでも、前方には途方のない巨大さの空間が横たわる。独力で渡り抜けるほど易しい遠路ではなかった。
 月はタブレットをシャットダウンし、ノートパソコンをスタンバイモードに切り替えた。いずれもデスクの引き出しに収納する。
 相澤は満足そうにうなずいた。腕を組み、あえて不遜なポーズを取ってから、月に残りの指示を与えた。
「働き方改革実現のため、上から降りてきた目標は三つだ。ゴールデンウィーク中は不測の事態が起こらぬ限り、定時で速やかに退庁すること。またゴールデンウィーク内において、少なくとも一日は有給休暇を取得すること。君は新卒だから三つ目はあてはまらないが、だからこそ先の二つは厳守してもらう」
「待ってください!」
 月は思わず叫んだ。あまりにもむちゃくちゃな指示だ。いかにも現場をわかっていない、数字だけを追えばいい、上層部が考えそうなことだった。
 しかし相澤は取り合わなかった。再度議論をふっかけようとする月を、芝居がかった所作で両手をあげて、軽くいなした。呆気に取られ、二の句が告げずにいる月に向かって、相澤はおもむろに手で出口を指し示した。
「ひとまず今日のところはご退庁ください、夜神総一郎次長ご令息殿」
 こう直裁に嫌味を言われれば、却ってすがすがしい。
 月はすっかり戦意を挫かれてしまった。椅子にかけてあったジャケットを羽織って、緩めていたネクタイを締めなおす。デスクに施錠を済ませてから、空っぽのバッグを手にして歩き出した。相澤の前でいったん立ち止まり、略式の敬礼を送りあう。
 それが終わると、ようやく月は情報管理課の部屋を後にした。無人になった室内で、相澤はひとりブラックコーヒーを入れ、その苦さが脳の働きをいくらか取り戻してくるのを期待しながら、月に放置させた情報解析に取り掛かり始めた。
「終電までには帰りたいなぁ」
 ジャケットの隠しにはプライベート用のスマートフォンを収納しており、もう何時間も前からメールの着信を告げるバイブレーションが響き続けている。ゴールデンウィークに家族サービスを提供できない、この過酷な労働環境への恨みが頭をもたげる。
 新人に大口を叩いておいて、家庭内の治安ひとつ守れないで、何が警察官僚だ。そう相澤は自嘲する。
 そのとき月の暑苦しい視線がふっと脳裏に甦り、現状をすばやく見抜かれた気がした。すると今度は相澤の胸裏に見栄を張りたい気持ちが押し寄せ、彼は意識して背筋を伸ばした。月がまだここに残っていたら、退職など考えたこともないと、そう強弁したにちがいなかった。
 そうやって深く考え入りながらも、キーボードをタイプし続ける彼のもとへ、一本の入電が入った。夜神総一郎次長だ。
「相澤くん、捜査官は全員退庁したね?」
「はっ」と相澤は受話器に向かって平身低頭する。悲しい日本人の性だ。
「ご子息をはじめ、全職員が退勤いたしました。有休消化の進捗は追って集約し、ご報告申し上げます!」
「そうか。平の捜査官は法定残業時間を厳守すること。それが政府与党から降りてきた働き方改革の最低ラインだ。ここだけは死守しなければならん。やる気を損なわせず、パフォーマンスを高めて、勤務時間内で多くの業務を消化する……そのための電子化と業務効率改善だ。決して実現不可能ではない」
「おっしゃるとおりです!」
 相澤はもう少しで「机上の空論だ!」と叫びそうになったが、それはどうにか胸中にとどめることに成功した。そこまで反旗を翻す気概を持ち続けられなかったのは、ひとえに夜神次長の尊敬の念ゆえだ。
「相澤、せめてものねぎらいに食事くらいはご馳走しよう」
「はっ、ご相伴に預からせていただきます! 終電まではお付き合いさせていただく所存です! 一杯お酌をさせていただければ光栄であります」
 威勢のいい相澤の返事に、しかしなかなか総一郎は反応を示さなかった。気まずさに耐えかねた相澤が、探りを入れようと口を開きかけたとき、ようやく総一郎の笑みをはらんだ悠然たる声が聞こえた。
「相澤係長。残念だがご馳走するのはモーニングだ。とびきり濃いコーヒーの飲める喫茶店の目星をつけておいてくれたまえ」
