Everything

 発端は母が急な病で倒れたことだった。入院し、しばらくは出られない。
 の家は母子家庭だ。そのあいだはがひとりで暮らすことになる。身のまわりのことをひとりでできない年齢ではない。だれかを頼る必要はなかった。母ももちろんそのつもりだった。
 しかし、異論は意外なところから出た。母の勤め先である跡部家からだ。母は跡部家で家政婦をしていた。
 のスマートフォンに着信が入る。
「はい、です」
「跡部景吾だ。だな?」
 跡部家からだ。母の緊急連絡先はを指定していたので、電話場号は知られていて当然だ。
 かけてきたのは跡部会長の孫だった。生来のカリスマ性の持ち主らしい。それをは母から聞かされていた。
「母親の件、大変だったな」
 ねぎらいの言葉をかけられ、は恐縮した。確か彼女と会長の孫は同じ年だったはずだと思い返す。だが対等に口をきける立場ではない。彼女からすれば、母親の雇い主も当然だ。生活の糧を提供してもらう側としては、かしこまった物言いをせざるをえない。
「わざわざありがとうございます」
 は丁寧に礼を述べた。見舞いの電話だったのかと納得する。すでに母の病室には見舞金と見舞いの品が届けられている。一介の使用人に対して、十分すぎるくらいの厚遇だった。こういう細やかな気遣いこそ、カリスマのなせる業なのだろうか。
 は能天気にそんなことを思案しながら、別れの挨拶が切り出されるのを待った。
 しかし、跡部は話を打ち切らない。続けて新しい話題を口にした。
「確かお前は母子家庭だったな? 母親の入院中はひとりになるのか?」
「はい」
「そうか。学生のひとり暮らしは何かと物騒だ。しばらく俺の家に来い」
「えぇ?」
 はすっとんきょうな声を上げた。それきり二の句が継げない。反論がないのは納得している証だと考えたのか、跡部は一方的に話を進めた。
「今日の夜六時に迎えを寄越すから、最低限の荷物だけ用意して待っていろ」
 きょうは日曜日で、いまは午後四時。あと二時間しかない。
「必要なら引っ越し業者を手配するが」
 確認されて、思わず「いいえ、大丈夫です」と答えてしまう。
 もちろん跡部は文脈から、引っ越し業者の手配は不要なのだと解釈した。
 だがが言いたかったのは、そもそも引っ越しの必要などないということだった。だがそれを伝える前に、跡部は電話を切った。
「話は以上だ」
 の返事を待たずに電話が切れる。折り返してよいものなのか、ためらううちに、時間が過ぎてしまい、電話をかけづらくなってしまう。
 はひとまず言われたとおりに行動した。幾日か分の衣類と、化粧品などの雑貨を用意し、スーツケースにおさめる。
 跡部家からの迎えは時間通り六時に現れた。年季の入ったアパートにはおよそ似つかわしくないリムジンでやってくる。他の入居者が何事かと様子をうかがいに軒先へ出てきて、ちょっとした騒ぎになった。
様ですね。跡部家からお迎えにあがりました」
「あの……」
 はおずおずと辞退を申し出る。
「さっき、跡部さんからお電話をいただいて、そのときは驚いてしまって、言いそびれてしまったんですが、私はひとりで暮らせますので、ご厄介にならなくても大丈夫です。運転手さんから、そうお伝えいただけませんか?」
 運転手は困惑した様子で目を伏せた。
「私は景吾様より、様をお連れするよう言われただけですので……」
 埒があかない。はどうしたものかと頭を悩ませた。やはり跡部から電話があったときに断っておくべきだった。悔いる様子の彼女に、運転手は折衷案を提示した。
「ひとまず跡部邸へいらっしゃってはいかがですか? いまのお話は、様から跡部様へ直接していただくということで」
 彼はがあらかじめ玄関に置いてあったスーツケースを引き寄せた。
 その動作を見て、彼女も覚悟を決めた。おそらく運転手にも立場があるのだろうと察する。悪いのはやはり、跡部から通知があったときに、断りきれなかった自身だった。
 かくしては一路跡部邸へ向かった。

 跡部邸でを出迎えたのは、執事のミカエルだった。母の上司にあたる人物である。突然の西洋人の登場に、は自分の英語力の乏しさから不安を増大させたが、それは杞憂に終わった。
「ようこそいらっしゃいました。ぼっちゃんがお待ちでございます」
 ミカエルは日本語が堪能だった。それもそうかとは納得する。彼女の母も、高校卒業レベルの英語しか操れない。その母と問題なくコミュニケーションを取れるのだから、ミカエルは日本語が苦手のはずはなかった。運転手がトランクからスーツケースを下ろし、ミカエルの後方から進み出た使用人に引き渡した。
「はじめまして。です」
