それぞれの勇気

 風が吹けば、さらさらと舞い上がる栗色の髪は、まぶしい艶を帯びる。すっきりと切れ上がったまなじりには、凛然たる意志の強さが滲む。顔の輪郭はもちろん、身体の骨格も均整が取れ、遠目にも優れた容姿があることが知れる。
 女子生徒の多くがそうであったように、もまた一目で恋に落ちた。
 その相手の名は、夜神月。彼は人当たりがよく、だれとでも打ち解けて話をしたが、常にどこかで一歩引いており、深い関係を築くのを避けていた。
 しかしそのやり方が、威圧的でなく、相手を後ずさりさせるものではなかったので、多くのクラスメートは彼に好感を持った。反発を抱く者があるとすれば、それは月の聡明さに対してであったり、あるいは整った容貌を妬む気持ちが根底にあったりと、いずれも身勝手な感情の発露でしかなかった。
 月はだれとも必要以上に親しくしなかったため、交際相手も持たなかった。我こそはと胸を張って進み出た女子も、その他大勢と同じ末路に行き着く。そのくせ女子に冷たかったり、また逆に自身の人気をひけらかしたたりしないため、クラスの人望も厚い。
 毎年、月を学級委員や生徒会といった代表者に推す声があがったが、彼は面倒を嫌って上手く立ち回り、別のなるたけ仕事のない、暇な部署に入った。本来なら反感を買いそうな行動だが、持ち前の爽やかさや柔和な態度が作用し、目立つのを嫌う、謙虚で慎みのある人間と解釈され、それがまた彼の評価へ繋がった。
 本来の夜神月は、周囲の評判とはおよそかけ離れた人物だ。
 しかしそれを知らずにラブレターを書いたり、ひと気のない場所に彼を呼び出して、愛を告白する女子生徒は数多くおり、もそんな連中のうちの一人になるかもしれない少女だった。ただ生来の気弱さや、自分に自信を持てない、ある種劣等感めいた諦めが足を引っ張り、思いを口に出したり、便箋に綴ったりすることはしなかった。
「月くん」
 クラスでいつも徒党を組んでいる、派手な髪の色をした女子に名前で呼ばれても、そちらを張りついた笑顔のまま振り返る。くちびるの合間からのぞいた白い歯が、彼女たちの平常心を大きく突き崩した。
 互いに黄色い声で騒ぎあいながら、名前を呼びかけた一人を代表者にたて、ようやく本題に入る。
「私たちと遊びに行かない? ほかに男子入れてもいいし。合コンのノリで!」
 クラスメートの多くはあからさまに迷惑そうに眉を寄せていた。狭くはないが、そう広くもない教室だ。どこかひと隅でこうも騒がしくされれば、神経を掻き乱されるのも無理はない。
 一部の女子は敵意のこもった眼差しを突きたてたり、あるいはそうする勇気を持てず、不満げに机を見下ろしていた。月に片思いしている面々だ。
 けれどもはどちらでもなかった。だれにも秘めた思いを悟られないよう、平静を取り繕う。だが一皮剥けば、月の席を取り巻く連中への嫉妬を持て余していたし、同時に億面なく話しかけられる図々しさが、ある意味では羨ましくもあった。
 月の席に集まって、彼と雑談していた男子たちは合コンの一言に反応し、すっかり鼻の下を伸ばす。早くも女子を値踏みする目つきになる者もいた。
「悪いけど、受験が終わるまで遊ぶつもりないんだ」
 あっさり断られる。
 けれど、こうなることなどいくら彼女たちでも予期していた。だから簡単には引き下がらない。
「え、遊ぼうよー。ちょっとくらい休憩しなきゃダメだって! 全国模試一位の余裕ってやつ見せてよ!」
「月くんでも気抜けないなら、私たちいったいどうなるの? 一日中机にかじりついてなきゃいけないじゃない」
「うちら引きこもりかって話じゃん」
 口々に耳障りな声を上げつつ、月の机に手をつき、身体を揺すってみせる。しなをつくっているつもりなのだ。
 けれど月はそんなさまなど少しも見ていない。マニキュアを塗りたくった、女のけばけばしい手に視線を向けている。瞳の奥底にひそんだ蔑みが、冷厳な光となってちらつくのに、頭の軽い女どもが気づくはずもなかった。
「受験だけじゃなくて、中学に通う妹の勉強も見てやらないといけないし。それに父が忙しくてなかなか帰ってこれないから、僕が母を手伝って、少しでも家のことしなくちゃいけないんだよ。僕も少しは遊びたいんだけど、なかなか。そういうわけだから、わかってくれ」
 なおも連中は食い下がったが、月は柔和な物腰とは裏腹に、頑として首を縦に振らない。
 結局ホームルームが始まったことで、話は打ち切りになった。
 静けさが戻り、教室のあちこちで安堵の息がこぼれ落ちた。