 そこで言って、わざとらしく思い出したふうを装い「相澤くんは本日中に退庁の予定だったかな?」とつけくわえる。
 その言葉を額面どおりに受け取る官僚は存在しない。いたとすれば相当な変わり者か、出世をとうに諦めた敗者か。そしてそのいずれでも相澤はない。
 彼は精一杯の空元気を装って、受話器を恭しく掲げた。最敬礼して叫ぶ。
「もちろんこの相澤、次長と明朝のコーヒーを楽しむ栄誉に預かりたいと考えております!」
 相澤はジャケットの隠しに手を伸ばし、バイブレーションの鳴り止まないスマートフォンの電源を、落とした。許せ、妻よ、子よ。男には闘わねばならないときがある。だがその彼の呼びかけは、家族にはきっと通じない。
 男たちの夜は深まるばかりだった。

「ラーイトくんっ」
 背後からの呼びかけであるにもかかわらず、ライトはすぐに声の主を特定できた。
「松田さん」と指摘してから、ゆっくりと振り返る。そこにはいまひとつ身体にフィットしない、チャコールグレーのスーツを着込んだ松田がたたずんでいた。限界まで膨らんだ、ずっしりとしたリュックを背負っている。
「松田さんも退勤ですか?」
「そうっ! 超ラッキー! 諦めてたミサミサの改元カウントダウンライブに行けるぜっ!」
 ミサミサ。月は小首を傾いだ。芸能方面にはてんで疎い彼のことだ。名前はおろか、ミサミサと呼ばれた人物の面影すら、脳裏にはよぎらない。
 かといって、ミサミサの正体についてたずねたが最後、面倒くさい話題に発展するのは目に見えている。だから月はあえて何も言わずに歩を進めた。
 街角はいつにも増してにぎやかだ。皆、今夜のビッグイベントを逃がすまいと駆けつけたひとびとにちがいない。
 月はなんとはしにスマートフォンを取り出した。SNSで軽く情報収集する。話題は改元一色だ。
「松田さん」
 月はスマートフォンをパンツのポケットに滑り込ませた。憂いの滲んだ声で問いかける。
「やっぱり女の人って、平成最後のプロポーズ……とか令和最初のプロポーズ……とかに憧れるものなんでしょうか?」
「そりゃ、もちろんだよ。女はサプライズに弱いからね! うっそー、全然気づかなかった、月くん私のためにプロポーズ計画立ててくれたんだーって感動間違いなし!」
 たいそうダサい演技を交え、オーバーリアクションの末に、松田は断定した。しかし、そこで彼は思考を停止させる。ややあって、両目を剥き出しにせんばかりの勢いで、すばやく月を振り返った。
「えっ、月くん、彼女いるの!?」
「いますよ」
 月はあっさりと肯定した。学生のあいだは彼女の希望で関係を伏せていたが、社会人になったいま、オープンにしてもなんの差し支えもない。積極的に関係を公言することで、横槍が入ってくる隙間をなくしたいとの思惑も働く。
「どんな人!?」
 煉瓦道を歩くたび、靴音が高らかに響く。月にはそれがまるで幸せの序曲のように聞こえて、気分が高揚した。いまならなんでも語りたい気持ちだった。ときおりもったいぶりながらも、恋人のひととなりについて、洗いざらい話してしまう。
「へー、学生のころから付き合ってたんだ。責任取ってあげなよ」
「そのつもりですよ。ただ……」
 月の表情からはじめて自信が消えた。松田に相談したところで、当てになる回答が得られるとは思えない。それでも月はいま、だれかに話したい衝動をこらえられない。
 彼は通りかかった歩道橋の欄干に背を預けた。道すがら缶ビールでも買えばよかったと悔いる。
「就職が決まってから何度もプロポーズしようとしたんですよ。でもその気配を感じると、決まって……彼女の名前なんですけどね、は露骨に話題を変えるんですよ。それとなくゼク×ィ買ってテーブルに置いたら、翌日古新聞と一緒にまとめられてました」
「珍しいパターンだね」
 松田は欄干に身を乗り出した。生ぬるい空気を吸い込む。幹線道路に連なる自動車の群れから立ち込める排気ガスが、彼の鼻腔を刺激した。途端、くしゃみを繰り返し始める。
 月は「花粉ですか?」と迷惑そうにしながらも、ちり紙を何枚か差し出した。礼も言わずにひったくった松田は、勢いよく鼻をかんだあと、丸めたちり紙をジャケットのポケットに突っ込む。