 彼女は気後れする心を押し殺し、努めて平静にふるまった。母の職場である。退院後の母に恥をかかせるわけにはいかない。
「あの、スーツケースは自分で運びます」
「いいえ。レディーにお荷物をお持ちいただくなど、滅相もございません」
 ミカエルは浅く低頭し、の申し出を拒んだ。スーツケースは使用人の手により、屋敷の中へ運び込まれる。
 もミカエルに案内され、屋内へ入ろうとして、あわてて外へ引き返す。ミカエルも何事かと追いかけてきた。
 はリムジンの運転席へ駆け寄り、深々と頭を下げた。
「運転ありがとうございました」
 運転手も車中からではあるが、窓ガラスを下ろし、礼を返した。そのやりとりをほほえましく見守るミカエル。
 彼女はミカエルのそばへ駆けより、勝手に行動したことを詫びた。
 ミカエルは快くうなずく。改めてミカエルに連れられ、邸内へ進入する。まるで美術館のようなつくりだった。
 には日本を出た経験はないが、ヨーロッパのどこかの宮殿を訪れた錯覚にとらわれる。やがてミカエルは両開きのドアの前で立ち止まった。
「どうぞ、お入りくださいまし。ぼっちゃんがお待ちでございます」
 ドアを片側だけ開き、中へ入るよう腕でに促す。
 彼女は戸惑いながら足を踏み出した。
 さきほどからミカエルがぼっちゃんと称するのは、跡部景吾そのひとに間違いない。跡部財閥の次期当主と目され、いまは資産家の集う氷帝学園に通う人物だ。とは生まれも育ちもちがう。
 そんなエリートの頂点とも呼ぶべき人物が、なぜ彼女を呼び寄せたのか。合点のいかない思いを抱えながら、悠然とソファに身を沈める人影に近づく。
「お前がか」
 跡部景吾はつぶやいた。脚を組んだ姿勢で、瞳だけをちらと動かし、の姿をとらえた。おそらく値打ちもののカップを傾け、芳醇な味と香りを楽しむ。
「はじめまして。母がお世話になっております」
 は手を身体の横に添え、丁寧に頭を下げ、挨拶をした。
 跡部は長い腕を上げ、手先で向かい側のソファ指し示す。座れということだろう。
 は跡部の姿をちらちらと見やりながら、指示されたとおり腰を下ろす。差し向かって改めて気づくが、長いのは腕だけではない。優雅に組まれた脚もしかりだ。かなりの長身だ。百八十に届くかどうかというところか。そのくせ頭は小さい。彫刻に命が宿ったかのような容姿だった。
「大変だったな」
 跡部景吾は電話でも述べた台詞を繰り返した。カップをソーサーへ置く。
「いえ……とんでもないです。お見舞いをいただき、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことじゃねえ。じきに夕食の時間だが、お前も紅茶を飲むか?」
 は混乱しながら、ひとまず断る。聞きたいことは山ほどある。だがそれを彼女から切り出すのはためらわれた。跡部景吾はけして居丈高なわけではないのに、あたりを払うような威圧感の持ち主だ。
「なんだ?」
 のうかがうような視線が気になったのだろう。膝の上で手を組み、彼女に向き直る。
「言いたいことがあるなら言え。聞いてやる」
 鋭い視線に射抜かれ、はためらった。いまの跡部の言葉を額面通りに受け取ってよいものか迷ったが、ソファで黙り続けるのも気まずい。彼の機嫌を損ねないよう、慎重に反応をうかがいながら、口を押し開いた。
「あの、こちらのお屋敷でしばらくお世話になるというお話ですけど……」
「ああ」
 跡部はこともなげにうなずいた。それ以上語る必要などない。そういいたげだ。
 だがにはすんなり受け入れられる話ではない。彼女からすれば跡部家は母の勤め先。それだけだ。身を寄せる理由などない。くわえて、幼少の時分ならまだしも、彼女はひとりで暮らせない年齢ではなかった。
「その必要はないかと……」
 控えめな彼女の抗議に、跡部は聞く耳を持たない。
「だめだ」
 理由も聞かずに一蹴する。その態度がの癇に障った。いきなりひとを呼びつけておいて、説明もなしに一緒に暮らすよう迫ってくる。人権蹂躙もはなはだしい。いくら母の勤め先の次期当主といえど、非常識極まりない応対だった。同い年のくせに、えらぶった態度が気に食わない。
 彼女は表情を険しくして、跡部に食って掛かった。
「母がお世話になってるので遠慮してきましたけど」
 そう前置きして、一気に語り出す。
「そもそも私は学生ですし、学校もあります。いきなりこちらに住むように言われても困ります。そもそもそんな必要もないですし。母も一生戻ってこないわけではないですし、短期間なら私ひとりでも大丈夫です。ですから、お気遣いいただく必要はありません」
 そう言い切ってから、音をたてて深呼吸した。
 跡部はカップを持ち上げ、紅茶を口にした。眉根を寄せる。眉の真下に目がくる顔のつくりだ。鼻柱も高く、まるで西洋人のような面立ちだった。