 ある日、が体育館の掃除を終え、戸締りの点検をひとりでおこなっているときのことだった。建物の裏手のほうから話し声がした。
 彼女は鉄の格子越しにのぞきこもうとしたが、立ち聞きはよくないと自戒し、きびすを返した。しかしそのとき、今度はさきほどよりいくらか明瞭で、何を言っているのか聞き取れる程度の声が聞こえてきた。
 それがほかならぬ思い人、夜神月の声であったために、思わずその場に足を止め、じっと息を殺して、耳をそばだて始めた。
「気持ちは嬉しいんだけど、僕はだれとも付き合う気ないんだ」
「そうみたいだね、月くんに振られた子、みんなそう言ってたから。でも、私、告白できただけで満足だから」
 は心臓が縮こまる思いがした。急いでこの場を離れなければならない。そう頭ではわかっているのに、足はぴったりと地面に張りつき、まったく動く気配を示さない。
 彼女自身いつか味わうことになるかもしれない痛みを、いまこんなところで目の当たりにしたくなかった。
 そうこうするうちに話が終わり、女子生徒のものであろう足音が遠のいてゆく。
 広がった静寂に心底安堵して、は胸を撫で下ろした。緊張の糸が切れたのだ。
 教室へ戻るべく、窓に背を向けた彼女を引きとめたのは、深いため息の音だった。続けざまに月の声がする。
「まったくうっとうしい」
 突然こぼれ落ちた酷薄なつぶやきは、の頭の中でぐるぐると回りはじめた。聞き間違いではなかったか、そもそも外にいるのは本当に月だったか。そんな混乱した考えをめぐらせつつ、擦りガラスの窓に手を伸ばした。音をたてないように気をつけ、そっと開いて、外をのぞきこむ。確かに月だ。
 彼は再び息をつきつつ、鼻に皺を寄せた表情で、身体ごと横を向いた。そのまま歩き出そうとするが、視界の端に妙な感覚を覚えて、勢いよくそちらを振り返る。窓の中のを見つけた。
 ふたりの視線が、重なった。
 月は不機嫌そうに顔をしかめた。
 一方のは放心状態のままだ。月に見つかる前に、さっさと奥へ引っ込むべきだった。そう悔いても時は戻らない。
 しばらく見交わしあったのち、先に動いたのはのほうだった。くちびるの片側をひきつらせ、いびつな笑みを浮かべつつ、おもむろに窓を閉めようとする。
「待て」
 月の厳しい声が飛んだ。ふだんと声のトーンがちがう。
 彼は窓に向き直ると、一歩前に踏み出した。
「見てたのか?」
「……み、見てないよ」
「何が、って聞き返さないところを見ると、やっぱり見てたんじゃないか」
 月の透徹な瞳が棘をはらんだ。じっとをのぞきこむ。
「じゃあ、僕が言ったことも聞いてたんだな?」
 はなんとか切り抜けようと、必死で頭を絞った。上擦った声で答える。
「な、何が?」
「わざとらしいぞ。もういい。いまからそっちに行くから、逃げるなよ」
 威嚇をこめて言い放つ。
 軽やかな足取りで正面玄関へ向かう月を見送りながら、は心底逃げ去りたいと思った。こんな状況下でも、いったん開けた窓を閉め、律儀に施錠してしまう小心者の彼女は、胸にのしかかる不安を重々しく感じながら、現れた月を恐る恐る見返した。
 別段スマイルに自信があるわけでも、そうすることで空気がなごやかになるわけでもなかったが、無意識のうちに微笑んでしまう。
 が怯えているのを見て取った月は、軽くあごを上げて、高慢な顔つきをした。口端を吊り上げて、不遜な微笑を浮かべる。
「取って食いやしない。そんなに怖がるなよ」
「別に、怖がってなんか」
「まあ、どうでもいいよ、そんなことは。それより、僕のひとりごと、聞いたんだろ?」
 月はが答えようとするのを遮って、言葉を続けた。彼女の返答は必要ないらしかった。
「僕も迂闊だったよ。いくら女が立ち去って、少し気が抜けると思ったからって、うっとうしいはまずかったよな」
 自分にも非がある。そう言っているとも取れる発言に、は表情を明るくした。力強くうなずく。
 ここで月が引き下がり、そのまま立ち去ってくれれば何よりだ。しかし事はそう簡単にうまく運ばない。
「でも、僕にも都合があるんだ。いまの立場を失うわけにはいかないんだよ。さん、きみにはさっき聞いたこと、だれにも話さないで欲しいんだ」
 は間髪入れず承知する。
「約束する。私、絶対、だれにも言わない。だから、許して」
「許して? おかしなこと言うなよ。別に責めてなんかいないだろ。僕はただ、さ」
 そこで一度言葉をとどめ、背を屈めて、と目線の高さを合わせた。
 そうしたあと、首を伸ばし、顔を近づける。細められた目の奥で、有無を言わせぬ強情さが息づいていた。
「友達になりたいんだよ、と」
 呼び方が急に変わった。呼び捨てにされる。
 詰め寄られ、脅迫まがいの圧力をかけられている現状にも関わらず。、ほかの女子とはちがう扱いを受けたことを、はほんのだけ少し嬉しく感じた。頬が強ばるのをどうにも抑えられらないまま、乾いた声で笑う。
「と……友達?」
 それに合わせて、月も口の端から笑い声を漏らした。
「そう。友達」
 ふたりの笑いが重なり、不気味な不協和となって、いつまでも尾を引いた。

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