 しばらくあのまま放置されるんだろうな、と月は他人事ながら、松田の年季の入ったずぼらさに思いを馳せる。
「普通は女から結婚したがるもんだけどね。出産のリミットがあるから」
 月は注意深くうなずいた。
 彼にとって人生を共に歩いて欲しい人はひとりだけだ。彼女と血を分けた子どもに恵まれれば、きっとさらに幸せになれるだろう。だがそれはあくまで延長線上の授かり物に過ぎない。月にとってはただひたすら、を独占し続けられる保証が欲しい。それだけだった。
「浮気でもされてるんじゃない? 案外、もっと年下の本命彼氏ができてたりして」
 月は表面上一笑に付した。だが心中は穏やかではない。これまで何度も可能性を見出しては、恋人を疑うなどよくないと、自らに言い聞かせてきた経緯がある。
 は経済的にも精神的にも自立した大人の女だ。月なしでもひとりで生きていけるだろう。独身を貫く人生設計も用意しているにちがいない。だがそれはあくまで月に何かあったときの保険のはずだ、と彼は信じたかった。
 彼女はひとりで生きて行く可能性を予見するのとは別に、それよりも大きな実現性を伴う将来として、月と所帯を持つことを考えてくれているはずだ。
 月は松田に別れを告げ、足早に歩き出した。あるところ向かう道すがら、スマートフォンを取り出し、へ向けて発信する。
 彼女はゴールデンウィークはすべて休みだ。旅行などの大掛かりな予定はないと語っていた。その言葉どおり、すぐに通話が繋がった。
「どうしたの?」
「いまから会えないかな?」
「仕事は?」
「終わった。ゴールデンウィークだから早く帰されたんだ。だから会いたい」
「相変わらず一方的だね」
 のつぶやきに非難がましい響きが混じった。
 月は松田の不吉な発言を想起する。まさかに限ってと断言できるが、一片の曇りもない信頼を寄せられるかと詰問されれば、首肯できない。
 を信用できないのではない。月は自分がに信頼される資格がないと知っている。だからこんな愛想を尽かされても、仕方のないことなのだという、諦念に似た感情を抱え続けていた。
「どうしても会いたいんだよ。話したいことがあるんだ」
 月の決死の懇願に、はいささか面食らった様子だった。スマートフォンの通話越しに、彼女が戸惑う様子が伝わってくる。
 月は喉を鳴らして、祈る気持ちでの答えを待った。さほど間をおかずに、彼女から返事があった。
「いいけど。どこに行けばいい?」
「……僕の家に来てくれ」
「わかった。ちょうど出かけてたからそんなにかからないよ」
「おそらくが先に着く。適当に過ごしててくれ」
 とは互いの自宅の合鍵を渡しあっている。少しでもふたりの時間をつくりたい一心で月のほうから提案したことだったが、は最終的には同意してくれたものの、あまり乗り気ではなかった。
 客観的に見て、がなんらかの理由で自分のもとを去ろうとしている可能性は排除できない。だが月のほうには離れる理由は一切ない。だからこそ何度となくプロポーズを試みたのだ。だが結論を先延ばしにし続けるわけにもいかない。奇しくも今日で平成が終わり、明日には新帝が即位し、令和という新時代が幕を開ける。過去のしがらみを断ち切り、新生活をはじめるには、またとない好機だ。
 月はタクシーを捕まえられないまま、結局自分の足で目的地まで駆けつけた。息を切らしながら、今度は自宅を目指して走り出す。ジャケットはとうに脱ぎ、皺になるのも気にせず、小脇に抱えている。ネクタイは乱雑にバッグに押し込んであった。
 端正な容貌の青年が、うっすら汗ばんだシャツを肌に吸い付かせ走り続ける様は、ひどく人目を引く。あからさまに性的な目配せを送ってくる女もいたし、無遠慮にスマートフォンのカメラを向けてくる者もあった。
 だが月は一切介意せずに走り続けた。惚れた女のために走って、何が悪い。柄にもなくそんな熱血じみた考えにとりつかれていた。

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