「話はわかった」
 ソーサーにカップを戻し、そうつぶやく。脚を組むのをやめ、両膝に両手をそれぞれ乗せた。
「セキュリティのしっかりしたマンションを用意させよう。それで文句はねえな?」
「はっ?」
 は間の抜けた声をあげた。話がまったく噛み合わない。
「俺様の屋敷が気に入らねえというんじゃ、仕方ねえだろ」
 テーブルから呼び鈴を取り上げ、からんからんと鳴らす。
 まもなくミカエルが姿を現す。そういえばいつのまにやら姿を消していた。おそらくドアを開いた後、そのまま立ち去ったのだろう。
 ソファのそばまで寄ってきて、足を揃えた彼に、跡部は冷厳な声で命じた。
「こいつの通学先からもっとも近距離のマンションを用意しろ」
「あ……あの」
 が遮ろうとするのを、跡部は無視した。聞こえたかどうかは定かでない。
「ただし、二十四時間コンシェルジュが常駐することと、エントランスと玄関の両方がオートロック完備であることが絶対条件だ。そのほかの細かい希望は本人から聞け」
「かしこまりました、ぼっちゃん」
「いえっ、あの、困ります!」
 勝手に進んでゆく事態を止めなくてはならない。は思わず立ち上がり、声を張り上げた。跡部はうるさそうに顔をしかめた。
「そんなでかい声を出さなくても聞こえる。……なんだ?」
 さきほど無視したことを棚に上げて、ずいぶんないいようだった。は大きく左右に首を振り、ミカエルに向き直った。跡部では話にならない。言葉は通じるのに、まるで意思疎通ができない。宇宙人だろうかと疑いたくなった。
「私にはちゃんと家がありますから、ここでお邪魔になる必要も、マンションを用意していただく必要もありません。家へ帰ります」
 そう力強く言い切る。ミカエルは困惑した様子で眉を垂らした。彼には決定権がないのだ。たくわえた品のいいヒゲの下で、くちびるを気まずそうに引き結んだ。
「だそうでございますが、ぼっちゃん」
 ミカエルから話を振られた跡部は、小さく息をついた。すっくと腰を上げる。が立ち上がったためだろう。見下ろされるのが性に合わないのだろうか。そう彼女は考えた。
 跡部は自らの聡明そうな額に指をついた。片目をつむる。いちいち芝居がかった所作だ。
「交渉に応じないつもりはねえ。……何が不満だ?」
 全部だ。はそう言おうとして、口をつぐんだ。代わりに説明を求める。
「そもそも、どうして私がこちらでお邪魔するという話になるんですか?」
 跡部は幅のある肩をすくめた。呆れた様子だ。
「言うまでもねえだろう。お前は未成年で、しかも女だ。男なら成長のいい機会かと思って放っておくことも考えるが……」
「心配には及びません。母がこちらで働いている時間は、いままでもひとりでした」
「それは一日のうちの何時間だ?」
 突然の質問だった。が計算するうちに、跡部は先回りして答えを出す。
「ほんの数時間はずだ。お前が帰宅部だとして、家に帰るのが五時。お前の母親が退勤するのが遅くても七時。七時半には家に着くはずだ」
 その通りだった。が自宅でひとりになるのは一日あたり二、三時間だ。跡部は鼻から息を抜いた。広大な庭園ののぞける窓辺へ立つ。
「ただでさえ女だけというだけでも危ねえのに、子どものひとり暮らしなど論外だ。家族に何かあったらどうする?」
 文脈がおかしい。彼が家族と指すのが何者かが不明だ。彼女の母だとすれば、いまは病院だ。なんの問題もない。を指すのだとすれば、わざわざ家族などと表現せず、お前と称すればよい話だ。
 が釈然としない原因を見抜いて、跡部は窓から視線を移動させた。彼女をまっすぐな視線で射抜く。その瞳はサファイアの色合いだった。
「跡部家の使用人は皆、家族だ。お前の母親も、その娘であるお前も、俺にとっては家族同然だ」
 最高の殺し文句だった。まさかこんなこっぱずかしい台詞を吐かれるとは思わず、は赤面した。
 跡部景吾は、およそ日本人とは思えない精神構造の持ち主だ。が押し黙ったのを、納得したと判断したのだろう。満足した様子で奥のドアへ引き上げてゆく。
 彼が立ち去ったあと、ミカエルはカップを片しながら、を優しく見上げた。
「マンションを探すにせよ、様の言われる通り、お帰りになるにせよ……今日のところは当屋敷へおとどまりくださりませ。まもなくお夕食でございます。様の分もシェフがご用意させていただいておりますので」
 は不承不承うなずいた。ひとまず今晩のところは跡部邸へとどまるほかなさそうだ。ミカエルに付き従い、彼女にあてがわれた部屋へ向かった。

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