夜神月は自分からだれかに声をかけようとしない人物だった。無愛想というわけではない。その証拠に、さほど親しくないクラスメートから話しかけられても、笑顔で応対する。
 しかし体育館の一件以来、に吹聴されているのを恐れているのか、たびたび彼女のもとをおとずれるようになる。

 つくりものめいた――としかもはやには見えない――完璧な笑顔で言う。
「悪いんだけどさ、シャーペンの芯、何本かくれないか? 買うの忘れてて、いまから売店行ってたんじゃ授業はじまるし」
 は周囲の視線、特に女子の目を痛いほど感じつつ、机の端からペンケースを引き寄せた。中を開け、頼まれた文具を取り出す。適当に容器を振って、出てきた数本を差し出した。
「悪いな、ありがとう」
 礼を述べつつ受け取って、自分の席へ引き返す。彼が席につき、その周囲で歓談していた男子と会話を再開したのを見届けてから、女子がの席にわらわらと押し寄せてくる。
「ちょっと、なんで夜神くんがあなたに借りにくるの?」
 は小首を傾げつつ、発言者を振り返った。不満げにこちらを見つめている。
「さあ……」
 そう言葉を濁しながら、内心では私のほうが聞きたいよと叫び返していた。
 そもそもあの用意周到で、アンドロイド並に隙のない男が、筆記具の準備を怠るなどありえない。テキストや提出物といったたぐいの必要な所持品を、前日のうちに抜かりなくチェックするタイプのはずだ。
 はそこまで考えて、ため息をひとつついた。
 しかしそんな物憂げな態度を気にかけるそぶりすら見せないまま、連中は矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。
「そもそも、前から思ってたんだけど、なんで月くん、あなたのこと呼び捨てにしてるの?」
「そうだよ、おかしいよ。何かあったんでしょ?」
「月くんと付き合ったりしてないでしょうね?」
 高圧的に詰問してくるのは、ふだんろくに口もきかないクラスメートだ。彼女たちはいわば校則破りの常習犯で、スカート丈もかなり短く、学校へくるのに念入りに化粧をほどこす連中だった。
 そのくせ、最上級である三年ということもあり、自分たちこそこの学校を統治する人間だと自負し、グループの外の人間、取り分け下級生が派手ないでたちをしていると、寄ってたかって思い上がりを指摘する。
 たとえ進学校といえど、こういう毎日を騒がしく過ごす、刹那主義の人間は必ず存在する。ただ割合がほかよりいくらか低いだけだ。
 は懸命にただの偶然だ、単に目が合ったから言ってきただけだと説明し、場の収拾を図る一方、そもそもの騒動の種をちらと一瞥した。
 月のほうも、彼女を見ていた。視線が触れ合った瞬間、彼はくすりと笑みをこぼした。いかにもおかしそうな表情だ。
 は心底腹立たしく思いつつ、なおも鋭い言葉を突き立ててくる連中に向き直って、あれこれ言い訳を並べ立てた。
 結局彼女を救ったのは、授業の再開を告げるチャイムだった。室内に響き渡る音を合図に、皆ぞろぞろと自分の席へ引きあげる。
 もともと隣席に座っている中学校来の友人は、教科書などの支度をしながら、そこはかとなく神妙な面持ちを浮かべた。のほうを横目で見やろうとして、すぐまたほかへ視線を逸らす。
「……、本当に、夜神くんとは何もないの?」
 何もない。その短い一言にもさまざまなとらえ方がある。
 何の事件も起きなかったわけではなかったが、別段月と付き合っているだとか、そうなりそうだということでもない。
 だからは淡く微笑んで、力強くうなずいた。
 そのどこか励ますような所作に、友人は安堵し、ふだんの朗らかさを取り戻した。彼女は中学のころからずっと、月に好意を抱いている。しかしその気持ちを彼に打ち明けたことはない。
 本人もバレンタインを利用して告白しようとしたり、直接顔を合わせると言いづらくなるからとラブレターを書き、それをに見せ、出来具合はどうかと相談してみたりと、いろいろ試みてはいる。
 しかし結局は意気地を持てず、最後の最後という土壇場で逃げ出してしまう。
 ふだんの分かりやすい態度からすれば、月にはとっくに気づかれているはずだ。
 その点、は友人とはちがう。月のことを好きなのは同じだったが、彼にそれを見透かされないよう、精一杯無関心を装ってきた。
 偶然目があったり、何か用事で会話する際も、本心は嬉しくて、照れくさくてたまらないのに、なんとも思っていないふうにふるまい続けた。だから月も、の気持ちを察してはいないはずだ。
 注意深く観察されれば見抜かれるかもしれなかったが、幸いというべきか否か、そこまで関心を持たれていない。
 戸の開く音がして、教師が入ってきた。
 はいかにもそれに注意を引かれたのだという感じで顔を上げ、さりげなく引き戸のそばにある月の席を見やった。
 彼はシャープペンシルをまわすしぐさをしつつ、左手にあごの先を載せていた。
 教師が黒板の前に立ち、学級委員が起立の号令をかける。
 月はけだるげに、それでいてそつのない、流れる動作で腰を上げた。
 ほどよく成長した肩幅や、背中の広さに気を引かれ、はなかなか目を逸らすことができなかった。

