僕らの生活-もう一つの未来-

 まもなく月が入居するマンションへたどり着いた。
 出迎えたは月の様子を見るなり、顔をしかめた。ねぎらいの言葉もなしに、彼からジャケットをひったくり、ハンガーに吊るす。バッグからネクタイを抜き取って、皺を伸ばしてハンガーから垂らした。
「シャワー浴びてきたら?」
「その前に、話したいことが……」
「スラックスも皺になるから脱いで。下着姿でよければ話を聞くけど」
 月は観念し、先にシャワーを浴びることにした。浴室に熱い湯が床に飛び散り、たちこめる白い煙が若い肉体を覆い隠した。ときおり隙間から筋肉をまとった肩や、血管のありようが明白な腹直筋がのぞいた。この均整の取れた身体は一朝一夕では得られない。勉強一辺倒ではなかった彼の半生を物語るものだ。
 月は洗髪を済ませて、前髪を後ろへ流した。薄い額があらわになる。そこから真下に伸びる鼻柱も、切れ上がったまなじりも、薄い唇も、そこかしこに知性の滲む容貌だ。
 右腕を泡で包みながら、テニスラケットを握った中学世代を思い出す。そこでは幾人かの女の子と交流したが、いずれもパートナーにはなりえず、月にとっては一時的な性の対象でしかなかった。
 高校に上がってからは、父の後追って警察官僚になるため、部活からはすっぱり手を引いた。自室で勉学を重ねる月少年は、そこでひとつの真理を見出そうとする。
 なぜいつの世も動乱が尽きないのか。そしてそのたびに無辜の民が犠牲になるのか。最小不幸の社会はどうすれば実現できるのか。哲学と向き合い、思考の迷宮の奥深くへ迷い込む。
 そのままそこにとどまれば、彼はやがて怪物となり、正義の名のもとに斧を振るっただろう。だがそうはならなかった。浴室のドアがノックされ、思案はせき止められる。
「大丈夫? のぼせてない?」
 すりガラス越しに、くぐもった声が辛うじて聞こえる。
 月は平気だと返事をしてから、浴室を出た。が用意してくれたタオルで身体を拭き、新しい下着を穿いて、ルームウェアを身にまとう。
 月は都合のよい期待を持ち始める。が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのは、きっと自分と所帯を持つ心構えをしているからだ。そうでなければ、男物の下着をタンスから引っ張り出してくるなんて真似は、とてもできないはずだ。
「ごめん、手間かけたね」
 月はいつになく殊勝な態度を示した。首から提げたタオルで髪の水分を吸い取る。ダイニングチェアに座ると、向かいに座っていたはずのの姿が消えた。
 彼女はドライヤーを持ってくると、無言で月の髪に温風を浴びせ始めた。
「ありがとう」と月は礼を述べたが、風にまぎれての耳にはとどかなかった。
 月はときおり首を反らしたり、額を伏せたりして、がドライヤーをあてやすいよう協力した。
 月はこの風がやむのを待って、事実上のプロポーズする気でいた。指輪もないし、寝巻きだし、高級レストランでもホテルでもない。
 でもはそんなことにはこだわらない性分だ。ありのままの日常から楽しみを見つけることのできる人間だ。そんな彼女だからこそ、月にとってアリアドネーの糸となりえた。
 月は温風が辛抱強くやむのを待って、がドライヤーを片付けようとするのを呼び止めた。彼の真剣な眼差しに宿る意味を察したのか、は曖昧に笑って、やはりドライヤーを片そうとする。