 放課後、当番だった体育館の掃除を終えたは、月に出くわした。
 渡り廊下の屋根を支える柱に背を預けて、退屈そうにたたずんでいる。
 と同じく一緒に掃除をしていた女子は、突然の遭遇に赤面しつつ、あるいは別段関心を感じていない者でも、月の整った容貌には目を奪われずにはいられない様子で、通り過ぎていく。
 出入り口付近で立ち止まっていたは、ほかの連中がいなくなったのを確認したあと、ため息まじりの声を出した。
「何か用?」
「いや、別に。特に用はないんだけどさ」
「友達、もう帰ったんじゃない? 夜神くん帰宅部だよね?」
「へえ、よく知ってるな」
 月は柱に寄りかかるのをやめ、のほうへ近づいた。底意地の悪さをのぞかせる、そんな顔つきをしている。
 は一瞬胸がつかえる心地がしたが、からかわれたのだと察して、くちびるを突き出した。うんざりしたふうを装う。
「友達にも夜神くんのファンは多いから」
「それは嬉しいな。はちがうのか?」
「え?」
「僕のファンじゃないのかって聞いてるんだよ」
 は視線を冷たくした。多少の皮肉はこらえるほかない。わざわざ間に受けたり、傷ついたふりをすれば、用心深く隠してきた気持ちが露呈してしまう。
「夜神くんってナルシストだったんだね。全然知らなかった」
「人間なんかみんなナルシストだよ。自分を嫌いで生きていけるわけないだろ」
「だれもが夜神くんみたいに完璧なわけじゃないんだよ」
「それとこれとは話がちがうだろ。完璧な自分だから好きなわけじゃない。自分だから好きなんだよ。の友達は完璧な僕が好きなんだろうけどな」
 はふいに考え込む。月が友人の愛情に気づいているか、確かめてみたいと思ったのだ。しかし当事者でない自分がそんなことをしていいのか、判断がつかない。
 我に返って目を上げたとき、月の顔が間近にあったので、彼女はびっくりして飛び下がった。
「な……何?」
 避けられた気分になったのか、月は不愉快そうに眉間に皺を刻んだ。
「ぼうっとしてるから顔見ただけだろ。のほうこそ、何をそんなに驚いてるんだ?」
「い、いや、別に……」
「まあ、いいよ」
 どうでもよさそうに話を打ち切る。
 彼が無関心さを垣間見せるたび、の胸にまた新たな傷が重なった。ひとつひとつは浅く、さほど疼きもしないが、その代わり痛みが途切れることもない。常に心の片隅をちくちくと刺し続ける。
「それより、この前のこと、だれにも言ってないだろうな?」
「この前のこと……ああ」
 先日、図らずも月の本性に接してしまったときのことだ。あれさえなければ教室内で微妙な立場に置かれることはなかった。
 けれどその代わり、月とこんなふうに会話することもなかった。どちらがよかったかと問われても、はきっと即答できない。月のことなど何ひとつ知らないまま、彼のそばを横切る往来の中に紛れていたほうが、ずっと楽だったかもしれない。そんな思いが消えないからだ。
「だれにも言ってないよ」
「そうか、それならいい」
「そんなことよりさ」
 はこの機会にと思い、彼女のほうから話題を転じた。
「人前で話しかけてくるのやめてくれない? シャーペンの芯買い忘れたなんて、どうせ嘘だよね?」
「面白いだろ。まるで化学の実験みたいじゃないか。僕がに声をかけただけで、クラスの女子が一斉に動きはじめるんだからな。なかなか面白い化学変化だよ」
「その悪趣味な実験のお陰で、私は問いつめられて大変だったんだけど」
 月はさして悪びれてもいない調子で一、二回うなずいた。軽い請け負いかただ。
 どうせまた同じことを繰り返すだろうと考えて、は額を曇らせた。機嫌を損ねて横を向く。
 そこへ、グラウンドのほうからサッカーボールが流れてきた。
 はあわててその場を下がり、体育館の入り口の前に移動した。
 そんな彼女を一瞥したあと、月はサッカーボールを足元に据え、まっすぐな脚を振り上げた。蹴り上げられたボールは微弱な震動をはらみつつ、勢いのある軌道を描いてゆく。
「やっぱり、ローファーじゃいまいち蹴りづらいな」
 そう不満げに漏らしながら、足首をまわした。靴箱の陰に隠れているを見やる。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。だれも僕らを観察してやいない」
「わからないよ、そんなの。夜神くん人気あるんだし」
はすぐそれだ。臆病なんだな」
「だれのせいだと思ってるの? 私、もう帰るから」
 こうして向かい合って会話していても、人目に触れる危険が増すばかりだ。いったん校舎に向かいかけた彼女を、月が追行してくる。
「一緒に帰ろうか」
 はぴたりと足を止めた。高鳴る心音を無理に押さえ込み、短く言い放つ。
「いやだよ」
 月が笑い声を漏らすのが聞こえた。振り返っていないので確認できないが、あのなんとも愉快そうな、人を食った顔つきをしているにちがいない。
 はこれ以上関わっていられないとばかり、早足で歩きだした。校舎に入る間際、耳に心地よく触れる、いつもの声が聞こえてくる。
「またね、さん」
 は無視して歩き去ろうとしたが、ついに立ち止まってしまう。さんざんためらった末に、渡り廊下にたたずむ月を振り返った。繊細な前髪が、いくらか睫毛にかかっている。皮膚の色は薄く、目の下にもくすみはなかった。この年頃にありがちな脂っぽさも見られない。
 は月の欠点を見つけ出そうとして、結局果たせないままだった。無雑作に手を上げる。
「さよなら、夜神くん」
 やはり接点のないほうが幸せだったと感じ入らずにはいられなかった。

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