「待って。ドライヤー片付けるから」
「そんなのはいい。先に僕の話を聞いてくれ」
 強く言い渡されて、またドライヤーをつかんだほうの手を月から握られて、もようやく観念した。ダイニングチェアに腰掛ける。
 月は向かいではなく、の隣りに腰掛けた。すると、彼女は不自然に明後日のほうを向いてしまう。月と見交わすのを避けたい意志が、ありありと滲み出た態度だった。
 何が彼女を頑なにさせるのか図りながら、月はいったん席を立ち、バッグから一通の書類を取り出した。に向かって提示する。
 しかし、彼女は見ようともしない。瞼を赤く染め、ふるわせながら、懸命に視界をほかへ逃がそうとする。
 月は祈りながらにじり寄る。
、平成最後の日に入籍するのと、令和最初の日に入籍するの、どっちがいい?」
 沈黙が満ちた。ふつうならば、歓喜の声があがるタイミングだ。
 だがは死刑判決を聞いた被告のような面持ちで、凝然と結婚届を見つめるばかりだ。頬を伝う涙が、ファンデーションをいくらか剥がしてゆく。
「……、僕と結婚するのは嫌か? 他に、好きな人が」
 があまりにも反応を示さないので、月もほかの可能性について言及せざるを得なくなった。
 しかし途端には癇癪を起こし、全身を震わせて慟哭し始めた。髪を振り乱して、抑圧してきたすべての感情を迸らせる。
「他に好きな人なんて、いないよ! いるわけない! 何年付き合ってると思ってるの。五年だよ? 五年間ずっと……ずっと月とふたりで。年の差が理由で喧嘩もしたし」
 そんなこともあった。月の脳裏をいつかの思い出がよぎる。ふたりのデート中に、の卒業した大学の先輩に出くわし、彼女は体面を取り繕おうと、月を弟だと紹介してしまった。
 月は自尊心を損なわれながらも、を守ろうと演技し続けたが、結局はが自責の念から先輩にふたりの真の関係を暴露してしまった。
「大失敗したハンバーグ作っても、慰めて、食べてくれたし……旅行に行ったのに、結局何もなしで帰ってきて、女としての自信をこっぱ微塵に打ち砕かれたし!」
 月は思わず苦笑いを浮かべる。の独白が怨念の色を帯び始めた。話がややこしくなる前に、慰撫しようと思い立つ。
 月は腕を伸ばして、を抱き寄せた。こんなにも大きく痙攣する背中が、何に怯えているのか、いまもって彼にはわからない。それでも、彼女を支え続けたい。人生を、一緒に歩いて欲しい。
 そう月が改めて告げる前に、が涙声でついに、一等隠しておきたかった事実を打ち明けた。
「私だって月と結婚できたらって……。何度も思った。でも、無理だよ。私は月より年上だもん。月がバリバリ働く、いちばんカッコいい世代になったら、もっと若い子のほうがよくなるよ!」
 吐息交じりで、しゃくりあげながら、這い上がる絶望感におののきながらも、一語一語を吐き出してゆく。
「子どもを産むこと考えても、若い子のほうがいいに決まってるよ。勝てないもん。……勝ち続けるなんてできない。月が私から離れていくくらいなら、ただ家でひとり寂しく月を待って、昔に恋焦がれて……そんな人生送れない、送りたくないの!」
 そこでいったん言葉を切り、喘ぎながら酸素を集める。乱れた髪を掻き分けながら、彼女は自嘲的につぶやいた。
「だから結婚したくない」
 ダイニングチェアへのろのろと腰を下ろす。窒息しそうなほど重い空気が、あたりに沈んだ。
 月はしばらく黙っていた。がどんな心境で思いの丈を語ったのか、それに思案をめぐらせれば、すぐに返事をするのは適当ではない気がした。
 が倒れ込んだダイニングチェアに寄り添い、ただ彼女の背を撫で続けた。嗚咽が静まるのを待って、少しずつ月は語り始める。
「……出会ったときのことを覚えてるか?」
 突然の質問だった。月はが応答できる余裕があるか気にかけたが、杞憂に終わった。
 彼女はすぐにうなずいた。ふたりの出会いは、互いに鮮明に記憶しており、昨日のことのように脳裏に甦らせられる。

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